2003年09月30日

20*グリーン・アラベスク

 秋になり、僕はまるで初めて出会ったかのように秋を見てしまう。季節の気配が変わるたびに毎回、僕は同じ手に引っ掛かっているようだ。
 空に射す透明な光に拡がり過ぎて戸惑ってしまう心の中、幾つかの淡い感情が混じり合いながら漂い始める。それらの気持ちが、微風のように吹き過ぎてゆく。離れて眺める東京の空は、深い灰色のあぶくに包まれているのにもかかわらず。
 学生の頃にはまだ見えていた星座が、霞んで見えなくなってきた夜空。昼の青さも常に白っぽく埃がかって、外国で撮った写真に映る濃厚な空と同じには思えないくらい。それなのに、この秋空は美しい色をしていると思う。
 木立に立って、空を見上げる。
 折り重なる葉が木漏れ陽に透けて、僕はそれを(グリーン・アラベスクだ)と思う。隣りあう木々それぞれ、種類によって葉の付き方が違っている事に気付く。枝に対して左右対称なもの、互い違いなもの、節目毎に集中してるもの…。更に枝の付き方も、また違っている。その微妙に異なる、緑の万華鏡が僕の目を奪う。
「人が花を見る時、花もまた人を見ている」…これは、デニスさんというインディアンの言葉だ。
 あえてインディアンと書いたのは、自分にとって自然な言葉だから。一時はネイティブ云々と呼んでみたりしたものの、彼らは自分達を部族ごとに固有の名前で呼んでいるのだし、重要なのは(どんな気持ちで呼ぶか)だと思い至ったので。
 余談だがエスキモーという呼称は、イヌイットの言葉で「生肉食らい」という意味だと聞いた。そうなってくると事情は別で、やはり「人(イヌイット)」と呼びたいと思う。
 話を戻して「花も見ている」という言葉、僕が花や草木を見ていると思い出してしまう。特に、生い茂る葉の中に咲く小さな花を見ていると、それぞれの花が織り成す幾何学的な模様が、何かを語っているように感じられてくる。それは一種の催眠状態のような、うまく言い表せない感覚だ。
 僕は一度だけ、本当に樹木の声を聞いたと信じている。そこは原生林でも何でもない木立の中で、ふと顔を上げた瞬間に、感じるより速く理解するには圧倒的な情報が思考に流れ込んできたのだ。目の前にいるのは(エルダーブラザー)で、大勢の存在感は(ここにいない木々も、常に意識として繋がりあっている)のだと分かった。それは本当に「分かった」としか表現出来ない感覚で、それが何だったではなく僕自身には事実でしかない。
 ま、そんな事もあるさ。
 草木を見ていて、W.モリスの図柄を思い出す事もある。あの人の作品は模様に重点を置くというより、配色とのバランスが絶妙なのだが。自然の色彩を知っていて、わずかに人工的なズレを加えているような。僕が樹々とか花々を見て強く感じるのは、どちらかというと模様のほうに比重がかかっている。
 古代では、文様に力があると考えられていたらしい。波、植物、稲光、巻き貝、蝶々、雨、などなど。世界の様々な民族が考案した文様を眺めていると、そこにある純粋な願いのような感じが伝わってくる。それはひょっとしたら、自分が漢字文化の中で生まれ育ってきたせいだろうか。森羅万象を表した、象形文字の原型を残しているとはいえないにしても。
 同じインディアンの、チェロキーの族長が遺したという「言葉は、比較・分類のメカニズムだ」という言葉がある。その仕組みの中では捉える事の出来ない何かを、族長の言葉は示唆していた。実際、言葉が請け負える仕事は「双方が了解している物体についての伝達だけ」なのかもしれない。
 特に形のない事象にいえると思うのだけど、比較・分類なしに説明するのは困難な上に正確さを著しく欠いてしまう。それは、本来の言葉の領域を越えてしまっているんじゃないかという気もする。しかし今、僕らが何かを話す時は、むしろそんな領域外の事柄ばかりだと思わないでもない。
 話さずにいられない気持ちを伝えるのに、言葉より適切な手段がありそうな気もする。だとしたら、たとえば草花と対話するように、僕は秋空の色彩について語りたい。

平成15年9月30日
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2003年09月07日

19*言葉と文化と路の上 Pt.III

 すっかり秋ですね、では一句。「ケータイの(はぁい)で終わる切れのなさ 嬉し楽しもやがて空しく」…お粗末。特に下の句が。
 ケータイを使うようになって、電話で話した最後が「はぁーい」という符丁じみた終わり方になってる自分に気が付いたんだ。これって何なんだろう?
(さぁ切りますよ)っていう合図かとも考えたんだけど、だったら固定電話しかなかった時代はどうして言わなかったのか? って説明がつかないよね。知らぬ間に使ってるけど、ケータイを使わない人は「バイバーイ」とか「じゃあね」の後に「はい」が付かないのよ(と言っても、一人しか知らないんだけど)。
 以前はそのほうが当たり前だったのに、今はケータイ使ってる人ばかりで「はい付き」に慣れちゃったせいか、唐突に切られたような錯覚をおぼえるんだよなぁ。そうやって気にしてみると、ケータイ同士で話してる人って、最後のほうは「はぁい」を連発してたりするのね。傍で聞いてると適当に受け流してるような気もするけど、海外でも、やっぱり「はぁい」に相当するようなオマケの結句があるのかなぁ?
 それから、日常の受け答えでは「あ、はい」って普通に言うようになったね。勤め人だった時は会社の先輩によく怒られたんだけど、今じゃ多数派になったのか咎める人もいないし。当時は気を付けてたんだけど、今じゃ僕もすっかり言うようになっちゃった。
 あと、非常に当たり前に「あ、〜」っていう言葉遣いをしてるのは僕だけじゃない筈。この意味不明な接頭詞、考えなしに使ってるけど合図のつもりなのかな? 受け答えの両方で使ってたりするよね。
A「あ、これお願いします」
B「あ、分かりました」
 みたいに。無線みたく(さぁ発言しますよ)という確認だったりして(あれは語尾に「オーバー」って言うんだよね)。便利っちゃあ便利だけど、書き言葉に直すと不自然な感じ。
 一昔前の、ちょっと奥ゆかしい女性の言い回しにありそうな気もするけど、呼びかける時の「あの〜」を省略した形と、納得とか了承した意味での「あぁ」を兼ねてるのかなぁ。しかし大勢が行き交う職場で「あ、〜」が乱れ飛ぶのは、さすがに鬱陶しい。
 言葉のついでだけど、女性ファッション誌で目に付く特異な言い回しも、なんか引っ掛かる。僕自身は滅多に雑誌を買わないんだけど、男性誌では見かけない気がする。それに一般的な活字文でも、あまり見ない独特の表現方法だと思うのよ。
 それは、たとえば写真の脇に「〜をプラスして」「〜で颯爽と」「〜で辛口に」といった調子で、小見出しのような(あるいはオマケの一言みたいな)使われ方をしてるケースが多いのね。写真を見れば一目瞭然な訳で、だから最後まで言い切る必要ないんだろうけど、歯切れ悪そうな文章だなぁ…って思っちゃうんだ。
 余計な文字数を減らしたほうが写植は安上がりになるのかも、ってDTPの時代に一字いくらで商売してるとも思えないし。語尾を省略する事で、提案といったニュアンスを装っているのか(つまり「しなさい」ではなく「してみては如何でしょう」)。それともビジュアル効果として、くどさや野暮ったさを軽くしているのか。
 だけど、この中途半端な言い切り方を会話文にすると(やんわりと、確固たる命令)に聞こえそうなんだけどな。耳で聞いたら、かなり「ダサい貴方が垢抜けるように、オシャレ上手の俺様が丁寧に辛口指南してやるぜ」っていう響きになりそうな気もする…。
 そんなオシャレ雑誌のグラビアが、時々えらくビミョーなコーディネートだったりするんだよなぁ。あれってセンスが一歩先なのか、読者の盲信的な虚を突いてるのか、それとも本当にファッショナブルなのか混乱させられる。
 大体、モンペ風パンツにキャバサンもどきが流行中らしいし。そのまま聖子ちゃんカットにでもしたらどうよ?…って、やっぱ「イケてない」のは僕かしら。

平成15年9月7日
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18*言葉と文化と路の上 Pt.II

 何かの本で「構造体とは不安定なものである」というような事を読んだ。
 違っちゃうかもしれないけど、僕の解釈で要約するとこういう話。「どんな物も、完全となった時に崩壊する。人も社会(国)も安定した状態に向かおうとするが、それ故に完成すると同時に滅び始める」んだって。
 うまく伝わんないかもなぁ、でも僕にはリアルな話に思えるんだ。不安定な要素を排除し尽くすと、後はもう発展の余地がなくなっちゃう。それは回路を閉じてしまうんじゃなくて、常に風通しを良く開かれた状態にしておくって事に通じる気がするのよ。
 人間関係でいえば、恋人や夫婦間で完結してしまうような間柄が、僕にはそのように見えるのよ。それは人それぞれだし構わないけど、僕は別れる理由の一つがそれだと思ってるんだ。もう一つは、お互いの精神的な成長の方向や速度の差によるものもあると思うけど。「他に好きな人ができた」とかいう物理的な事情の背景は、どちらかに当てはまるような気がするんだ。まだ他にもあるのかも知れないけどね。
 集団としての閉じた状態ってのは、鎖国みたいなものかな。どうしても集団内で安定してくると閉鎖的になるみたいね、外部から混乱する要素が入り込むのを煩わしく思うようになる。というか、内と外を分けて考える時点で既に閉じてるのか。でも身近な人との関係で、相手を自分と同化しちゃうと喧嘩の素になるけどね。
 どこかの国で、外国人労働者の増加による社会不安が云々…というニュースがあったなぁ。日本でもイラン人が増えた時期に、そういう危険な風潮が感じられたけど。もっとも今は外国人よりも「凶悪犯罪の若年化」が取り沙汰されてるよね、実は戦後間もない頃のほうが多かったらしいのにさ。
 若者はいつの時代も大人から疎まれる、新しい事を起こしたがる存在なんだよね。もっとも(大人)という定義を年齢を基準に考えちゃうけどさ、それもどうかと僕は思うんだわ。人として大きな物の見方を指針に持つには、20歳という年齢基準はそぐわない気がするよ。江戸時代ならともかく。
 ここで一気に話は飛躍します、ゴメンナサイね。
 とあるサイバーパンク小説に、こんな名言があった(あとがきかもしれない)。「ストリートにはストリートなりの使い方がある」って。
 たとえば安価なポータブルレコードプレーヤーは、路上でスクラッチする目的で作られた訳ではないよね。パソコンだって、技術者でもない人間が個人的な娯楽として使うために生まれた訳ではない。だけど、誰かが掟破りの使い方で(壊しちゃったりもするんだろうけど)既成概念を突破した、新しい流れをメインストリームに押し上げてゆく訳さ。
 ある集団の猿が、急に芋を洗って食べ始めたんだって。それを真似するものが増え始めた頃、まったく交流のない遠隔地の集団でも、同じように猿が芋を洗い始めたんだって。僕なんかは人の尻馬に乗るタイプで、せいぜい101匹目の猿なんだけど、一番最初に始める存在ってパワー&フールじゃないと後が続かないだろうなって思う。
 いまだに「美しい日本語を守ろう」という主張を耳にする事がある。だけど言葉は生き物じゃん、文化の変遷と相互に影響を与え合っているのに。それに美しい日本語って言ったって、決して大正言葉や平安時代の言葉まで守る気はないんだと思うのね。単に、自分たちの慣れ親しんだ文化に固執している感じがして困った気分になってしまう。
 若者言葉が美しくない日本語だろうと、彼らのような使い方から流行し定着してゆく言葉が、新しい時代に沿った形へと更新してゆくのだし、現在の「守ろう」派だって同じ事をしてきたに違いないのになぁ。

平成15年9月7日
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17*言葉と文化と路の上 Pt.I

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「最弱だと思ったらかかってこい」
 これ、ウチのすぐ近所の高架下にあったスプレー落書き。見るたびに、何ともいえない可笑しさが込み上げてくる。
 これって、他の人が見ても面白いよね? もしかしたら僕だけなのかなぁ、これで笑えるのって…。そんな不安を抱えつつ、言い訳がましく解説しちゃおう。
 この台詞は、最初に描いた落書きを他のグループに上書きされた事で登場したのね。その場を目撃しなくても、グループ名にバツ印があって、その横に「最弱だと思ったらかかってこい」と書いてあったら事情は分かる。つまりナメんなよ、と。売られた喧嘩は買いますよ、と。
 意味は分からないでもないが、普通に読んだら(誰が最弱を相手にする?)って気持ちになると思うんだけどねぇ。なんだか間抜けな挑発じゃないですか、啖呵を切りながら屁こいてるような。たぶん、文字で書いてあるから尚更アホみたいな感じがするんだと思うけど。
 これを書いた本人は何もおかしいとは思ってないだろう、と思うのね。自分達を侮辱されてカッとなった勢いで、頭に浮かんだ話し言葉のまんま書き付けたんだろう。しかしこれを見て、真に受けて「かかって」いく奴がいたのか? 興味深いところ。
 文章として変でも、これはこれで意味が通じれば一向に構わないんだよね。彼らは自分らの言語で成り立つ世界に生きてるし、僕とは明らかに異なる価値基準&相いれない思考が常識なのだと思う。
 彼らをひとくくりに決めつけるのではないけども、一種独自なルールで生きてる人っているよなって思う。僕から見ればね。もちろん、どんな人も自分流に解釈した上で社会的な規則に従っているから、一部の極端な人々を非難したい訳じゃないのよ。ただ、自分の理解を超越した発想で生きている人は、時として興味深い観察の対象になり得るんだわ。
 最近、ふと思ったんだ。先天的な性格で(俺様ルール)になるタイプが、どんな社会集団にも一定の割合で生まれてくるんじゃないか? って。たとえば信号は「黄色が突っ込め、赤で注意」とか、ふざけてるのかと思うけど実際には当たり前に見かけるんだよな。
 小さい会社のワンマン社長なんて言われる人にも多いけど、良く言えばカリスマ性がある(悪く言えば自己中心的)人間ね。そういう(俺様ルールが顕著な人)って社会集団の整合性を乱す要素ではあるにしろ、ある局面では重要な役割を担うこともあるのかなって考えたりしたんだ。
 ラピュタ人と呼ばれる、太平洋に拡散したモンゴロイドの一部なんだけどさ。なんで海に漕ぎ出したんだろうって思ったの。まぁそれを言ったら、なんで住み慣れた土地を離れて世界中に散らばって行ったのかも不思議だけど、それは食糧不足とか追い出されたとかも考えられるし。
 舟に乗って移動する事を思いつくまでは、分かる。でも陸地があるか見えもしない彼方まで、偶然だけで行き渡るものとは思えなかったんだよ。そこまでリスキーな博奕を打てる人間、言い出しっぺになるような人種が、どの集団の中にもいたんだろうね。理に適った道よりも、自分のルールを信じられる人間が。
 それは単なる想像だから何の根拠もないけれど、彼らには彼らの存在意義がある事が、僕は勝手ながら納得できたのよ。トランプでいうならババのような、神話でいうならトリックスターのような立ち位置といいますか。
 神話でいうトリックスターって、意地悪だったり天の邪鬼だったりする価値のない神様なんだけど、時に無敵の存在として天地をひっくりかえすような事をしちゃったりするんだよね、確か。何の役にも立たない(というか迷惑な)存在でありながら、他の神様が束になっても叶わない力を秘めているの。
 だから彼らが何だとかいう話では、重ねて言うけど関係ないからね。もっと大雑把に俯瞰した感じでの話。

平成15年9月7日


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2003年09月06日

16*最大公約数

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 先日、大阪に行ったの。まったくの私用だったんだけど、帰りの新幹線が某球団の優勝決定直後に! 幸い、濁流のような騒乱に巻き込まれる事もなく帰途に就いたのでした。
 一夜明けてニュースを観ると案の定、フーリガン状態ね。絵に描いたような集団心理って、端から見てるとマヌケ。でもさ、群れてる側の楽しい感じは分かっちゃう。程度の差はあれ、似たような経験ってあるからね。
 前に「ハロウィン・トレイン」なる、一種のシークレット・イベントがあったのよ。最近はどうなんだか知らないけれど、ハロウィンの夜の山の手線を勝手に占拠しちゃうの。どの駅だったかは忘れたけど、確か9時ちょうどの内回りに乗り込んで。
 多分、最初の思いつきは在日外国人の茶目っ気だったんじゃないかな。単に仮装して電車に乗るだけの。でも僕が参加したのは、外国人の友達に初めて誘われてから何年か経ってからだったのね。それだからかな、相当数の日本人も含めて最終的には車内ギュウギュウ。
 当然、何も知らない一般の乗客もいる訳で、停車駅毎に妙な格好の連中ばかり乗り込んでくる異様な事態に愕然としてるの。多勢に無勢で段々とエスカレートしていって、車内で踊るわスケボーするわ、停車するたびにホームを駆け回るわの騒ぎに。
 僕は途中で降りちゃったんだけど、翌日の新聞に逮捕者が出た記事が載っているのを見て頭を冷やしたよ。車内のマナーという点でも、安全な運行の上でも迷惑な行為にまで発展してしまった。おそらくは、最初に始めた誰かの、アメリのようなユーモア精神を大きく外れて。
 そんな僕だけに、サッカーだ野球だ祭りだと口実をつけては暴走する連中って「見たくない自分」を見せつけられているような気持ちになってしまう。
 ところで、勤め人が自分を卑下して「会社の歯車」なんて言い方をしたりする事があるよね。会社に限らず、人間の集団って最大公約数の法則が働くんだって。つまり、その集団に属する人の秘めている願望なり欲求の、一番強い要素が全体の行動を決定するという話。
 人間の脳みそって、進化の過程そのままの3層構造になってるらしいのね。中心に、快or不快だけのトカゲ脳があって、その上に少し高度な動物としての脳、そして外側が人間らしさを司る脳があるんだってさ。
 会社組織には「利潤の追求」という総意の枠があるけど、たとえば停電とかのような「総意も枠組みも何もない」状態によって偶発的に生まれた人の群れは(この激ムカ状態を何とかしてぇ!)って気持ち、共通する「個人的な欲求」を抱えてるんだよね。その集団内の頭数が多いほど、一人一人がまるで(人数分のエネルギーを放つ巨大な人間)のようになっちゃうんじゃないかな。これは理屈というより、経験として思った事なんだけれども。
 それとは反対に「個々の善意が、共通の環境の中で孤立していた人同士を連帯させる」という場合もあるよね。災害などの非常時には(原始的な発想に傾く群衆)だけでなく、同時に(利他のつながり)と呼べるような最小公倍数も生まれてくる。というより、そうなんだと信じていたほうが、僕の人生は楽しいだけかな。
 何かの本で「会社の平均寿命は30年」というのを読んだんだ。優良企業名鑑だか、そういった資料で統計を取った人がいて。長生きしようが短命だろうが、まるで人間のように成長期と衰退期がある…。そう考えると、人って会社という巨人の血となり肉となる素材なんだなぁーと思う。
 会社という、人間の組織。人間という、細胞の組織。
 細胞にも汚職があったり、時には反抗してストをしたりしながらも丸め込まれて、結局は使い捨てられてゆく。僕の意志は、細胞組織全体の最大公約数なのかな〜?
 最小公倍数?

平成15年9月16日


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15*思い出の町

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 新しいパソコンが完成する前の話ですが、久しぶりに真夜中のドライブをしたんだ。
 パソコン作りが深夜に及び、帰れなくなったP氏(このサイトを作ってくれた人・仮名)を送ったのよ。ほぼ東京横断、でも夜中は道が空いてるから片道1時間半程度だったけど。
 その途中、半分くらいまで来た所で懐かしい場所を通過したのね。そこは10年前に、2年間だけ親元を離れて住んでいた町でした。別に当時のつながりは全然ないのに、なぜか時々よく来るんだよなあ。ここを通る用事があったりしてね、ちょうどその夜みたいにさ。
 僕は都内各地で色々なバイトをしてきたし、住んでたからって特別なつもりはないんだけど、この町は通過するだけでもスウィートメモリーズ状態になっちゃうんだな。人気のない真夜中の沿道をトボトボ歩いてた、その頃の気持ちに戻ってしまい刹那くなるのよ不思議と。
 どこかの作家が書いていたけどさ、匂いって生々しく記憶を蘇らせるね。夕飯時の商店街の揚げ物の匂いだったり、夏の夜の草いきれだったり。そして僕の過ぎ去った時代は、この町の空気に残っているんだ。
 今の自分なら、もっと違う選択ができるのに…。そんなふうに心がタイムスリップして、胸が苦しくなっちゃう。でも通り過ぎてゆくしかないし、過ぎてしまえば魔法は解けてしまう。そうやって何かの折に通るたび、古びた記憶が更新され昨日の事みたく上書きされてゆく。なぜかそれは、救いのようにも思えたりするんだけど。
 あの町は僕にとって、今も不思議な磁場を持ち続けているのかな? と思って気が付いたんだけど、10年前と何も変わってないんだよね、景色が。考えてみれば、都内でそれって希有な事だと思うんだ。スクラップ&ビルドの御時世にしては。
 思い出深い場所といえば、竹芝埠頭もそうだったなあ。けれどかつての、うらぶれた倉庫ばかりの風景は消滅してしまった。20代前半の僕の記憶は、変わり果てた竹芝埠頭では証明できないんだ。あれがすべて僕の思い違いや妄想の産物だったとしても、生々しい匂いが失われた以上は、僕にとっても現実味を欠く思い出になりつつある。
 変な話かもしれないけどさ、住み慣れた地元ですら最近は(知らない町)になってきた気がするのよ。行き交う人も町並みも変わってきたし、匂いだって当然のように違ってしまっているもんね。きっと僕が小学生まで暮らしてた団地も、僕の記憶を打ち消す位に変わってしまっているんだろうな。
 2003年というのは、ビル問題の年なんだって。そういう話がTVのニュースであったんだけど、詳しく聞いてなかったから説明できるほど分かってる訳じゃないのね。なので誤解があるかもしれないけど。
 ちょっと前に丸の内辺りで建て替えたオフィスビル、借り手がなくて往生してるんだそうだ。不景気云々て言ってるのに賃料上がれば当然だと思うよね? でもビルの寿命は30年くらいで老朽化してくるので、メンテナンスに追われるより新しくしちゃったほうが安上がりだったりするみたい。だから近頃ばかすか建ってるのか。
 それにしても、たった30年とは驚いた。以前は確か、耐用年数100年とか大風呂敷拡げてなかったっけ? 僕の思い違いとかじゃない筈だけど、やっぱ酸性雨とか紫外線のダメージが加速してるのかねぇ。スクラップ&ビルドの発想って、清貧が流行った時期なんて「環境に優しくない」だか「消費礼賛主義の時代は終わった」って叩かれてたと思ったのに、いつのまにか当たり前になってる気もする。マスコミの言う事って、場当たり的というか、筋が通ってないねホントに。
 解体を前提とした造り方、という点ではパソコンも同じだよなぁ。ウチの場合も、現行品と互換性がないモニターやキーボードまで買い替える羽目になった訳だし。ま、PCは進化が早いから、コンクリの箱と同列で語るのは無理がある気もするけど。
 それに家電製品と比べたら、PCのほうがまだ応用が効くほうかもね。僕のCDコンポ、買って3年で「修理するより買ったほうが」って言われてしまった。まだカセットは聴けるし、CDは壊れてても差し支えなかったので無視したけど。
 あと、つくづく思うのは携帯電話ね。なんでサービスを提供する側のケータイ会社が、製品を仕切ってるんだろう。僕は折り畳み型が嫌なんだけど、今じゃもうそれしか選べないもんなぁ。これ以上の付加機能なんて要らないから、基盤などパーツ交換で長く使えるようにしてほしいよ。
 パソコンでも、旧型マックにこだわる人がいたりするらしいよね。ケータイ端末だってさ、そういうハードへの愛着は湧いてくると思うんだけど? たとえば本体ケースの色を変えられたり、素材を牛骨とかブロンズにできたりしたら良いのに。
 そりゃさぁー、ゆく川の流れを止めようなんてつもりはないよ。時間の中で留まる物はないもの。
 だけど企業の都合で選択の余地がない変化ってのも、何だか不当な扱いを受けてるような気分になったりするんだよなぁ。

平成15年9月6日


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2003年09月02日

14*パソコンの住人

 1カ月ばかり、パソコンの前から離れてました。でも横にはいたけど。
 どういう事かを説明しますと、休日を利用して新しいパソコンを組み立てていたのでした。実際に作ったのはP氏(このサイトを作ってくれた人・仮名)で、僕は傍らで眺めていただけなんだけど。で、その間は古いほうも触らずにいたのよ。平日も忙しかったし。
 僕は自分のパソコンを所有してないので、いつも家族兼用のパソコンを使っているのね。それを「買い替えよう」という話になってさ、だけど我が家は全員素人なんでP氏に登場願ったという次第。それで彼の厚意に甘えて甘えて、こちらの都合で呼び出しては一切合財やってもらっていたんですわ。おかげさまで快適PCライフ! ありがとう、P氏。
 なかなか大変だったけど(て何もしてない僕なのに…)、特に面白かったのは本体の中身をのぞいた事だなあ。空の箱が、基盤を詰め込まれて“神秘の箱”と化してゆく過程。 基盤の上には切手より小さな円柱や板やらがあって、あれはCPUって言うのかな? 御大層なファンで覆われてるのもあるのね。マザーボードっていう一番大きな基盤だって片手に納まるんだから、それらのパーツなんてハナクソ位しかないのよ。それらの間に筋肉繊維のような電源の束が、立体的に組合わさった基盤の四方八方に収まってゆくの。絹糸みたいに細〜いハンダが、狭い隙間にビッシリ張り巡らされていて。
 P氏が本体の箱に手を突っ込んで、細かい作業をしてるのを上から見ていた僕の脳裏に、ダラス上空の光景が正夢のように蘇ってきた。あれは、メキシコ南部のカンクンという町に行く途中だったな。成田から飛んできたジャンボジェットから乗り継ぎ、小型の飛行機でダラス空港を離陸して、みるみる小さく霞んでゆく町並みに目が釘付けになってたんだ。クローバー型に立体交差するハイウェイを過ぎ、建て売り住宅の無機的な区画に薄雲が懸かり…。
 あの時、僕は(集積回路みたいだ)と感嘆したのね。そして実物は、あの都市上空のイメージと同じだったのよ。基盤上の主要なパーツごとに電源は供給され、鈍い銀色の微細な線は碁盤の目のように走り…。
 パソコンて、中身は家電というより都市に近い物なのね。その急速な性能の向上は、いつか頭打ちになって、そこそこのクラスで落ち着くのかと思ってたけど違うんだ。村落が都市へと発展し拡張して利便性を高め、エネルギーを欲しがるのに似て、更に限りなく進化してゆくのだろう。
 しかしなぁ…。人間は、どこまで付いてゆけるのかね? 32から64メガバイト、128〜256〜512?? 音楽のリズムは4拍子から8〜16ビートへ進んできたけど、32より速くなると人間の耳では聞き分けられなくなってくるんだってね。そうすると、64拍子の音楽は果たして音楽と言えるのかなぁ。まず唄うなんて無理だろうけど。
 ギターの速弾きは、どこまでも速く弾けるような気もする。でも、音符の先には出られない。いかなる即興も五線譜に記され、模倣され、更なる技巧に超えられてきた。世界陸上の最速記録も着実に更新されているけどさ、速さを求めてどこまでゆくのか、もっと気になるのは、限界に至ったとして、それからどうするのか? って事。パソコンの、処理速度の事ではなくて「限界まで速いPC」と人間の関係ね。
 もちろん専門的な仕事では、今以上の処理能力が必要とされ続けるのも理解できるんだ。これだって元々は戦争の道具として、ミサイルの弾道計算という役目を担って育ってきた訳だし。今後も色々と難しい仕事があるに違いない、たとえば僕にスノボを覚えさせるとか。頼む気はないにしても、機械や通信機器と連動させれば後はプログラム次第で何とかなるんだろう。
 10年かかって出来るようになる事を一日で可能にする、要はそういう事を望んでしまう人間て…。いや、人間全体の速さへの信仰みたいなのの話よ。速くて良くないのって、早漏と早老ぐらいかな?って。Live&Deathか…。
 やっぱり永遠とか無限に憧れてるのかな。でもそんなの幸福とか平和と同じ概念でしかないんだけどね、解ってても諦めきれないのかも。

平成15年9月2日
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