文字数でいうと、通常が2,000文字を越える量なのに対し、1,500文字程度に抑えてみたんです。つまり短いといっても、たった500字減らしただけ。しかしながら、この「空想百景」と名付けたコーナーには合わなかった気がして。一応は(ひとつの内容を3分割する)という感じで、視点は一緒で角度を変えたつもりだったのよ。でも1話ごとだと、一本調子で論文みたいな…。
たとえば新聞の社説とか、体験レポートなんかだったらオッケーだと思うの。話の筋道から脱線しない、まっすぐに展開する書き方ね。だけど僕の中では、ここは何かを論じるとか報じる場所じゃあないんだな。むしろ脱線なり逸脱なりで、3段論法ならぬ3段抜かしで小ネタから小ネタへ飛躍したい訳。それを文字数を削ってやるなんて、力量あれば可能かもしれないけど僕には無理だわ。そう思った。
内容に関しては、趣味の話題だと専門的な片寄りが出て説明が増えそうなので気を付けているつもり。あとは資料なんか引っ張り出さずに、うろ覚えの不正確なまんまで確かめない事にしてる。それを始めるとキリがないし、勢いが萎えるからなんだけど。あとは固有名詞は出来るだけ使わないようにしたり、伏せ字にしたりしてるかな。これは検索に引っ掛かったりして、特定の固有名詞に関する情報として読まれたくないから。ま、そこまで気にするほどじゃないだろうけど。それと、身の丈を越えないように。
と、こうやって書き出すと決め事だらけみたいだなあ。そんな気はないんだけどさ、何だってルールがないと面白くないからね。エッセイだかコラムだかを読むのは田口ラ〇ディも好きなんだけど、もし自分が書くんだったら池澤〇樹の月面宙返りを狙ってみたかったのよ。意外な着地、って感じを。とはいえ真似するのは難しそうなんで、も少し間口を広げて不時着あたりを目論んでいる次第なのね。首尾のほうは、ともかくとして。
ところで最近、高橋源〇郎の書いた文芸批評(批判ではない)を読んでる。ファンというほど読んではいないけど、僕の言葉や文章にとって特別な存在なんだ。その彼のデビュー作に出会ったのは二十頃だったっけ、そんで詩人としての自分を改めて意識させられんだよなぁ。
小学6年の国語の時間、将来の夢という授業があったんだ。僕は「作家」と答えたのね、物書きじゃなくて「作る人」という意味で。だってクリエイターなんて言葉がまだ存在しなかったから、他に言いようがなかったんだもん。それから何年も経って、僕は自分を詩人という事にしたの。誰かに言ったりはしなかったけど。以来、僕は具体的な定義は何もないまま詩人でいる。多分この先どんな肩書もないと思う、未来の夢だって未だにないし。
実は「作家」と答えたのも、将来の夢なんて思い浮かばなかったからなのよ。単に自分の好きな事を、好きなようにしていたいだけだったんだ。だから職業としても生き方としても夢が無いままで、だけど結果的に望んだ通りにはなってきているんだけど。自称で良ければ、僕は既に絵描きで作詞作曲家なのだ。もしかしたらネットコラムニストかもしれないし、写真家かもしれない。
小説のような長い文章は、中学2年の時によく書いてた。でもそれっきり、5年前にメキシコ旅行の日記から書き起こすまで長いブランクがあったんだ。詩とは違って文章を組み立てていく、その筋力というのは絵や音楽の比じゃなくてさ。たかが一カ月の旅行記を書くだけで3年もかかっちまったよ。だけど、そこら辺から言葉や文章に対する自分の反応が変わったと思う。それが以前と何が違うのか、うまく説明出来ないんだけど。
今年の初めに、友人が書いた物語を読ませてもらったの。そして(自分の言葉は物語向きじゃないな)って感じたんだ、架空の世界を描くのには向かないとね。いつかは書けるようになるかもしれないにしても、今の僕は筋書きのない読み物を書く事にしよう…。そうして、ここにコラムだか何だか判らないコーナーを設けさせてもらった訳ですな。
そんな空想百景、いつも読んでくれて有り難う。そういえば、他者を意識して何か作るってのは初めてなんだ。だから、読み手を無視して書いてるんじゃないのですよ。意外だった?
平成15年12月19日