2004年01月28日

35*冬の床

 前回が冬の話だったので、今回は常夏の話を一席。という訳で、グアムでダイビングした時の事。
 実は未経験だったのに「うっかり日本にライセンスを忘れてきた」と一芝居、とぼけて潜ったのだ(本格的にやってる方には恐縮なんですが)。とはいえプールの監視員をしてたので、フィンとシュノーケリングの使い方はバッチリだったし、ダイバーの友人にバディのサインや潜水病の予防などを教え込まれていたけどね。そりゃあ命は惜しいさ。
 で、まんまとピックアップトラックに揺られて海へ。草むらの中の未舗装ロコ道、砂ぼこり蹴立ててBGMはスモーキー・ロビンソン&ミラクルズの「トラック・オブ・マイ・ティアーズ」という、ベリー・ナイスなイントロで小型の船に乗り込んだ。
 入り江の小島を縫って湾の外へ、1本目は沖合の沈船ポイント。最初は海面の反射で気が付かなかったけど、エア抜きで軽く潜ってパニック寸前! 足元のはるか下に巨大な物体、その特殊な圧迫感は経験者なら分かるよね。まさに地に足が着いてない、心もとない心境。
 昔の特撮で、初回に主人公5人が「深海調査の事故で窒息死(!)」という過程で改造人間になる戦隊モノがあったのね。あの映像が子供心に焼き付いちゃっててさ、水への恐怖はなくても沈船探検は遠慮したよ。もし自分が改造人間になりたくなったとしても、海で死ぬ目に遭うのだけは絶対ヤダ。
 2本目のダイビング・ポイントは、異様に何もない場所。魚影すらも見えない、延々とフラットな砂の海底。そんなポイントを選ぶセンスを疑うが、月面の上を遊泳するようなクールさは不思議な快感だったんだよ。自分の真下が仄かに明るく、透明度の低い虚空…。あの眺めって、僕が今までに見た唯一の「死の世界」だったのかもなぁ。
 昼食後のサンゴ礁でのシュノーケリングや、午後(3本目)の熱帯魚の餌やりも楽しかったよ。でもね、それ以上に楽しかったの。生命の気配ゼロの場所が。体温と同じ位の水温で、たまに吹き付ける風のように冷水が押し寄せてくる感覚もね。幻想的な虚無。本当に一人ぼっちで、寂しくも怖くもなかった。むしろ、そっちへと引かれていく自分自身が少しヤバかったような。
 ところで関係ないけどさ、もうすぐ春という今時分の寒さってのは特に堪えるよね、どんなに寒い冬よりも。それは「夜明け前が最も暗い」という言葉に、どこか似ている気もする。そんな中、もう鉢植えのチューリップが咲いていたのを見つけたの。うん、そうなんだよな。これからの日々は、路地の彩りが怒涛の勢いで更新されてゆくんだ。次々と開花してゆく、植物の生命力は何と貪欲なのだろう!
 春先の小糠雨、柔らかな雨上がりのふくよかな空気に香る若芽。まだ肌寒く淀んだ空にも、熱帯性低気圧のざわめきが暖かさを運び込んでくるのが分かるようになる。しかしまだ温泉に恋い焦がれる僕は、せいぜい重い腰を上げて近所の銭湯で行った気になるのよ。
 だいぶ減ったとはいえ、まだこの辺は銭湯が健闘してるのが有り難い。宮崎監督が外観のモチーフに選んだ湯屋も、移築前はこの地域にあったんだけどね。ところで銭湯の脱衣所ってさ、妙に異国な空間じゃない? 南方アジアを思わせる、開放的な間取りと蒸れたような空気。全体的に木目で、ゴザみたいな床。端っこが捲れ上がった化粧板のテーブルに、チープな灰皿。なーんていうか、雰囲気がゆるいんだよね。イオンのせいか?
 でもって、湯船に浸かる時の、独特の気持ち良さね。温泉のようだけど、やっぱ違った趣なのよ。一言でいうなら「水〜っ!」って感じ(正確にはお湯か)。なんか訳もなく心躍る、くすぐったいよなアホみたいな気持ち良さ。あれってなんなのかね?
 っていうか、そんな感じを言い表す言葉が今もって生まれないままなのは何故なんだろう? 敢えて言うなら、たとえば冬の寝床に就く時の、掛け布団とシーツの冷たい肌触りに(ウヒャッ!)となる感覚。…って、そう感じるのは僕だけだったりしてな。

平成15年1月27日

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2004年01月20日

34*冬のテイスト

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 僕は寒いところより暑い所が好きなので、冬になると南国指向は一層高まる。
 しかし子供の頃は毎年のように雪だるまを作ったり、他人の作ったカマクラに入ったりしていたものだ。つまりそんだけ雪がよく降ったって事で、近年よりもっと寒かったに違いない。集団登校のアスファルトが結露して滑りやすくなり、 土を見つけると霜柱を踏み荒らし、バケツや水たまりに張った氷を威勢よく割ってたもんね。半ズボンで。
 メキシコから帰ってくる飛行機の窓から、富士山の先に黒いドームが見えたんだ。そこが自分の住み暮らしてきた土地で、あの凄い大気の底で空を見上げてきたのかと思うとゾッとしたよ。成田に着いて、物哀しい気持ちになったもんな。雪は降らなくなり、星も見えなくなる訳さ。
 それでも冬は、相変わらず寒い! そして空気は澄んでくるんだなぁ。春から秋の空気が埃っぽいって事を思い出させてくれる、その程度には空気が旨くなる気がするな。南米チリのブエノスアイレスは、語源が「良い空気」なのだそうだ。という割に大気汚染が激しくて、名前負けして久しいらしいけど。あの街も東京のように、すっぽりと闇のような半円に覆われて見えるのだろうか。
 僕は未だに、北海道には行った事がない。仕事絡みで秋田には行ったけれど、それ以外で東北には足を踏み入れた事がない。外国も、真冬のソウルは修学旅行と仕事だし、初冬のシアトルはメキシコ帰りのストップオーバーだった。南国指向の自分が、進んで寒い場所に行く筈がないわな。温泉は伊豆でも満喫出来るんだし。
 だけど、星野さんという写真家の本には心を動かされてしまうんだ。彼の写真もそうだが文章も不思議と、雪の朝に目が冴えて外に出てしまう時の静かな温度が感じられるの。彼はアラスカで活動してたからか、雪や氷河やオーロラがなくっても、陽光あふれる海や森なんかを撮っても冬の良い匂いがあるんだ。
 いわゆるプロの写真家が撮ると、大抵あざとさが鼻につくっていうか万人向けな分だけ無味無臭になっちゃう気がするのね、そこに何が写っててもさ。かなり前だけど、知り合いが「イルカの写真展」てのを開催したのね。ただイルカが好きで、基本的には写真の素人が集まって。でもドキドキさせられた、ブレてたり被写体が端っこだったりするのに。中には本職の写真家も出展していたんだけど、その構図なり露出なりが完璧であるほど(リアルじゃない)って感じたんだわ。視線がエモーショナルじゃないの。
 それからしばらくして、コマーシャル・ベースじゃない写真家が出てきて、マニュアル操作でバルブ撮影(要するにシャッターを開けっ放しにする事)できるカメラが売れたり手振れやピンボケが味として評価されるようになってきた。そういうのって、表現としてリアルだと思う。
 表現って、稚拙から洗練されて進化してゆくじゃない? 古典的な技巧とか芸能には、洗練の極みとして型が生まれるけど、その停滞を打ち破る新たな稚拙さってのはエモーショナルな何かなんだろうなあ。その革新性を語る理論は後から付いてくるものだから、それらしく解説されてしまうようになったらヒップホップ・ムーブメントだって既にリアルさは失われてしまったって事かも。ま、全盛期からは20年も経っちゃってるからねぇ。
 そう考えると、あの空白と揶揄された80年代にもストリート・カルチャーが生まれたり、テクノ〜ニューウェーブが後世に残ったりしてた訳だ。とすれば、90年代以降って何かあったかなぁ? 下手すると80年代後期のネオ・サイケとかネオGSから延々とリバイバルしっ放しだったりして。
 未だ世紀末から覚めやらず、ってか。

平成15年1月20日

posted by tomsec at 21:44 | TrackBack(0) | 空想百景(ALL) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする