2004年11月29日

60*当たり前の事

 また図書館の話です。「チーズバーガーズ」という本を借りたのね。B.グリーンというコラムニストの。
 あれは10年以上も昔なんだなー、人生で最初で最後の原書体験。原書で読むってのに憧れてね、買った唯一のペーパーバックがこの本だったのよ。タイトルからして堅そうじゃないし、同じ棚には英訳「窓際のトッ〇ちゃん」なんてのがあったから。
 しかし知らない熟語とか言い回しが多すぎたんだ、何とか最初のコラムを訳してお蔵入り。だって一行目から辞書と首っぴきだもの、そりゃもう読書になってないって! だから今回、日本語版を借りて初めて内容が分かったのよ。
 かつて訳したコラムは、読んでいて当時を思い出したね。それは「パーティ・ライン」という題名で、日本語版では「電話でパーティ」とされてたの。もうここから間違ってた! 僕は、これを(気軽な集まりでの気の利いた台詞)などと勝手に解釈しちゃってたのだ。タイトルで誤訳してたら、中身が辻褄あわないのも当然だわ。
 この本には作者が36歳の時に書かれたコラムが収められていて、日本語訳の初版は1986年。約20年前に書かれたコラムなのに古臭くないし、同じ36歳になった僕の文章とは比べ物にならない…。嗚呼!
 ま、それはもう仕方ないとして。
 コラムといっても、ちょっとした短編映画を観ているようなの。一昔前のハリウッドにも、こういった淡々とした映画があったんじゃないかな。そうだな、思いつくところじゃ「カントリー」なんかもそうだ。邦題は「アイオワの大地に」だったかな? ウィ〇ダムヒルが音楽を担当してて、確か'86年頃に観た覚えがある。
 ジャンル的には社会派かな、クライマックスで農家が一致団結してたもんなぁ。高校生の僕には、まだ遠い世界すぎて印象が薄かったけど。そういえば日本では散々なブ〇シュさんを支持してるのも、こういう温厚実直に暮らしてる人々なんだよねー。
 思うのだけど、世界中の9割方は温厚実直といえる人々なのではないかな? そして残り1割の中の、更に9割は(良くない事をしているなー)って思って暮らしてる…。つまり本当にどうしようもない悪党がいるとしても、全体の1%未満じゃないかって気がするの。根拠はないけど。
 これは一つの考えで、一般的には(比率が逆だろ?)と思うのかもね。実際「悪貨は良貨を駆逐する」とも言うし、悪い影響ほど早く深く広がるものだ。そういう大人が1人いれば、それ見た子供はみんな真似するからね。信号無視する人がいると十中八九、そこにいる子供は目で追うんだよ。
 先日、却って新鮮に感じるくらい久々に「近頃の若い人は…」っていう決まり文句を耳にしたのね。それが狭い歩道を塞ぐように立ち話してる、老齢のご婦人方で。こういう光景って当たり前に見るんだけどさぁ、なーんか善悪の縮図? そんな感じがしたな。泥仕合、というか立ち位置の違い。
 温厚実直な9割がたの人々が気付かないでやってる良くない事、そんなの言うだけ詮無いとはいえ「1発の右ストレートよりも、10発のボディーブローのほうが致命的」だったりしないかなぁって。

 ボクシングで伝説となったアリという男性、彼の講演旅行に同行したエピソードは興味深かった(…あ、また先程のコラム本ね)。
 物静かで、神について話し、祈る王者。どこに行っても人々は彼を見逃さないの、もうサインとか握手とか色々と求めてくる訳。その描写で段々と飲み込めてくるのよ、なぜ彼は周囲に人が多ければ多いほど無感覚状態に入っていったのか。
 浴びたパンチの数よりも(絶え間無い注目と一方的な接触)が彼を変えたのだと、コラムニストは書いてるのね。アリの目線で眺める世界って、僕には地獄だわ。彼の日々は己を捧げ出す苦行のようで、チャンプってだけで務まるもんじゃないよ。人々が抱え込んだ憧れや妬みを一方的に投影され、拒まないのは。
 やっぱり自分は(何かの象徴)にだけはなりたくないね。そして誰の事も、そんなふうに扱わないようにしないと。…とか言いつつ、前述の(道を塞いで愚痴る老婦人)に「善悪の縮図」を見たりしてますが。
 先日、こんな投書が新聞に載っていたんだ。地震の被災地を天皇が訪問し、ひざをついて被災者に話しかけるその様子を携帯で写真に撮っている人達がいたとか。そりゃあ天皇陛下が至近距離に存在するんだもん、撮りたい動機も分かる気がする。だけど舞台で浴びる注目とは違う、それはアリが耐えたのと同質の暴力だ。
 そんな光景、今や珍しくないよね? いつの間にか当たり前になりかけているけど、自分が同じ目に遭わないと分からないんだろうな。いや案外、やられたって平気なのかもね。あの注目というか凝視、僕は気持ち悪いんだけど。そりゃあ別に痛くも痒くもないさ、でも…堪えるね。あの、携帯のレンズを向ける人の表情。
 つまり良くない事、10発のボディブローってのはこういうコトなのさ。
 でもきっと9割がた(はぁ?)って思われるんだろうね、それこそが僕の言いたかった事なんだけど。

平成16年11月19日
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2004年11月25日

59*旅の終わり

 久しぶりに図書館に行ったのです。で、誰かが言った「本屋は森だ」っていう言葉は(なかなか言い得て妙だわ)って感じたね。やっぱり人間の感覚として、素材から受ける印象なり影響なりって関係してるのかな。
 本の持つ質感、インクの感じ…。本は結晶化した知識というか、知のアイコンなんだ。画面の上で一時的に映し出す、そういった情報とは質が違う。それは読むだけじゃなく、書く事にも言えるよなぁ。キーを叩いて文を作っていると、紙に書いていた頃とは微妙なズレが感じられる。
 たとえば手紙とメールだと、僕には手紙の方がリアルなのね。メールって全体が俯瞰できないし、手書きじゃなくても紙そのものに感じられる何かが欠けてるというか。頭の中でモヤモヤしてた何かを言葉に換える、その着地点にギャップがあるというか。本にあって画面上には足りない、話し言葉と書き言葉くらいの違いが。
 もし本当にペーパーレス社会が現実化したなら、そこに生きる人々と今までの世界は根本的な理解の断絶が生まれるのではないかと思ったりする。というと大袈裟だけどさ、顔も知らないメル友っていう感じ? 慣れの問題かもしれないけどさ。

 そうそう、ようやく最近になって(パソコンで検索する)というのを覚えたのよ。そこで何か芋づる式に、田〇ランディという作家に対する非好意的なサイトに辿り着いた訳。彼女のコラムは好きなのね、でも小説は読む気が起こらなくて。そこに飛び交う誹謗中傷が的を得ているのか外しているのか、というか個人に関する便所の落書きなんだけど。
 ただ「ある状態の人々から熱狂的に支持されているだけ」というような意見があって、その譬えが久々に行った図書館で急によみがえってきたんだよね。

 一時期、この図書館を攻略するよな勢いで色々と読み漁っていたっけ。その頃に借りた「荒野へ」は、表紙のモノクロ写真が印象的だったな。無人のアラスカ山脈、雪に埋もれたマイクロバスの中で見つかった死体。将来を約束された境遇だった青年の、死に至る足取りを辿るノンフィクション。
 その孤独な死は新聞の片隅に載り、やはり一般的には「世間知らずの青二才が…」と受け止められたらしい。まぁ結局は理想主義の未熟者だったと、そうだったとしても僕は今も時々、ふと思い出すんだ。最近では、異国で捕らわれた若者のニュースでも。
 そりゃあ身勝手で不快にさせる生き方だったのかもしれないし、もう年末特番の「今年の十大ニュース」で思い出すのが関の山か? 確かにそうなんだろうけど…。
 人って本来、小さな選択ミスで死に至るものなのだ。それは都市生活でも変わらないが、無自覚のまま過ごしていられるだけで。
 遠く離れた出来事に、なぜか僕は(彼は自分だったかもしれない)というような気持ちになってしまう。
 荒野で死んだ彼は、致命的な間違いを除けば上手くやっていたそうだ。異国で殺された彼だって、後付けの非難で結論付けるのは簡単な事だ。辺境でクマに襲われたり、地雷を踏んで死んだ写真家達と何が違うんだろう? 政治的に利用されたとか、そんなの命には関係ないのにね。
 この社会ってのはさ、割と(人は誰でも過ちを犯す)というのを許さないように出来ている気がするんだ。結果主義って土俵の上で、立派な大人の仲間入りをする人は大抵が一度は鼻っ柱を折られてるんじゃないかなぁ。人によっては、逆転負けとか落選だったりというカタチで。
 マホメットは知らないが、キリストも釈迦も辺境に行ったそうだ。色々な部族の社会には、通過儀礼とかクエストがあるという。そういうのって、本質的な旅だと思うのね。多分どんな社会でもそれぞれのクエストを経て、納得ずくで戻ってきて大人の役割を果たすたのだと思う。
 旅の終わりは、決めていなくても時が来れば自然に分かる。(あ、戻ろう)という瞬間より先に命を落とす事もあるし、逆に(ここが自分の居場所だ)と見つけてしまったりもするだろう。
 旅を終えた人が、その過程で(自分には選択ミスなどなかった)と考えはしないと思いたい。ほとんど命取りな失敗にも気付かずに帰還したからって、その手の旅は必ず誰かが支えてくれた瞬間があった筈なのだから。
 
 D.クープランドの「ライフアフターゴッド」という小説は、あの頃の僕にとっては間違いなく衝撃的だったんだよ。なのに改めて手に取ってみて、あまりの退屈さに愕然としちゃったんだわ。
 あの劇的な癒しは何だったの…?! なんだか騙されてたような、美しい夢から醒めた時のセンチメンタルさ。今となっては見当も付かないが、すべての文章が胸に沁みたのに。この本も「ある状態の人々から熱狂的に支持されているだけ」だったのかもなぁ、だとしたら僕は「ある状態」だった訳か。
 ものは考えようだけどさ、たとえば(様々な「ある状態」の心にだけ呼応して、そこに書かれている本質を表す)という魔法みたいな本があるとして、そんなのが澄ました顔して図書館に並んでいるんだよ。僕はね、そう思うと愉快になる。今は何も語らなくても…。
 そう考えてみると(僕の生きてる世界もまた物語なんだ)と思えたりして。
 うん、悪くないじゃないか。そんな気がして笑える今の僕、めでたい事だ。

平成16年11月19日

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2004年11月15日

58*ギターorピアノ

 久しぶりに、自分が昔作った唄を聴いている。しばらく曲作りから遠ざかっているせいか、割と客観的に聞けた。
 仕上げの粗さは相変わらずの事、何をやっても作り込みが甘いのが身上なので。絵にしても縫い物にしても、どこか(オレがチョチョイとやってみた)という感じを残したくてね。
 しかし、それにしても(こんな曲がホイホイとまぁよく出てきてたものだ)と我ながら感心したわ。今の自分には、こんなに次から次へと色々な着想が浮かんでこないし。あと温度差ね、こんな事やる熱があった自分もいたのかーって。

 大体は、詞のノート見ながらギター片手に鼻歌で作ってるのね。でも一時期はDR−5という、ギタリスト向けに作られた安価なシーケンサーみたいな機械に音を打ち込んでいたんだよ。そいつ一台で、スコアが起こせなくてもオーケストラっぽい曲だって作ろうと思えば出来ちまうてんだから利口な機械だ。僕的には名機と思うが後継機種も出ずに、今じゃ中古の相場は1万円台ってとこか。
 それはともかく、僕は(作曲なんて誰だって出来る)と思っている訳。みんな思い付きみたく鼻歌が出てくる時ってあるじゃん? それを形にしようって気がないか、手段を知らないだけなんだろうって。
 僕の場合は始めに、心に浮かんだ音のタマゴをギターを使って現実の音階に置き換える。ついでに時間と情熱次第で、それにリズムを付けたり楽器毎に音を振り分けたりして録音してゆくのね。
 唄を作る時は先に詞があって、コードが決まると同時にメロディが浮かんでくる事が多いなぁ。それから色々なリズムを試していく過程で、ベースラインの骨組みができる。やってるうちにベースラインが変わってゆくのは珍しくないし、いきなりフレーズが生まれる事もあるけど。
 まぁつまり内側から外側に音を変換する媒体はギターなんだけど、替わりにDR−5を使うとギターと違った感じの曲に仕上がるから面白い。どう違うかっていうと、ピアノで作った曲みたいな気がするんだよね。

 音楽って、大半がギターかピアノで生まれてくるように思う。というか、作曲者がギター弾きかピアノ弾きかって見当がつく場合が多いのよ。
 ギターはメロディと伴奏を同時にこなすのが難しい楽器だから、どうしても唄声に対する伴奏になりがちでさ。小節毎に和音が鳴るような、印象として整然とした音のカタマリが続いてく感じなの。これがピアノ弾きの発想と大きく違うところだと思う。
 ピアノ弾きは、ギターの仕事を左手だけでやっているのね。そんで空いてる右手で和音の足し引きをして、お手玉みたく両手に分散させてコード感を組み立ててる感じ。だからピアノ弾きの作る曲は、僕の耳には曖昧に流れてゆく和音で特定しにくく聞こえるの。
 そう、考えてみればギター弾きの唄を聴いてると分析してるかも。どっかで無意識にコード進行を比べたり参考にして、自分の曲作りを気にしちゃってて純粋に楽しめてないような…? だからかな、案外ピアノ音楽って好きなんだ。鍵盤の響きも好きだし、ギターじゃ出来ないボイシング(和音の展開)とかも新鮮で。
 ピアノは一種の神秘かもなぁー、自分が弾けないからかもしんないけど。

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2004年11月04日

57*ベースの自由

 道具という物は、目的が同じでも性能の優劣と個性がある。昔は単に(値の張る道具=素材や加工に希少性がある)程度に思ってたけど、実際に高級な楽器を触ってみて初めて分かったんだ。良い楽器は、ちゃんと上手になった気にさせてくれる。
エレキベースを、半永久的に預かった。といっても、あるベース弾きから「もう弾かないが手放すのは惜しい品だから、是非とも弾いてやってほしい」と頼まれたのだ。決して阿漕な理由じゃない。
 さすがにクラシックの楽器とは桁が違うにしろ、ウン十万円の特注品だ。今まで自分が所有したベースに比べれば5〜10倍もする…というか演奏歴20年強で2〜3万の楽器しか知らないんだから、技術的に大した事ないのは想像に難くない筈。それでも託されてしまうのだから、文字通り有り難い話だよなー。
 確かに素材や加工の違いもあるだろう、しかしやっぱ弾き易さが段違いに良いのね。格好つけて言えば「潜在的プレイアビリティを引き出してくれる」という訳だ、そいつが真の実力って奴なのかは置いといて。
 んで改めて、14の時に中古で1万2千円したベースを弾いてみた。これが頑張っても悲しいまでに情けない音しか出ない…。こりゃもう「サヨナラ昔の自分!」って位の気持ちになっちゃうよ、まぁ安物なりに個性があるんで大事にするけどさ(改造してるし)。

 ところで僕はギターも弾くし、中学時代は管楽器も吹いていた。だけど音楽をベースラインで聴いてしまうのは、ベース弾きの習性かもしれない。他の楽器を演奏する人も似たような癖があるのかな? でもピアノやギターはメロディに対して和音的な弾き方が多くなるし、案外そうでもないのかもな。
 和音楽器と違って、ベースが一度に鳴らすのは一つの音だけだ。そこがベースの裏メロ的な面白さで、かなり好き勝手に色合いを添える事が出来る。といっても仮に和音から外れた音を混ぜ込むには、曲の階調を踏まえてないと台なしにする危険があるけど。
 そしてベースは、ドラムと一緒に「リズム隊」なんて呼ばれたりするような役割もあるのね。つまり打楽器的なポジションで、リズムに抑揚を付けるのもベースの隠し味な訳よ。そうやって和音とリズムを調整する(どの音をどのタイミングで鳴らすのか)という案配の、さじ加減次第で同じ曲でも印象が違ってしまう。
 予定調和に外しを加え、一発で全体のニュアンスを変える…。案外、ベース弾きからプロデューサーになる人が多いのも分かる気がするね。バンドとして外から見ると、派手さでアピールする面はないに等しいから(パシリの立ち位置)に見えるかもしんないけど。

 ベースを始めるのは簡単だ、単調に音を鳴らしていても格好がつく。段々と手数が増やせるようになると、小洒落た技を並べ立てる自己満足の罠に陥ったりもする。だけどタイトなベースラインに目覚めると、そこには侘び寂とか禅に通じるような減数美的境地が待っているんだな。そして最初に覚えた単調かつダサいフレーズが(これを思いついた奴ぁ凄いな!)なーんて感じたりして。
 ただ、いかんせん僕にはリズム感が欠けているようだ。プレイするのが楽しくて堪らない時は大抵ズレてるし、リズムに対して正確に弾こうとすると疲れてしまう。そこで基礎練習だ!…といきたいが、それをしない僕は気持ちの良さを優先して弾いている。別に巧くならなくても、それも味だという事で。
 ベースって自由で楽しいなぁ、そう思わない?

平成16年11月3日

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posted by tomsec at 14:14 | TrackBack(0) | 空想百景(ALL) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする