2004年12月29日

64*図書館にて

 先日、人違いをしちまった。職場で、事務系の女のコ同士を取り違えちゃって。
 顔も名前も全然違うのに「例の件ですが…」なーんて普通に話しかけて、相手が「?」って顔してても気付かないなんて重症だよなぁ。顔と名前を覚えるのが早い僕にとって、かなりショックだった。しかも女性だぜ、あり得ない…!
 そして翌日、今度は自分が間違えられた。
 図書館で係員に話しかけられてさ、こっちは何の事やらさっぱりよ。でも昨日の今日なんで、すぐ状況は飲み込めたのね。で、どんな人と間違えられたのかと思えば…この係員め無礼千万! っていうか、相手も憤慨するかもしんないけどね。もし知ってたら。
 まぁ確かに、遠目じゃ似たような背格好と色味の服を着てたと思えなくもない。きっと昨日の女のコ達も、僕の人違いに気付いたら同様の不快さを抱くのだろうなぁ。自己イメージは、常に他人の想像以上だって事か。
 それにしても、僕の世界は分かりやすい。

 最近は図書館通いしてるって程じゃないよ、でも借りれば返却に行くからね。すると当然また新しく借りる、これってコンビニ通いと似てる連鎖だな。そしてコンビニの習慣化しやすさは、ジャンクフードにも当てはまるよね。
 買い食いしなくても平気だったのに、一度そういう店に入っちゃうとハマるでしょ? まるでTVドラマを見始めてしまうと欠かさず毎週見てしまう、あれと同じ軽い中毒症状。やっぱ人間は、何かにとらわれてしまうんだなぁ。程度の差はあれ、誰もがオタク化してるのかも。
「人類は常に迷信の中を生きている」っていうのは言い得て妙だな、実際。ただそれは本来、人間の根本的な依存についての言葉なんだけど。古い時代の宗教、現代では科学(あるいは科学っぽさ)を根拠も疑いもなく盲信してるって事ね。
 つまり原子力の安全性もタバコの害も、権威づけされたデータを出されると信じちゃったり反論出来なくなるっていう状態よ。まるで心理学のUFOっていうやつだ、願望とか逃避とか。

 返却時にコピーを取ろうとしたら先客がいて、年寄りの男性二人だったのね。老人で、しかも車椅子付きだ。人任せに慣れているようで、一向に自分達で手を出さずスタッフを見てる訳よ。
 確かに慣れない機械の操作は億劫だろうけど、図書館の人も忙しいし付きっきりで面倒見られないわな。気の毒なのは彼らより罪悪感を募らせるスタッフでさ、僕は思わず「な、教えてやるからやってみな」と声を掛けたの。別に待ってても良かったんだけど。
 手伝うといっても用紙を指定しておけば、後は原本を乗せてボタンを押すだけだからね。98ケ所もコピーする気らしかったんで、彼ら自身で出来るようになるまで立ち会った後は先を譲ってもらった。やればできるんだよ、時間はかかっても。
 慣れない事を覚える、周囲のスピードに臆する、そういったプレッシャーから人任せになってしまうのは、分かるんだ。それは自分が、都会で車を運転する緊張感にも似てると思うから。
 僕がドライブ嫌いなのは、若葉マークの時から交通量の多い街中で、楽しいよりも散々なドライブばかり経験してきたせいだったんだよね。見晴らしのよい海沿いの一本道、軽トラの後ろに付いて走っていた時に気が付いたんだよ。どうして運転が苦痛だったのか、って。
 その年寄り二人組は、僕が新たな本を借りる前に消えていた。さすがに100枚近くコピーするのには、そこは相応しい場所じゃなかった。女性スタッフが「一台しかないコピー機を占有されると、後がつかえて他の利用客に迷惑だから」とか言ってるのは切れ切れに聞こていたから、おそらく別室でプレッシャーから解放されて好きにコピーしてるんだろう。
 今回は図書館ネタで押し通しちゃうけど、もう一つ。
 独り言を言う女のコがいたのね、よく地下鉄なんかで見かける「車内アナウンスを真似る男の子」みたいな感じの。だけど彼女が真似る口調ってば、非常に古い譬えで恐縮だけれど「ねるとん」風の吐息&媚び混じりの声でさー。
 TVでは聞き慣れている女性ナレーションね、でも現実で聞くと凄くシュールだわ。

平成16年12月18日ku64.jpg

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2004年12月22日

63*年末のシンボル

 年末の風には、月日に疎い僕にも感じられる独特の慌ただしさがある。
 なんだかバタバタした空気に巻き込まれてると、ふと(誰かが言った大事な言葉を聞き逃してしまったんじゃないか?)というような寂寥感に捕らわれたりして。よく思い出せないんだけど、どさくさの中で有耶無耶にしちゃいけなかった何かがあった気がしてくるの。SI〇Nの「12月」という歌みたく、爽やかな後悔をする。
 ところで、職場の忘年会は「できればスーツで」という話だ。ホテルの宴会場だからか? しかし無い袖は触れぬ訳で、どう頑張ってもボタンダウンとチノパンにサイドゴアのブーツが関の山。僕はスニーカーとTシャツとトレーナーで事足りる、そういう世界なのだ。
 僕は常々、スーツという服装は日本の気候や風土にそぐわないと思っている。しかもスーツには革靴だ、これがまた非常にそぐわない。西欧ならいざ知らず、こんな湿気の多い土地だもの。いくら手入れを怠らなくても、梅雨時なんて靴底の革が悲惨な事になる。大枚はたいて2足も駄目にして、未だに捨てられずタンスの肥やしだ(泣)。

 そして年末と言えば大掃除。誰が言ったか「部屋の状態は、住む人の心の中を反映している」のだそうだ。部屋じゅうに物が溢れ散らかっているのは、その人が集中力を欠いていたり気が散っているからだと。
 逆に言えば、部屋が片付いてれば心も風通しが良い状態になるって事だ。そう考えると「シンプルライフ」という言葉も奥が深いね、シンプルな空間に健全な精神は宿る?
 そこから拡げて考えれば、パソコンというのも所有者の心の中を表しているように思えたりして。ソフトを無闇にインストールし過ぎたり、何がどこのフォルダにあるのか分からない状態になってくると動きが鈍るもんね。そこを解決せず無闇にキャパ拡張してしまえる、ってのも現実のメタファーっぽい。
 己の心を知る方法としての、部屋とパソコン。部屋の譬えでいうと中に自分が含まれている感じだけど、パソコンの譬えだと自分は俯瞰で箱庭を外側から覗き込んでるみたいだ。…なんて、どこかで聞いた「外側に見えるものは、すべて内側の反映である」というような言葉を思い出した。
 そうなると、自分の見てる全方位が己の暗喩って事になる。同じ景色を見ていても、僕と貴方じゃ違って見えてる、と。自分自身にしか見つけられない替わりに、答えは目の前に見出せるって訳だ。
 古代ハワイイのシャーマンは「額縁を後ろ向きに放り投げ、その落ちた場所や様子から未来を占った」だかいう話を、何かの本で読んだっけ。つまり肝心なのは、額縁でも後ろ向きに投げる事でもなく「読み取る力」にあるんだね。
 森羅万象すべては一つのものから生じたとするなら、自分の深層にある無意識から原初の記憶に到達できれば可能なのかもしれない。西の空に鳥が飛ぶ、雨上がりの虹が二つ重なる、知らない他人と何度も目があう…。意味などない、だけど何もかも自分に降り注ぐメッセージには違いないわな。
 主観や願望、あるいは憶測や策略でもない「起こりかけている流れ」を感じ取れるかどうか。結局は水晶玉や紋章やタロットなんかも説得力アップの小道具で、本当は下駄の表裏でだって分かっちゃうんだけど、おごそかでもっともらしいほうが有り難みが増すっていう人情? 要は他者からは理解不能の過程で得た答えの、見せ方でしかないような。
 実際、自分にとって生涯の一大事を、もしも鼻毛を抜いて簡単に言われてしまっちゃあ面白くないに決まってる。

 今年もまた「〇時だよ!全員集合」のコントみたく、どんでんが回るように終わってゆくのだろうな…。願わくば同様に、拍手と笑顔とフルオーケストラで…。

平成16年12月4日ku63.jpg

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2004年12月15日

62*サンクチュアリ

 そういえば「パイナップル食べ放題!」なんていう日々があったなぁー。
 その後、妹は謎の乳液ローション作りを止めてしまったのだ。でも最近は栄養士の勉強を始めたらしく、おかずや洋菓子を作ってみては気前よく食わせてくれる。なかなか旨いんだけど、妹自身の舌には合わないようだ。
 言い訳するかのように「栄養のバランス良く作ると、旨いモンなんか出来ないのよ」なんてこぼしてるのを聞いて、かつてバイトしてた先の営業マンを思い出した。というか、彼の何気ない一言をね。
「体に良くない物ってさー、旨いんだよねー」
 当時の僕は健康志向を否定するでもなく、でもそんな世の流れに何かがズレてる感じを漠然と抱いていたのね。そんな言葉にならないもどかしさを、簡単に言い当てられた気がしたんだな。

 しばらく前の話だけど、やたら新商品に「海洋深層水」って謳い文句が並んだ時期があったでしょ。あの時、なんだか僕は引っ掛かりを覚えたんだ。んで、それを友人宛てのFAXに「それは、地球の脊髄液を抜いちゃってる気がする」って書いたの。今も時々、そのフレーズが脳裏をかすめる。
 深い海の、生き物がいないに等しい場所。そこに「豊富なミネラル」だか何だか、生き物に良さそうな栄養素をタップリ含んだ水がある。…うん、ロマンチックな話じゃないか。ただねェ、それが地球の骨髄液なのよ。人間で言うと、免疫系の大本がある場所か?
 それを飲み干しちゃった日にゃー、何も変わらず天下太平平穏無事なーんて筈ないんじゃあありませんか?! って思う。むしろ取り返しのつかない、根本的な地球の生命環境をかき回しちゃうんじゃない? って。それって「パソコンのプログラムが出来る人じゃないと弄っちゃいけないファイル」みたいなモンでしょうが。
 そういった「聖域」ってのは、地球上でも身近にあるんじゃないかな? たとえば(←これ口癖だね)、世界遺産に指定された途端に荒らされる原生林とか。メディアに取り上げらて、希少なウミガメやら動物の営巣地に人が押し寄せるような。色んな健康食が流行る時、それが人の作る物じゃなかったりする度に僕は(同じ行動パターンだ)って思っちゃう。

 最近は定着したせいなのか「癒し」って言葉を聞かなくなったけど、癒される時に自分しか見えなくなっちゃうのって危険だよなぁ。いっぱいいっぱいなんだから仕方ないとしても、そんな柔らかな収奪や搾取が美しく咲く花を絶滅させたら心穏やかじゃ済まされないような。
 間氷期、人間の祖先がベーリンジアを伝って新大陸に拡散していったのと同時に既存の動物種がほとんど全滅したんだってね。アメリカにも象やら虎の祖先なんかが沢山いたのに、一気に狩り尽くされていったらしいの。人間ってば、知能は進歩しても精神的には何十万年経っても一緒なんだろうねー。つくづく思うよ。
 とはいえ、健康食とか自然志向の風潮が良いとか悪いじゃなくてね、そこに僕は業の深さを感じるのでありました。

 時々さ、(体が欲しがってる)っていう感じがするんだよ。
 詳しい理屈は知らないが、実感としてリアルなのね。たとえば柑橘類なんかは、僕がタバコ呑みだってのが関係してるのか、かなりそうなる。他にも梅干しとか納豆とか、別に嫌いって訳じゃないけど普段あんまり食べない物が無性に食べたくなったりする時があるんだわ。
 僕は出来るだけ、そういう(体からのリクエスト)は叶えてあげるようにしてるのね。で、それを口に入れた時の満足さは(味覚が喜んでる)って感じがするんだ。他人に優しくしたような、ちょっと良い気分で。

平成16年10月20日ku62.jpg


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2004年12月08日

61*アート、人の作りし物

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 いわゆる「ネットコラム」ってあるでしょ?…って、これもそうか。
 いわゆるプロの文筆家は、今まで出版業とは切っても切れない間柄だったじゃない(多分これからも)。作品の出版を担当する編集者がいて、半ば共同作業で仕上げていた訳だよね。そんな名編集者との蜜月から生み出された作品を数え上げればきりがないけど、逆に言えば作品に干渉されまくってたんだよなぁ。
 以前、僕の知り合いが大手出版社にアポなしで原稿を持ち込んで本を出したのね。アポなしも持ち込みも普通あり得ないけど、彼女のバイタリティは常識の限界点を超越するから。んで買って読んでみたら妙な違和感があってさ、別人かよ?! って位。
 彼女は昔からニュースレターを発行してたから、独特の文章は良く知っているのよ。なのに読み易く整えられちゃって、本人から聞いたりした感じと一致しないんだよね。内容も(らしくない)感じで、どうも編集者のピントがズレてた気がして仕方ない。
 それはまぁ出版社の都合で、不特定多数に受けそうな体裁にしたかったって事だよな。題名も本人の告知と違ってたし、担当者は相当頑張って手を入れちゃったんだろうね。見栄えのする文じゃなかったかもしんないが、オリジナル原稿のほうが絶対に面白かったに違いないのにねぇ。勿体ない。
 売れそうな素材としての彼女の体験を、分かりやすく編集しなくちゃいられなかったんだろうね。そういうのって、音楽で言えばモータウンのような作り方だよな。それに限った話じゃないし、制作者の意図に合わせて作詞家や作曲家や演奏者や歌手をコントロールする手法は今でも珍しくないが。
 売れたミュージシャンがプロデューサー業に手を出す時も、そういうのって常套手段で使うよね。セルフ・プロデュースなんていっても、常に腕利きのエンジニアと組んでいるし(僕の敬愛するプリンスは例外だけど)。本でも音楽でも、ビジネスとなると作品をコントロールするのは本人よりも売り手の方針だ。

 で、ネットコラムの話。何をやっても売れるような大物文筆家でなくたって、今はインターネット上でなら編集者という他人に邪魔されず作品をコントロール出来るようになってきた、と。
 でもね、何にせよ「全部一人で」ってのは結構しんどいと思うのよ。悩み出すと出口のない八方塞がりになるから、結局は他人からの客観的な意見があったほうが楽だったりもするんだよね。そこら辺の案配が、ビジネスとしての難しさだったりして。

 ところで、アートの世界で「ファイン」と言えば商業主義に染まってない物を指すのね。量産の利く版画を中心とした絵画ビジネスが流行る昨今、ファインの潮流はあんまり元気がない感じ。ま、不景気だし。
 そういう商業経済を逆手に取ったのがポップアートで、いわば絵画におけるパンク・ムーブメントだったのかもしれないね。とすれば、村上某のアニメ・フィギュアをデフォルメしたような作品群とは? と考えると、そりゃ一言で片が付く話でもないわな。もっとも、そうだったら美術が抽象化する意味がない。
 僕は常々(抽象芸術には作者の社会に対する思想がある)と思ってきたのね、だけどコマーシャリズムと入れ子になってるような村上某の作品は理解出来ないままでいる訳。その構造がファインとしての革新なのか、単なるビジネスだからなのか? 実物を観れば、また何か感じられるのかもしれないんだが…。
 美術作品は、じかに見るに限るからな。フランシス・ベーコンなんて、本で観ただけじゃ衝撃は伝わってこなかった好例だもん。映画とビデオの関係と、ファインアートにおけるオリジナルと絵画本を同列に考えたら大間違いなのよ。実物は鑑賞者と直接の関係を持つし、その場には独特のコミュニケーションが生まれているから。
 今や具象画の範疇に入ってしまいそうだけど、モネって作家がいたでしょ? あの人の、印象派の語源となった「印象・日の出」を実際に観た時は凄かったよ。それまで美術関連の本で見てた時は意味不明だったのに、まさか絵を見て泣くなんて思わなかったもん。
 あの茫漠とした淡い色彩に畳み込まれているのは、ある朝モネ自身が体験した意識の覚醒だったの。たとえばニューエイジ本で書かれていそうな(言葉にできない一種の悟り)に近い感覚か…。それを彼は絵画という媒体に変換し、人間に「視界と思考が相関関係にある」という認識をもたらしたんだ。
 もし(それがどうした?)と思うんだったら、それは既にモネによって意識の枠組みが拡がった世界に生きてるからなんだよ。…って事が、言葉なしで僕自身の体験として分かった訳。って言われても全然ピンと来ないかもね。この感覚を伝える言葉自体、まだ存在してないのかもしれない。
 それに実際、言葉は常に発言者を裏切るものだから。

平成16年11月3日

posted by tomsec at 01:19 | TrackBack(0) |  空想百景<61〜70> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする