2005年01月27日

67*健康である事の傲慢さ

 僕が生まれる年に、エチオピアに国立公園を作ろうとしていた。C.W.ニ〇ルさんの目から見た、その現場をエッセイで読んだのね。
 岩盤に薄く積もったような地層だから、残された原生林を伐ってしまったら貴重な固有種も野生動物の生態系も二度と戻らない土地な訳よ。だからこそ国民の共有財産にしてゆこうとするんだけども、それには実際に暮らしている人達に必要性を分かってもらう事から始めなければならなかったそうだ。
 善良で心の暖かな人達ではあるが、貧しさから目先の利益しか見えなかったりする。あるいは「これが先祖代々から我々のやり方なのだ」と、現状を悪化させる事に無頓着なの。もちろん全員じゃないけど、多くの人達がね。
 それから37年が経った今、その計画がどうなったのかは脇に置こう。人の愚かさは、離れて見るほどよく分かる…っていう教訓だよなぁ。そして、ふと(もし同じような事が中国であったとしたら?)と思ったんだ。
 あるいは、すでにそれは現実化しつつあるのかもね。干上がった大河、進行する砂漠化など…一人々々の、善良な人の心ない振る舞いが数億人の規模で何を生むのか? あるいは、何を損なわせるのか。
 僕にとっての中国は、アメリカと大差ないのよ。どっちも自分の目で見てもいないで、イメージだけで言うんだけれど。大国主義って感じ? 文化として好きなところは多い、だけど政治的にはねェ。象の視点で蟻を踏み潰すようで。
 いわば「健康である事の傲慢さ」に似ている…そう思ったりして。

 痛みというのは、喉元過ぎれば忘れちゃうもんだよね。そして他者への共感というか想像力(同情とは違う)もリアルじゃなくなる。何もかも順調で上手くいっている時、それは往々にして陥りがちな傾向じゃないかな。
 いつか自分が挫折して絶望の淵に立ち、その感覚を分かち合えない人から平然と傷に触れられて。じゃなけりゃ眼中にないってな態度を取られた感じがしたりして、そんな時にかつての己の傲慢さを省みるんだよね。
 もちろん、ただ不満を訴え社会を非難するだけの人もいるだろうけどさ。
 どちらにせよ、そこにあるのは「失われた事で気付く何か」なような気がする。
 エチオピアの国立公園は、あと一歩のところで革命に消えたんだ。戦乱の後には一層の貧しさが拡がり、やがては復興の支えとなり資源ともなったろう(そこにしかないもの)は残らなかった訳だ。国立公園に反対していた、貧弱な大地から麦の最後の一粒まで絞り取ろうとする人間は結局、何かを得たのかな?
 それでも歴史は繰り返され、今も似たような(というか同根の)状況が進行してるんだよなぁ。それは文明の発達するパターンが、基本的には自然環境と共生できない流れだからなのかも。
 そういうパターンじゃなくても進展してゆく道はあって、そんな非西洋型に向かった文明は今もある筈。僕らとは異質すぎて見えないだけで…。

 養い切れないほどの国民を抱え、多少の無茶をしてでも経済大国を標榜する。国家の威信を賭けて、破綻する訳にはいかない…。先進国を目指す国なら、いつかは通る道なのかなって気がする。それはそれで、分かる気がするんだわ。
 ただ「健康である」というのは、その(無茶が利く)という思い込みにかかってるんじゃないかな。それはつまり(自分の体だけの問題だ)という考えで、だから周囲を意に介さない。
 でも無茶をする時の心境って、焦りとか意固地に突き動かされてるもんでね。そういった強引な執着心が、すでに「失われた後で気付く何か」を見失わせているっていう。
 もし仮に誰かが己の見失っている加減を教えてくれたとしても、そこで馬耳東風を決め込んじゃうのが「健康である事の傲慢さ」たる所以でもあるのだけど…。
 だからって弱者への大義名分なんぞ担ぎ出したら、それもまた筋が違うじゃん。

平成17年1月27日
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2005年01月17日

66*新年と苦手の話

 今年は、今頃になって年賀状の返事を出した。昨年も自分からは出さなかったと思うが、それでも返礼がこんなに遅れはしなかった。
 実は今年だって、7日には書き終えていたのだ。しかし「寒中見舞い」と書いてしまったので、仕方なく松の内が明けるまで投函を見合わせていたというお粗末…。つまり時節を気にして、書いた返事を10日も放っておいたのだから我ながら呆れる。
 でも、そういう季節感って大事にしたいよね?…って(まーた心ない言い訳をしてるナ)なんて思われそうだなぁ。それに実際、普通のポストカードを年賀状に使っといて季節感もないか。
 これでも数年前までは毎年、気合を入れて年賀状を描いてたのだ。出す人すべてに手描きで違う絵柄を考えていたので、それこそ松の内を過ぎても仕上がらない年もあった。大晦日の夜中に描き終わって、町中の友達に配達して回った年もあったな。
 特に子供の頃は絵を描くのが好きだったし、大人になってからは絵筆のタッチを忘れないようにと思って欠かした年はなかった。つまり、それだけ僕の身内が健康だっていう証拠でもあるんだなー。そう思うと、有り難さに(初詣で行かなきゃ)って気にもなる。
 そう、今年は未だに初詣でも済ませてないの。別に一人でだって構わないんだが、何だろうな…? なんだか気の抜けたような、良く言えば執着のない心境ですかねェ。
 すれば、旧正月を今年の始まりと思って仕切り直すかな。
「あけおめ、ことよろ!」
…って、なんか例年になく見かけたよなぁ。
 その伝でいうと「昨年中はお世話になりました、本年もご厚意の程を賜りたく…」なーんてのも「さくおせ、ほんごこたま!」ですか?
 こういうのって、気が抜けてるっていうよりも間が抜けてる感じがするんだけど。だからって使いたい人に文句があるんじゃなくて、僕にとって良い語感とは思えないっていうだけの話ね。
 これと似たような感じで、外来語のひらがな表記も苦手なんだよなぁー。
 このサイトが、ある日突然「とむず・せくしょん」になっちまったら、もう更新どころか自分を出入り禁止にするね。しかもパステルカラーとかで。とかいうのも趣味の問題だから、飽くまで僕個人の感じ方としてね。

 ところで、食べ物でいうとラッキョウだけは苦手。あの臭いと歯応え、この世で他に食料がなかったら水で飲み下すしかない。クセの強い食べ物って好き嫌いが分かれるのに、ラッキョウ嫌いの人って少ないのが不思議だよなぁ。
 あと昔は、くさやも食べられなかったな。今は、むしろ旨いと思う。でも食べる機会は滅多にないけどね。
 経堂の駅前を通ると、居酒屋の軒先から強烈な臭いがしてきて(客がくさやを注文したな)って一発で分かったものだ。それも17年前の話、さすがに今じゃないだろう。たまに小田急で通過すると、高架になった駅の雰囲気からして様変わりしてるのが分かる。
 場末ムード満点のビリヤード場も、多分なくなってしまったろう。開け放した窓から吹く夏の夜風、コーラの小瓶。朝まで4つ玉をしてた、あの仕事仲間は何をしてるんだろう? くさやを初めて食べた日は、翌朝まで口臭に残ってゲンナリしたっけ…。
 あの居酒屋が今も潰れずにいたって、いつまでも夜毎に悪臭漂う商店街じゃあるまい。
 次に食べたのは、真鶴キャンプでの罰ゲームだったな。
 あれ、旨いじゃん! と思ったのは更に後の事だったが、いつどこでだったのか思い出せない。

 そういや今年も、お節料理を食べなかった。御屠蘇も飲んでないけどさ、あの組み合わせってお供えっぽいと思わない?

平成17年1月16日
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2005年01月06日

65*風の匂い

 あだ名と名前の共通点ってさ、自分以外の誰かに付けらてしまう事だね。僕は友人から「トム」とか「アルト」とか「ジャン」とか呼ばれているけれど、未だに自分からあだ名で名乗る事には抵抗があるなぁ。
 自分の名前を自分で決めるのは悪くないアイデアだけど、そういやヘビメタ全盛期には割と初対面で「ジャッキーです」なんて名乗ってくる人がいたっけ…。やっぱ自分で付けた名前なら気恥ずかしくないのか、それとも実は内心(うわー言っちゃった!)って思ってたりしたのかな?
 気恥ずかしいといえば、作詞というのも一般的にはそういう事らしいね。作曲の話をしてたりして、よく言われるんだよなぁ。別に内面を吐露しなくたって良いのに「臭い台詞なんて書けない」とかって。
 だけど愛着かもしれないけどさ、自分の作った唄って(一番あってるのかも)って思う時があるんだ。他人の歌とか比較的に聴かなくなったし、カラオケに行きたいと思う事も減ったもん…っても自己陶酔じゃないよ! 人様に聴かせられる出来じゃなくても、自分の音楽のほうが和むって事。

 ところで最近、香水を1本捨てた。
 正確には、芳香剤の替わりにして部屋に置いてるんだけどね。トワレとコロンの中間だっけ? それだけ成分が濃いんだわ。買って4年ぐらい経ってるし、いかにも洋モノっぽい匂いに変わった気がしてね。
 甘い香水で、寝る時にちょこっと使うと寝付きが良かったんよ。外に出る時は別の種類と一緒に、付ける場所を分けて使ってた。たまにつける香水は気分転換の効果がある、いわば休日のリラックス用品で。
 学生の頃とか勤め人の時は、意気がったり格好付けで使ってた。それから長らく香水離れしてたんだけど、ある日ふいに(香水って良いな)って思ったんだよね。しばらくクサクサした気分が続いてて、そんな自分を変えたかったんだろう。
 ジュース1本に迷うようじゃ、動きも気持ちも小っこくなってくる。誰かから香ってきた匂いで、そんな状態に気付いたんだ。何かに気が付くって時は、すでにその枠組みから出てるんだよね。匂いが一瞬にして感覚を研いでくれた訳よ、アイスクリームのウェハースみたく。
 それで(香水にはBGMのような効果があるな)って思ってね、香水というよりCDを買うような感覚だったんだ。自分のテーマ曲というか、お気に入りのフレーズみたいなのをさ。…ま、衝動買いの言い訳ってヤツか。
 音が本当に鳴ってなくても、頭の中とか鼻唄で気分を変えたり盛り上げたりするでしょ? 浮かれた気持ちを落ち着かせたり、泣くに泣けない自分を慰めたりね。思い出の一曲、なんて大袈裟な話じゃないけどさ。でも行き詰まっていた時に、何気なく流れてた街頭の唄に背中を押してもらった事が何度かあるんだわ。
 音の力、言葉の力は偉大だね。周囲を変えようとして抗ってた、そんな自分を変えてくれる。それって自分自身で分かってたって出来ないのに、すうっと肩の力が抜けるような感じの力を与えてくれて。
 そこまでの匂いってのは、まだ知らない。でも同じような力があるって思うんだ、たとえば記憶を再現する匂いってあるじゃない? 子供の頃の、工場の臭いとか。商店街の揚げ物の、タクシーの真新しいシートの、古い病院の待合室の、スーパーカー消しゴムの…。嗅いだ瞬間、まるごと当時に戻るもんね。
 近頃、ふいに台湾の雑踏や屋台の匂いがしてさ。刹那くて恋しくなるんだ、戻れない過去じゃないのにね。だからって行けばまた、あの寂しい夜にあるのは孤独と自己嫌悪だったりするんだろうになぁ。そんなの最悪じゃんねー!
 その孤独を、今の自分が必要としてるのかなぁ…?

平成17年1月5日
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