2005年02月15日

70*毒を制するルール

 腰痛で痛み止めを処方してもらった時の事。
 錠剤2錠に散薬1包、この粉のほうが胃の薬だった。痛み止めを飲むと胃が荒れるから、という訳だ。だから何だと思うかもしれないけど、僕には引っ掛かったのね。(腰痛の薬で胃を悪くする、それって何なの?)って。
 飲まないに越した事はない、しかし腰の痛みとは時に耐え難いものだ。体に良くない、そう分かってはいても早く楽になりたくなる。苦しみから逃れるため、新たな苦しみの種を蒔くとしても…。

 上流にダムを作らなければならない、とするよ。
 それで干潟が涸れるとしても、干潟の魚貝で生計を立ててる人に補償をしたり、適当な場所に人工干潟を造成するとかしてまでダムの必要性に固執する。なぜなら上流にダムを作りたい人にとっては、新たに発生する問題なんて眼中ないから。
 そしてダム作りは上流の子供だけで決めた事で、下流の子供は蚊帳の外なの。他人の損得まで考えてたら、自分達の旨みが減るってね。
 そういう物の考え方と、自分が自分の体にしてる事とは何か似てる気がする。上流の子も下流の子も自分自身なのにね、大事にしてるようで実は粗末に扱ってる。

 実際は、余計な薬を飲むのに抵抗があって、痛み止めだけ服用してたんだわ。僕は胃弱体質なのに、それでも胃薬なしで平気だったのよ。つまりこの胃薬は、ごく稀にいる極めて胃弱な人の為に処方されていたのだろう。なんという無駄!
 でもまぁ、自分が処方する側でも同じように胃薬は出すわな。それより気になったのは(腰痛を抑える副作用が胃に来て、それを抑えると次の副作用はどこに行くのか?)って事。痛みのタライ回し程度の話なのかねコレは?
 もしもそうやって痛みのツケを溜め込んだら、いつか体が思いがけない支払い方をするのだろうか。年金問題みたいに?
 ちょっと関係ない気もするけどさ、でもやっぱ似てると思うよ。貰わなきゃ損とかいう発想って、これからの世代の事なんて考えてないもんね。自分たちが本来負うべき責任と痛みを、子供や孫に押し付けようってんだから…。今の年寄りは昔の年寄りと違うじゃん、こういうのも戦争の後遺症なのかねぇ。
 大人として情けないよ、ここで一旦チャラにしてフェアな仕組みを残そうぜ? 年金制度の仕組みなんてさ、小学校の社会科で習った人口ピラミッドの知識で分かるじゃん。つまり最初から破綻するのが目に見えてたのに、土壇場まで放っておいて今更「払い損」なんて言わせないっての。

 ひょっとしたら、病気ってのは体の毒だしなのかもしれないなぁ。
 たとえば熱が出ても、最近じゃ医者も無闇に薬を使わない方向になってきてるんだってね。熱が出るのは、体が治ろうとする自然の作用だから。むしろ今までは、苦痛を回避する事が優先されていたんだよなぁ。患者が「痛い」と言えば、とりあえず痛み止めを処方しちゃうような。とりあえず、って居酒屋かっての。
 その半分は医者にとって責任回避のポーズで、残り半分は患者の「自己責任」不足だと思うんだ。大体(他人にどうにかしてもらって当然)なんて間違いでしょ、医者なんて単なるアドバイザーかインストラクターなのに崇め奉るし。シャーマンならともかく…。
 病気は心の悪循環から引き起こされるから、苦痛に共感する優しさで緩和されたりもするんだろうけどね。なーんて考えを根拠もないのに口にすると反感を買うかな、でもそんなの(何を信じるか)だけの話だからねぇ。
 アメリカの一部では、今も「神が7日間で世界を創成した」と信じられてるらしいよ。学校の授業で、そう学ぶ権利だかが認められてるとか? でも何を信じるかは自由なんだもん、科学とかデータを鵜呑みにするのも根本的には一緒なのよ。宗教と。
 僕にとってタバコ自体は害じゃないし、電磁波は有害なのね。結果がどうだと言われても、本当に確かだと信じられるのは、唯一(僕が思っている)という想いだけなんだから。正義とか悪を信じるのも、それぞれの自由だし。
 みんな自分のルールを持っている、その最大公約数が常識ってやつだろう。そいつもまた、よくよく見れば個々の幻想なんだけど。

平成17年2月10日ku70.jpg


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2005年02月10日

69*昔ながらの

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 僕は案外と食べ物に執着しないほうだけど、なぜかラーメンだけは決まった店に行く。
 いわゆるコッテリ系で、20代の頃は週に一度は食べていた気がする。僕らが「道場」と呼んでいたスタジオの近くにあって、バンド練習の帰りに必ず寄っていたのだ。日本を1カ月位離れた時、このラーメンが風呂や和食よりも恋しかった。
 30代を過ぎてからは、月1ペースに落としている。食べ終わった直後は胃が重くなって、何だか具合が悪くなった感じがするし。だけど風邪を引いたと思ったら、真っ先に食べに行くのだ。
 割と人それぞれ自己流の、風邪の治し方ってあるんじゃないかなぁ。僕の場合、ここのミソネギチャーシュー(+おろしニンニク&豆板醤)が引き始めに効くのだ。さらに熱い風呂に浸かって、布団で大汗かいて寝れば治る。一種の民間信仰かもね。
 まぁそんな訳で、風邪薬の代わりに今年初ラーメンを食べに浅草まで出た。なに、チャリで15分だ。
 コンクリの床が油まみれになっているようなラーメン屋ってのは、どこも独自のやり方を持っているよね。口頭注文の後払いだったり、食券の先渡しだったりさ。言葉にしてみれば大した事じゃないけど、実際その店によって決まりが違うから、初めてだと戸惑ってしまうもんだ。
 その日は馴染みじゃない客が多かった様子で、ことごとく客と店員のやり取りがギクシャクしててね。ここの店員は(常連基準の客あしらいだな)って思ったんだ、決め事を分かってる前提で接客してるって。つまりファミレス応接の対極だな。
 でもラーメン屋の、店ごとのルールって(常連が作るんだなー)って気がしたのよ。店が最初から決めてるんじゃなく、馴染みの客が店の雰囲気を出してゆくのね。店員の無駄のない手順を磨いてるのは、大多数の客の動きなんだわ。だから、その手順を破綻させる客が来ると微妙に間が合わない。
 大抵のラーメン屋は「味で勝負」って感じで、売り物以外のサービスは省略傾向だからね。この店に関しては、接客サービスを向上させる方針に転換したような印象もあるけど。スープも万人受けする味になってきたし、お冷や&おしぼりもセルフじゃなくなったし。
 だからって悪い筈がないんだけど、何か詰まらなくなってきた感じがするんだ。とはいえ、僕は常連を気取るほど執着してないので。ただ、門外漢に丁寧すぎる過剰サービスって鼻に付くんだよなぁ。電車とかのアナウンスにしても、分からない人間に気を遣いすぎだよ。消費者の意見なんて、真に受けてたら「イワンのば〇」になっちゃうぜ?
 自分が他所者の立ち位置だと、そりゃあ便利だし楽だよ。でも方向性が違うと思う。

 ラーメン食って胃を重たくして、またちょっと具合悪くなってチャリで帰る途中(そういえばプラモ屋があったな)と思い出したの。で、久々に寄ってみたら「閉店につき特売」の貼り紙でさ。いつも婆さん2人が店番してたもんな、こんな日が来ると思ってはいたが…。
 ホコリと一緒に山積みだった棚が、あらかた売り切れて空っぽでさ。何も買わずに帰るのも気が引けて、ガンプラのカタログでも買おうと思ったら婆さんが「あげるよ、お金を払ったら忘れちゃうからね」って。
 これを見るたび、この店のオバチャンを思い出してくれれば…。なんて殊勝な事を言われて素直に貰ったが、僕は知っているんだ。客が帰ると、買おうが買うまいが婆2人で悪態付き合うのを。大体、非売品の販促カタログに値段なんてないじゃんか。
 きっと今頃「ナァニが『今までお世話になりました』だよ、たまに来たぐらいでサ!」ぐらいは平気な顔で言っているだろう、その元気があれば店を畳んでも長生きするわな。
 だけど、あの駄菓子屋みたいな店じゃないと、ガンプラ買う気になれないんだ。

平成17年2月10日ku69-2.jpg


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2005年02月04日

68*買えなかった欲しい物

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 はや正月も過ぎ去り、今年も(お年玉を遣る機会がなかったナ)と思う。親戚や友人の子供にも会わなかったし、上の妹の子供にはまだ早い。僕の小父さん的人生は、まだこれからだ。
 僕が子供の時分は、焦れったい正月だったな。貰っても、3が日中は店が閉まってて。やっとオモチャ屋さんに行ったはいいが、欲しかった物を買うには足りなくてガッカリしたりね。そういう思い出も、最近では貴重かもしれない。正月だというのに開けている店の多いこと、有り難みがないっていうか。一年中、街の空気に変化がないのね。

 買えなかった欲しい物といえば、レッドウィングのアイリッシュセッターにフライトジャケットのMA−1。アメカジ全盛期に20そこそこだった僕にとって、それは勇気が要る買い物だったんだよ。何故あの頃に買わなかったのか?…なんて後悔はしてない、時期が来れば手にするだろうからね。
 もっともブーツの方は、今の僕には買えない額でもない。それでも少しためらっちゃうのは、きっとまだその時期じゃないせいなんだろう。MA−1は、ますます値上がりしちゃったから…。現行品と違って、すごくゴワゴワしていて重たいんだよねー。

 ところで中学の時、なぜか周りは僕以外みんなスタジャンを着てた。その時は欲しくなかったのよ、流行への反発とか子供っぽく見えるからって。でも大人になって、ふらりと寄った店で目にした途端、当時の僕が自分自身を欺いていた事に気付いたの。自分だって着たかったのに、もっともらしい理由つけて我慢してただけだったのね。
 で、僕はその店でスタジャンを買った訳。春先に売れ残ってた最後の1着で、上質で割安だった。もう冬物はしまい込む季節だったけどね、それでも僕は大いに満足で、袖を通すと中学生の自分に戻った気がしたなぁ。
 大人になった自分の内側で、当時の自分が喜んでいる…そんな感じが嬉しかった。

 話は変わるけど、何年か前からレトロ玩具の復刻品が目に付くようになったね。ソフビ人形とか超合金といった代物を買ってゆく人は、きっと僕にとってのスタジャンと同じ思い入れを持っているんだろう。
 しかしながら、なんで台湾の地方都市にまで出回っているんだ? その手の専門店(というか、正確には日本のアニメ&特撮のフィギュア全般を扱っていた)に日本でもマイナーで古い番組の商品が置かれているのを見て、首を傾げてしまった。
 ひょっとしたら台湾で何年か遅れて放映されたりして、それを懐かしいと感じる世代が多かったりするのか。でなけりゃ、それを知らない最近の世代にとっては逆に新鮮味があるのかもなぁ。
 これも今じゃ昔の話になるけどさ、一時期、古いアニメ&特撮のSFが如何に有り得ないかを書いた本が売れたんだよ。要するに、怪獣とかロボットのデータを真に受けて検証する内容の。
 僕も笑って読んだ側なんだけど、子供の世界に大人が干渉しちゃったような気もしないでもないなぁ。だって、そういう本が売れてから子供向け番組が不自由になっちゃった気がして。大人気ない検証に耐え得る程度には、破綻が減ってしまったような。
 でなけりゃ破天荒で荒唐無稽で奇想天外な世界が不人気なのかなぁ…。とか言って実際に観た訳じゃないんだけどね。
 沢山のルールや法則を意識して作られるSFより、古い作品のデタラメな世界には希望とかロマンがある気はするんだ。…なーんてさ、こういった話は何も今更なんだろう。僕が思いつく以前に、どこかできっと同じように気が付いた人がいる筈だから。
 僕にとっては新しい発見でも、他の誰かは過去に経験済みだったりね。まぁ所詮は人間の発想だから、類型化できない新しい何かなどないわな。
 でも、レッドウィングで始めて昔の子供番組で終わる話を書いた人はいないんじゃないかな?
…いたりして。

平成17年2月3日

posted by tomsec at 20:01 | TrackBack(0) |  空想百景<61〜70> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする