2005年03月27日

74*髪型の自由と不自由2

 前回の続きになるけど、モヒカンにされても同じバイトをしていたのね。
 その頃は「いろんな町で、いろんな仕事」がモットー(?)だったから、どんなバイトでも続いて半年程度だったんだけど…。バイトが任される仕事って限度があるからさ、3カ月もあれば覚える事がなくなっちゃうんだよね。で、ルーティンになってくると飽きるし。
 だから、そのバイトは例外的に長く続いた仕事だった訳だ。仕事もそうだけど、上司(つまりモヒカンにした人)との関係が大きかったと思う。やっぱ人は人のために働く部分があるじゃない? お金のため、以上に。
 まぁそれはさておき、モヒカンの1年後にカツラを買ったのよ。なんでだろう…? 理由はなくて、単に安かったからだと思う。商店街のワゴンセールで、確か2千円だったんだよね。ワゴンにヅラ、というのも阿佐ケ谷らしいよなぁ。
 夏のプールは来場者も多く、毎日ハードだ。仲間内の連携と団結力を維持する名目で飲み会やったり、夜の街に海パン一丁で繰り出したりしてた訳よ。四駆で深夜の東京名所巡りして、雷門や都庁や青学前なんかで写真撮ったりしてね。ブーメラン水着で。
 意味なく買っちゃったヅラが、案外そんな特別な日に活躍したんだな。さすがに安いだけあってダサくてチャチなの、だから洒落で被ったりもしてた。遠方の大学で一人暮らしを始めた友人宅へ行く時なんか、車の助手席に乗せて信号待ちの度に被っては「こんばんわー!」って勢いよく脱いだりしてね。相手が女のコだと、絶叫されたりして。
 あと六本木の路上とか、渋谷ハチ公の上とかでも被ってたっけな。いつも夜中だったけどね(笑)。
 それから何年も過ぎて、すっかりヅラなんて忘れた頃に京都で多くの友人が出来てさ。その一人が上京してくるっていうんで、その時の東京組で出迎えに行ったのよ。新幹線のホームに現地集合、もちろん僕は久々にヅラで。
 そしたら、向こうのほうからアフロのヅラ被ってる男が来る訳よ。よく見たら東京組の一人じゃない、何も打ち合わせてないのにね?! お互いヅラ同士、指さして大笑いだった。しかも両者ともギター抱えてるし…。さすがに他のメンツは、ウケる以前に(どうしたの?!)って顔してたけど。
 結局その時の一人に貰われていって、以降はヅラと縁がない。金髪にもモヒカンにもしないで、風呂場に新聞紙敷いて電動バリカンというスタイルで早10年。自分で切ると言っても丸刈りだからね、大した手間でもないし思いついたら月曜でも夜中でも出来るのが楽でいいんだ。
 ただ、近頃はバリカンも卒業気分なのかな…。僕が、じゃなくて相方のほうがね。充電も効かないし、電源コードを繋いでも歯切れ悪くて。じゃあ伸してみるか、昔の〇リエモンみたいに…? いやいや、それは止めとくわ。買い替える方向で。
 でも安くないんだよな、ネット・オークションで捜してみるかと考えたものの、バリカンは新品じゃないとね。通販で買ってもいいなって思える中古品ってさ、そう多くないかも。古着とか好きだけど、あれも現物を触ってみないと厭だし。
 だけど「ネットで買い物」ってのは、やってみると思ってたより楽しいのね。それで買ったゲームの(もうちょっと悩んでから決めれば良かったかナ〜?)って、買うほど欲しくはなかった筈が思考停止してたのは微妙だけど。楽しいといっても、実際の買い物というよりUFOキャッチャーに近いかも。ダウンロードの快感、みたいな。
 お金はエネルギーだと思うから、溜め込むより流れているほうが良い気がするのよ。でも心にフィードバックする流れを選択しないとね、物だけ増えても涸れてくる気がして。そして、物は増えた分だけ減らさないと。
「部屋は空虚な場所だが、そこを埋めてしまうと、その分だけ動きが妨げられてしまう」
 そんなタオの言葉があったけど、それは比喩であって実際でもあるよなぁ。

平成17年3月26日ku74.JPG


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2005年03月20日

73*髪形の自由と不自由

 僕が金髪にしたのは20歳のクリスマス、初ライブの店でのリベンジ3日前の事。
 まだその頃は長髪の兄チャンしか、髪の色を変えている奴は見かけなかったからなぁ。革ジャンとか着てるならまだしも、波乗り系のトレーナー着て長髪でもないのにプラチナ・ブロンドなのだ。ロックンローラーにも見えないし、かといって他のジャンルにも分けようがない人だったと思う。
 初ライブのほろ苦い思い出を持つ店に、別のコピバンで挑む機会が訪れた。しかも今度はギターだ、ほとんど客は10代の女性だし張り切ってメイクまでビジュアル系で弾きまくった。
 しかし女のコ全員、引きまくったね。自分のソロで最前列まで出ると「キャー!」って、後ずさってくの見て「十戒」かと思ったよ、あの海が割れる名シーンみたいでさ。
 店の人には「ウチが始まって以来の盛り上がり方」とまで言われ、リベンジには成功したけど女のコは誰ひとり近寄って来なかった。

 年が明けて成人式、でも…やたら浮いていた。地味なスーツなのに、背伸びしたがる連中の羽織袴より目立っていたらしい。けれども地元の知り合いは、みんな僕だとは気が付いてくれなかった。仲間内で(あいつヤバそうだから目を合わすな)とか言い合ってたとか、いないとか。
 初めてカラオケをしたのも、その時だった気がする。ボックスじゃなくて、飲み放題で順番に歌う店が出てきた時代だ。知らない連中同士が店中で盛り上がって、なかなか快感だったな。
 しばらくカラオケにハマッたが、コピバンの方は解散に向かっていた。せっかくオリジナルを採用してもらったけど、主導権を巡る駆け引きとかになってきたのだ。まぁよくある話だよね、一人で音楽やってるほうが気楽でいいや。

 金髪ってのは、維持してくのが面倒なのねー。伸ばしてみようかとも思ったけれど、ライブの予定も当面なくなったからなぁ。飽きたし夏だしで短髪に戻って、そしてモヒカンになった。いや、正確には罰ゲーム的に「された」のか。
 泳げるようになりたくてプールの監視員になったものの、そこは体育会系ノリで遅刻厳禁の世界。他の連中は皆近所で、僕だけ1時間かけて通っていたのだ。しかも学生じゃないから毎日で体力的にキツくてね…。
 それに当時はまだ(遅刻なんざ、その分の給料が引かれるだけ)としか思ってなかったし。そんな非体育会な僕は「3回遅刻したら坊主」なのに5回も遅刻して、それで会議の結果はモヒカン。そこの管理を任されていた人は元・美容師だったから、決定即実行と相成ってしまったのだ。
 みんな(コイツ、切られる前に逃げて辞めちゃうな)って顔してたから、敢えてモヒカンに。だけど最初から短髪だから、凸っと冴えない感じになっただけだったけど…。情けなさに、ちょっと泣いたね。帰りの電車も、ラッシュアワーなのに人が避けるし。
 その足で、地元の友人に会った。3日後に伊豆でキャンプをする計画だったから、隠す訳にもいかないし。しかも海でナンパは約束事だったから(違うか)。
 浅草海苔状態の頭を見た彼は虚脱してたが、それでも僕にとっての初キャンプは実行してもらえた。ただし「絶対に帽子は脱ぐな」という厳命付きで、だったが。んで一応は頭にバンダナ巻いて海水浴場に行くの、そんで「あっ、波が!」なんつってモヒ丸出しにしちゃってさ。友人的には気分最悪だったそうだ、そりゃあナンパは無理だしなぁ。
 タクシードライバーみたいなグラサンして、モヒカンにブーメランで、しかもエスニック系のネックレスをジャラジャラさせて…。でも横須賀を通過する時なんて、ヤンキー車が道を譲ってくれたりしてね。そういうのも、なんか得意というより複雑な心境だったけど。
 ところで監視員って水着は必ず競泳用なんだけど、割と簡単に抵抗ってなくなっちゃうもんなのよ。

平成17年1月27日ku73.jpg


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2005年03月12日

72*L.A.からN.Y.へ

 僕の初ライブは,原宿のL.A.という店だった。高校卒業ライブという事で、中学の同級生から誘われたのが2月。僕はベースで、当時の人気バンドの曲をコピーした。よく覚えてないけど、20曲以上だったと思う。1カ月しかなかったのに。
 ベースを買ったのは中学時代で、コピーバンドを始めたのは高校生になってから。でも、いわゆるフュージョン系しか演らなかったのでピックで弾く事から覚えるようなものだった。ノルマのチケットを友人に買ってもらって、彼らの冷やかしとヤジに緊張しまくりで黙々と弾いたっけ。
 ステージでアガッちゃったのは、それが最後かもしれない。初舞台は中学のブラスバンドで経験済みだったけど、客席から名指しで呼ばれて嘲笑されるのは…最初で最後だと思いたいね。
 ま、それはともかく。そのL.A.という店は、地下でプールバーも経営していた。そう、プールバーとかショットバーなんてのが流行り出した頃だったのだ。
 来てくれた友人達は小粋なステージでも想像してたのか、演奏後の言われようは「金返せ」とか散々だった。実際に下手だった上に、店の音響スタッフがドラムにディレイ掛けてドドンパみたいだったしなぁ。
 相手が友人でも、ライブは無理に頼み込んで観てもらうもんじゃあないよなぁ。

 その頃、僕の住む町にもショットバーがあった。街道筋の、旧宿場町の商店街から外れた辺りに木の看板に手書きのメニューが出ていたのね。そんなの今じゃ珍しくもないが、当時は斬新に思えたのだ。
 で、狭い路地を入ると地味な店構えでねー、それがまた気に入ってさ。地元らしいっていうか、流行の先端とは無縁の外し加減が。テーブル1つに小さなカウンター、なぜかBGMはロシア民謡みたいなので、マスターの後ろ髪は常に寝癖ではねていた。
 それまでウィスキーが飲めなかった僕に、バーボンの味を教えてくれた。ウォッカにジン、ラムにテキーラ…。有名ホテルでバーテンダーをしてた割に、ちょっと気が小さそうなマスターの敷居が低いキャラも好きだった。
 高校を出て広告写真のスタジオで働き始めた僕は、手取りは少なくても学生バイトより自由に使える金が増えて、仕事帰りに足げく通うようになった。そしてある晩、親しくなったマスターが「店を畳む」と打ち明けてきた。確かに経営は厳しかったろう、僕が行くと先客がいた試しがなかったもんなぁ。
 ここを閉めてどうするのか訊くと「六本木でホットドック・スタンドを始めるつもりだ」と言う。これも今では普通に見かけるが、早くもミニバンでの移動式屋台を考えていたのだ。見かけによらず行動力があるというか、そういう発想の拡げ方に社会に出たばかりの僕は驚かされた。
 そして数カ月後、今度は僕が「仕事を辞める」と話した。
 先の当てなんてなかったけれど、結構な退職金が出るので思い切って海外に出ようかとも思ったりしていた。たかが1年ちょっとの青二才に50万だ。当然それには会社側の事情があるのだけど、ハタチなりたての僕が未来を夢見るのに充分すぎる金額だった。
 同僚と2人で「N.Y.に知り合いがいるから、屋台でアートっぽい土産物とか売ろうぜ」…そんな本気とも冗談ともつかない話をして、最後の1カ月は過ぎ去った。もちろん現実には、退職金を無為に食い潰すだけに終わってしまった訳だが。
 それから数年が経ち、僕は西麻布で働いていた。
 そして六本木で飲んだりする度、無意識にホットドック・スタンドを捜してはマスターを思い出していた。
 彼は夢を叶えただろうか?

平成17年1月27日ku72.jpg


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2005年03月03日

71*それは理解

 これは「飛蚊症」という奴なのか、時々、小さな埃みたいな影が目の前を横切るのよ。見た感じ、どうやら眼球の裏側にある血管が映り込んでいるみたい。焦点を合わそうとすると逃げてくから、じっと見るのもコツが要るんだけど。
 この(見ないように見る)という物の見方は3D写真に似てるな、あれって交差法だか平行法だか色々あるそうだね。
 ぼんやり見ていると分かるのに、目を凝らすと見失ってしまう。それって何かを思いついた時にも時々あるなぁ。すんごいナイスなアイデアをひらめいて、それを具体的に考え始めると途端に消えちゃうの。
 曖昧なものは視界の外にある…ってか?

 ところで、この宇宙の成り立ちを分化論的に捉えると「クール=冴えてる」って言い回しは絶妙だね。ビッグバンの超高温高圧という状態の塊から冷えてゆく過程で、様々な元素が分かれ出て星になり、更に多種多様な物質へと枝分かれしていった…。
 人の心が、カッとなると全部が一緒くたになるっていう、その逆の仕組みだよね。分かるというのはクールな状態で、言葉というのは切り離す道具なんだ。「アレ」を共有するために、あるいは所有するために「コレ」と違う呼び方をするように。
 ちょっと前、巷では「右脳が偉い」みたく言われてたでしょ。しかしヘソ曲がりは(そうかぁ?)と、ハスに構えてしまうのね。別に右脳は右脳、それ以上でも以下でもない。

 昔読んだ「(スペース)コブラ」というマンガで、視覚と聴覚を入れ替えられてしまう場面があった。…と、いきなり何のコトやら意味不明な話で失敬!
 主人公が、悪役の魔術みたいなのに苦戦するのだ。耳から聞こえる物音や声が図形と色になり、目で見ている筈の物体が様々な音に変換されてしまう…。20年も昔にしては凄い発想だよね、今でも時々ふと思い出してしまう時がある。
 たとえば「脳は脳を知る事ができない」っていう言葉を聞いた時も。

 インターネット上のリンクと検索の機能って、僕が以前にイメージしてた脳内の構造と似てるのね。それは「考え」というのが(頭の中に散らばった情報を、検索条件で呼び出した組み合わせ)じゃないかって思ってたのよ。
 つまり大きな塊としてではなく、小さな記憶が一時的に集合した状態ね。で、検索の号令に呼応する小見出しというか合言葉みたいなのは、いわば招集領域でスタンバってる訳さ。視覚寄りの人間ならアイコンのように、聴覚寄りな人はフレーズみたいな感じで。
 その下に、個人の経験則からリンクの網が関連づけされてるの。つまり、誰かの気持ちとシンクロしても、至るまでの過程は同じ筈がないっていう事。同じ空を見ても同じには記憶されないし(関連付けや比較の仕方が違うから)、同じ歌を聴いても脳の処理は違う流れを辿るって。
 もちろん、そういう僕の想像通りに脳みその仕組みが出来てるって話じゃないよ。でも面白いと思わない? 同じ時間と空間にあっても、君と僕とは孤立した存在だ。共通のルールが、共通の認識で流通している訳じゃない。誰もが、目の前にいる誰とも重なり合わない。
 そんな僕や貴方だけで閉じている回路が、異なる他者を理解する事。その拡がり。まず個であるという認識があり、だからこそ面白がれるのだろうけど。

 しかし、そもそも「考える」という言葉を作った人は、一体どのように物事を理解していたんだろう? あるとき、僕は自分が常日頃「考える」ではなく「考え事をする」ばかりだったという事に気が付いたのね。僕は頭の中で自分の意見をまとめたり組み立てたりしていなかった…と。
 僕の場合、誰かと話すか書くかしないと考えられないのね。誰かに伝えようと言語化して、それを見聞きした時に初めて何かを理解しているんだ。喋ったり書いたりする瞬間まで思いも付かなかった言葉が勝手に飛び出してきて、それが僕を新しい理解へと押し上げてくれるのよ。
 心理学では、人は思考を視覚、聴覚あるいは他の感覚として保存しているものらしい。そして僕の場合は聴覚の比率が高いようで、伝える相手が目の前にいるほうが「クール」になる気がする。

 持論(つまりそれが結論でもある)を他人に押し付ける為に、他人の論理をつまずかせて持論を勝利に導く。それは話し合いとは言えないよね、予定調和のための段取りというか。分からない事柄を分かる事にもならない。
 自分で何が分からないのかを見つけだし、自力でそこを埋めてこそ「分かる」のであって、他の人の意見に誘導されるものであっては意味がないもんね。それじゃあ「分かった事にする」でしかないし。
 そして僕がすでに「分かっている」と思い込んでいる大半は、そのようにして自分自身の心に根付いていない「分かったような」曖昧さの積み重ねで出来ているんだなぁ。

 信じる事は簡単だ、しかし疑う事はもっと容易に出来る(盲信するのは別として)。疑う事と賛同しない事は、大したリスクを負わない、という点で似ているよね。
 どうして世の中は、信じないほうがリスクが小さく出来ているんだろう?

平成17年3月3日ku71.JPG



posted by tomsec at 23:13 | TrackBack(0) |  空想百景<71〜80> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする