2005年05月27日

メキシコ旅情【水源編・11 セノーテ・カンキルチン】

 シカセルを後にして、車は再びホコリっぽくて変化に乏しい一本道を走っていた。
 泳ぎ疲れた上に朝から食うや食わずで、僕は言葉少なになっていた。クーラーなしでスシ詰め状態だから、なおさら苦痛に感じられる。さすがにもう家に帰るだろうと思っていたのだが、次は(地面の下のセノーテ)に行くそうで。そいつは結構なこった、ふぅ…。
 今度はダッヂバンが後ろに付いて来たのだが、さすがのエドベンもくたびれているようだ。日本並みの交通量なら、あわや玉突き衝突…という一瞬でダラケ気分が吹き飛んだ。砂利道のデコボコした上り坂を上がり、芝生の手前で車が停まるとトニーと2人で売店へ一目散。いきなりコーラを一気飲み、空腹と渇きを黙らせる。
 斜面の上に東屋ふうの建物、白い柵の中にロバがいて、ヤシの木につながれた猿がいて、奥には厩舎がある。…なんだこりゃ、ワンパク動物園か? この中途半端な場が妙に可笑しくなって僕ひとりだけがロバを見て笑い、猿を指しては笑っていた。
 その後ろは崖になっていて、らせん状の階段で回り込むと植物園みたくなっている。いやはや何処に行っても、こういう(謎の行楽施設)は存在するんだなー。植物園より下まで階段は続いていて、それは崖下の泉に通じていた。岩盤を押し上げるように、ばっくり口を開けた洞穴は真っ暗で不気味だ。水のゆらめきが岩に映り、幻想的な光の模様がうごめいている。
 またここでもエドベンは「さぁ泳ごう」と言い出した。本当に良いんだろうな〜、神聖な泉なんだろ? 躊躇する僕を尻目に、まったく臆する事無く飛び込むけれど…。水音が洞穴に反響して、光のしぶきが暗い岩肌の上で火花のように弾け飛ぶ。暗がりに浮かぶ彼の首が笑っている。
 水中が確かめられない暗さと、低い天井の圧迫感で気が進まない。とはいえ得がたい機会だし、覚悟を決めて跳んだ。体を伸ばして息が続くまで、真っ暗闇の水中を進んでゆく。体をひねりながら顔を上げると、光の中に立ち尽くしたトニーの顔に笑顔が戻った。
「あー、びっくりしたョ! 水の底に刺さっちゃったんじゃないかと思った」
 手雨からは、奥の岩肌に埋め込まれた金具までロープが張り渡されている。おっかなびっくり掴まり泳ぎで来たトニーに、悪ふざけを仕掛けてやれ。物音立てずに潜行して接近、全力で浮上する勢いでサブーンと腹まで水面から飛び出して「びよぉーん!」と…。ちょっと、やりすぎだったか。
 次は僕がハメられる番だった。セノーテ中央に突き出した岩に登ろうとしていると、岸からエドベンが真顔で叫んだ。
「あんまりそっちに行くな、ワニがいるぞ!」
 僕が恐怖に駆られて、必死で岩の上に飛び乗ると「ウソだよ」と言って彼は笑い転げた。洒落にならないぜ、本当に居そうな雰囲気だもの…。

 他の面々も岩に上陸してきて手狭になったので、僕は垂直飛び込みで水底まで届くか試してみようと思いついた。水中の状態が判らない不安はあるが、最低でも僕の身長より深いし岩から離れればリスクは小さい。とにかくやってみよう、大きく弧を描くように跳んだ。
 しかし思った以上に深く、水圧で頭痛がしてきた。ってことは5mより潜った筈だが、感覚よりも実際は浅いだろう。限界の一息手前で指が砂利に触れて、手探りで何かつかむと焦りを堪えて水面に向かう。見えないものに触った気味の悪さが、恐怖に変わり始めた。
 僕は岩にしがみついて荒い呼吸をしながら、戦利品を光のほうへ差し出す。見れば、ただの小石だ。
「何をしていたの?」岩の上からビアネイが僕をのぞき込んだ。
「水底から石を拾って来たんだ」
「マヤの財宝は見つかったかい?」
 トニーはふざけてそう言った。僕は「いいや」と答えて、小石は泉の中へと帰っていった。

 帰り支度をして空を見ると、一面の曇り空から雨が降り始めた。いつものジュビアらしからぬ、まるで梅雨のようなしとしと降りで奇妙な感じだ。馬小屋の傍らに建てられた、切り妻造り風の東屋に避難して雨をやり過ごす。
 その間トニーと僕は、木立を伝って雨を避けながら気晴らしに歩いてみた。気配のない厩舎は静かに濡れて、うら寂しい眺めだ。
 間もなく雨は収まってきて、慌ただしく車に乗り込むとセノーテを後にした。

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メキシコ旅情【分水嶺・1 始まり】

 ベイビー・ベイブの家は近くないので、トニーが電話でタクシーを呼んだ。で結局、僕も同乗する羽目になってしまった
 距離もそうだけど、16歳の彼女が歩くには街灯が少な過ぎる。トニーは「危険区域だから」と言ってたが、確かにエドベンの家の辺りからちょっと走っただけで通りの雰囲気が変わった。
 タクシーを降りるとカンクンの町外れで、陽が落ちただけで真夜中のように深閑としている。郊外の幹線道路沿いだから、昼間ならもっと開放的な家並みだと感じたかもしれない。
 何か引っ掛かる…。タクシーから降りて、僕は訳もなく緊張していた。実は車中でも道順を覚えておこうとしていたのだが、もう大雑把な見当も付かなかった。
 門も柵もない白壁の平屋建て、アメリカの片田舎にでもありそうな家だ。ベイビー・ベイブは扉を開けて、僕たちを中へと促した。この家の中に足を踏み入れるのには、なんというか、勇気とか覚悟が必要だった。何に腰が引けてるのか自分でも不思議だけど、今すぐ逃げ出したい気持ちは一向に収まらなかった。

 リノリウム張りの床の一角に毛布が敷かれ、その上にアマカが吊ってある。危険を示す兆候は、どこにもない。毛布の上で四つん這いになっている赤ちゃんを抱き上げ、ベイビー・ベイブは奥の部屋に声を掛けた。顔を見せたマッチョな兄に僕らを紹介してくれる。筋肉質で焼けた肌の、リーゼントの似合うお兄さん。
 その背後から次々と荒くれ者が、ぞろぞろ出て来て僕らを取り囲み…というのは考えすぎというものだ。僕は、どうやら取り越し苦労が好きなのだろう。こっちは今すぐサヨナラしたいのに、トニーはマッチョ兄と世間話を始めて、しかも家の前で待たせていたタクシーを帰してしまいやがったのだ。ナニ考えてるんだ?! もはや逃げようもなかった。
 ここでも僕は、例のマカレナを踊る羽目になった。これも浮世のしがらみよ、旅の恩人トニーへの義理を果たすためならば。でも、マッチョ兄はこれから仕事に出掛けなければならないのだという。もうすぐ帰れるぞ! 顔では残念そうにしておく。トニーと僕は、マッチョ兄と握手をした。
「ゆっくりしていってくれよ、アミーゴ」
 多分、彼はそんなことを言ったのだと思う。白のランニング・シャツにジーンズ、リーゼント・ヘアの兄は、その格好で出勤だ。どんな種類の仕事なんだい?…なんて訊ねる気はない。
「アディオス」とトニーが言って、僕が「アスタ・ラ・ヴィスタ[またね]」と言った途端、兄は急に振り返って僕を指差し不敵な笑みを浮かべた。
 何かまずかったか? 死ぬかな…。
「ベイビー?」
 兄は、そう言った。語尾が上がったのは、疑問形だからではなく「ターミネーター2」ラスト・シーンの名台詞だったのだ。トニーと彼女に言われるまで、そうと気づかなかったが。
 日本語字幕では「地獄であおうぜ」と訳されていた。アスタ・ラ・ヴィスタ・ベイビー!
 兄は力強く親指を立ててみせ、満足げにドアを閉めたのだった。
 冷や汗をかいた。悪い冗談だぜ、誰が地獄で逢うもんかい。

 さて、人心地ついたところで帰りますか! と切り出そうとしたら、ベイビー・ベイブが「僕の髪を切る」などと言い出しやがった。まぁまぁ今夜は何だから、と一笑に付してしまおうとすると間髪入れずにトニーも同意した。もぉー、みんなバカバカッ!
 タクシーの中では「すぐに終わるから」と言われてOKしちまったが、やっぱ気が変わったので帰ります…と言う前に彼女は素早く支度に掛かり、半ば押さえ付けられるようにして僕を椅子に座らせた。準備、なんてものじゃあなかった。僕の首に白布を結んで、食卓の前にハサミを並べただけの事だ。
 トニーが、テーブルの向かい側に座って楽しそうにこちらを眺めていた。すぐに終わる、と言う。どうにでもなれ、だ。これじゃあまったく体のいいオモチャだ、っていうか当て馬か。どこまで彼に義理立てすりゃあいいんですかね?
 時々、トニーはスペイン語を通訳しながら彼女と僕との間に会話を作る。気を使ってくれているのかも知れないし、彼自身が退屈なのかもしれない。他人の恋路を邪魔してないのに、馬に蹴られてしまった気分だ。
 左側に赤ちゃんとアマカが、右にキッチンがある。トニーの背中越しに玄関、僕の正面は奥の部屋に通じているらしい。あまりほめられた習慣ではないが、僕は頭の中で最悪の筋書きを幾つも思い描いていた。いざとなったら力づくでも逃げる気で、あらゆる方法を考えているのだ。
 やがて左奥の部屋から誰かが出てきた。太った女性で、彼女の母親だろうか。寝起きみたいで、不機嫌そうに見える。ベイビー・ベイブが振り向いて話しかけたが、その声の調子が上ずっているように聞こえた。思い過ごしだろうか。

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メキシコ旅情【分水嶺・2 恐怖】

 僕の不可解な胸騒ぎは、一向に収まらない。
 その女性はベイビー・ベイブの呼びかけを無視するように、渋い表情のままトニーの隣に腰を降ろした。そうしてしばらく僕らの様子を観察していると、顔色を変えずにトニーと話をし始めた。
 僕はその女性を見つめ、いつでもすぐに応じた動きが取れるようにそっと身構えていた。
 ベイビー・ベイブは僕の髪を切りながらトニーに話しかけて、彼は僕に「この女性はお姉さんで、21才なんだって」と説明してくれた。21だって!?…とても信じられなかった。〈魂の抜けがら〉という言葉があるけれど、まさにそうなのだ。得体の知れない悪寒が、背筋を駆けのぼってきた。
 この姉は奇妙な動作を繰り返していて、それが余計に薄気味悪かった。手に持ったプラスチック容器のふたを開けては鼻に近づけ、うっとりと匂いを嗅いでいるのだ。その容器は白い、薬品のビンの形をしている。僕は、姉の目線が何も見ていない事に気付いていた。アルコールか?
(トルエンか…)そう思い至って、僕はぞっとした。あの表情の無い、うっとりとした目付きに激しい恐怖を覚えた。ひざが震えてきて、ベイビーベイブに気づかれないよう必死に抑え込む。
 この人は、廃人だ。
 有機化合物の中毒者ならば歯を見れば分かるはずだけど、その時の僕はそんな冷静さよりも、どうやって冷静でいるかで頭が一杯だった。一刻も早く、そして無事に帰りたかった。

 トニーと姉の会話が続いていたが、彼の様子はどこかぎこちなさそうだ。スペイン語が解らない僕からも、たたみかける姉に苦戦している彼の表情は読める。僕の不安げな視線や顔色に気付いたのか、彼は弁解でもするように言った。
「あのね、『君は日本人か』って訊いてくるんだよ」
 そんなこと、わざわざ僕に尋ねるまでもなく教えてやればいいのに。僕が「ハポネス」と返事すると、姉は異様に興奮してトニーに向かって何やらまくし立て始めた。ベイビー・ベイブまで手がおろそかになってきて、よく判らないけど決して良くはないムードが盛り上がっているのが分かった。トニーの微笑は、もはや顔に張り付いた仮面のようだ。
 彼に通訳してもらって、僕はベイビー・ベイブに「きちんと切ってくれ」と頼んだ。すると彼女は僕を一瞥し、無造作に白布を手渡してきた。顔や首筋に付いた細かい毛を、自分で払い落とせって事かよ。…って、何かと思えば丸めた肌着じゃあねぇのかコレ?! 彼女は洗濯カゴから、そいつを拾い出したのだ。おいおい、そりゃないだろお嬢ちゃんよー。
 手動バリカンで切り落とした髪が、首から上に張り付いている。こすり取るようにして毛を払っていると、肌着の汗臭さにげんなりしてきた。毛穴から雑菌が入らないように祈ろう。しかしまぁいいさ、今回だけは勘弁してやるとも。今はそれどころじゃなかった。
 テーブルに身を乗り出した彼女の、カラフルなストライプのスカートが右手の前で揺れている。僕は、すっかり会話に加わっているベイビー・ベイブの尻を撫で上げた。
「ハリー・アップ、ベイビー!?」
 そう言って軽く睨むと、彼女は顔色ひとつ変えずに無言で僕を見下ろした。(結構したたかな女だ)と舌を巻きつつ、口実を見つけてから尻に触る自分にも嫌気が差してきた。

 藪から棒に、トニーが日本語で話しかけてきた。
「ちょっと困ったヨ、お姉さん『お金欲しい』て言ってる。日本人、お金持ってるから、と思ってるから…。彼女、ちょっとおかしいみたい…。」
 トニーと僕は、周囲に知られたくない話をする時には日本語を使うのだった。彼女達が英語を知らなくても、単語によっては伝わる恐れがある。声色や顔色を読まれないように、僕は作り笑いで応じた。
「うん、そうだねぇ。どうしたらいいかなぁ、わはは。」
「よくないネ。断ったけど、お姉さんしつこいヨ。ちょっと、怖い。」
「じゃあさ、少しあげるー? 髪切ったお礼に。」
「それすると、もっと大変。僕達ガイジンだから、問題、良くない。それにお金ないでしょ、あんまり。」
 笑いながら深刻な話をするのは、なかなか難しいもんだ。それでも陽気な声を出していると、なぜか自分の置かれている立場がさほど厳しくもないと思えてきた。僕らは日本語で秘密の会話が出来るし、協力して解決の糸口を見つけられるのだ。このことが、僕のこわばった体をほぐしていってくれる気がした。
 とにかく実際に持ち合わせが無いのだから正直に言うしかない。トニーは、なんとか笑顔を装って姉を説得している。彼のジェスチャーが普段よりも大振りなので、それを見ているだけで話の持っていき方がよく分かった。何の役にも立てない自分を不甲斐なく感じながらも、僕は無性に腹立たしくなってきた。
 だって考えてみれば、彼に頼まれたから付いて来てあげたのだ。しかもマカレナ踊って髪切りの練習台になり、その挙句にこの騒ぎときた。とはいえ、彼の孤軍奮闘を黙って見てるだけというのはもどかしかった。
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メキシコ旅情【分水嶺・3 月蝕】

 再び姉が興奮気味に何か訴え始めたが、今度はちょっと楽しそうだ。僕は警戒する。
「明日パーティしないかと言ってるヨ。」
「うーん、任せるよ。トニーはどうしたいのさ。」
 やっとリラックスした雰囲気になってきたな、どうやら彼はOKしたんだろう。そりゃあ何か考えがあっての事とは思うが、余計にマズイ事になるんじゃないのか…? まぁいっか、次こそ僕には関係ない話だ。
 やがてベイビー・ベイブはハサミを置き、僕の首から下を覆っていたケープを外した。シャワールームを指さしてバスタオルを寄越す。どうやら終わったらしいが、当初の「10分で」という話が2時間以上もオーバーしていた。
 ドアを閉め、そっとタオルの匂いを嗅いでみた。よかった、洗いたてだ。やっぱりこの家も水シャワーだったが、冷や汗も脂汗も洗い流して一息ついた。リビングに戻ると、ベイビー・ベイブが手鏡で出来上がりを見せてくれたが…僕は絶叫したくなった。
「こらーっ! コレのどこが〈カンクンで一番クールな髪形〉なんだよっ!!」
 みんな、上出来だと言いたげな顔をしていやがる。ふざけるな、だ。他人の頭だと思ってさー。これならまだボサボサなほうが全然ましだった。古代マヤ人はともかく、現代世界でこんな頭は僕ひとりに決まってる。
「やり直しー!!」
…って言ってやりたかったけど、これ以上ここにいる気は毛頭ないのだ。
 この際もう髪形なんて後回し、僕は帰るもんねー。そうだ帰るのだ。そんで二度と来ないもんね。玄関で見送るベイビー・ベイブを尻目に、僕らは早々と立ち去った。

 夜中の、車通りの少ない幹線道路を横切りながら僕は尋ねた。
「トニーは本気で明日のパーティに来るつもりなの?」
「冗談じゃないョ。行くもんか」
 トニーは、微笑の下に抑え込んでいた感情をぶちまけ始めた。
「知らなかったョ。お姉さん、すごーいアブナイ! 明日もし行ったら、お兄さんも、近所の連中も待ち構えてる。『ディネロ[お金]、ディネロ』って、まるでゾンビみたいに!」
「おーコワ! それにしても、あのアブナイ姉さん、まだ21だって?」
「そう、信じられなーい! モンスターみたいだった」
「トニーの(可愛いベイビー)も、あと4年でモンスター…」
「うわぁおぉ! そうだ、四年後には♀×○△□♂?!」
「あっはっはっはっはっははは!」
 恐怖とか緊張が無事に通り過ぎて行くと、中和作用なのだろうか、その後に訳もなく笑えたりするらしい。へべれけに酔っ払ったように大声で無茶苦茶な事を言って、僕達二人は腹が苦しくなるまで延々と笑い続けたのだった。
 ふと気付くと夜空には、不気味な球体が浮かんでいた。

「トニー、見てよ。ありゃ一体なんだろうね」
「おぉ、そうだった。今夜はエクリプスだ」
 エクリプス? 何だっけ、月蝕か…これが?…。
 あまりにも奇妙な光景だった。それは月なのだろうけど、にしちゃあ異様に大きかった。輝きのない、のっぺりと灰色味がかった巨大な球体が宙に浮かんでいる。マグリットの描いたシュールな絵の世界そのままだ。
 僕は生まれて初めて、月蝕を観た。
 しかし、TVや写真で見たのとは大違いだ。大体、こんなの月じゃない。握りこぶしよりも大きくて、ウソみたいに表面の地形まではっきり見えている。これが偽物じゃないとすれば、ひょっとして…月の軌道が狂ったんじゃないのか?!
 どうしてトニーは驚きもせず、平然とそれを無視していられるのだろう…? これは幻覚なのか、僕は自分が狂ってしまったんじゃないかと不安になる。それくらい圧倒的に生々しくも静かに提示された、現実を超越した神秘の象徴。

 車通りの少ない夜のセントロ郊外にしては運良く、僕らはタクシーを拾うことが出来た。
 乗り込んだ途端、思わず無口になってしまう。今起こった事、これから起こるかもしれない事…。頭の中が収集つかなくて、何も考えたくないのに。
 エドベンの家に近くなってきて、トニーが道筋を運転手に指図している。ところが、肝心な所をなぜか日本語で言ってるのだ。彼も相当、参ってしまったのだろう。けど笑える。
「トニー! 今、スペイン語と日本語を使って話していたよ」
「そうか? どっちも似てるから、とっさに使い分けられないんだよ」
「似てないよー! スペイン語の中に、日本語で『左に曲がって』とか言うからさぁ、運転手が変な顔してたぜ?」
 余計に可笑しかったのは、運転手が訝しげに首をひねりながらも道を間違えなかった事だ。明らかに通じてなかったのに、不思議だ。
 僕らはメルカドを越えたあたりでタクシーを降り、10時を過ぎて眠りについた住宅街を歩いた。誰もいないし、何の音もしない。僕らの虚ろな声だけが響いている。
 そして月はやっぱり奇妙に、ペッタリと町を照らしているのだった。

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メキシコ旅情【分水嶺・4 ドミノ】

 やっと戻ってきた。
 なんだか長くここを離れていた気分だ、まるで自宅のような懐かしさを感じる。そんな居心地良さを満喫する間もなく、トニーは僕を屋上へと誘った。
 危なっかしい階段を上ると、エドベン一家が「お月見」をしていた。といっても日本式の喧しい宴会じゃなくて、静かに語り合ったりして月蝕を眺めているだけだ。ディエゴが大声で「ギターロ」と言いながら、階下からガット・ギターを持ってきた。僕は、なんとなく月を見上げながらギターを適当に爪弾いてみる。
 そよそよと漂う風、夏の夜の匂い。
 ママの笑い声、落ち着きのないディエゴの影。パティが月を指差して、僕に話しかける。スペイン語だから分からないけど、月蝕に関してなのだろうと思って(僕は、初めて見るんだよ?)そう仕草で応えた。
 こうしていると、さっきまでの恐怖も空虚さも悪い夢だったように思えてくる。そっと頭に手をやると、やっぱり坊主頭に2ミリ厚の鉢をかぶせたような髪の感触があった。あれが夢であってくれたらなぁー、でも済んだ事だ。とにかく僕は、こちら側に戻って来れたのだからな。
 それにしても、月はいつまであの姿なのだろう。
 どうして、誰ひとり驚かないのだろう?

 エドベンの運転でセントロに繰り出すと、静まり返った真夜中の一角に明るい賑わいを見つけた。さすが地元だ、表通りを捜したって分からないな。今度は白いフォルクスワーゲンじゃなく、青いゴルフに乗っている。助手席にロレーナが座り、後ろはトニーとビアネイと僕でぎゅうぎゅうだ。そしてパパの愛車と同様、この車もまた結構なパーツが足りてない。
 やっと一軒のレストランの前に駐車スペースを見つけた時、すごい勢いで雨が落ちてきた。
「ジュビア[雨]!」と誰かが言った。水滴の機銃掃射をかいくぐり、みんなでレストランの玄関へと走り込む。
 店内には大きな音で70年代ソウル・ミュージックが流れていたが、外の轟音に客達は振り返っていた。この奇抜な頭髪に注目してる訳じゃない、そう判っていても衆目にさらされているような気分になる。
 多くは観光客なのだろう。ほぼ満席だったが、なんとかボックス・シートに陣取って各自ビールを注文した。「サルベッサ」というのは有名なビールの銘柄なんだろうと思っていたけれど、実際にはビール自体を指す言葉だった。好みはあれど、人気銘柄は「スペリオール」らしい。
「サルー[乾杯]!」
 エドベンがドミノを持ってきたので、遊び方を教えてもらう。この店には幾つかのテーブル・ゲームが置いてあって、カウンター席の白人カップルはモノポリーを楽しんでいた。大抵の日本人は(倒すもの)としか思ってないよな、本式のドミノは僕も初めてだ。
 この夜、エドベン達から教わったドミノの遊び方は、こういうものだった。
 ドミノは長方形で、ちょうどサイコロを二つ並べた状態で片面のみ1〜6個の点が二ヶ一組に打ってある。それを裏返してかき混ぜ、プレーヤーに均等に配分する。それぞれ手持ちの中から一つを表にして、その数の合計が最も大きいプレーヤーから時計回りで並べていく。
 最初のプレーヤーは何を置いても良いが、次からは両端どちらかにつながる数を置かなければならない。両端が仮に3と5で、自分の手にしているドミノが1と6なら、5の縦か横に6を付けて並べるしかない。つなげられなければパスして、とにかく自分のドミノを早く並べ切ったプレーヤーの勝ちだ。
 手ほどきを受けたばかりの僕は勝てなかったが、グラス片手にゲームに興じるのは楽しい。ビアネイは目を輝かせ、エドベンは余裕しゃくしゃくで、ロレーナはポーカー・フェイスを気取っている。テーブルに縦横に並んだドミノは、黒い斑点をまとった蛇に見える。
 二杯目のサルベッサを空けて、僕はトイレに立った。

 エドベンに教えられたとおり、U字形のカウンターを回り込む。店内から奥まった通路は、内装が途切れてコンクリートがむきだしになっていた。不気味だ、すぐにでも後ろに飛びずさる覚悟で角を曲がる。
 音楽がかき消される程の雨音がした。びっくりして天井を見上げると、どうしてなのか謎だけど、約2m先で廊下が寸断され、雨がぼしゃぼしゃ垂れて音が反響していたのだ。タイル張りの明るいトイレは、離れのように奥まった場所にあった。何なのだ、この造りは?
 うるさく響く雨の音を聞きながら(そういえばメキシコに来て初めての雨だ)と思った。

 何回目かのドミノ・ゲームの後で、エドベン達は、ニヤニヤしながらイカサマを白状した。
 僕はそういったテクニック以前にルールさえしっかり理解出来ていなかったので、言われたところで気にも留めずに一緒になって笑っていたのだった。だけど「お金を賭けて巻き上げるつもりだった」とまで言われた時にゃあ、いささかムッとした。
 それからもう一杯サルベッサを飲んで、店を出る頃には雨は上がっていた。
 月は、もう見えなかった。
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メキシコ旅情【分水嶺・5 新しい季節】

 昨日は本当にくたびれた。やけに随分と、いろんな事が濃縮されていた気がする。夜遅くまで、見事にムラなく濃かったなぁ。うんうん。
 そうやって未消化の雑多な経験を反すうしながら、うとうとする。今朝は、僕もトニーと同じく10時まで熟睡していた。クーラーの温度も気にならない位、まだまだ眠たい。
 アマカは腰に重心がきてしまい、一晩じゅうV字に折れ曲がってて腰が辛くなる。そんで改めて簡易ベッドに寝てみたものの、寝心地の悪さは同じだった。これからずーっと快眠不可か…なんてこった!
 仰向けになって、寝転がったまま昨日の日記をつける。そして、ちょっと今日はのんびり過ごせると良いな、と思う。

 昨夜の雨は、カンクンに雨季の到来を告げた。
 トニーの話によるとユカタン半島一帯の気候は、だいたい9月から11月に1年分の雨が降り、他の時季はほとんど降らないらしい。こりゃまた運の悪い時期に来ちまったな。
「そんなことないよ、今がベスト・シーズンなんだ」とトニーは言う。
「8月は本当に暑かったんだから! エドベンは仕事で忙しいし、一人で出歩くのも退屈だし、夏場は暑すぎてなんにもする気にならなかった。君が来るまで、いつもこの部屋でスペイン語の勉強していたよ。今はちょうど良い季節だ、雨のおかげで気温が上がり過ぎないから快適な日々を過ごせるだろう」
 夏の暑さに耐え切れず、彼は自腹でクーラーを付けたのだ。思ったより高い買い物になったと言っていた。日本なら最新型が買える額、だったとか。
 12月になると雨季を越して過ごし易い晴天が続くのだが、メキシコじゅうがクリスマス休暇になる。3月から4月頃にもイースター休暇があって観光地は混みあい、料金が高くなるという。
 つまりカンクンは年中観光シーズン、という訳だ。夏にカリブ海の高級リゾート地を訪れる外国人、クリスマスにやって来る国内の上流階級、そのすきまには僕みたいなのがうろちょろする。
「雨季といっても、梅雨のように毎日降り続く様なものではないから大丈夫だよ」トニーは僕にそう言った。
「スコールと同じだよ。違うのは、朝方とか決まった時間に降るんじゃなくて、昼でも夜でも気まぐれにザァーッと来るのさ。すぐ行ってしまうんだけど」
 今朝の空も晴れあがっている。

 ママのコミーダを食べ過ぎてしまった。僕がデリシオーソ[素晴らしい]を連発して、ママを喜ばせ過ぎたようだ。おかわりを勧められ、つい断れなくなり平らげてしまった。消化が進むまで、ちょっと休んでいこう。あまりに苦しくて、身動きも取れない有り様だ。
 ビニールのテーブル・クロスにひじをついて、ママ達と一緒になってTVを見上げる。思い入れたっぷりに「トイジョ〜♪」と歌うテーマ曲が可笑しくて、見入ってる2人に遠慮して笑いを堪える。ト・イ・ジョ=貴方と私、タイトルからしてメロドラマ。
 そこにトニーが来て、ママは彼のコミーダも用意しようと立ちかける。が、彼がやんわりと断ったので機嫌を損ねてしまった。「外食ばかりじゃ体をこわすよ!」とか文句を言っても、彼女の表情には気遣いがある。やっぱ(大家族の肝っ玉かあちゃん)だよなぁ、と思う。
 突然、トニーが僕の肩に手を置いた。「上の部屋に行こう」
 訝しく思いながらも、ママにお礼を言って席を立つ。相変わらず、単語を並べただけの片言スペイン語だ。ママは満足そうに頷いて、トニーに「ずっと勉強してるアンタよりか、よっぽど上手に話すじゃないか」と毒づいた。
「みんな意地悪を言う。君は人気者だけどね」彼は冗談交じりに嘆いてみせ、ガレージを横切って2階へ。

「ねえトニー、何か用でもあるの?」
「子供たちと『トイ・ストーリー』を観るんだ」
 事もなげに言うので、僕は面食らった。だって昨日の晩、子供達はそれを観てたんじゃ…?
「あ!!」
 トニーは部屋に入ろうとして、まんまとヨーディの置き土産を踏み潰したのだ。僕が笑い転げている間に、彼は悪態を吐きながらシャワー室でスニーカーを洗って、外のバケツに溜まったクーラーの水を撒いて入口の痕跡を流した。そして何事もなかったような調子で、部屋を片付けながら話を続けている。なんか…やっぱり不自然だ。
 僕が気にかけていた事を口にすると、トニーはあっさりと言った。「観てないよ」
「だって…」と言いかける僕を遮るように、彼は声を潜めて日本語で話し始めた。昨夜、僕らが出掛けてから部屋に来た近所の子供達は、ビデオを観るどころかママやロレーナに追い返されていたのだ。
 それはちょっと驚きだった。だって連中はディエゴやジョアナの遊び仲間じゃん、それに陽気なママがそんな事をするなんて…?! しかし子供の出歩く時間じゃなかったし、トニー本人が不在なのに大勢の子供があがりこんでいれば無理からぬ話だ。ママ達に話が通ってなければ尚更。
 トニーは、じれったそうに再度「彼女達は、自分の家の子供が、近所の子供達とかかわる事自体が嫌なんだ」と言った。

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メキシコ旅情【分水嶺・6 セントロ】

 昼すぎ、僕はトニーと買い物に出た。ビアネイも一緒だ。
 セントロまでの道筋は、すっかり頭に入っている。トニーが好んで使う道順も覚えているし、この辺の位置関係はおおよそ把握していた。ちょっと地元の人になった気分。
 僕達三人は、英語で他愛ない話をしていた。歩きながらのせいか、ビアネイの部屋でよりも会話が負担に感じられる。トニーはネイティブ・スピーカーだし英語の先生だから平気だろうけど、僕にとってビアネイのスペイン語訛りを聞き分けるのは難しい。
 例えば、ビアネイが「star」と言うと「スタール」にしか聞こえないのだ。スペイン語でRを発音される度に、僕は彼女に何度も聞き返す羽目になる。何度でも陽気に答えてくれるものの、会話の腰は折れっ放しでボロボロだ。
 スペイン語訛りの彼女と話していて、昔観たアメリカ映画の中国移民の英語を思い出した。トニーと二人で話していると気付かなかったが、自分の英語もアジア系の訛りがひどいもんだ。だからって恥じてる訳じゃないけど、話すのも聞くのも疲れた僕は会話から外れて歩いた。

 トニーが「暑いし、喉が渇いたので『マッダーノゥ』に入ろう」と言った。何?…あぁ、マックの事か。
「こっちの店は東京のよりデッカくて、敷地内にプレイランドがあるんだぜ?」
 なんだか彼は、僕の好奇心をあおってるみたい。退屈そうな顔をしていると思ってなのか、それともマックに行きたくなさそうな僕の興味を引こうとしているのか。
「子供の遊び場を設けるなんて、面白いアイデアだね。無料なの?」と、僕。
「もちろん。でも君はダメよ、大人の体重じゃ壊れちゃう」って、当たり前だ。
 僕もこの真昼の暑さに慣れてきたな、それでも店内に入るとクーラーで生き返る。ちょっと効き過ぎで、一瞬ゾクリと総毛立った。三方がガラス張りで、照明なしでも眩しい。注文カウンターの反対側に、半屋内の遊び場が見える。人工芝の上に、平日のせいか寂しげなアトラクション。
 僕はまだ腹ごなしの途中なので、ホットコーヒーを注文する。妙な顔をした2人に「僕の体は、冷えると調子が狂うんだ」と説明した。ランニングシャツから出た両肩は、もう冷たくなっている。ハワイでもそうだったが、南国では室温20℃以下がマナーか? こればかりは馴染めない。
 トニーがフライドポテトを勧めてくれる。小さなカップにケチャップが入っていて、僕は(言えばくれる)とは知らなかったので驚いた。笑いながらビアネイが「でも、これはないでしょうね?」と言って指さしたのは、ケチャップと同じパックのハラペーニョ・ソースだった。カップにあけると、とろりとした緑色をしている。思ったほど辛くはないが、これは悪くないな。
「デリシオーソ」と僕は言った。
 ハラペーニョの実体は辛いピクルスの様なもので、僕は日本での夏の間じゅう取り憑かれたみたいに食べていた。ご飯に山盛りで「ハラペーニョ丼」などと命名して本人ご満悦、家族に呆れられていた位だ。
 ビアネイが軽く肩をすぼめて、満足そうに微笑んだ。トニーは僕にブラジルの「ご当地メニュー」の話をしてくれる。

 目抜き通りはトゥルム通りといって、他にもウシュマルとかコバといった近隣のマヤ遺跡からとった名前の大通りがある。トゥルム通りは、コバ通りを越えて16q南下すれば空港、更に行けばユカタン半島の付け根まで延々と続いているのだ。
 南北それぞれの大通りに交わる中心の緑地帯には、小さなモニュメントが建っていた。メキシコは右側通行なので、交差点を通過する車は反時計回りで行きたい方向に車線変更してゆく。まさにロータリー、渦巻くような車の奔流。僕の運転じゃ無理だ。
 信号や横断歩道が多くはないからって、歩いてても不便とは感じない。この町の空気や、ゆるやかな時間の流れのせいかもなぁ。のんびりと気取らない田舎町の風情、それでいて安旅行者の求める快適さは充たしている。道路事情を比べても、文化の由来や社会構造の違いを感じた。
 気安いセントロの街並みは「国際的観光地の金看板は新しいホテル地区に任せてちゃって、こちとら相変わらずローカル相手の肩肘張らない商売をやるんだもんねー」とでも言いそうな雰囲気があって良い。
 そういえば夏前、駅貼りの〈常夏のカリブ海! カンクン4泊5日〉とかいうポスターを見てたっけ。まだバイトもせず、可能性ゼロだった頃だ。あんなツアーだったら、今も溜息と共に見上げるだけだったな。その半額よりは多いけど、こうして僕はここにいる。
 写真で見る限り、ゾナ・オテレラはホノルルみたいな感じだった。行ってもいないで決めつけは良くないか、でもリゾート歓楽街にしか見えない。そういう場所に僕が宿を取っていたら、とっくに荷物をまとめて帰国便だろう。
 四日目なのに、気が付けば僕はずうっとここに滞在しているような錯覚さえ抱いていた。しかし幸運な事に、まだ一週間も経っていないんだ!

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メキシコ旅情【分水嶺・7 試練】

 スペール・メルカドで、僕は靴下とバスタオルを買った。まさか靴下が必要とは思わなかったが、トニーがクーラーの温度を下げたがるのだ。居候の身、あまり文句ばかりも言えない。
 笑ったのは、大きなワゴンに便座が山積みされていたことだ。そんな光景も珍しいけど、裏を返せば需要があるって事になる。どの家庭でも便座は消耗品なのか、それとも別売りが当たり前?
「ほら見て、便座売ってるよ。買わないの?」
 せっかく教えてあげても、トニーは全然興味を示さなかった。そりゃ毎日の事だ、慣れれば不便もくそもないか。放っといたって出てきちゃうしなー、便座の一つがなくたって。

 あの部屋のトイレとシャワー室は、日本の常識では試練だ。
 まずドアがない。カーテン代わりに吊ってあるラグの向こうに便座がない便器、右のシャワーは仕切りもバスタブもない。それ以上に、お湯がない。トイレにはペーパー・ホルダーもないので、床に置いてあるトイレット・ペーパーがシャワーの水を吸って大変な目に遭ったりする。
「座れない洋式トイレ」というパラドックスに、とりあえず僕は腰を浮かして対処している。いわゆる「空気椅子のポーズ」だ、ヨガだな(本当かよ)。トニーも最初は面食らったのだと言うが、一体どうしてるの?
「便器の縁に足を乗せてジャパニーズ・スタイル、これは滑り易いから止めたほうがいい。無難なのは、縁に紙を置いて腰掛ける方法だろうね」
 そのアドバイスに、試したばかりの「空気椅子のポーズ」を提案すると彼は大爆笑して「まるでカンフーの修行だな」と言ってまた笑い転げた。
 しかし、一番の問題は…やたら水が止まる! これはキビシイ。断水の理由は明快、二階全体の水を賄っている給水タンクが小さすぎるのだ。階下のママに言って専用蛇口を開いてもらわないと、ただ待ってるだけじゃあ復旧しない。
 つまり、トニーがいない時は自分で階下まで言いに行かねばならないのだ。泡だらけでタオル巻いた格好で階段往復するのは序の口、うっかり大きいの出ちゃったら…流せる水が溜まるまで、部屋じゅう臭い充満の刑だ。て言うか、外を通る人にもバレバレだし! 何故こんな目に?! なんか悲しくなる。
 でもここは川のない熱い国だ、水の事情は大いに違うのも想像に難くない。いや、むしろ日本が例外なんだろうなぁ。現実に「食糧危機の前に水の奪い合いが起きる」っていうし。

 買い物から帰るとビアネイの部屋に直行、僕らのコーラとハーシーズ・ミントチョコを冷蔵庫に居候させてもらう。どうせ僕らの胃袋に引っ越すまでの、ほんの短い仮住まいだ。
 トニーがティミー達を誘ってインライン・スケートでホッケーをしている間、僕は再びポストカードを書いた。昼前に、近所の子供達とビデオを観ながら書いた分を足すと11枚もあった。頭がぼぉっとなってきたし、昼寝でもしようかという所にトニーが帰ってきた。もう夕方かぁ。
 屋上で洗濯物を取り込みながら、陽が傾いた空を眺める。ふと、ある疑念が脳裏をよぎった。
(ベイビー・ベイブは今夜、僕達を誘いに来るんじゃ…?)
 暗い沼底から、音もなく湧きあがってくる泡。僕は重苦しい足取りで部屋に入り、トニーに不安を打ち明けた。
「大丈夫だよ、居留守を使うようママに頼んであるから…心配するな」
 この件に関して、これ以上話すことは無かった。トニーも、済んだ事と思いたいのだ。僕はモヤモヤとした気分を払いのけようと、MTVの新曲映像に集中した。
 意外なことに、この町にもCATVがある。それは多分、ゾナ・オテレラでの需要があるからなのだろう(これまたトニーは自腹で契約)。余計な金を…とかいう僕も、一人で部屋にいる時はMTVばかり観ていた。まさか、民放の「トイジョ〜♪」じゃ観る気はしない。

 僕は階下で夕食を取った。空腹というより、部屋で時間をやり過ごす息苦しさに耐え兼ねたのだ。朝食を食べ過ぎたし、量は少なめにしておいた。
 こうしてママ達の声に囲まれているだけで、正直ホッとする。それでも開け放したドアの外に、絶えず気を配らずにいられない僕。
 ともかく、もう八時を回っている。ベイビー・ベイブが言ったか覚えていないが、パーティは七時から始まる筈だ。誘いは無かったのだ、あるいは電話を掛けてきてママに断られたか…。
 僕は、大きく伸びをしながら2階ヘ戻った。

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メキシコ旅情【分水嶺・8 天気雨】

 今朝も起きたのは11時。今では僕もトニー時間、か…。
 思い出せば成田で夜中に電話をした時って、こっちは今時分だったんだよなぁ。寝ぼけ声のトニーに呆れてた僕が、今じゃ同じ穴の何とやらだ。隣の部屋で毎晩遅くまで話し込んでるせいだな、でも彼女達はとっくに病院で働いてる訳で。
 なんか出遅れちゃった気分だ、とりあえず屋上で一服。トニーは「部屋で吸えば?」と言ってくれるが、彼が煙草を好きじゃないのは知ってるので。ドアを開けると光の洪水、外は早くも真昼の熱気だ。
 今日は午後から家庭教師が来て、トニーにスペイン語を教えてくれる日だそうだ。午前中は予習と復習をすると言うので、邪魔にならないように外をぶらついて一日過ごそう。ついでに新しいビーチサンダルを買いに行くか、裏がツルツルになって鼻緒が取れやすくなってるし。

 ともかく食事が先だな。身振り手振りも板についてきて、ママの(何を飲む?)という動作にコーヒーをお願いした。
「カリエンテ[熱い]?」
 ママは(ホットが良いのか)と、僕に尋ねているのだ。
 ちなみに[暑い]は「ピカ」または「ピカンテ」という。この[熱い]と[暑い]の違いを、ママとパティの3人で大笑いしながらジェスチャーのやり取りをして覚えた。コーヒーは、ちょっとぬるかったけど非常に美味しかった。ママは「インスタントなのよ」と申し訳なさそうに言うけど、僕は世辞を言えるほど器用じゃない。
 食事の用意が出来る前にトニーが下りてきて、いつものようにママから食事の事で文句を言われる。ちょうど子供達がロレーナと一緒に学校から帰って来て、お説教は中断されて食卓についた。いつもの「赤豆と肉の煮込み」とトルティージャを食べる横で、トニーはコーラを飲みながらジョークを飛ばす。

 突然、ゴォーッという音が近づいてきた。
 何事かとガレージのほうを見ると、一瞬にして外は真っ暗! 向かいの家が見えない位の豪雨だ、樋を伝って怒涛の白滝が落ちてくる。
「ジュビア!」
 そう叫んだディエゴは、すでにガレージまで駆け出していた。ジョアンナも彼を追って、滝の下で一緒にキャーキャー始めている。ロレーナは大きなため息を吐いて「ふたりとも、食事の途中でしょ!」とかなんとか怒鳴りながら、子供たちを捕まえに席を立った。
 呆気に取られていた僕もトニーの後に続くと、もう滝の下は大きな水たまりだ。外に出た途端にずぶ濡れで、僕も意味なく大笑いしながら遊びの輪に加わった。しかめっ面だったロレーナまで、子供たちと大はしゃぎで押し合いへし合い。
(ずぅっと忘れていたよなぁー、この感じ…)
 雨に濡れるのって、こんなに気持ち良かったんだ。こんな事で、腹の底から笑っちゃえるんだなー。子供じゃなくなってから無意識のうちに、大人の振る舞いを計算するようになってたのかな。そういうスイッチが自然に切れて、余計な力が抜けて洗い流されてゆく感じ。
 これからは覚えていよう、全身で浴びる雨の素晴らしい気分を。もう僕は、雨を嫌う生活には戻らないんだ。濡れたら洗って乾かしゃあいいんだ、雨が降る所で暮らしてるんだから。
 そりゃあ濡れたら困る時だってある、寒い日は特に。でも(革靴の底が駄目になる、ズボンの裾が汚れる、スーツがしわくちゃで靴下が蒸れるetc..)なーんて下らない苛々で一日を不愉快にするのは止めだ。

 やがてロレーナが我に返って子供たちに戻るよう怒ってみせたが、彼女も一緒に遊んだ手前あんまり強く出られない。僕らはディエゴに手を引かれるまま、通りを走った。
 マカレナ公園前の道路に、近所の子供たちが飛び出して来る。子供の考えることは同じだ、みんな集まって始まる転ばしあい。言った者勝ちで、呼ばれちゃった子は水溜まりに引き倒される。転がされるほうも転がすほうも、悲鳴を上げて大興奮。
 誰かがトニーの名を叫んで、寄って集って泥水の中に転がされた。僕も心置きなく、彼の顔に水を浴びせてやる。ははは、下らないことに熱中するのって楽しいなぁ。当然ながらトニーは僕を指名、柄にもない黄色い悲鳴で押し倒される。濡れたアスファルトの匂いが懐かしい。
 水溜まりで遊ぶうちに、何度も滑ってビーサンの鼻緒が取れた。やっぱり、後で買いに行かなくちゃ。これで午後の予定は決まりだ。
 いつの間にかジュビアは止んで一段落する頃、オーラが見えそうな勢いでロレーナがズンズン寄ってきた。みんな冷や水を浴びせられたように、開放的な空気がキュッとしぼんで消え失せる。ディエゴとジョアンナを連れ戻しに来たロレーナに、昨日トニーが言っていた台詞を思い出した。立ちすくむ子供達に物凄い剣幕で、言葉の分からない僕まで泣きそうになる。
 子供を引いて帰る彼女の後ろから、トニーと僕はすごすごとガレージの檻に入る。空はもう雲ひとつなく、潮が引くように路肩が乾いてゆく。シャワーを浴びて着替えた後も、僕の気分は晴れなかった。

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メキシコ旅情【分水嶺・9 心の敵】

 メルカドに、新しいビーサンを買いに行く。
 刺すような陽差しも、空気の中に雨の名残が感じられて心地良い。泣いたと思ったらもう笑う、子供のような太陽だ。
 土産物屋は、相変わらずレイドバックしていた。絵ハガキを見つつ物色するも、どうも良いのが見当たらない。サイズが合わなかったり、派手というかシンプルさに欠ける柄だったり。もうビーサンじゃなくて健康サンダルにでもするか?
 最近ちょっと見かけない珍奇さとハズし加減、メキシコに健康サンダルという組み合わせに我ながら笑う。その場で意気揚々と履き替え、変な顔で見る店のおばさんに(まぁ分かるまい、このセンス)なーんて一人ごちて帰って来た。
 その数日後、トニーが言いにくそうに教えてくれた。
「ここでは、それはトイレで使うだけだから…」
 あらら〜?! でも僕は〈変なガイジン〉だからいいの。

 エドベン家のガレージに頭を突っこみ、奥の部屋にいるジョアンナに潜り戸を開けてもらう。僕は、みんなのように合鍵を持ってない。
 黒く頑丈な鉄格子の隅に仕切られた、小さな潜り戸だ。背中を丸めて出入りする度に、僕は動物園の猛獣を想像する。なんでこの家だけ、こんなに仰々しいんだ? まぁ余所は余所、この家はこの家だ。
 トニーの部屋に行くと、まだ家庭教師はいなかった。
「もうすぐエレーナが来る、というか時間はとっくに過ぎてるけど」
 彼女は車だから、排気音で分かるという。この近所は、昼間は滅多に通らない。
「メキシコ人もブラジル人も、時間の感覚が無いんだよな」
 ずいぶんと前にも、彼の口から聞いた覚えがある台詞だ。そうそう、ブラジル人のスケート仲間には振り回されたものだ。
 彼のノートをのぞき込むと、そこには勉強の成果が詰まっていた。熱心だな、良い教師は良い生徒でもある。気を散らせたくないので、僕は手帳を持って屋上に行った。

 いつもは空を見上げたりして一服しているけど、今はそんな心境になれなかった。こんなモヤモヤ感を放っておいたら、何をしてても気が削がれる。今は書くことで、考えを外に出して整理する以外なかった。
 その前に、まずは精神統一。半年ほど通っていたところで習った、太極拳みたいな事を思い出してやってみる。創作氣功、…って言ってたかな。体をゆっくりと動かす、一種の呼吸法だ。体内を流れる氣をイメージしながら、うろ覚えの動作を繰り返す。
[氣を練る]という動作を続けると、両手のひらの中に引き合うか反発しあうエネルギーを(人によって違うんだけど)感じるようになる。僕は磁石が反発する感じが…あれ? 何度も試して微かに感じ取れたのは、今までと逆の引き合う感触だった。
 こんな事は一度も無かった、僕の氣が弱まって逆転してるのは何故だ? ここに来てから何度も試している、地理的な問題じゃないとしたら何だろう。自分の氣に干渉するような要素、磁石の力が反転するような…電磁場的な変化?
 一昨日の月蝕!?
 根拠のない思い込みは危険だが、あの奇妙な夜の気配を思い出すと説得力があった。仮にそれが原因で氣のエネルギーが逆転したとして、それが何を意味するのか、何に関連してくるのか? ますますこんがらがってきた…。
「これから僕はどうなるのだ」
 思わず言葉に出してみて、自分でばかばかしくなった。これからも何もない、せいぜい覚悟しとくだけだ。何かが起こるとしたって、種はすでに蒔かれたって事だろう。実際まだ何も起きちゃいない、ヤバそうなムードだった気がしてただけで。
 僕は手帳を開いて、月蝕の夜からの出来事を並べてみる。

 この話を僕が知ったのは、さっきの水かけ遊びの後だった。ロレーナの異様な怒りようについて疑念を抱いた僕に、気まずそうにトニーが打ち明けたのだ。
 あの夜、一向に戻らない僕らを待ちくたびれた家族は冷めた料理を食べる羽目になった。ママが腕によりをかけて作ったコミーダも、楽しくなる筈の夜も台なしになってしまった。そして、すっかり気分を害したママとロレーナに居留守を頼んだ。
 いつの話だか知らないが、こんな騒ぎもあったらしい。近所の子供に悪気はなかったのだとは思うけど、事の発端は度が過ぎた作り話だった。僕がインライン・スケートで出てくるのを、物影で待ち伏せて銃で脅そうとしている人間がいる…質の悪い冗談だ。
 その噂に仰天したママは、姿が見えない僕を助けようと近辺を捜し回って警察を呼ぶ寸前だったそうだ。誰かが屋上で、何も知らない僕を見つけるまで…。そんな事があったとは、初耳だった。
 そんなこんなで悪い状況が重なり合い、結果として僕らのせいでママ達が過敏になっている。僕らは、ロレーナの皮肉どおり「二人ともイノセントで、何も分かっていない」のだろう。

 暮れ始めた空に、小さな鳥が無数に舞っている。
「エレーナは帰ったよ」
 階下から、トニーが言った。屋上に来た彼は、僕の話に静かな相槌を返した。こうして彼が聞いていてくれる事が、僕にはある種の救いのようだった。

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メキシコ旅情【分水嶺・10 お土産】

 いっけない、すっかり忘れてた!
 着いた初日に渡すつもりで、エドベン家に簡単な土産を持参してたのだ。出発の朝に突然(日本らしい土産物を)と思い付き、慌てて詰め込んで来たのだ。まぁ土産といっても自分の使い古しで喜んでもらえるとは思えないけど、要は気持ちだからな。
 赤い千代紙を貼り合わせた団扇と、薄っぺらい唐桟縞の半纏。居合わせたジョアンナとディエゴに「ハポネス・レガロ[日本のお土産]」と言って見せるが、反応が鈍い。子供って正直だよなー。
 ちょうどエドベンがいたので、彼に「これは使い古しのお土産です」と説明すると、彼は苦笑いしながらママ達に通訳して伝えてくれた。ママは目を丸くして喜んで、子供達も改めて興味深げに手に取った。
 まず団扇の使い方を実演してみせて、子供達に半纏を着せてやる。初めは戸惑いをみせたジョアンナにも笑顔が浮かんで、僕は何となくホッとした。
 エドベンは仕事から帰ったばかりらしく、ネクタイ姿のパリッとした格好をしている。僕は朝寝坊だから、一日のうちで彼と会う機会は少なかった。こんな夕方に帰ってくるのは交替勤務制だからなのか? 彼はランチリ航空に勤めているそうだ。
「これから車屋さんに行かないか」エドベンは僕を誘った。
 車に興味はないけど、ちょっと面白そうだ。部屋に戻ってトニーに訊ねると、面倒くさそうに肩をすくめた。習ったばかりのスペイン語を復習していたいらしい。
 僕は少し迷ってから、やっぱり行くことにした。

 帰ってきて夕食を取り、部屋に戻ってポストカードを書く。
 トニーとMTVを観ながら、これから何して過ごそうか話していたら騒々しくドアを開けてエドベン登場。彼のほうからやって来るなんて初めてだ、なんか妙にテンション高いな。
「オーラ、アミーゴス! 出掛けよう」
 元気よくトニーの肩を叩き、屈託のない笑顔をみせた。2人のスピードで話されると僕の英語力じゃ追いつかないが、ディスコに行こうという話らしい。
「では後ほど」とエドベンが去って、僕はトニーに内容確認。しかし彼も今いち解っていないらしく、自信なさげに「エドベンのベイブの、ホーム・パーティだと思う」と答えた。
「ディスコ、って言ってなかった?」
「どっちだって一緒だよ。女の子と、お酒と、ダンスだ…」
「違うよ、トニー。ディスコはお店だし、ホーム・パーティだったら他人の家だ」
 ため息まじりに首を振って、彼は乗り気じゃないのか?

 そろそろ時間だ、僕はトニーより先に階下に降りた。階段の途中で、通りに人の気配を感じて(パーティ仲間が集まっているのか)と思いきや…!!
 鉄格子の向こう、暗がりから浮き上がった顔はベイビー・ベイブと数人の男性だったのだ。連中の約束は昨日じゃ…? だが誘いに来たのは間違いない、胃だか胸だかがギュウッとなった。
 ベイビー・ベイブが呼んでいる、もう回れ右するには遅かった。なんという間の悪さ! 
「オーラ。うーん、ボニータ[きれい]!」
 今夜の彼女は化粧していたので、僕は努めて自然な笑顔で言った。そして立ち止まらないでリビングに直行、背後で何か訴えている彼女を振り返らず「ブエナス・ノーチェス!」と明るく手を振った。
「ケ・パソ[何かあったの]?!」
 何かを察したママたちが、少し険しい表情で僕に尋ねてきた。僕は大したことない、という素振りで「ベイビー・ベイブ」と答えてソファーに腰を下ろす。この位置なら、表からは見えない。
 ママとロレーナはガレージに出て、僕は初めて入り口の扉が閉ざされるのを見た。エドベンの家族が、僕を守ってくれているのを感じていた。アメリカン・ジョークで「メキシコ人の男はマザコンだ」というのがあったけど、実際メキシコの女性は強いなぁー。そんなお門違いな事を、ぼんやりと思った。
 外からは、まだ話し声がしている。僕はスペイン語が出来ないおかげで、それを無視する事ができた。僕は「ヘンなガイジン」なのだ…。TVに意識を集中して、状況を理解していない振りを続け、でも胸中では罪悪感でいっぱいだった。
 あの時、彼女に返事をしたのは僕じゃない。でも髪を切った代金を払うと約束したのは僕だ。僕の心が「彼女に会うべきだ」と告げていても、指が震えて止められなかった。彼女と僕じゃ言葉が通じないし、ママ達の厄介事を増やす真似はしたくない。彼女には、何の落ち度もないのに…。
 やがて、ママとロレーナが入って来た。エドベンが奥から出てきて、2人と短い言葉を交わす。ママは笑顔を取り戻し、僕にうなずいてみせた。それで終わりだった。まるで何もなかったかのように。
 おめかしして来たベイビー・ベイブの、はにかんだ笑顔が脳裏に焼き付いている。
 ガレージの外には、すでに彼女達の姿は見えない。格子戸にもたれて考えにふけっていると、エドベンが来て横に並んだ。
「心配や迷惑を掛けてごめんね」
「その通りだよ」エドベンは真顔で言う。
「知らない人の家に行くなんて何を考えているんだ。特に日本人の事は皆、金持ちだと思っているのだから」
「でも、彼女は知らない人間じゃない。あの夜は確かに怖いと思ったけれど、彼女は友達として髪を切ると言ってくれたんだ。僕は彼女に、その報酬を払いたいと思っている。約束は守りたい…」
 彼は深く息を吐き、僕に向き直った。
「今、何を言っているのか判ってる? そんな事をしてみろ、その辺の乱暴な連中が家で待っているのに、無事で済む訳ないだろう?」
 それでも食い下がる僕に、エドベンは強い口調になった。
「君は分かっちゃいない。とにかく、もう終わったんだ。今後、そんな事は考えないでくれ。もうすっかり忘れるんだ、いいね!」
 エドべンと家族の考えは同じだろう。言ってみたところで彼が賛成してくれるとは思っていなかったし、僕も意地を張るつもりはなかった。郷に入れば郷に従うものだ。彼と家族への感謝を棚上げしてまで、己の声に従うことが、果たして僕の正しさなのか。
 彼らの顔に泥を塗るような気にはならなかった。

 トニーが下りてきて、僕らはエドベンの車に乗り込んだ。
 僕は小声で「彼女たちが来たんだ」と言ったが、トニーには聞こえなかったのかもしれない。
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メキシコ旅情【風雲編・1 ビエン】

 トニーの目覚ましが10時に鳴った。
 まぶたを開けると、彼がTVの前の目覚ましを止める姿が見えた。ゆうべ寝る前に「クーラーを効かせ過ぎないで」って頼んだのに、夜中にこっそり21℃まで下げてんだから…。
 また今朝も僕は凍えて目を覚ましてしまい、数時間前から(送風)に切り替えてやったんだが、彼はまだ気付いていないらしい。ハンモックの寝心地も、決して良いとは言えなかった。トニーが冷房の事に気付く前に、ビーチサンダルを突っ掛けてそそくさと部屋を出る。
「下に行って、ママのコミーダ食べてくるねー!」
 色ガラスの扉を開けると、玄関の軒先に何故か一脚の椅子が置かれている。そのプラスチックの型抜き一体成型でひじ掛けのついた白い椅子は、メキシコに来てやたらと見かけた。トニーの部屋の中にもあるし、街中のレストランでも使われている。見栄えはチープながら、隠れ南国アイテム(台湾の小琉球という島の海岸にもあったし)。

 日差しは強く暑かったが、階下のガレージは日陰のせいか意外とひんやりしていた。
「ブエノス・ディアス」
 ドアを入ってすぐダイニングテーブルがあり、パティが座ってTVを見ていた。テーブルの左にある戸棚の上のTVから、早口のスペイン語が聞こえる。いかにもワイドショーな明るい口調と笑い声、この時間帯の番組は世界共通なのかね。
 右側のカウンター奥から、ママの大きな声がした。多分、パティに「誰か来たのか」と訊ねたのだろう。と同時に、やけに険しい表情のママがキッチンから首を突き出した。かなり迫力満点でビビったが、僕だと分かると即座にいつもの笑顔で両手を拡げてみせた。
「ブエノス・ディアス、ママ」
 ママは手のしぐさで[何か食べるか]と、僕に話しかけてくる。食べる仕草はコメールで、飲むのはベベール。きっと僕達には、少なくとも基本的な生きる為の意思表示は世界中のどんな人とだって伝えあえる能力があるのだろう。…そんな発見なんて目新しくもない些事だけど、実感として肌で感じたのは初めてだ。いわゆる「目を見開かされる」ってやつ。
「コーラ? アグア?」
 アグアは水のことで、ポルトガル語といっしょだ。スペイン語と似通った単語が多い気がするのは、当然といえば当然か。イタリア語とも近いし、って全然知らないけど。
 僕はパティが注いでくれたグラスを深く傾け、気分良く喉に流し込んだ。気のせいか、僕が知っているコーラよりも炭酸が効いていて、昔のコーラの濃い味を思い出させる。
 ママのコミーダ[料理]は、今朝も昨日の朝とおんなじだった(実は違うのかな?)。お皿には小豆色のスープで煮込んだ骨付き肉、ご飯は添え物的に少々。飽くまで主食はトルティージャ、お米はパサパサしていて調理方法が違うのかもしれない。
 奥の部屋からロレーナが現れて、声を掛けるとダルそうに僕を見て返事を寄越した。
 彼女は25だとトニーに聞いていたが、もっと年上にも下にも感じられる。陽気で大笑い、というよりもシニカルなタイプだ。別に僕を嫌っているのではなくてシャイなのだと聞いていても、彼女は微妙に話しづらい感じ。とはいえ今は貴重な通訳、彼女はコンピュータの仕事に就いていて英語はバッチリなのだ。
 ロレーナも席について、コーラを飲みながら「おいしい?」と訊いてきた。僕がgoodと答えると、彼女はママに振り返って「ビエン」と言った。ママが、嬉しそうに僕を見て頷く。
「ごちそうさまでした」
 僕が手を合わせて日本語で呟くと、ロレーナが(何だって?)と言いたげな顔をした。僕は肩をすくめて、彼女に「今のは日本語なんだよ」と説明する。彼女と僕を見比べているママにロレーナが訳して話すと、ママは痛く感心した様子だった。
 彼女にとって「いただきます、ごちそうさま」という日本人の習慣は、カトリック教徒が食前の祈りを捧げる姿を連想させるらしかった。メキシコの97%はカトリックだ、とガイドブックには書かれていたな。敬虔なクリスチャンなのかは判らないけど、グラシエラとビアネイの部屋のベッドサイドにも旧約聖書とマリア像が置かれていたのを覚えている。
 いつのまにか、二匹の犬がテーブルの周りにやってきた。ジョディとトーティだ。
 僕が後片付けしようと立ち上がると、ママは僕を制してお皿を下げた。二匹の犬が勘付いてママの後ろを追いかける。キッチンの隅のごみ箱から、食べ残しの骨がこぼれ落ちた。ジョディもトーティも、それを待っていたのだ。大急ぎでかぶりついていた。
 中型犬のジョディが、体格の差でほぼ独り占めにしまった。白地に茶色の体毛は短く、尻尾も短いので猟犬の種類だろう。トーティはふさふさの栗毛をしているミニチュア・ダックスフンドだ。いつも黒目をウルウルさせている彼女は、まだジョディのまわりで右往左往していた。
 ママに食事の礼を言って、僕は二階に引き返す。

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メキシコ旅情【風雲編・2 洗濯とお迎え】

 食後の一服をつけるため、僕は更に階段を上がって屋上へと向かう。
 屋上には満艦飾の洗濯物が、張りめぐらされたロープに揺れている。二階の住人の分も干してあるのだろうが、それにしても大量だ。なにか、とても生命力の強さをおもわせる光景。
 太陽は、濃い青空のまんなかにあった。ランニングシャツの背中が早くも汗ばんで、足の裏もビーチサンダルが脱げそうな有様。
 旅の荷物を減らすため、服の枚数は僅かなものだった。くたびれた長袖シャツにジーンズと短パン、ランニングと半袖ポロが一枚ずつ。Tシャツ二枚、あとはパンツ少々。出発時に着ていた物も含め、これで全部だ。暑い国の旅行だと荷物が少なくて済む、とにかく洗えばすぐ乾く。但しパンツの替えも少ないので、こまめに洗わなければ。
 そう、洗濯こそが今日最優先の課題なのだ。一服後、早速とりかかる。階段下の洗い場は、ひと抱え位の石をくりぬいた様なもので、腰の上の高さに据えられていた。日本も、一昔前の台所はこんなだったように思う。
 ただ、それが目の前のサンディの部屋専用だとしたら、勝手に使っては失礼になる。まして彼女達にとって食器の流し台だった場合、パンツをごしごしするのはまずいだろう。僕は汚れ物を抱えたまま、しばし彷徨った。
 それでも、せめてパンツは洗いたいし…。むむっ、これは!
 二つ並んだシンクの右側は、やや浅い底面に僅かな筋状の突起加工が施してあるじゃないですか。これは洗濯板にすごく似ているじゃありませんか。恐らく、いや間違いないきっと大丈夫。意を決して左のシンクに服を入れ、水を貯めると固形の洗濯せっけんを泡立てて一枚づつ右に移し、底の突起にこすりつけ手早く洗う。あまり丁寧ではないけれど、汗臭くなければ構わないのだ。
 洗い場の疑念は程なく解決をみた。僕が洗濯を済ませて立ち去ろうとした時、ちょうどティミーがやって来たのだ。平静を装って屋上に上がりながら、ふと眼下のティミーに目をやると…。彼女も洗い場から僕を見上げ、目が合ったと思ったら慌てて何かを手で隠したのだった。
 間抜けな僕は、彼女が恥ずかしそうに洗濯している理由を見抜けずに(ああ、ティミーも洗濯するんだ)とだけ思って単純に安心してしまった。
 最後の関門は干す場所があるのかどうかだったが、幸いにしてロープの片隅に居所を確保することが出来た。この天気だから、小一時間で乾くかもしれない。

 そのあとトニーと一緒に、ロレーナにくっついて子供たちの学校へと出かけた。ジョアンナとディエゴの、お迎えにいくのだ。
 幹線道路を横切るので車が途切れるのを待っている時、セントロで見た赤い横断歩道がここにもあった事に気付いた。って、油断してたら彼女は一人で向こうを歩いてるじゃん。
「アグアス!」…はい? 何の事だよ、トニー。
「まだ教えてなかったっけ? 車に注意、というような意味だよ」ふぅん、水の複数形かと思った。
「覚えやすいでしょ。それに警告は一言で通じないとね」
 さらに付け足して、トニーは「多分、正確なスペイン語というよりスラングだろう」と教えてくれた。ってことは、かつて宗主国だったスペイン王国では通じないのかもしれない。メキシコ全土で通じるのか、それともカンクンだけで流行っている言葉なのか…? エドベン家だけだったりして。
 なーんて話をしている間にも、ロレーナは僕らなど眼中にないが如く歩いてゆく。僕らもとっとと、だだっ広い駐車場をすり抜けてゆくロレーナの後を足早に追う。
 この駐車場は、メルカドの買い物客が使うのだろう。三方を囲む二、三階建ての店々は「いかにもメキシコ」と思わせる色使いでワクワク気分にさせてくれる。サンタフェ調のサーモン・ピンク、窓辺の白い縁取り、ウェスタン調や元気はつらつな看板の文字が、まったりとしたローカルの空気に気持ち良く空振りしてるのが愉快だ。誰もいないし。
 ロレーナはまっすぐ駐車場を突っ切ると、正面に並ぶしなびた土産物屋の隙間道に姿を消した。慌てて駆け出したら、急に日陰に入ったせいで足を滑らせ、その拍子にビーサンの鼻緒が外れた上にコンクリの角に向こう脛をぶっつけちまった。
 ほー痛てぇー、こん畜生め! 暗がりで本当に目から火が出たじゃあねぇか。夏じゅう使い込んだビーサンは、裏がツルツルにすり減ってたんだな。でもロレーナは振り向きもしないし、トニーも同情しながら急かすしで、痛みを堪えながらビニールの鼻緒を押し込んで駆け出した。しかし一体ナニをやってるんだ、こんな思いまでして…?
「幸先が悪いから、やっぱ帰るわ」
 そう言って立ち止まる僕、それを引きずるように走るトニー。 トニーの腕を振り解く僕に、彼は息を荒げながら言い放った。
「子供たちが楽しみにしてるんだよ!?」
 そりゃ思い過ごしに決まってる、なんで僕がそんな期待を?? そう思いながらも彼の剣幕に気圧され、跳びはねるように片足を引きずって走る。
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メキシコ旅情【風雲編・3 学校】

 小さい子がはしゃぐ声が聞こえてきた。
 低いブロック塀の木々に隠れて、学校が見える。とても濃厚な、草いきれの匂いが鼻をふさぐ。小さかった頃に、空き地で遊んだ夏の匂いだ。懐かしい土埃の匂い。
 校門の前には出迎えのお母さん達に混ざって、下の妹を連れに来たのか女の子も何人かいた。みんな群がるようにして、校門の軒下で日差しを避けている。見るからに暑苦しそうだけど、僕ら3人もそこに加わった。無風状態で、日陰にいても汗が吹き出してくるのは堪らない。うだるような暑さに、たまに意識が飛ぶ。
 そこに折よく、自転車のアイスキャンデー売りが来た。あいにく、こちとら運悪く持ち合わせがないときた。まったく、いい商売だぜ。下校時刻に現れる物売りって、やっぱりどこの国でも同じなんだなぁ。よく売れている。
 トニーはすかさず買って、ロレーナに分けていた。僕は断ったが、彼が何度も勧めるので一口もらってしまった。これだけ喉が乾くと、この一口が却って逆効果になる。あー、なんで財布を置いて来ちまったんだろ…!
 それからまたしばらく経って、やっと係員が来た。観音開きの鉄の扉を引くと、しびれを切らした母親達が殺到してバーゲン初日のデパート状態。この暑さだ、気が立つのも分かるが…コワイ!

 校庭は二百メートルのトラックが描ける程度の大きさで、奥の二階建て校舎の規模を考えれば狭い感じでもない。その運動場をとりまくように低い建物がいくつかあって、鉄棒などの遊具は見当たらなかった。
 校庭の手前を右に折れて、教員室らしき平屋の建物に沿って歩く。教員室よりも引っ込んだ場所、運動場の隅っこにプレハブの長屋造りの教室が並んでいた。窓と入り口がテラス越しに校庭に開かれ、部屋の中は明るい雰囲気だ。
 帰り支度の生徒に混ざって、ディエゴが姿を見せた。青と白のボーイスカウトっぽい制服に、黄色いこぢんまりした肩掛けカバン。色のコントラストが爽やかで、彼をカッコ良い男の子に見せている。
 ディエゴは僕ら二人の名を呼んで、教室の入口に立っていた僕達のそばに来た。トニーに対して、何やら学校のことを話し続け、黄色いカバンを開いてみせたりしている。トニーを見つめるディエゴの顔は、家にいる時の甘ったれ坊主に戻ってしまっていた。
 彼の家に来て三日目だからな、まだ僕には気を許していない様子のディエゴだ。言葉が全然通じない事も、打ち解けにくい理由のようだった。
 二階建校舎のほうから、いつのまにかジョアンナもやって来て、僕らは5人で帰途に就いた。
 トニーが子供達にキャンディをあげると、ディエゴは包みを道ばたに投げ捨てた。トニーが軽く注意して拾うよう促し、ロレーナも振り向いて息子にこわい顔をして見せたが、それしきの事で動じる少年ではない。結局トニーが引き返して、ゴミを拾った。そして日本語でさりげなく言った。
「…しょうがないネ。考え方、違うョ。」
 価値観は、人の数だけ違っている。トニーはきっと、そう言いたかったのだろう。だけど僕は、こう解釈した。美化意識や環境問題なんて言っても、所詮は最悪の事態になってから気にし始めるものだ。アメリカも、日本もそうだったように。
 それにしても、この町はきれいだと思う。ゴミが落ちていない訳じゃないけど、さほど目に付く程でもない。歩道のコンクリートがあちこちひび割れたりデコボコしてるのに、この町並みには品の良さがある。わざとらしさの無い居心地の良さ、とでも言おうか。
 それは道幅の広さ交通量の少なさ、家の高さや色使いも関係している。けれど決定的なのは、俗に「捨て看」と呼ばれる置きっ放しの立て看板がない点かもしれない。そう、広告の少なさ。
 あふれかえる看板広告がなければ、かなり日本の町並みもすっきりするだろうな。って、安易な比較で批判をする気はないけれど、東京がこんな風景だったら面白いのに。個人的には、下手に近未来的な景観よりも。

 午後の町は静かだ。
 洗濯物は、さっき干したばかりなのにもう乾いた。しかし取り込むのは後回しにして、昨日の夕方に書いたポストカードを出しておこう。トニーに訊くと「ポストより郵便局の方が近い」という。あのだだっぴろい駐車場の並びか、じゃあ迷う筈がない。
 子供たちの出迎えで、転んで青あざを作った場所だ。あの薄暗い閑散としてた土産物屋が並ぶ区画は、ガイドブックには「民芸市場」と書いてある。皆は単に「メルカド」と呼んでいて、マーケットという意味だ。
 家からは目と鼻の先だ、それにメルカドへの道はセントロに行くのにも利用している。

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メキシコ旅情【風雲編・4 郵便局】

 あっ!…と、気が付いた時はすでに区画をぐるり一周していた。
 おっかしいなー、確かトニーは「メルカドの並びにある」と教えてくれたが…。などと頭をひねっても仕方ない、これはカタコトでも誰かに尋ねたほうが早い。そして今度は反対廻りに歩きだした。
 「郵便局はどこですか?」というのを、どのようにして伝えたらよいものか…。てくてくと、ひたすら考え続ける。考えるまでもなく、肝心の「郵便局」はおろか「どこ」も言えないのだから話にならないか…。いやいや、人間同士だ分かりあえるさ。
 まずは尋ねる相手を見つけないと…。風はそよとも吹かず、たまに走ってゆく車以外に動くものはない。シエスタにしては少し早い筈だけど、通りは人気が絶えて静かだった。何軒もの店が並んでいるのに、陽気な音楽どころか物音ひとつ聞こえない。
 歩き疲れた頃、やっと人影を発見しダッシュで追いかけると…!? そこが目当ての場所だったのだ、何度も通り過ぎた地味な建物が。こんな郵便局で分かるかよー! 
「オフィシーノ・デ・コレオス?」
 どうやら、これがスペイン語の郵便局らしい。外の看板に書いてあるとはいえ、これじゃ不案内だろ。カラフルで庶民的で、英語表記が当然の日本とは大違いだ。実にそっけない。
 通りに面した前面が総ガラス張りで、奥のカウンターまでは作業テーブルだけ。待合席もポスターもなし、がらんとして色彩の乏しいフロア。おそるおそるドアを開けると、全身の毛穴が(キューッ!)とすぼまる程の冷気だ。これはトニーのクーラーに対抗できる。
 局員とお客が二人ずついるのに、室内はまったくの無音状態だった。すごーく居心地が悪い。こっちもなぜだか足音を立てないようにカウンターへと進み、ポストカードを差し出して「パー・アビヨン、ハポン」と告げる。派手な女性の局員はカードと僕を一瞥すると枚数分の切手を出し、無表情のまま何か言った。小声で早口だったが、おそらく金額だろう。
 トニーから「エアメール・カードは5ペソぐらいだ」と聞いていたのに、女性が出した切手の額面は2ペソ70センタボ。安すぎる。これ、国内向けじゃないの? 僕のスペイン語が通じなかったのかな。もう一度「エアメールを日本に送るのだ」と言ってみるが、彼女は目線で切手を示しただけだった。むかつく。
 まぁいいや、10ペソの硬貨二枚をカウンターに置いた。僕の片言が通じていなくたって、切手が貼ってあれば届くはずだ。仮に着かなくたって、僕にとってひどく不都合な訳でもないしな。
 お釣りをもらって、ロビー中央のテーブルへ引き返す。切手に糊を塗って、貼るのだ。テーブルの上にあるのは、小さい缶が2個。試しに指をなめて、切手の裏を濡らしてみる。おぉ、糊が付いてない。トニーが僕をかつごうとしてるのかと思っていたが、本当に彼の言葉通りだった。
 空き缶を再利用して、糊の容器にしている。それはそれで良いと思うけれど、缶切りで開けた縁をきちんと潰していないので危なっかしい。それに、糊をすくい取るへらの代わりにボールペンを使っているので、非常に塗りにくかった。宛名の上にはみ出して汚くなるわ、指もベトベトになるわで不愉快になる。
 信じられない不親切さだが、他の客は気にも留めない様子だ。白い化粧板のテーブルには、指先の糊をなすり付けた痕跡が無数に残されている。なるほどな。僕は、サービス過剰な日本式に慣れてしまっている。ところが、ここでは郵便業務は政府の仕事であって、商売とは違うのだ。
 以前、トニーから「メキシコに、アメリカや日本から品物を送っても、絶対に届かないんだ」と聞かされたのを思い出した。ここはまだ、横領も不親切も許される役人天国なのだった。
 警察にしても、ちょっとやそっとじゃ相手にしてくれない。だからトニーは僕に「車に注意しろ」と言うのだし、エドベンの家も入口を鉄格子にして自衛しているのだ。ガイドブックにも(警官は権力を持つコワイ存在で、ワイロを強要したりする)とあった。
 うわさを鵜呑みにするつもりは無いが、そんな空気は感じられる。

 郵便局の横の細い路で、露店のおじさんから紙パックのジュースを買った。どういった果物の味なのか想像もつかない、特に美味しそうには見えないパッケージだったけど、ペプシの缶を買うよりもスリリングだ。飲んでみても正体不明の味で、思わず首をかしげたものの、ともかく喉を潤してくれた。
 せっかくカメラを持ってきたのだし、あのだだっぴろい駐車場の景色を写真に収めておこう。短パンのポケットにカメラを押し込んでいるせいで、歩くとすぐにずり下がってしまう。

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メキシコ旅情【風雲編・5 ギターおじさん】

 郵便局は区画の角にあり、セントロの方角を背にして右手の道路に沿って約50m前方が駐車場だ。駐車場前の赤い横断歩道を向こうに渡れば、もうエドベン家の区画だった。
 郵便局の裏手に、小路を挟んで隣接する建物はホテルのようだ。通りに張り出した植え込みの縁に、腰を降ろした二人の男性がいた。おじさんと若者、父子だろうか。二人とも、よく陽にさらされた肌色をしている。
 やっと町にも人が出てきた、と思った。おじさんは飾り気のないガットギターを抱いて、若者と穏やかに語らっていた。通りで休むふたりの姿は昼の空気になじんで、何となく絵になっている。僕はいったん通り過ぎそうになってから、二人に近付いて声を掛けてみた。
「マリアッチ?」
 さすがに自分でも(おいおい、いきなり不躾な物言いだなー)と思った、でも他の言葉が思い浮かばず咄嗟に口をついて出てしまったのだ。おじさんは、驚くでもなく静かに笑って首を振った。若者は口をぽかんと開けて、おじさんと僕を交互に見つめている。少し、僕を警戒しているかも知れない。
 僕は短パンのポケットから、ゆっくりとカメラを出して見せた。とりあえず英語で「撮ってもいいか」と言って、彼らにカメラを向けて首を斜めに曲げてみる。一瞬、おじさんは訝しげな表情をしたが黙って頷いた。パシャリ。
 礼を言ってから、僕はおじさんに「なんで、ギターを持ってここに座っているのか」と尋ねた。少し間が開いて、答えがスペイン語で返ってきた。僕が目をぱちぱちさせているのを見て、おじさんも若者もにこにこした。僕がスペイン語を話せない旅行者で、そして危害を加えるつもりなどない事が判ったらしい。
 隣に座ってもいいか、身振りで了解を求めて僕はおじさんの横に腰を下ろした。ギターを弾いてみて、というつもりでジェスチャーをする。「ギター、じょろろーん」と言いながら、おじさんを指してギターの弦を鳴らす仕草をしてみせたのだ。しかし彼の顔には、ありありと(お前さんは何が言いたいんだろうな)と書いてある。
 僕はギターにむかって両腕を拡げて、片手で自分を指差してみせる。僕に弾かせて、と言いたいのが通じたらしい。おじさんは僕にギターを手渡してくれた。まさかメキシコでギターを弾くとは、こんな事なら荷物の中に唄のノートも詰めときゃ良かった。
 僕はポケットの小銭入れからピックを選んだ。お金は日本円からペソのコインに入れ替えていたが、ピックはそのままにしてあったのだ。僕は小銭入れにピックを入れる習慣がある、それが意外なところで役に立った。でも曲までは持ち歩かないのだ、惜しい。
 ギターを抱えてはみたものの、実は暗記している曲なんてなかったのだ。2人はじっと見ているし、もはや適当にコードを鳴らして茶を濁す訳にもいかない。こうなったら度胸一発、ご当地ソングで仲良くなろう(歌詞も伴奏もうろ覚えだけど)。
 「あー、ラララララララ・バンバァー!」
 でたらめながら、調子良く声を張り上げた。分からない歌詞はうやむやに唄って、一フレーズ目でコードはそのまま「ツイスト&シャウト」に歌を変えちゃう。(受けた?)と思い、横目で二人を見やると…固まってるよ…。とほほ、尻すぼみにフェイドアウト。
 おじさんに返して、再度(おじさん弾いてよ)の手真似をすると今度は伝わった。彼は唄うでもなくかき鳴らすでもなく、そっと弦をはじく。親指の腹で太い弦の低い音、人差し指と中指を使ってナイロン弦の透き通る音色を鳴らし、静かにギターを弾き始めた。
 どうやって扱えばガットギターが喜ぶのか、最もいきいきと響かせる事が出来るのかを、彼の奏でる音が語っていた。紡がれてゆく丁寧な音が、穏やかな午後に流れ、それが目の前の空気を鮮やかに染めてゆく…。ギターを弾きながら、おじさんは目を軽く閉じている。
 3人で、音を味わった。
 短い曲だった気もするのだけれど、ずいぶんと長くそこに座っていたような不思議な感覚があった。ギターの深く澄んだ響きが消えると、喝采のごとく町のざわめきが戻ってきた。催眠術が解かれたみたいにして、すうっと僕の現実感もまたよみがえってくる。自分のお粗末な演奏を恥じる気持ちさえ、すっかり(ちゃっかり、か)忘れていた。
 それは合図というか、ちょうど微妙な区切れめ、といった感じだった。僕は、名残り惜しげに植え込みの縁から腰を上げて深呼吸をする。良いひとときだった。真昼の暑さを思い出したかのように、再び汗が吹き出してくる。
 僕は知っているスペイン語の賛辞を全部並べあげて、おじさんに感謝の意を表した。二人とも、にこやかに僕を見上げていた。若者が、白い歯をみせている。僕は(楽しかったね)と、心の中で彼に呼びかけた。若者の黒い瞳は、いたずらっ子の目の色だった。
 素敵な時間を体験した。
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メキシコ旅情【風雲編・6 メルカド】

 広い駐車場には、多くの車が並んでいる。しかし、動く気配は一台も無い。
 ピックアップのトラックに、ダッヂ・バン。ボンネットの塗装が焼けた、大振りな古いワゴン車とかセダンとか。それに、日本車を真似たコンパクトなファミリー・カーやワーゲン・ビートルが目立つ。
 この奥にはメルカドがあるけれど、この台数に見合うだけの人が来ているのか、それとも月極駐車場なのか? いいや、それはないな。近所の住宅街は路上駐車が多いし、交通事情も治安の概念も違う。そもそも警察としては駐車禁止で点数稼ぐより先に、まず車泥棒やひき逃げ犯を捕まえようという意識を持つ事が優先する仕事だろう。
 駐車場の先は落ちぶれた土産物屋だが、右手の方には色気があった。ピンク色を主とした小さなビルが軒を連ねている。ややコロニアルな造りも粋だ。雑貨屋とか、ブティックらしい。
 いかにも高級な感じに気が引けるものの、レストランの入り口には「ジャパニーズフード」とか書いてあるメニューが拡げられていて妙に親近感を覚える。「CLOSE」の札がなければ、どんな「スシ」だか一つ、つまんでみたいものだ。
 店の中央に、二階へ上がる階段があった。階上には別のテナントが入っているのだろうが、洒落た造りだ。真上から見て、凹を逆さまにした形をしている。階段の先には青空がのぞいていて、思わず行ってみたくなるじゃあないか。
 急な階段を上がると、二階の店はどれも扉を閉ざして無人だった。天井のない、細い回廊のタイルはワインレッドで壁の色に映える。オモチャの家のようにきれいで、シーンとしていた。それが余計によそよそしく感じられて、落ち着かない気分になる。
 裏手に回ると店々の影になって、細い廊下には直射日光が届かない。静まり返った回廊に吹き抜ける風も、妙に冷たい気がした。現実離れした、シュールな静寂。更に歩くと、階下から人の賑わいが感じられた。
 下から回り込み、アーケードの小路に入ってみよう。建物に囲まれた丁字路の突き当たりは吹き抜けで、可愛らしい噴水が眩しい陽光を撒き散らしている。そんなちょっとした中庭が左手の奥へと続いていて、旅行者ふうの人影がちらほら見えた。
 ここも店の大半は閉まっていたが、くつろいだ雰囲気が感じられる。噴水の水音と窓に映る光の動き、それに人の影があった。あの横道の土産物屋(午前中に子供達の出迎えで通った)に比べると、こちらは少し気取った店が並んでいる。小さなショッピングモール、といってもハワイやグアムにあった巨大モールが誇示していた、あざとい匂いがしない。その分だけ居心地良いけど、どっちにせよ僕には用のない場所だわな。
 ショーウィンドウに飾られたサマードレス。こういった場所には、婦人向けの店が多い。女性は旅行中であっても買い物が好き、というのは世界的傾向なのだろうか。僕は、後でチープな方の土産物屋に行こうと思った。革製品やメキシコらしい民芸品、それにポストカードを眺めていたい気持ちになるのは、割と男性的な欲求なのかな。
 目の前が開けてくると、強烈な光が襲いかかってきた。
 思わず顔を背け、建物の陰に目をやる。まっ白い残像が焼き付いて、舗装タイルもブティックの窓も見えない。僕はサングラスをかけながら右の脇道にそれて、迂回しながら目を慣らそうと考えた。あれは広場の椅子やテーブルが白一色で、思いっきり光を反射していたのだ。
 横道から左に折れ、広場と並行する路地を回り込もうとして足が止まる。数メートル先の路上に、数人の男達がたむろしていたからだ。なんと連中は、全身を白のウェスタン・ハットとスーツで決めているではないか。ちょっと怖いなー。
 他に人通りも無いし、物騒な事になったらお手上げだ。といって、きびすを返すには不自然な間合いだし…。若干ビビリ入りながらも、僕は自然体を装って進む事にした。顔をまっすぐ前に向けながら、凄い横目で様子を探る。
…やばい、目が合った! こうなったら先手を取って、アミーゴ精神で声を掛けてしまえー。
「オーラ! ブエノス・ディアース」
 片手を挙げて、僕は笑いながら歩み寄った。彼らが楽器を持っている事が判っていたので、最悪でも洒落になんない事態には及ぶまいと踏んだのだ。だからって、浅黒く険しいメキシコ男の群れが安全なのかは別だったが。
「何していますか? マリアッチですか? 英語は話せますか?」
 必死のスマイルで、僕は一方的に言葉を浴びせ倒す。思い返せば、その行為自体が不審かつ無礼だよなぁ。けどね、そんな余裕は持っていられなかったのだ。許せよセニョール。

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メキシコ旅情【風雲編・7 マリアッチ】

 男達は「何なんだ?」という顔をして僕を見ていた。
 英語は通じなかったが、彼らは僕の身振りを観察しては仲間同士言葉を交わし合っていた。少年のような目をした青年もいれば、しわの刻まれた目元の深く陰った男性もいる。それぞれが手にしているギターは、ウクレレみたいなのからチェロ並みの大きさまで様々だ。
 リーダーらしき年配の男性が、手振りを添えて僕の問いかけに答えてくれた。それによると、彼らはベラクルスからやって来たマリアッチで、夜は裏手のバーで演奏しているという。「今夜飲みに来なよ」と誘われ、僕は「行きたいけどノーマネーだ」と断った。だけど、その時なぜ僕が彼の誘いを理解出来たのか…? 後で考えると謎だ、そんなスペイン語を知るはずもないのに。
「どんな曲を演るの? やっぱりラ・バンバ?」
 僕が尋ねると、彼らの表情が一変した。
「オー!、ラ・バンバ!!」
 リーダーが仲間たちに声を掛けると、タバコの火を消して皆そこで楽器を構えた。僕は一体何が起きたのか、訳が分からなかった。しかし、まさか……。
 リーダーのカウントで、突然のストリート・パフォーマンスが始まったのだ。彼の粘り声に艶のあるコーラスが重なり、大小のギターは太くリズミカルに高く細やかに奏でられる。大きな箱みたいなギターも胸まで抱え上げられ、全員がはちきれんばかりの笑顔で音楽と一体化していた。
 写真を撮れば良かったが、すでに僕は手拍子足拍子で踊っていたんだから仕方ない。緊張も警戒も、いつの間にやら消し飛んでいた。曲が終わると僕はもう拍手してお辞儀して合掌という、興奮で意味不明の大絶賛。
 気が付けばメルカドの広場から遠巻きに、人々がこちらを見ている。ちょっとした人だかりの中心に僕とマリアッチがいる…と思うと、この信じられない展開に実感が湧いてきた。ところが彼らは僕の感謝の言葉も上の空で、いそいそと広場へと繰り出して行った。
 彼らにすれば、人の目が集まった今は絶好の稼ぎ時だ。もう僕に関わりあってる場合じゃない。テーブルの間に分け入って、ガーデンチェアでくつろぐ観光客たちに「一曲、如何です?」と陽気に声を掛けて回っている。颯爽として粋な、白いマリアッチ。その後姿に、しばし見とれる。
 後で聞いたが、普通は「マリアッチといえば黒」が相場らしい。その語源は結婚式(英語で言うとマリアージュ)に由来してるとかで、フォーマルなブラックスーツじゃない彼らは…観光専門なのかな?
 ともかく、彼らのおかげで僕が今どんなにハッピーなのかを伝えきれないのは心残りだった。

 メルカドの土産物屋でポストカードを買い込んで戻った。
 エドベン家の中のドアは開け放たれ、ガレージの格子は閉ざされている。外からのぞき込むと、ディエゴが僕の名を呼びながら飛び出してきた。彼は食事中だったのでロレーナにたしなめられ、ママが笑いながら格子戸を開けてくれた。
 みんなにメルカドでの出来事を伝えたかったが、ロレーナに英語で説明して通訳してもらうのは大変だった。そこに折良くトニー登場、彼とはノリだけで通じる部分があるから話が早い。
「マリアッチが路上で、しかもタダで歌ってくれたの?!」
 そんな感じで皆ビックリした様子だった。彼の英語訛りのスペイン語はママ達には分かりにくそうだったけど、それでもトニーの名調子に引き込まれていた。
「そうそう、彼もギターを弾くんだよ」とトニーが付け足して言うと、興奮交じりにディエゴが「ギターロ!」と叫んで走って消えた。ギターはギターロと言うのか? それにしてもどうしたんだか…。
 気が付くと、いつの間にかディエゴが無造作にガット・ギターを抱えて立っていた。どこから見つけて来た、っていうか誰か弾けるの? そこにいる誰もが、初めてギターを見たような顔をしていた。家にあるのに誰も弾かないギター、それは日本の家庭でも珍しくないが。
 ディエゴはギターを差し出すと、半ば強引に僕に持たせた。クラシックギターのナイロン弦は、とても美しい音がする。僕のようなロック系の弾き方では台無しだって思い知らされたばかりだが、笑ってごまかそうとしても彼はあきらめなかった。音楽よりもボール投げとかに夢中なヤンチャ坊主、そんな印象のディエゴにしては意外だ。
 ギターの調弦は、思った通り全然あってない。僕は大ざっぱにチューニングすると、ロックの有名な曲の触りを幾つか弾いてみた。けれどトニーを除いて、他は一人も知らなそうなので適当に止める。トニーが「ビートルズの有名な曲だ」と言っても、それすら分かってない様子だった。
 僕はすごすごと部屋に戻り、結構なカルチャー・ショックに凹んだ。僕個人としてビートルズに肩入れする気などないが、それにしたって…。みんな、本気でレットイットビーを知らないの?

メキシコ旅情【風雲編・8 スケート】

 トニーがシャワーを浴びて出てきた。これから子供たちと(というかベイビーベイブと)インライン・スケートで遊ぶのだ。
 彼は貸し出し用にと、安い物だがいくつも持っていた。それでも僕が自分のセットを持って来たのは、やっぱり使い慣れた道具じゃないと物足りないからだ。
 以前、ハワイイの公園をインライン・スケートで走った事がある(偶然レンタルしている店を見つけたからなんだけど)。それが自分のと同じモデルなのにガタガタで、手入れされてないから調子が悪いのなんの! その時、何度も(自分のを持って来れば良かった…)と思ったのだ。
 トニーがダッフルバッグに詰めている、子供達3人に貸す道具を見て(しばらく見ないうちに数が減ったな)と思った。そりゃあ安物だし、この辺は路面が悪いから壊れやすいのは分かる。歩いていてもと気付かない程度の舗装の粗さでもタイヤのゴムは早く減るし、激しい振動でパーツが抜け落ちたりするのだ。ここでは修理しようにも部品が手に入らない上、値段も割高だとか。
 しかし実のところは、この近所で失くした物の方が多いらしい。つまり、トニーが他の家の知らない子供にも貸してやって、そのまま戻ってこないって事。どの子も「トニーに返した」と言うので追求しなかったって、それも人が善過ぎるってもんだ。カモられてどうするのさ。

 夏の夕空は、日本と変わらない色合いをしている。ダイナミックな積乱雲に透き通るような淡い橙色、夕闇へと染まるグラデーション。僕が子供だった頃に見ていた、今の東京で見られるよりも鮮明な空。あるいは空を見る僕の心持ちが子供に近いのか。
 家から左に出ると運動場がある。昼間は、いつ通っても体操服を着た少年たちがバスケに興じている。うまく言えないが、いつ見ても(なんか変)という違和感があるコンクリートの台地だ。
 その手前のL字路を行くとマカレナを踊った公園があって、その先は幹線道路を挟んでメルカドの駐車場だ。最初、僕達はコート前の広い道路でスケートをしていた。ジョアンナ、ディエゴ、ベイビー・ベイブの三人と一緒に。
 そこへ、マカレナ軍団の一味が現れた。マカレナ公園の向かいの家からタチアナ達が走って来て、トニーや子供たちに何やら話しかけている。トニーは少し落ち着かない表情で「場所を変えよう」と僕に耳打ちした。
 子供好きの彼にしては意外な提案、でも僕としては大賛成だった。マカレナを踊ってからというもの、連中は僕を見つけると寄って来ては「マカレナ、マカレナ」と囃し立てるようになっちまったのだ。つられて道端で踊ってる僕も僕だが、心中はうっとうしさに根を上げそうな状態だった。
 こうなる事は、連中と公園に行った最初の時点から分かっていたのだ。今更考えても詮無いけれど、もっと慎重に関われば違っていたかもしれない。子供との間合いを決めるのは、出会いの時が肝心だ。一旦オモチャ扱いされたら、手綱を取り返すには相当な手管が要る。
 子供達と上手に付き合う、その距離感ってのは難しい。僕が言いたいのは(丁度良い関係を作る)という意味で、子供をコントロールする事じゃない。このマカレナ軍団とは初めに仲良くなり過ぎてしまい、もう僕の手には負えなかった。
 トニーは僕に〈脱出作戦〉のルートを指示した。運動場の脇から左に抜ける緑道の先に、連中を引き付けないようにして移動する。家の周りから離れれば追いかけてこない、そう彼は言うのだった。

 トニーは、手際よく3人を緑道へと誘導した。車道と歩道の段差や、緑道のスロープも上手にエスコートして通過させる。呆気なく作戦成功、もう後を追っては来なかった。トニー、見事な手並みじゃん。
 薄紅色の夕陽で光に照らされて染まる、背の低い木々の枝葉をすり抜けてゆく。タイルの継ぎ目でスケートのウィールがかたかた鳴っているが、アスファルトよりは滑らかでスピードが落ちない。どの木の幹も、なぜか根元から胸の高さまでが白く塗られているのが奇妙だ。
 道は、平行する二本の車道を垂直につなぐようにエドベンの家の背後の区画に続いている。緑道が終わりに近づいたところで、反対側からマウンテンバイクが走ってきた。思わぬ伏兵、ビクトールだ。どうする?! それでもトニーはいつもと変わらない調子で、さりげなく子供たちを緑道の向こう側に連れ出した。しばらく付いて来たビクトールも、やがて消えて行った。
 考えてみれば、別に近所の子供に怯えている訳じゃないんだ。今はただ(子供が集まると面倒を見切れない)から、連中から離れて遊んでいるだけだった。スケート初心者の三人に対して、トニーは責任がある。車にひかれたり、大ケガをしないように気を配る必要があった。
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メキシコ旅情【風雲編・9 分岐点】

 とっぷりと日が暮れる。30分位だったろうけど、ずっと滑っていたように体が重かった。長い一日の疲れが出てきた。
 子供たちと一緒にトニーの部屋に戻ると、早速ディエゴは散乱したテーブル上のキャンディを見つけて、トニーに甘え声を出した。
「食べてもいいよ」
 トニーはそう言ってTVをつけると、三人を部屋に残したまま僕を外へと連れ出した。何がなんだか分からない僕に、トニーは少し早口の英語で一方的に段取りを説明し始める。
「いいかい、これから僕らはタクシーでベイビー・ベイブの家まで…」
「待って、彼女だけタクシーに乗って帰ればいいんじゃないか。昨日と同じように…」
「違う、彼女の兄弟が会って礼を言いたいそうだ。断れるか? それに、彼女は君を気に入ってるから来て欲しいんだ」
 トニーは、彼女の帰宅が遅れた事に責任を感じているのだろう。それにしても珍しく有無を言わせない口調で、まるで僕の顔に「NO」と書いてあったのが不満だったみたいだ。だってこちとら疲れて今すぐ寝たいってのに、どうしてそこまで彼女の面倒をみる必要がある?
 ベイビー・ベイブというのは、エドベンが(トニーの好きなコだから)という意味で付けた内輪的な呼び名だった。親切にして仲良くなるのは結構だけど、そいつは彼自身の問題じゃないか。それに何となく、僕は彼女に係わりあいたくなかった。
 トニーは続けて言った。これから部屋には近所の子供がみんな来て「トイ・ストーリー」のビデオを観るんだ、寝てられないよ。僕らはその間に彼女を送って、帰って来る頃には子ども達も観終わっている。そしたら静かにのんびり出来るさ、何も問題ないだろう? と。
 OKと言うしかなかったが、その単純な一言を口にするのは大変な勇気が要った。ここではいつも彼に頼ってばかりだし、今こそ役に立つ良い機会なのだった。タクシーに乗ってあいさつして帰る…それだけだね? 僕は彼に念を押した。
「大丈夫だよ。すぐ帰って来るんだから」トニーは答えた。
 夏空は、薄暮に包まれてゆこうとしている。
 昨夜と何も変わらないはずだ、僕はそう考える事にした。
 その筈だったのだが。

 タクシーの中で、トニーは彼女の話を僕にも訳してくれていた。珍しく前の助手席に座っている僕は、後部座席で明るく言葉を交わす二人の調子に投げやりな相槌を打っていた。心ここにあらずで、どうでもいいのだ。
「君がギター弾くって言ったら、彼女が『じゃあ持って来れば良かったのに』ってさ!」
「はっはっは。へー、そぉ」
「家に行ったらマカレナ・ダンスを見せて欲しいって!」
「はっはっは。あっ、そぉ」
 タクシーは中型の日本車で、左ハンドルだった。信号が少ないからか、減速せずに勢いよく走る。自分達がどっちの方角に進んでいるのか覚えておきたかったが、さっぱり判らなくなった。
「彼女が『君の髪を切りたい』って!」
「…えっ? 何でまた」
「彼女はヘア・カットの学校に通っていて、練習したいんだって!」
「カッコ良く切ってくれるならね。カンクンで一番イカした髪型にしてくれ、って彼女に言って」
「大丈夫だってさ!『今よりは良くなる』って!」
 悪かったなー。実は自分でも、髪を切るつもりだったんだけど。昼間、メルカドをウロウロしていて床屋さんを見つけたので(明日にでも散髪に)と思っていたところだったのだ。不精ヒゲにぼさぼさ髪でメキシカン気取りでも、いざカンクンに着いてみたら逆に不審人物だった。
 この町の人は、清潔さを身上とするのだ。男性は大抵、短めの黒髪をぴったりとなでつけていた。少なくとも長髪はいなかったし、ヒゲを生やしている人もお目にかからない。そもそも無精ヒゲは、メキシコ人じゃなくて西部劇のならず者だ。
 カンクンの人達はみんな穏やかで押し付けがましくなく、ちょっと照れ屋だったりする。セントロの土産物売りさえも紳士的で、しつこく売りつけたりはしない。最初に声をかけられた時に無視したら、トニーにたしなめられてしまった。
「彼らは悪い奴じゃないんだからさー。ただ笑って『ノ・グラシァス[結構です]』って言えば、もうそれ以上は何も言ってこないヨ」
 トニーは、外国人が日本で味わう屈辱について、こんなふうに言っていた。
「通りかかった人に話しかけようとするでしょ、みんな逃げるヨ。道を尋ねるだけなのに、すごい無視するヨ。日本人どこでもそう。さっき、君は日本人だから普通に無視してたでしょ? でも土産物売る人は、ちょっとショックだったヨ、たぶん」
posted by tomsec at 17:05 | TrackBack(0) | メキシコ旅情4【風雲編】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする