僕の格好はTシャツとかトレーナーが基本なので、ほとんどスニーカーしか履かない。で、素材的にはキャンバス地かナイロン。以前はレザー製のも気にせず履いたけど、夏場はムレるし高いからね。せいぜいスウェードかな。色は全部同色じゃなくて多少カラフルな感じで、買い替える度に配色を変えてる。
服だったら、そりゃあもう着潰す感じなのね。ほつれ、穴あき、首回りや袖のリブ編みが擦り切れてるのも愛嬌だ。ジーパンなんかも縫っちゃうし。でもスニーカーだけは無理で、穴が開けば買い替えるしかない。
という訳で、また買い替え時になって新しい靴を買って来たの。REDWINGのアイリッシュ・セッターに似た、安物のワークブーツと中古のニューバランス485。いつからか、スニーカーは2足ずつ買うようになったんだよね。別に同じものじゃなくてさ、要は交互に履くために。でないと洗う暇がないし、すぐダメになるでしょ。
それまで履いていたのは、アディダスのスーパースターとVANSなのにボード系じゃないメッシュのスニーカーだったんだ。スーパースターといえば、一時期はナイキ・エアジョーダンみたいに誰もが履いてるのが厭でさ。でも数年前にヘンプ素材で売り出された、緑地に白い3本線のタイプを見た時には(これだ!)と思ったね。色落ちするってのもジーパンみたいで、意味もなくミンクオイル塗り込んだりして無駄な手入れも楽しかったりして。
まぁそんな訳で、買う前から気に入っていただけに使用頻度も偏ってしまったのだろうな。同時に買ったVANSのほうは、まだソール・パターンも消えてないもんね。こっちはパトリックの二番煎じみたいな形で昔っぽいデザインなんだけど、やっぱスニーカーは5000円ぐらいで買えないと。
パトリックにしてもオニヅカ復刻版にしても、あの値段は合点が行かないんだよなー。だからこの2銘柄を買う事はないだろう。実は今回のニューバランスも大抵が自分的相場より高いし、それに巷で無闇に履かれてるイメージがあって敬遠してた銘柄だったんだけどね。でも中古だから。
古着屋に、よくスニーカーが置いてあったりするでしょ? ああいうスニーカー、別にデッドストックなんかじゃなくて構わないから一度は買ってみたかったんだよ。でもサイズが合った試しがなかったのよ、それが今回は珍しくピッタンコでさー。
新しいスニーカーを履くと、あちこち出掛けたくなるんだよね。しかも最近はジーパンやらTシャツやら山ほど買ってるから、もう「超インドア志向」じゃいられません! ってな感じで。
相変わらず休日は遅寝遅起きなんだけど、この(少しでも太陽の光を浴びたい)って感覚は久しぶりだよ。今までは(窓越しの陽気でもOK)なのにね、とにかく外に出たくなるの。
今日なんか、もう夕方だったのに(陽差しが夏になってる)って分かった。
なんというか光源に近付いた感じで…。雨曇りだった昨日の間に距離を詰めてきたのか?
と、ここまでワープロに打ち込んで出掛けたらチャリでコケたんだよなー。近頃「ホッピング」とかいう、前後のタイヤを一緒に浮かせる方法を覚えてね。ちょっと得意になってピョンとやったら、カーブを曲がり切ってなくて車体が傾いてたんだわ…。
いやー、息が出来なくなるほど体を打付けたのって何年ぶりだろ? 擦りむいたのもさー、なんか笑っちゃうけど童心に返ったみたいで楽しいの。でも腰の辺りが(骨盤ズレた?)って感じが一瞬して、そうなるとイマイチ若くないよねー。
しかも爪が割れた、というか剥がれたりもしてて。思えば我が人生での初体験なんだけども(僕の知らない事ってまだまだあるんだろうなぁー)なんて、しみじみしちゃったのでした。って、別に「もう一丁こ〜い!」とか言う気はないけどね。
平成17年5月10日
2005年05月11日
2005年05月03日
78*大人になりましょう
僕は、広義での江戸っ子だ…というのは、江戸っ子の定義って色々あるからね。
狭義では、たとえば「3代前から神田明神の氏子」とか。江戸時代の御城下って、そんなレベルだからね。そうなると浅草も柴又も深川も両国も除外だな、月島方面なんて人足寄場(?)だし。
戸籍上では日本橋小伝馬町の生まれ、でも実際に育ったのは都電荒川線の沿線ですから。親父も疎開先で生まれ育って、戸籍上の住まいに戻る事はなかった。それなのに一端の江戸っ子気取りで、作務衣なんか着そうな勢いで参っちゃうよ。あれだけは着ないでって頼んでるもん、だってアレ系の年寄りにゃあ気負ってて面倒臭いのが多いからさー。
まぁ、それは置いといて。「べらんめぇ」って啖呵言葉は、定説じゃあ「べらぼうめ」が訛った(というかスピーキングリダクション?)らしい。しかし我が親父の口癖「馬鹿野郎め」は「べぇろぅめぃ」に聞こえてさ、そのほうが限りなく「べらんめい」に近い気がするし辻褄あってると思うんだけどね。
ところで、ずいぶん前に読んだ新聞の日本語を考察する記事の話。
半濁音を使う人は、関東に多いんだそうで。第二音節に使う「ガ行」が、鼻にかかった鼻濁音になるとか。でも最近では人の移動や学校教育などのせいか、減ってきているらしい。で、その話を関西の友人にしてたら、僕も「鼻濁音になってる」と言われてね。ひょっとしたら、最後の鼻濁音世代なのかもなぁ…。
それと、これも新聞で知ったんだけど「江戸しぐさ」っていうの。
たとえば狭い道ですれ違う時に目礼したり、避けあって通るとかね。雨の日なら、お互いの傘が当たらないよう外側に傾けるとか。往来も激しく、せせこましい下町で無用の小競り合いを避ける知恵でもあったらしい。西洋でいえば敬礼や握手のように、互いに敵意がない証しを示す暗黙の了解だったのだろうね。
それって一種の一般常識なのかと思ってた、でも教わったというより生活の中で身についた所作だったんだなぁ。今は目上の人でも滅多に出会わなくなったもんね、そういった大人の仕草には。不遜な態度の相手にも自然に体が動いちゃって、なんだか後から屈辱的な気分になったりしてさ。
それでも時折、同じようにして誰かと行き交うと嬉しくなる。相手のスマートさを害さなかった、そう出来る自分で良かったと思うよ。別に江戸っ子を気取るつもりはないがね、そんな瞬間に僕は自分の生まれを誇らしく感じるんだ。
やがて廃れる所作だとしてもね。
僕は古いものを無条件に有り難がりはしないのね、懐古主義って楽だけど発展性がないというか。そりゃあ温故知新は結構、でも新旧の折衷品は手法として古いじゃん? どこかで聴いたような音楽、たとえばそういった雰囲気の小物とか安心感があるけど心は躍らないっていう感じの…。
だからって、今更「アメリカで大流行!」でもないよなー。昔は売りやすい宣伝文句だったろうが、やっぱ「他所は他所、ウチはウチ」なんだよね。PL法が施行された辺りから日本も訴訟社会になってきた気がして、なんか一段と不毛になってきたと思う。
そもそも、コミュニケーションの不在が当たり前になってるからねぇ。お店でも電車でも、みんな知り合い以外には能面みたいで。車内で「ちょっと通してもらえます?」とか、レジで「これ、お願いします」なんて言うと逆に目立っちゃうし。でも海外に行くと違ったりするんだよな…。
大抵の事柄は、互いを思いやって話し合えば済む筈なのにね。それで解決できない事でもないのに、どこかで掛け違えていく。まぁ日本国内だけの話じゃないか、グローバリズムや個性尊重が取り払った垣根の跡に溝が残ってるのに、気づきもしないでギャップに捕らわれるような。
いや、批判じゃないつもりよ? 誰かが変わるべきだなんざ、おこがましいって。変わるのは僕自身、ただ情報不足というか。まさか現状に迎合してく気はしないしねぇ…。
平成17年5月1日
狭義では、たとえば「3代前から神田明神の氏子」とか。江戸時代の御城下って、そんなレベルだからね。そうなると浅草も柴又も深川も両国も除外だな、月島方面なんて人足寄場(?)だし。
戸籍上では日本橋小伝馬町の生まれ、でも実際に育ったのは都電荒川線の沿線ですから。親父も疎開先で生まれ育って、戸籍上の住まいに戻る事はなかった。それなのに一端の江戸っ子気取りで、作務衣なんか着そうな勢いで参っちゃうよ。あれだけは着ないでって頼んでるもん、だってアレ系の年寄りにゃあ気負ってて面倒臭いのが多いからさー。
まぁ、それは置いといて。「べらんめぇ」って啖呵言葉は、定説じゃあ「べらぼうめ」が訛った(というかスピーキングリダクション?)らしい。しかし我が親父の口癖「馬鹿野郎め」は「べぇろぅめぃ」に聞こえてさ、そのほうが限りなく「べらんめい」に近い気がするし辻褄あってると思うんだけどね。
ところで、ずいぶん前に読んだ新聞の日本語を考察する記事の話。
半濁音を使う人は、関東に多いんだそうで。第二音節に使う「ガ行」が、鼻にかかった鼻濁音になるとか。でも最近では人の移動や学校教育などのせいか、減ってきているらしい。で、その話を関西の友人にしてたら、僕も「鼻濁音になってる」と言われてね。ひょっとしたら、最後の鼻濁音世代なのかもなぁ…。
それと、これも新聞で知ったんだけど「江戸しぐさ」っていうの。
たとえば狭い道ですれ違う時に目礼したり、避けあって通るとかね。雨の日なら、お互いの傘が当たらないよう外側に傾けるとか。往来も激しく、せせこましい下町で無用の小競り合いを避ける知恵でもあったらしい。西洋でいえば敬礼や握手のように、互いに敵意がない証しを示す暗黙の了解だったのだろうね。
それって一種の一般常識なのかと思ってた、でも教わったというより生活の中で身についた所作だったんだなぁ。今は目上の人でも滅多に出会わなくなったもんね、そういった大人の仕草には。不遜な態度の相手にも自然に体が動いちゃって、なんだか後から屈辱的な気分になったりしてさ。
それでも時折、同じようにして誰かと行き交うと嬉しくなる。相手のスマートさを害さなかった、そう出来る自分で良かったと思うよ。別に江戸っ子を気取るつもりはないがね、そんな瞬間に僕は自分の生まれを誇らしく感じるんだ。
やがて廃れる所作だとしてもね。
僕は古いものを無条件に有り難がりはしないのね、懐古主義って楽だけど発展性がないというか。そりゃあ温故知新は結構、でも新旧の折衷品は手法として古いじゃん? どこかで聴いたような音楽、たとえばそういった雰囲気の小物とか安心感があるけど心は躍らないっていう感じの…。
だからって、今更「アメリカで大流行!」でもないよなー。昔は売りやすい宣伝文句だったろうが、やっぱ「他所は他所、ウチはウチ」なんだよね。PL法が施行された辺りから日本も訴訟社会になってきた気がして、なんか一段と不毛になってきたと思う。
そもそも、コミュニケーションの不在が当たり前になってるからねぇ。お店でも電車でも、みんな知り合い以外には能面みたいで。車内で「ちょっと通してもらえます?」とか、レジで「これ、お願いします」なんて言うと逆に目立っちゃうし。でも海外に行くと違ったりするんだよな…。
大抵の事柄は、互いを思いやって話し合えば済む筈なのにね。それで解決できない事でもないのに、どこかで掛け違えていく。まぁ日本国内だけの話じゃないか、グローバリズムや個性尊重が取り払った垣根の跡に溝が残ってるのに、気づきもしないでギャップに捕らわれるような。
いや、批判じゃないつもりよ? 誰かが変わるべきだなんざ、おこがましいって。変わるのは僕自身、ただ情報不足というか。まさか現状に迎合してく気はしないしねぇ…。
平成17年5月1日