猫か犬かと訊かれれば、僕は「飼うなら犬かな」と答えるだろう。たぶん。
きっと飼った事がないせいだね、猫ってイメージは「居着く」動物であって「飼う」という感覚じゃなさそう。その点では犬のほうが、メンバーとしての守備位置を考えそうで。
動物との間合いは、仲間以外は警戒対象だと思うんだ。相棒とかチームを組むとすれば、僕は猫を相棒にはできないなぁ。
そういえば電子制御のペット、あの発想って(種なしブドウ)っぽくない? 愛知万博とか興味はないけど、近頃はロボットが話題になる時って「アイボ的」な雰囲気を感じるんだよね。
ただ貴方に都合のよい愛想だけを、煩わしくない無償の愛だけを…。それは娼婦の仕事であり、奴隷の役割だった事をすり替えてるだけじゃないのかぁ? ディズニーが動物達を「良き友人」として描き、アシモフがロボットを「忠実な下僕」と規定した時代から一歩も前に出ていないじゃん。
結局は(自分達に奉仕して当然の存在)を夢見た、とはいえ両氏の発想が古い制度を超えなくたって当然だよね。でもさ、もう21世紀なんだし。
しばらく前にね、近所の公園でイスラエル人の男性に会ったのよ。お互い犬の散歩中で、ウチのは小型犬が嫌いだから他の犬を避けるようにしてたんだけど、向こうから話しかけてきたの。
その男性は「まだ日本に来て1週間だけど、あと1週間したら祖国に帰る」と言っててさ、妻子を現地に残して2週間も仕事しないで物見遊山とは意外だったよ。9・11テロ以前だか以降だったか、とにかくパレスチナとの問題で戒厳令が敷かれていたのに。
特に裕福そうでもないし、まったく呑気な口調だったなぁ。遠い国で報じられている噂が、あの国のすべてを語っている訳じゃないっていう感じがしたんだ。
きっと普通に働き暮らす、他の国と変わりない家庭があふれている。そして、すぐ近くで自爆テロが起きて町中に戦車と銃声があふれている…。それはもしかしたら、戦時下よりも却って名状し難い日常なのかも。
ローマ帝国の侵略からイギリスの3枚舌外交による建国と紛争、他民族による翻弄の歴史は僕の手に余るので止めとこう。パレスチナという名前の由来は、聖書のペリシテ人に由来するというから溝は深い。
しかし教育というか刷り込みというか、そういう事を考えると僕もまた日本という社会集団に相応しい育てられ方をされたのだろうな。入力する情報の選択は、集団社会やそれを統括する側の意向次第だからね。
原爆投下も、中国のチベット侵攻も、中東に対するアメリカの外交姿勢も。
大昔の人間が生き延びるには、自然を観察し学び取る事が必須だった。その結果が今じゃ…謙虚に学んでる場合じゃないのかねぇ。
ところで我が家の犬は可哀想に、しつけも何も知らない家に転がり込んできてさ。手に負えなくなって、成犬になる手前からトレーニングが始まったのね。子犬のうちならともかく、人間社会に順化させるのは難しい。でも彼が生きて行く道は、それ以外に選べなかった。
しつけを始めた当初、家族全員でトレーニングに参加してたのよ。動物をコントロールするためには「飼う側が、動物の言語をマスターする」という訓練が必要なんだよね。つまり、しつけられてたのは僕らのほうだった訳。
その事は、まったく理解できるんだ。馬に乗るのも鳥を操るのも、それが基本になけりゃ嘘だと思ってる。でも躍らされる側の気持ちになるとね、それを犬に押し付けるしかないのも…。で、耐えられなくなって僕は降りちゃったんだよ。
「野生の飼育→飼い慣らせると思うなよ」
これは、最初に就いた仕事を辞める前に書き留めた言葉。
それから何年も経って勤め人になった僕は、上司から「理不尽だと思っても我慢してれば、いつか報われる時がくる」というような慰めを言われたの。
そんなこんなを、犬のしつけ訓練で思い出しちゃったんだわ。
飼い犬のためでも、やっぱり僕自身が調教されるのは受け入れられなかった。物心つかないうちじゃないと、ね。守ることを強いられる、自分以外に根拠があるルールってのは。
動物の言語だったら攻撃とか威嚇でしかないのに、いいオトナまで(動物は優しい下僕)だと勘違いして…。
癒しってのは、逆から見たら搾取と虐待だったりして。
平成17年8月23日
2005年08月23日
2005年08月15日
メキシコ旅情【立身編1・プラジャ・デル・カルメン】
延々と伸びる、ひと筋の街道。それは一見すると平坦な密林の大地が、実は大きくうねっている事を教えてくれていた。
静かな雨は止んで、重く垂れ込めていた雲が遠ざかった空には夕闇が立ち込めている。そして車の後方には、鈍い残照に暗い虹が大きく架かっていた。フロントガラスには地平線の暗闇に向かって道が伸びて、僕らは雨雲を追いかけているようだ。
みんな疲れてきたのだろう、その言葉のない時間は僕にとって心地よかった。あんまり周囲が元気良すぎたので、それに併せているだけでも苦痛になってきていたのだ。
少し眠っていたらしい。気が付くと街道からはずれた道を走っていた。未舗装の砂利道に出来た、大きな水溜まりを避けながら。ゆっくりと蛇行運転を繰り返し、道全体が水没している箇所では床下から車内に浸水してきた。足元の鉄板は、穴だらけなのだ。
カンクン郊外の雰囲気に似ているが、夜道にしては結構な人出だな。歩き方から、地元の人間じゃなくて観光客のそぞろ歩きだと分かった。かすかに潮の匂いがする、海沿いの小さな村に来ていた。
何軒かの、開放的なレストランの前を通過した。どの店も明るく賑わい、マリアッチが陽気な音楽を奏でている。エドベンは駐車スペースを捜しながら運転している様子で、僕は長い一日の空腹に居ても立ってもいられなくなってきた。
しかし華やかな町並みを外れ、車はビーチへと向かう。さりげなく食事の提案をしてみるが、誰からも返事はなかった。トニーだけが「おなか空いたね」と答えた。
この町はプラジャ・デル・カルメンだと、トニーが教えてくれた。彼は以前にもここに来た事があるのだそうだ。
「ここのほうがカンクンより物価が安くて、バックパッカー向けだね。治安もそれほど悪くない」
トニーは、この庶民的なリゾート地を気に入っているようだ。確かにここは絵に描いたような南国楽園海岸だった。ヤシの根元に貸し出し用ボートが並び、ソウル・ミュージックの流れるココナツ型のバーがネオンを連ねている。
車を降りた一行は、どうやらこれから一杯やるらしい。お約束のような選曲で「トラック・オブ・マイ・ティアーズ」が流れている…悪くないねェ! 夜風に、海の匂いと草木の香りが交じり合ってそよぐ。それにしても雨上がりの砂浜は、歩くごとに濡れた砂が跳ね上がって厄介だ。
目的地は、今朝がたコーヒーを飲んだ店を大きく派手にしたような吹きさらし店だった。つまり、映画「カクテル」に出てくるスタンド・バーそのもの。結構混み合っていて、カウンターを囲む椅子はすべて埋まっていた。人数分の席が空くのを待たず、二手に分かれて席を確保する。
椅子の代わりに天井から吊られたブランコは二人掛けで、ビアネイとグラシエラが並んで腰掛けた。トニーと僕は、まさか一緒に座る趣味はないので互いに席を譲り合う。そこエドベンが満面の笑顔でやって来て、僕らの肩をバンバン叩きながら言った。
「もう注文したか?!」
彼はバーテン越しの向かい側に、大学生達と席を取っていたのだ。
「いや、これから。エドベン、何かオススメの飲み物はある?」
すると彼はカウンターに身を乗り出し、バーテンダーに向かってスペイン語でオーダーしてくれた。マヤン・サクリファイス…? 聞いたこともないカクテルだなぁ。
カウンターに並んだのは、トニーと僕の2人分。深紅の液体の表面に青白い炎が揺らめき、しかも太いストロー付きときたか! まったく、こんな事だろうと思ったぜ。燃えてるんだから100プルーフ(50度)以上って事だろ、ただでさえストロー呑みは効きが早いっていうのに…エドベンめ!
エドベンは得意の笑顔で、僕ら二人にグラスを持たせる。
「サルー!」
…じゃあないっつうの。
度数の高いカクテルはショート・ドリンクと呼ばれて、ふつう漏斗型の小さなカクテル・グラスで作って二、三口で飲み干せるものだ。しかし「マヤン・サクリファイス」は、コリンズ・グラスに近い細みのグラスを使っていた。
ストローの先から揮発したアルコールでむせそうになる、それを見てマヤ人の末裔たち三人は大爆笑。用心しながら一口すすると、案の定ひたすら強烈なアルコールの味だ。ここまでキツイとベースの酒なんて判らないし、それが何だろうが違いはない。
ビアネイが興味津々に僕を覗き込み、「どう、美味しい?」と尋ねる。
「まぁまぁかな。呑んでみなよ」
僕が平然として言うと、彼女はグラスを受け取ってそっと吸い込んだ。一瞬(うっ!)という顔をして、また大笑いした。「遠慮しないで、もっと呑みなよ」と言うと彼女はグラスを押し返し、グラシエラもトニーから一口もらって顔をしかめた。
「エドベンもどうぞ?!」
さすがに彼は誘いに乗らなかった。僕はほとんど残して、トニーに至っては口を付けただけ。ビアネイが僕に、彼女達と同じ「ピニャ・コラーダ」をオーダーしてくれた。
「ピーニャっていうのは、パイナップルのことなのよ。知ってた?」
前にも彼女から同じことを聞いた気がする。多分、スペール・メルカドに行った時だろう。
ここからどういう話の流れでそうなったのか覚えていないのだけれど、僕はビアネイにマッサージをしてあげた。多分(疲れたでしょ、肩揉むよ)程度の事だったのだろうと思う。それを見てトニーが「上手だネ」と感心したので、僕はふざけ半分で答えた。
「シークレット・アームズさ」
意味が伝わっていないトニーに、僕は日本語で確かめる。「秘密兵器は、シークレット・アームズでいいのかな。」
「うーん、そうね。まぁ、それで通じるョ。でもなんで?」
「えぇとね、後で話すよ。」 …あれ、判らないのかなぁ?
手を離すと、ビアネイがうっとりとした瞳で僕を見上げた。踊っている時と同じ艶っぽさだ。彼女は時々、恐ろしくセクシーな別人に豹変する。いかんいかん。トニーが、さりげなく日本語で話しかけてきた。
「それで君の〈セクレテ・アルマ〉ってなんなの?」
男同士の密談は、日本語で始まり英語で終わった。
静かな雨は止んで、重く垂れ込めていた雲が遠ざかった空には夕闇が立ち込めている。そして車の後方には、鈍い残照に暗い虹が大きく架かっていた。フロントガラスには地平線の暗闇に向かって道が伸びて、僕らは雨雲を追いかけているようだ。
みんな疲れてきたのだろう、その言葉のない時間は僕にとって心地よかった。あんまり周囲が元気良すぎたので、それに併せているだけでも苦痛になってきていたのだ。
少し眠っていたらしい。気が付くと街道からはずれた道を走っていた。未舗装の砂利道に出来た、大きな水溜まりを避けながら。ゆっくりと蛇行運転を繰り返し、道全体が水没している箇所では床下から車内に浸水してきた。足元の鉄板は、穴だらけなのだ。
カンクン郊外の雰囲気に似ているが、夜道にしては結構な人出だな。歩き方から、地元の人間じゃなくて観光客のそぞろ歩きだと分かった。かすかに潮の匂いがする、海沿いの小さな村に来ていた。
何軒かの、開放的なレストランの前を通過した。どの店も明るく賑わい、マリアッチが陽気な音楽を奏でている。エドベンは駐車スペースを捜しながら運転している様子で、僕は長い一日の空腹に居ても立ってもいられなくなってきた。
しかし華やかな町並みを外れ、車はビーチへと向かう。さりげなく食事の提案をしてみるが、誰からも返事はなかった。トニーだけが「おなか空いたね」と答えた。
この町はプラジャ・デル・カルメンだと、トニーが教えてくれた。彼は以前にもここに来た事があるのだそうだ。
「ここのほうがカンクンより物価が安くて、バックパッカー向けだね。治安もそれほど悪くない」
トニーは、この庶民的なリゾート地を気に入っているようだ。確かにここは絵に描いたような南国楽園海岸だった。ヤシの根元に貸し出し用ボートが並び、ソウル・ミュージックの流れるココナツ型のバーがネオンを連ねている。
車を降りた一行は、どうやらこれから一杯やるらしい。お約束のような選曲で「トラック・オブ・マイ・ティアーズ」が流れている…悪くないねェ! 夜風に、海の匂いと草木の香りが交じり合ってそよぐ。それにしても雨上がりの砂浜は、歩くごとに濡れた砂が跳ね上がって厄介だ。
目的地は、今朝がたコーヒーを飲んだ店を大きく派手にしたような吹きさらし店だった。つまり、映画「カクテル」に出てくるスタンド・バーそのもの。結構混み合っていて、カウンターを囲む椅子はすべて埋まっていた。人数分の席が空くのを待たず、二手に分かれて席を確保する。
椅子の代わりに天井から吊られたブランコは二人掛けで、ビアネイとグラシエラが並んで腰掛けた。トニーと僕は、まさか一緒に座る趣味はないので互いに席を譲り合う。そこエドベンが満面の笑顔でやって来て、僕らの肩をバンバン叩きながら言った。
「もう注文したか?!」
彼はバーテン越しの向かい側に、大学生達と席を取っていたのだ。
「いや、これから。エドベン、何かオススメの飲み物はある?」
すると彼はカウンターに身を乗り出し、バーテンダーに向かってスペイン語でオーダーしてくれた。マヤン・サクリファイス…? 聞いたこともないカクテルだなぁ。
カウンターに並んだのは、トニーと僕の2人分。深紅の液体の表面に青白い炎が揺らめき、しかも太いストロー付きときたか! まったく、こんな事だろうと思ったぜ。燃えてるんだから100プルーフ(50度)以上って事だろ、ただでさえストロー呑みは効きが早いっていうのに…エドベンめ!
エドベンは得意の笑顔で、僕ら二人にグラスを持たせる。
「サルー!」
…じゃあないっつうの。
度数の高いカクテルはショート・ドリンクと呼ばれて、ふつう漏斗型の小さなカクテル・グラスで作って二、三口で飲み干せるものだ。しかし「マヤン・サクリファイス」は、コリンズ・グラスに近い細みのグラスを使っていた。
ストローの先から揮発したアルコールでむせそうになる、それを見てマヤ人の末裔たち三人は大爆笑。用心しながら一口すすると、案の定ひたすら強烈なアルコールの味だ。ここまでキツイとベースの酒なんて判らないし、それが何だろうが違いはない。
ビアネイが興味津々に僕を覗き込み、「どう、美味しい?」と尋ねる。
「まぁまぁかな。呑んでみなよ」
僕が平然として言うと、彼女はグラスを受け取ってそっと吸い込んだ。一瞬(うっ!)という顔をして、また大笑いした。「遠慮しないで、もっと呑みなよ」と言うと彼女はグラスを押し返し、グラシエラもトニーから一口もらって顔をしかめた。
「エドベンもどうぞ?!」
さすがに彼は誘いに乗らなかった。僕はほとんど残して、トニーに至っては口を付けただけ。ビアネイが僕に、彼女達と同じ「ピニャ・コラーダ」をオーダーしてくれた。
「ピーニャっていうのは、パイナップルのことなのよ。知ってた?」
前にも彼女から同じことを聞いた気がする。多分、スペール・メルカドに行った時だろう。
ここからどういう話の流れでそうなったのか覚えていないのだけれど、僕はビアネイにマッサージをしてあげた。多分(疲れたでしょ、肩揉むよ)程度の事だったのだろうと思う。それを見てトニーが「上手だネ」と感心したので、僕はふざけ半分で答えた。
「シークレット・アームズさ」
意味が伝わっていないトニーに、僕は日本語で確かめる。「秘密兵器は、シークレット・アームズでいいのかな。」
「うーん、そうね。まぁ、それで通じるョ。でもなんで?」
「えぇとね、後で話すよ。」 …あれ、判らないのかなぁ?
手を離すと、ビアネイがうっとりとした瞳で僕を見上げた。踊っている時と同じ艶っぽさだ。彼女は時々、恐ろしくセクシーな別人に豹変する。いかんいかん。トニーが、さりげなく日本語で話しかけてきた。
「それで君の〈セクレテ・アルマ〉ってなんなの?」
男同士の密談は、日本語で始まり英語で終わった。
メキシコ旅情【立身編・2 セクレテ・アルマ】
ピニャ・コラーダが出てくるまで、意外と時間がかかった。店は満席で混んでいる。今はちょうど「ハッピー・アワー」なのだ。実はエドベン達も、半額程度で呑めるそれを狙って来たのだった。
カウンターの向こうに戻っていたエドベンが、大声で僕を呼んだ。人目につかないようにデニムのコを指さして、僕に日本語で耳打ちをしてきた。
「…キミは、ヘセラの事が好きなんだろ。」
えっ!? いきなり何を言うのさ、図星を突かれたが白を切る僕に「ヘセラも君を好きだって」と駄目押ししてくる。えぇ〜っ!? だけど彼女はガレージ・パーティの夜、草むら君と…。
「彼女は付き合ってる人いないよ、さっき確かめたんだから大丈夫。さあ、アタックしろ!」
エドベンは焦れったそうに眉をひそめた。だって彼とは…本当に違うのか?
「OK分かった、じゃあ僕の[秘密兵器]を使っちゃうよ〜ん。」
そう言って僕はニヤリとしてみせたが、彼には意味が通じない。そこへ、ちょうどトニーが来たので密談を要約してもらう。もちろん、周囲に解らないよう日本語で。
まぁぶっちゃけて言えば(指先で口説き落とす)ってコトだ、でも僕は本気じゃなくて下世話な冗談のつもりだった。が、聞き終わるやいなやエドベンは彼女に叫んだ。
「ヘセラ、彼がマッサージをしてくれるってさ!」
一瞬、周囲の目が僕に集まり、ヘセラの黒い瞳に好奇心が浮かんだ…気がした。
エドベンめ〜、まったく…!
「彼女、やって欲しいって。」
当然ながら、まさかこんな場所で奥の手を披露する筈がない。軽く肩でも揉んどいて、無難にお茶を濁そうっと。
ヘセラが黒い髪をかき上げて、うなじをあらわにする。却って不自然な程、きれいにムラなく焼けた肌。細い肩を覆うワンピースの生地は、近くで見たらデニムではなくダンガリーだった。
彼女の肩に指を置いた瞬間、思わず僕はビクッとしてしまった。その恥ずかしさで一気に緊張して、関係ない事を思い浮かべようとする。でもダメだ、柔らかな感触がワンピース越しに伝わってくるのだ。離し難い気持ちで、くびすじと二の腕までマッサージしてしまった。
この先はもう、非公開の手しか残っていない。名残惜しいけど終わりにしなくちゃ。
「サンキュー」
僕が指を離すと、微妙に間を置いて振り向いた。白い歯をみせて笑う瞳が、見上げるようにして僕を見ている。ドギマギして目を泳がせながら、僕はなんとか平静を装って訊いた。
「気分はどう?」
彼女は僕の目線を捉えたまま、意味ありげに微笑んだ。
「いいわ」
考えてみれば、ヘセラと言葉を交わすのはこれが初めてだ。今まで抱いていた(つん、として気位が高そう)という印象と全然違う。そんなギャップもまた魅力的に感じる。
この続きなんて、おそらく二度とやって来ないな。うーん、残念。もしも2人っきりになれるのなら…なんてね、可能性が無いから残念がれるんだって解っているんだけど。
大学生達の周りのブランコは埋まったままで、あぶれた僕らは話すでもなく後方のベンチに座る。グラシエラとビアネイも、飲み物を持ってやって来た。エドベンと大学生達が盛り上がってる一方で、僕らは空腹のせいか手持ち無沙汰…となれば話は早い。
「何か食べにでも行きますか〜!」
という訳で、ハラペコ四人組はビーチの喧騒を抜け出す。芝生を横切って低い木立をくぐり、月明かりと静けさの中に出た。ほの暗い舗装道路を歩くと、やがて通りの両側にレストランが。張り出したテラスではマリアッチが陽気なメキシコ民謡を奏でて、照らし出されたテーブルの上には色とりどりの料理と笑顔。
もぉーたまらん! ようやく店に入り、僕はメニューを三人に任せる。要するに(とにかく早く喰わせろ)状態。出てきたメキシコ料理の名前なんて、僕には興味なかった。片っ端から、トルティージャに色んな具をくるんで平らげた。過積載の具がどんどんこぼれる、それも気にしない。
店を後にする頃には、通りの人影もまばらになっていた。まだ店を開けている何軒かの間をマリアッチが渡り歩いている。彼らはそれぞれ、揃いの衣装に様々な大きさのギターを抱えていた。どのマリアッチも、華やかな金の刺しゅうを施した黒のスーツだ。
トニーも「マリアッチといえばブラック・スーツに決まってる」と言っていたが、ならば以前僕が出逢ったベラクルスからの白マリアッチは何だったのだろう…ニセモノか?
虫の声と、かすかな波音。
すっかり人の気配が絶えたアスファルトの坂道は風もなく、僕ら四人の足音しか聞こえない。
黙って出て来たんじゃないけれど、エドベン達は心配してないかなぁ? 僕達だけディナー食べて、怒らないかなぁ…。って、今更そんな事を気にしたりして。いや、いいのだ。さんざっぱら振り回されて、合わせてばっかりいられるかっての。
すでにハッピー・アワーを過ぎたバーの賑わいに戻ると、エドベン達が見当たらない。僕らのほうが周りを捜す羽目になったが、やはりエドベンは待ちくたびれて機嫌悪そうだった。
「ごめんよ」
「いいさ」
そう、これは本来、エドベンのバースデー・ピクニックなのだ。ずっと運転しっ放しで、疲れているだろうに…。そこに思い至って、申し訳ない気持ちになる。欲求が充たされて人は思いやりを知るのだ。彼は「ダーイジョーブだよ!」と言って微笑んでくれた。
帰りの車中では、トニーが得意の冗談を連発して大笑いだった。もしかしたらそれは、彼のエドベンに対する気遣いなのかも知れない。
暗い夜道の陥没に突如現れた水たまりは深く、ワーゲン・ゴルフは再び床上浸水に見舞われた。僕は後部座席で両足を抱え上げ、水が抜け切るまで丸まっていなければならなかった。その姿勢は、酔っ払って腹一杯の僕にはかなりキツい。幹線道路まで、ひどい道路事情だった。
結構飛ばしていたのか、意外に早くカンクン空港を通過した。大学生達はエドベンと同じく、この空港で働いているのだそうだ。セントロの入り口にあるロータリー交差点で、ダッヂ・バンはクラクションを鳴らして別方向に走り去った。開け放した窓から、僕は大きく手を振る。
僕はまた彼女に逢うだろうか…?
カウンターの向こうに戻っていたエドベンが、大声で僕を呼んだ。人目につかないようにデニムのコを指さして、僕に日本語で耳打ちをしてきた。
「…キミは、ヘセラの事が好きなんだろ。」
えっ!? いきなり何を言うのさ、図星を突かれたが白を切る僕に「ヘセラも君を好きだって」と駄目押ししてくる。えぇ〜っ!? だけど彼女はガレージ・パーティの夜、草むら君と…。
「彼女は付き合ってる人いないよ、さっき確かめたんだから大丈夫。さあ、アタックしろ!」
エドベンは焦れったそうに眉をひそめた。だって彼とは…本当に違うのか?
「OK分かった、じゃあ僕の[秘密兵器]を使っちゃうよ〜ん。」
そう言って僕はニヤリとしてみせたが、彼には意味が通じない。そこへ、ちょうどトニーが来たので密談を要約してもらう。もちろん、周囲に解らないよう日本語で。
まぁぶっちゃけて言えば(指先で口説き落とす)ってコトだ、でも僕は本気じゃなくて下世話な冗談のつもりだった。が、聞き終わるやいなやエドベンは彼女に叫んだ。
「ヘセラ、彼がマッサージをしてくれるってさ!」
一瞬、周囲の目が僕に集まり、ヘセラの黒い瞳に好奇心が浮かんだ…気がした。
エドベンめ〜、まったく…!
「彼女、やって欲しいって。」
当然ながら、まさかこんな場所で奥の手を披露する筈がない。軽く肩でも揉んどいて、無難にお茶を濁そうっと。
ヘセラが黒い髪をかき上げて、うなじをあらわにする。却って不自然な程、きれいにムラなく焼けた肌。細い肩を覆うワンピースの生地は、近くで見たらデニムではなくダンガリーだった。
彼女の肩に指を置いた瞬間、思わず僕はビクッとしてしまった。その恥ずかしさで一気に緊張して、関係ない事を思い浮かべようとする。でもダメだ、柔らかな感触がワンピース越しに伝わってくるのだ。離し難い気持ちで、くびすじと二の腕までマッサージしてしまった。
この先はもう、非公開の手しか残っていない。名残惜しいけど終わりにしなくちゃ。
「サンキュー」
僕が指を離すと、微妙に間を置いて振り向いた。白い歯をみせて笑う瞳が、見上げるようにして僕を見ている。ドギマギして目を泳がせながら、僕はなんとか平静を装って訊いた。
「気分はどう?」
彼女は僕の目線を捉えたまま、意味ありげに微笑んだ。
「いいわ」
考えてみれば、ヘセラと言葉を交わすのはこれが初めてだ。今まで抱いていた(つん、として気位が高そう)という印象と全然違う。そんなギャップもまた魅力的に感じる。
この続きなんて、おそらく二度とやって来ないな。うーん、残念。もしも2人っきりになれるのなら…なんてね、可能性が無いから残念がれるんだって解っているんだけど。
大学生達の周りのブランコは埋まったままで、あぶれた僕らは話すでもなく後方のベンチに座る。グラシエラとビアネイも、飲み物を持ってやって来た。エドベンと大学生達が盛り上がってる一方で、僕らは空腹のせいか手持ち無沙汰…となれば話は早い。
「何か食べにでも行きますか〜!」
という訳で、ハラペコ四人組はビーチの喧騒を抜け出す。芝生を横切って低い木立をくぐり、月明かりと静けさの中に出た。ほの暗い舗装道路を歩くと、やがて通りの両側にレストランが。張り出したテラスではマリアッチが陽気なメキシコ民謡を奏でて、照らし出されたテーブルの上には色とりどりの料理と笑顔。
もぉーたまらん! ようやく店に入り、僕はメニューを三人に任せる。要するに(とにかく早く喰わせろ)状態。出てきたメキシコ料理の名前なんて、僕には興味なかった。片っ端から、トルティージャに色んな具をくるんで平らげた。過積載の具がどんどんこぼれる、それも気にしない。
店を後にする頃には、通りの人影もまばらになっていた。まだ店を開けている何軒かの間をマリアッチが渡り歩いている。彼らはそれぞれ、揃いの衣装に様々な大きさのギターを抱えていた。どのマリアッチも、華やかな金の刺しゅうを施した黒のスーツだ。
トニーも「マリアッチといえばブラック・スーツに決まってる」と言っていたが、ならば以前僕が出逢ったベラクルスからの白マリアッチは何だったのだろう…ニセモノか?
虫の声と、かすかな波音。
すっかり人の気配が絶えたアスファルトの坂道は風もなく、僕ら四人の足音しか聞こえない。
黙って出て来たんじゃないけれど、エドベン達は心配してないかなぁ? 僕達だけディナー食べて、怒らないかなぁ…。って、今更そんな事を気にしたりして。いや、いいのだ。さんざっぱら振り回されて、合わせてばっかりいられるかっての。
すでにハッピー・アワーを過ぎたバーの賑わいに戻ると、エドベン達が見当たらない。僕らのほうが周りを捜す羽目になったが、やはりエドベンは待ちくたびれて機嫌悪そうだった。
「ごめんよ」
「いいさ」
そう、これは本来、エドベンのバースデー・ピクニックなのだ。ずっと運転しっ放しで、疲れているだろうに…。そこに思い至って、申し訳ない気持ちになる。欲求が充たされて人は思いやりを知るのだ。彼は「ダーイジョーブだよ!」と言って微笑んでくれた。
帰りの車中では、トニーが得意の冗談を連発して大笑いだった。もしかしたらそれは、彼のエドベンに対する気遣いなのかも知れない。
暗い夜道の陥没に突如現れた水たまりは深く、ワーゲン・ゴルフは再び床上浸水に見舞われた。僕は後部座席で両足を抱え上げ、水が抜け切るまで丸まっていなければならなかった。その姿勢は、酔っ払って腹一杯の僕にはかなりキツい。幹線道路まで、ひどい道路事情だった。
結構飛ばしていたのか、意外に早くカンクン空港を通過した。大学生達はエドベンと同じく、この空港で働いているのだそうだ。セントロの入り口にあるロータリー交差点で、ダッヂ・バンはクラクションを鳴らして別方向に走り去った。開け放した窓から、僕は大きく手を振る。
僕はまた彼女に逢うだろうか…?
メキシコ旅情【立身編・3 写真屋おもちゃ屋】
僕が起きた時にはすでに、エドベンはとっくに仕事に出掛けていた。昨夜、僕らが帰宅したのは深夜だったのに…エライなぁー。
でも仕事してるんだから当たり前なのか、そんな日常が遠く思えた。生活から遊離した気楽さは、時にフッと取り残されているような気持ちにさせられる。人にはやるべき仕事があり、子供たちは昼過ぎに下校してくるのだ。
そして僕は、二度寝する。
昼頃、僕はトニーの現像出しに付き合った。
僕が持って来た使い捨てカメラも、ひとつが撮り終わっていたので出してみることにした。店はすぐ近くだ、途中で初日に訪れたコピー・ショップを見つけた。通りを隔てた向こう側にあったのか…! つい1週間前なのに、すでに初日の記憶は風化している。
それにしても、たった7日とは思えない位すっかり馴染んでいる自分に驚いてしまう。図々しい、もう長い事ここで住み暮らしている気になってやがるんだから。
写真屋は、奥行きはないけど間口は広い。全面ガラス張りだけど、それらしいポスターもノボリもない。得てして観光客向けの商売じゃないと、どの店もこんな調子なのだ。店内ディスプレイも素っ気なく、しかも誰もいなかったりしてね。
声を掛けても一向に出てくる気配がなく、間が持たなくなった頃に別の男が店に来た。と同時に店員も顔を出し、申し合わせたように前後から挟まれる格好に。しかし2人とも突っ立ったまま、黙って僕らを見つめるだけ…。よっぽどヒマな店らしい。
トニーが頼んでいるのを聞いていると、さほど高い値段でもない。ただ現地の感覚では、写真はまだ高価な部類に入るものだ。この辺では、使い捨てカメラを置いている店も少ない。僕が「これを現像できるか?」訊くと、後ろの男が興味深げにのぞき込んできた。
店員は、少し間を置いて「出来るよ」と返事をした。でもこれはパノラマ機能も付いていて、その切り替えスイッチを動かして見せると2人は一様に「ほぉー」と感心する。こんな高性能の使い捨てカメラは、きっと初めてお目にかかったのだろう。
それでも店員は「出来る。多分、問題ない」と請け合った。おいおい本当かよ、感心しながら眺めてたくせに?! 印画紙の大きさに合わせて、縮小して焼く訳ね。この店員自身が作業をするのか、技術的な話には自信がうかがえた。カメラを渡すと「一時間で仕上がる」との事。
一時間仕上げなら別料金が上乗せされそうなものだが、ここではそれが当たり前だという(トニー・談)。もっとも、店で自家現像をやっていて現像本数が少なければ出来なくもないか。とはいえど、カラー現像はフィルムによって工程が違うし、幾種類もの機器と薬剤を揃えておくのは個人営業の店じゃ採算割れしそうだけど…?
振り返ると、さっきの男は店の前でタバコを吸っていた。彼は何だったんだ?
「ついでにメルカドで買い物しよう、ジョアンナに風船を頼まれたんだ」と、トニー。
この界隈は、同じメルカドの中でも反対側にあるレストランやアーケードの活気とは無縁だ。レイド・バックしまくりの開店休業状態、もう基本姿勢からシエスタしてる。とりあえずシャッターは開けているけれど、日陰で伸びてる猫みたいに(文句あっか)と言わんばかりのやる気なさ。
「風船を売っている店なんてあるの?」
「おもちゃ屋さんがあってね、前に来たことがあるんだ」
トニーはそう言って、彼の誕生日の話をしてくれた。僕がカンクンに来る一週間前、みんなが彼の誕生日をお祝いしたのだ。その時の写真は彼に見せてもらっていたので、部屋の飾り付けの様子をすぐに思い出せた。ピーニャだか何とかいう動物型のくす玉や、銀のバルーンにひょろ長い手足のついた人形とか。
「ああいうのは、メキシコの子供の誕生日につきものなんだよ。今日買うのは水風船だけど」
なーんだ、またびしょ濡れで遊ぶのかい?!
その店は、おもちゃ屋というより千代紙と民芸品の問屋みたいだった。子供が来たがるような、楽しそうな雰囲気の店ではないな。薄暗い天井からは気味の悪い顔と手足が吊り下げられていて、整理棚には飾り付けの色紙なんかが用途別に並べてある。
そこには細長い風船しか置いていなかったらしく、トニーは手ぶらで店を後にした。多分その細長いのをねじって花とか小犬を作って飾るのだろうが、それってパーティ・グッズ屋では?
他にそれらしき店が見当たらないので「サンフランシスコ」に行ってみる事にした。メルカドの裏手にあるスペール・メルカドだ、といってもセントロの「コメルシアナ・メヒカーノ」と比べれば(横丁のスーパー)程度の規模だ。店頭で、焼きトウモロコシなんか実演販売してるところがまた庶民的で良い。
トニーは、そこで水風船を買うことが出来た。そしてやはり僕らは、焼きトウモロコシを買い食いしながら帰るのだった。しかしながら言わせてもらえば、焼きトウモロコシは日本の夜店の味に限る。
品種の差だろうか、焼きが甘いのかもしれないし焼き網の違いかも知れない。これはかなり期待外れで、しかも焼き汁が多過ぎで手のひらがベタベタだ。二人はブーブー文句を言って、横丁に見つけた水道で順番に手を洗う。
それから僕達は写真屋さんに戻り、その場で仕上がりを確かめた。悪くない。なぜかハガキサイズにプリントされていて(これも当たり前らしい)、パノラマ写真も画面が大きくて映画みたく上下が黒くマスキングされてるので見栄えがする。
さっきの謎の男がまだいて、一緒になって写真をのぞき込んできた。
だから誰なんだってば。
でも仕事してるんだから当たり前なのか、そんな日常が遠く思えた。生活から遊離した気楽さは、時にフッと取り残されているような気持ちにさせられる。人にはやるべき仕事があり、子供たちは昼過ぎに下校してくるのだ。
そして僕は、二度寝する。
昼頃、僕はトニーの現像出しに付き合った。
僕が持って来た使い捨てカメラも、ひとつが撮り終わっていたので出してみることにした。店はすぐ近くだ、途中で初日に訪れたコピー・ショップを見つけた。通りを隔てた向こう側にあったのか…! つい1週間前なのに、すでに初日の記憶は風化している。
それにしても、たった7日とは思えない位すっかり馴染んでいる自分に驚いてしまう。図々しい、もう長い事ここで住み暮らしている気になってやがるんだから。
写真屋は、奥行きはないけど間口は広い。全面ガラス張りだけど、それらしいポスターもノボリもない。得てして観光客向けの商売じゃないと、どの店もこんな調子なのだ。店内ディスプレイも素っ気なく、しかも誰もいなかったりしてね。
声を掛けても一向に出てくる気配がなく、間が持たなくなった頃に別の男が店に来た。と同時に店員も顔を出し、申し合わせたように前後から挟まれる格好に。しかし2人とも突っ立ったまま、黙って僕らを見つめるだけ…。よっぽどヒマな店らしい。
トニーが頼んでいるのを聞いていると、さほど高い値段でもない。ただ現地の感覚では、写真はまだ高価な部類に入るものだ。この辺では、使い捨てカメラを置いている店も少ない。僕が「これを現像できるか?」訊くと、後ろの男が興味深げにのぞき込んできた。
店員は、少し間を置いて「出来るよ」と返事をした。でもこれはパノラマ機能も付いていて、その切り替えスイッチを動かして見せると2人は一様に「ほぉー」と感心する。こんな高性能の使い捨てカメラは、きっと初めてお目にかかったのだろう。
それでも店員は「出来る。多分、問題ない」と請け合った。おいおい本当かよ、感心しながら眺めてたくせに?! 印画紙の大きさに合わせて、縮小して焼く訳ね。この店員自身が作業をするのか、技術的な話には自信がうかがえた。カメラを渡すと「一時間で仕上がる」との事。
一時間仕上げなら別料金が上乗せされそうなものだが、ここではそれが当たり前だという(トニー・談)。もっとも、店で自家現像をやっていて現像本数が少なければ出来なくもないか。とはいえど、カラー現像はフィルムによって工程が違うし、幾種類もの機器と薬剤を揃えておくのは個人営業の店じゃ採算割れしそうだけど…?
振り返ると、さっきの男は店の前でタバコを吸っていた。彼は何だったんだ?
「ついでにメルカドで買い物しよう、ジョアンナに風船を頼まれたんだ」と、トニー。
この界隈は、同じメルカドの中でも反対側にあるレストランやアーケードの活気とは無縁だ。レイド・バックしまくりの開店休業状態、もう基本姿勢からシエスタしてる。とりあえずシャッターは開けているけれど、日陰で伸びてる猫みたいに(文句あっか)と言わんばかりのやる気なさ。
「風船を売っている店なんてあるの?」
「おもちゃ屋さんがあってね、前に来たことがあるんだ」
トニーはそう言って、彼の誕生日の話をしてくれた。僕がカンクンに来る一週間前、みんなが彼の誕生日をお祝いしたのだ。その時の写真は彼に見せてもらっていたので、部屋の飾り付けの様子をすぐに思い出せた。ピーニャだか何とかいう動物型のくす玉や、銀のバルーンにひょろ長い手足のついた人形とか。
「ああいうのは、メキシコの子供の誕生日につきものなんだよ。今日買うのは水風船だけど」
なーんだ、またびしょ濡れで遊ぶのかい?!
その店は、おもちゃ屋というより千代紙と民芸品の問屋みたいだった。子供が来たがるような、楽しそうな雰囲気の店ではないな。薄暗い天井からは気味の悪い顔と手足が吊り下げられていて、整理棚には飾り付けの色紙なんかが用途別に並べてある。
そこには細長い風船しか置いていなかったらしく、トニーは手ぶらで店を後にした。多分その細長いのをねじって花とか小犬を作って飾るのだろうが、それってパーティ・グッズ屋では?
他にそれらしき店が見当たらないので「サンフランシスコ」に行ってみる事にした。メルカドの裏手にあるスペール・メルカドだ、といってもセントロの「コメルシアナ・メヒカーノ」と比べれば(横丁のスーパー)程度の規模だ。店頭で、焼きトウモロコシなんか実演販売してるところがまた庶民的で良い。
トニーは、そこで水風船を買うことが出来た。そしてやはり僕らは、焼きトウモロコシを買い食いしながら帰るのだった。しかしながら言わせてもらえば、焼きトウモロコシは日本の夜店の味に限る。
品種の差だろうか、焼きが甘いのかもしれないし焼き網の違いかも知れない。これはかなり期待外れで、しかも焼き汁が多過ぎで手のひらがベタベタだ。二人はブーブー文句を言って、横丁に見つけた水道で順番に手を洗う。
それから僕達は写真屋さんに戻り、その場で仕上がりを確かめた。悪くない。なぜかハガキサイズにプリントされていて(これも当たり前らしい)、パノラマ写真も画面が大きくて映画みたく上下が黒くマスキングされてるので見栄えがする。
さっきの謎の男がまだいて、一緒になって写真をのぞき込んできた。
だから誰なんだってば。
メキシコ旅情【立身編・4 クラス・メイト】
「ベンガンザ!」
トニーはそう言った。リベンジ[復讐]という意味だ。
彼は、ジョアンナに加勢してマカレナ軍団に仕返しをするという。事の起こりは一昨日、彼女がタチアナやビクトールのくじに当たったのに景品をもらえなかったのが発端だ。
くじ自体は、トニー曰く「アメリカの子供達の間でも珍しくない」のだそうだ。元々はボーイ・スカウトや小学校のクラス単位で、収益金を行事予算に充てる目的で行われてきたようだ。いわば地域の子供会でやる(お楽しみ会)みたいな感じで、そのアイデアを子供同士で遊びに応用したんだろうな。
仲間内で小遣いを出し合って運試しをする、その胴元がチョンボしてるのだ。大人の世界でもありそうな話だけど、それがこじれた結果がジョアンナの復讐だった。とはいっても水風船、可愛いもんだ。
タチアナ達の一家は、ブラジルから移住してきたらしい。そういえば、連中は学校に行っているのだろうか? 僕が通れば、いつでも「マカレナ、マカレナ」と飛び出てくるが…。
僕もトニーに誘われたが、どうせまたビショ濡れになるんだと思うと気乗りしない。しかも先日は、ヨーディのレガロ踏ん付けたり散々だったからなぁ。
家に帰るとグラシエラが出かけるところで、これから仕事かと思ったら「英語のクラスに行く」のだという。ちょうど僕もポスト・カードとか買いに行こうと思っていたし、セントロまで一緒に行くことに。
グラシエラの英語は分かりやすかったけれど、たまにスペイン語訛りの発音で混乱してしまう。ギターをギターロ、スターをスタールというようにrをrr(ダブル・アール)で発音するのだ。語学力としてはビアネイのほうが達者だが、ただグラシエラは他の単語や仕草で補うのが上手かった。
しかしまた僕も日本語訛りで発音しているんだろうな、そう気にし始めると会話に集中できなくなるが。
その時、前方から歩いてくる一人の若者が目に付いた。まだ雑踏に見え隠れしてる段階から、何故か浮き上がって見えたのだ。外見上は、目立った特徴のないバック・パッカーなのに。すれ違う寸前、その男が日本人だと分かった。
「ハポネス[日本人]!」
思わず吐き捨てるように口走り、相手は僕の凝視に気付かず過ぎ去っていった。異国で出遭った同じ国の人間に、強烈な不快感を抱いた自分に戸惑う。そんな抑え難いほどの悪感情に…。
困惑した顔のグラシエラを見て、はっと我に返る。あの男が何だっていうんだ? 周囲の誰ひとりとして、彼に反応を示さなかったのに。きっと僕は、どうしようもなく日本人である彼の姿に自己イメージを傷つけられた気がしたんだ。
ダラス空港で日本人グループを見た時、同じように僕は腹がムカムカした。同類と見なされる事への反発心だけでなく、鼻に付いたのは(カッコ悪さ)だった。服のセンスも、歩き方のせいで台無しだった。
その足運びは見慣れた動作で、他の人種の中で奇異に映る理由は見当が付かない。だが間違いなく、この嫌悪感は日本人独特の動きにあった。あのみっともない歩き方は、鏡に映った己の姿なのだ。しかし、それならば何故あの男は僕に気付かなかったのか…? そう思うと、釈然としないモヤモヤが晴れなかった。
このようにして、初めて僕は日本人と遭遇した。
グラシエラの英語学校は、しょぼい雑居ビルの一角…かと思いきや、意外に小ぎれいな一軒家を使っていた。こぢんまりとして、白い二階建ての家だ。ガラス戸を押し開けるとロビーの正面に階段があり、脇には小さなガラス戸をはめ込んだ受付があった。まるで診療所の窓口みたい。
彼女は、いきなり突拍子もない事を言い出した。
「一緒に授業を受けてみない?」
アポなし体験レッスン? いきなり平気なのか心配だけど、ダメなら謝れば済む事だな。グラシエラは板張りの狭い階段を上がり、引き戸に付いた小窓から教室をのぞき込んで言った。
「あっ、もう始まっちゃってる…。私の後から、静かに入ってきてね」
がらり、と鳴り響くようなドアの音で授業の声が途切れた。グラシエラは怪訝そうな女性教師に近寄って事情を説明し、彼女の目配せで僕は教室に足を踏み入れて自己紹介をする。気分は転校生だ。あちこちから(クスクス)と忍び笑いがもれ聞こえた。
よーし、もう大丈夫。みんなの中に僕は「変なガイジン」として認知されたのだ。すかさず、先生が英語で何か気の利いたジョークを言ってみんなを笑わせる。よく聞き取れなかったが、周囲にあわせて薄笑いを浮かべておく。まぁこういうシチュエーションだから、おおよその察しは付く。授業を再開させるため、先生はとりあえず一発笑いを取ったのだろう。
室内は、二人掛けのテーブルをくっつけて並べてある。全員が向き合って話し合える配置だ。グラシエラが僕にも見えるようにテキストを開いたが、僕はただ興味本位で授業に参加してるだけなので遠りょする。
みんな「変なガイジン」が気になってしまうらしく、ちらちらと僕を見て先生に注意を受けていた。勉強の邪魔はしたくないので、僕のせいで授業が滞るのは心苦しい。
やがて前の席から順にプリントが配られたが、活字を追っていると眠くなってきてしまった。見るともなく図柄を眺めていると、突然それが何なのか判った。これは有名なナスカ〈地上絵〉じゃないか! でもどうしてマヤ文明の地で南米大陸の古代文明を…?
カンクンに来る前にマヤ〜アステカ文明について書かれた本を読んでいて、その中には南北に散らばった様々な文明の符号を示唆しているものもあった。その中の「かつて北米から南米に至る、広範囲な交流と文化ネットワークが存在したのではないか?」という、途方もない説が脳裏をよぎる。
ゾクゾクしながら先生の言葉に耳を立てていると、今まで古代文字に見えていた英文の説明がスラスラ理解できた。内容的に目新しい古代文明の情報はなかったけど、やる気を持てば僕の読解力も結構できるんだな。
休憩時間のチャイムが鳴り、グラシエラが僕を教員室に連れて行ってくれた。彼女は40から50代くらいの快活な女性で、日本に滞在した事があるという。知り合いだった日本人に招かれたそうだ。
先生の英語は滑らかだったけれど、完璧なスペイン語訛りだった。皮肉な事に、グラシエラの発音は実に優秀だったのだ。こうしてメキシコの英語教師と話してみて、なるほど日本の英会話教室にありがちな「ネイティブによる本場の英語!」なんて殺し文句もまんざらではないなと思う。
トニーがここで教える事が出来れば、きっと生徒にとっても彼の懐にとっても良いだろうに…。それは彼自身も最初は考えたらしいけど、メキシコの賃金では割に合わないのだとか。物価と同じく労働単価も当然安い、どうしようもない問題だ。
トニーはそう言った。リベンジ[復讐]という意味だ。
彼は、ジョアンナに加勢してマカレナ軍団に仕返しをするという。事の起こりは一昨日、彼女がタチアナやビクトールのくじに当たったのに景品をもらえなかったのが発端だ。
くじ自体は、トニー曰く「アメリカの子供達の間でも珍しくない」のだそうだ。元々はボーイ・スカウトや小学校のクラス単位で、収益金を行事予算に充てる目的で行われてきたようだ。いわば地域の子供会でやる(お楽しみ会)みたいな感じで、そのアイデアを子供同士で遊びに応用したんだろうな。
仲間内で小遣いを出し合って運試しをする、その胴元がチョンボしてるのだ。大人の世界でもありそうな話だけど、それがこじれた結果がジョアンナの復讐だった。とはいっても水風船、可愛いもんだ。
タチアナ達の一家は、ブラジルから移住してきたらしい。そういえば、連中は学校に行っているのだろうか? 僕が通れば、いつでも「マカレナ、マカレナ」と飛び出てくるが…。
僕もトニーに誘われたが、どうせまたビショ濡れになるんだと思うと気乗りしない。しかも先日は、ヨーディのレガロ踏ん付けたり散々だったからなぁ。
家に帰るとグラシエラが出かけるところで、これから仕事かと思ったら「英語のクラスに行く」のだという。ちょうど僕もポスト・カードとか買いに行こうと思っていたし、セントロまで一緒に行くことに。
グラシエラの英語は分かりやすかったけれど、たまにスペイン語訛りの発音で混乱してしまう。ギターをギターロ、スターをスタールというようにrをrr(ダブル・アール)で発音するのだ。語学力としてはビアネイのほうが達者だが、ただグラシエラは他の単語や仕草で補うのが上手かった。
しかしまた僕も日本語訛りで発音しているんだろうな、そう気にし始めると会話に集中できなくなるが。
その時、前方から歩いてくる一人の若者が目に付いた。まだ雑踏に見え隠れしてる段階から、何故か浮き上がって見えたのだ。外見上は、目立った特徴のないバック・パッカーなのに。すれ違う寸前、その男が日本人だと分かった。
「ハポネス[日本人]!」
思わず吐き捨てるように口走り、相手は僕の凝視に気付かず過ぎ去っていった。異国で出遭った同じ国の人間に、強烈な不快感を抱いた自分に戸惑う。そんな抑え難いほどの悪感情に…。
困惑した顔のグラシエラを見て、はっと我に返る。あの男が何だっていうんだ? 周囲の誰ひとりとして、彼に反応を示さなかったのに。きっと僕は、どうしようもなく日本人である彼の姿に自己イメージを傷つけられた気がしたんだ。
ダラス空港で日本人グループを見た時、同じように僕は腹がムカムカした。同類と見なされる事への反発心だけでなく、鼻に付いたのは(カッコ悪さ)だった。服のセンスも、歩き方のせいで台無しだった。
その足運びは見慣れた動作で、他の人種の中で奇異に映る理由は見当が付かない。だが間違いなく、この嫌悪感は日本人独特の動きにあった。あのみっともない歩き方は、鏡に映った己の姿なのだ。しかし、それならば何故あの男は僕に気付かなかったのか…? そう思うと、釈然としないモヤモヤが晴れなかった。
このようにして、初めて僕は日本人と遭遇した。
グラシエラの英語学校は、しょぼい雑居ビルの一角…かと思いきや、意外に小ぎれいな一軒家を使っていた。こぢんまりとして、白い二階建ての家だ。ガラス戸を押し開けるとロビーの正面に階段があり、脇には小さなガラス戸をはめ込んだ受付があった。まるで診療所の窓口みたい。
彼女は、いきなり突拍子もない事を言い出した。
「一緒に授業を受けてみない?」
アポなし体験レッスン? いきなり平気なのか心配だけど、ダメなら謝れば済む事だな。グラシエラは板張りの狭い階段を上がり、引き戸に付いた小窓から教室をのぞき込んで言った。
「あっ、もう始まっちゃってる…。私の後から、静かに入ってきてね」
がらり、と鳴り響くようなドアの音で授業の声が途切れた。グラシエラは怪訝そうな女性教師に近寄って事情を説明し、彼女の目配せで僕は教室に足を踏み入れて自己紹介をする。気分は転校生だ。あちこちから(クスクス)と忍び笑いがもれ聞こえた。
よーし、もう大丈夫。みんなの中に僕は「変なガイジン」として認知されたのだ。すかさず、先生が英語で何か気の利いたジョークを言ってみんなを笑わせる。よく聞き取れなかったが、周囲にあわせて薄笑いを浮かべておく。まぁこういうシチュエーションだから、おおよその察しは付く。授業を再開させるため、先生はとりあえず一発笑いを取ったのだろう。
室内は、二人掛けのテーブルをくっつけて並べてある。全員が向き合って話し合える配置だ。グラシエラが僕にも見えるようにテキストを開いたが、僕はただ興味本位で授業に参加してるだけなので遠りょする。
みんな「変なガイジン」が気になってしまうらしく、ちらちらと僕を見て先生に注意を受けていた。勉強の邪魔はしたくないので、僕のせいで授業が滞るのは心苦しい。
やがて前の席から順にプリントが配られたが、活字を追っていると眠くなってきてしまった。見るともなく図柄を眺めていると、突然それが何なのか判った。これは有名なナスカ〈地上絵〉じゃないか! でもどうしてマヤ文明の地で南米大陸の古代文明を…?
カンクンに来る前にマヤ〜アステカ文明について書かれた本を読んでいて、その中には南北に散らばった様々な文明の符号を示唆しているものもあった。その中の「かつて北米から南米に至る、広範囲な交流と文化ネットワークが存在したのではないか?」という、途方もない説が脳裏をよぎる。
ゾクゾクしながら先生の言葉に耳を立てていると、今まで古代文字に見えていた英文の説明がスラスラ理解できた。内容的に目新しい古代文明の情報はなかったけど、やる気を持てば僕の読解力も結構できるんだな。
休憩時間のチャイムが鳴り、グラシエラが僕を教員室に連れて行ってくれた。彼女は40から50代くらいの快活な女性で、日本に滞在した事があるという。知り合いだった日本人に招かれたそうだ。
先生の英語は滑らかだったけれど、完璧なスペイン語訛りだった。皮肉な事に、グラシエラの発音は実に優秀だったのだ。こうしてメキシコの英語教師と話してみて、なるほど日本の英会話教室にありがちな「ネイティブによる本場の英語!」なんて殺し文句もまんざらではないなと思う。
トニーがここで教える事が出来れば、きっと生徒にとっても彼の懐にとっても良いだろうに…。それは彼自身も最初は考えたらしいけど、メキシコの賃金では割に合わないのだとか。物価と同じく労働単価も当然安い、どうしようもない問題だ。
メキシコ旅情【立身編・5 クラス・メイト2】
少しだけ、暑さがしのぎ易くなってきた。
授業の後で、僕はグラシエラと別れて「コメルシアナ・メヒカノ」に行った。定番メニューのビールとコーラ、ナチョ・チップスにハーシーズのミント・クッキー・チョコ、それにフルーツ。あとはポスト・カードを十枚ぐらい。
いまだにペソの感覚がつかめず、つい安い気がして買い過ぎる。どうもこの(ジャンク買い)だけで、僕の資金がかなり喰われてるな。T/Cブックが、徐々に薄くなってゆく。気を引き締めていかないと、大変なことになってしまってからじゃ取り返しがつかない。
帰り道、マカレナ公園の前を通ってみた。ジョアンナのベンガンザが気になったからだ。
あの一帯だけ、濡れた路面に水風船の破片が散乱していた。激戦を物語る光景だった。とはいえ、子供達はそれなりにゲーム感覚で面白がってるんだろうな。
グラシエラ達の部屋のほうに行くと案の定、開いたドアからトニーの冗談と笑い声が聞こえてきた。部屋の前で声を掛けると、ベッドに腰掛けてニコニコしているグラシエラが見えた。この部屋は風通しが良いのか、割に涼しくて快適だ。
僕の体験授業の話と、ジョアンナのベンガンザ話でたっぷり笑う。トニーの話振りからは、復讐劇も水遊びの口実でしかなかったみたいで安心した。物静かなジョアンナから仕掛けるなんて意外だったが、だからこそトニーは盛り上げるために参加したのかも…? それで結局、連中は景品を出すのかなぁ。どうせ、これでチャラなんだろうけど。
ビアネイが帰ってきて、グラシエラと僕はまた英語学校の話をした。するとトニーは「そうだ、今夜は日本語教室をしよう!」と言い出し、グラシエラもビアネイも大賛成。ともかく夜まで時間があるので、いったん部屋に戻る。
夜、部屋のドアが小さな音を立てた。
「誰か来たんじゃない?」僕が言うと、トニーはベッドから跳ね起きて「カム・イン!」と言いながら扉を開けた。
「ハロー…」ティミーだった。
入っていいのか戸惑っている様子で、トニーはおどけるようにして招き入れる。彼女に会うのは、マカレナ・ダンス・パーティ以来か…あれは何日前だっけ? 今夜の日本語教室に、いつの間にかトニーが声を掛けていたらしい。やっぱり彼女は、どこか恥ずかしそうに微笑んでいた。
グラシエラとビアネイは来ていなかったが、彼は「さぁ始めよう」と言って部屋の真ん中に椅子を並べた。急にそう言われても、先生になるのは僕にとって初体験だ。何から教えればいいのやら。
「そうだねぇ、日本語の[クール]は?」とトニーが言う。なるほど、実践的な会話だね。
「ふむ。[イカす]…いやいや[カッコ良い]かな。ティミー、言ってみて?」と僕。
「いきなり日本語で言っても判らないよ、パードレ・イズ・かっこいい」トニーが助け舟を出してくれる。
「ねぇトニー、パードレって[お父さん]のことでしょ?」
「そうだけど[クール]もパードレって言うんだって、メキシコではね」
「ふぅん、書いとこ」これじゃあ、誰が教えてるんだか…。しかし、いざ教えるとなると難しいものだ。どういう切り口でやるか、その辺の勝手が僕にはつかめない。
ティミーは、ゾナ・オテレッラでウェイトレスをしている。まずは基本的なあいさつ言葉などを一通り教えることにしよう。僕は自分のノートを取り出して、トニーが教えてくれた(使えるスペイン語)の書き込みページを開く。
「ねぇトニー、ウェルカムって何て言うの?」
「ビエン・ベニード」
僕はノートに英語、スペイン語、更にローマ字で日本語を書いてティミーに見せた。
「ディス・イズ・[ようこそ]」と言いながら、彼女に復唱させる。
「…ジョウコソ?」
そうか、スペイン語読みだと発音が違うのだ。そればかりか「ヨ」という音自体が、スペイン語には存在しないとは…。面倒になってきたが、ローマ字で50音を書き並べて彼女に発音してもらう。
日本語には、スペイン語にない発音が結構多くて驚いた。それにこの二つの言語は、発音は似てるのに表記上では違っていたりする。英語とスペイン語でも、似ているようで実に違っているものだ。当たり前なのだけど。
ローマ字でのZ行はサ行の発音になり、H行を発音するのにはJ行で表記しないとア行つまり母音の発音になってしまう。ゲはヘになって、ツとナニヌとヤ行とワとキャシャチャヒャミャ行などが言えない…。
「なぁ〜、そんなに真剣じゃなくたって良いんだぜ?」
僕の授業が退屈になって、トニーがまぜっ返して言った。
「ティミー? スペイン語で、[アイ・ラブ・ユー]は何て言うの?」
「おいトニー、何言ってんのさ!」
「じゃあ人生で、最も重要なフレーズはなーんだ?」
さすがは先生だ。
「OK、わかったよ。確かに知っていると良いかもね」これは遊びの授業なのに、僕は真面目にやり過ぎた。そうだよ、楽しくなくちゃね。
ティミーは恥ずかしそうに、小声で答えた。
「何? オートラ・ベス[もう一度]」トニーが、耳に手を当てる仕草。
「テ・アモ…」
トニーと僕は、その言葉を繰り返し確認しあった。「これは僕達にもユースフルだよね?」
「で、どっちが[ラブ]なんだろう」僕の疑問に、トニーがフランス語の[アモール]を引き合いに出して教えてくれる。そっかぁ、さすが教え上手。
僕はふざけて、目の前のティミーに「テ・アモ」と言ってみる。彼女は僕の目を見ると、困惑顔でうつむいてしまった。「ごめんごめん、心配しないで。冗談だよ」本当にシャイというか、純情なんだなぁ。「それじゃあさぁ、ティミー。[キス・ミー]は?」
「ベサ・メ」
「えぇっ、ベサメ? ムーチョ?」僕は笑ってしまった。スタンダードなラテン音楽の曲名が、実は[もっとキスして]なんて意味だったとは知らなかった。キスを[ベサ]と言うのは、おそらくフランス語の[ヴェーゼ]から来ているのだろう。やはり愛の言葉がフランス語っぽいというのは、妙に説得力がある気もする。
「日本語で[ベサメ]は、[キスして]と言います。ティミー、繰り返してごらん」
「キスして」
おわぁーっ!! 生々しすぎて、背筋がゾクゾクするほど日本語! 僕がママ達にスペイン語の発音を褒められるように、ティミーの日本語もまた上手だったのだ。
「上手過ぎるよ、ティミー。オートラ・ベス」独りで照れまくっている僕を見て、ティミーは不思議そうな可笑しそうな表情をしている。
「キスして…」
ドキッとして、顔を上げて彼女を見る。
彼女も僕を見た。
あれ、部屋の中には二人だけ…いつの間に!?
頭の中がクラクラしてきた。椅子をくっつけ合わせるように並べていたので、彼女の唇は目と鼻の先だった。ティミーの息づかいを感じるくらい、距離は危険な近さだった。まったく馬鹿げた話だが、この瞬間、僕は日本で女のコと密室にいるような錯覚を覚えた。
(ヤバイぞぉーヤバイぞぉー!)
彼女の目を見れば、そこに何の感情も無い事は一目瞭然なのだが…ドキドキする!
「ひどいぜトニー、二人きりにするなんて!」
「嬉しかったくせに。それにしても、やけに早いじゃない?」
「おいおい、僕が彼女に何もする訳ないだろ」
グラシエラとビアネイの部屋に行って、僕はトニーに抗議した。
「で、ティミーは?」
「僕が『トニーはここにいるだろうから捜してくる』って言ったら帰っちゃったよ」
ビアネイが笑顔で「サルベッサ?」と尋ねるので、冷蔵庫からビールを取ってもらう。
僕の日本語教室、第二回目は「乾杯!」で開講した。
授業の後で、僕はグラシエラと別れて「コメルシアナ・メヒカノ」に行った。定番メニューのビールとコーラ、ナチョ・チップスにハーシーズのミント・クッキー・チョコ、それにフルーツ。あとはポスト・カードを十枚ぐらい。
いまだにペソの感覚がつかめず、つい安い気がして買い過ぎる。どうもこの(ジャンク買い)だけで、僕の資金がかなり喰われてるな。T/Cブックが、徐々に薄くなってゆく。気を引き締めていかないと、大変なことになってしまってからじゃ取り返しがつかない。
帰り道、マカレナ公園の前を通ってみた。ジョアンナのベンガンザが気になったからだ。
あの一帯だけ、濡れた路面に水風船の破片が散乱していた。激戦を物語る光景だった。とはいえ、子供達はそれなりにゲーム感覚で面白がってるんだろうな。
グラシエラ達の部屋のほうに行くと案の定、開いたドアからトニーの冗談と笑い声が聞こえてきた。部屋の前で声を掛けると、ベッドに腰掛けてニコニコしているグラシエラが見えた。この部屋は風通しが良いのか、割に涼しくて快適だ。
僕の体験授業の話と、ジョアンナのベンガンザ話でたっぷり笑う。トニーの話振りからは、復讐劇も水遊びの口実でしかなかったみたいで安心した。物静かなジョアンナから仕掛けるなんて意外だったが、だからこそトニーは盛り上げるために参加したのかも…? それで結局、連中は景品を出すのかなぁ。どうせ、これでチャラなんだろうけど。
ビアネイが帰ってきて、グラシエラと僕はまた英語学校の話をした。するとトニーは「そうだ、今夜は日本語教室をしよう!」と言い出し、グラシエラもビアネイも大賛成。ともかく夜まで時間があるので、いったん部屋に戻る。
夜、部屋のドアが小さな音を立てた。
「誰か来たんじゃない?」僕が言うと、トニーはベッドから跳ね起きて「カム・イン!」と言いながら扉を開けた。
「ハロー…」ティミーだった。
入っていいのか戸惑っている様子で、トニーはおどけるようにして招き入れる。彼女に会うのは、マカレナ・ダンス・パーティ以来か…あれは何日前だっけ? 今夜の日本語教室に、いつの間にかトニーが声を掛けていたらしい。やっぱり彼女は、どこか恥ずかしそうに微笑んでいた。
グラシエラとビアネイは来ていなかったが、彼は「さぁ始めよう」と言って部屋の真ん中に椅子を並べた。急にそう言われても、先生になるのは僕にとって初体験だ。何から教えればいいのやら。
「そうだねぇ、日本語の[クール]は?」とトニーが言う。なるほど、実践的な会話だね。
「ふむ。[イカす]…いやいや[カッコ良い]かな。ティミー、言ってみて?」と僕。
「いきなり日本語で言っても判らないよ、パードレ・イズ・かっこいい」トニーが助け舟を出してくれる。
「ねぇトニー、パードレって[お父さん]のことでしょ?」
「そうだけど[クール]もパードレって言うんだって、メキシコではね」
「ふぅん、書いとこ」これじゃあ、誰が教えてるんだか…。しかし、いざ教えるとなると難しいものだ。どういう切り口でやるか、その辺の勝手が僕にはつかめない。
ティミーは、ゾナ・オテレッラでウェイトレスをしている。まずは基本的なあいさつ言葉などを一通り教えることにしよう。僕は自分のノートを取り出して、トニーが教えてくれた(使えるスペイン語)の書き込みページを開く。
「ねぇトニー、ウェルカムって何て言うの?」
「ビエン・ベニード」
僕はノートに英語、スペイン語、更にローマ字で日本語を書いてティミーに見せた。
「ディス・イズ・[ようこそ]」と言いながら、彼女に復唱させる。
「…ジョウコソ?」
そうか、スペイン語読みだと発音が違うのだ。そればかりか「ヨ」という音自体が、スペイン語には存在しないとは…。面倒になってきたが、ローマ字で50音を書き並べて彼女に発音してもらう。
日本語には、スペイン語にない発音が結構多くて驚いた。それにこの二つの言語は、発音は似てるのに表記上では違っていたりする。英語とスペイン語でも、似ているようで実に違っているものだ。当たり前なのだけど。
ローマ字でのZ行はサ行の発音になり、H行を発音するのにはJ行で表記しないとア行つまり母音の発音になってしまう。ゲはヘになって、ツとナニヌとヤ行とワとキャシャチャヒャミャ行などが言えない…。
「なぁ〜、そんなに真剣じゃなくたって良いんだぜ?」
僕の授業が退屈になって、トニーがまぜっ返して言った。
「ティミー? スペイン語で、[アイ・ラブ・ユー]は何て言うの?」
「おいトニー、何言ってんのさ!」
「じゃあ人生で、最も重要なフレーズはなーんだ?」
さすがは先生だ。
「OK、わかったよ。確かに知っていると良いかもね」これは遊びの授業なのに、僕は真面目にやり過ぎた。そうだよ、楽しくなくちゃね。
ティミーは恥ずかしそうに、小声で答えた。
「何? オートラ・ベス[もう一度]」トニーが、耳に手を当てる仕草。
「テ・アモ…」
トニーと僕は、その言葉を繰り返し確認しあった。「これは僕達にもユースフルだよね?」
「で、どっちが[ラブ]なんだろう」僕の疑問に、トニーがフランス語の[アモール]を引き合いに出して教えてくれる。そっかぁ、さすが教え上手。
僕はふざけて、目の前のティミーに「テ・アモ」と言ってみる。彼女は僕の目を見ると、困惑顔でうつむいてしまった。「ごめんごめん、心配しないで。冗談だよ」本当にシャイというか、純情なんだなぁ。「それじゃあさぁ、ティミー。[キス・ミー]は?」
「ベサ・メ」
「えぇっ、ベサメ? ムーチョ?」僕は笑ってしまった。スタンダードなラテン音楽の曲名が、実は[もっとキスして]なんて意味だったとは知らなかった。キスを[ベサ]と言うのは、おそらくフランス語の[ヴェーゼ]から来ているのだろう。やはり愛の言葉がフランス語っぽいというのは、妙に説得力がある気もする。
「日本語で[ベサメ]は、[キスして]と言います。ティミー、繰り返してごらん」
「キスして」
おわぁーっ!! 生々しすぎて、背筋がゾクゾクするほど日本語! 僕がママ達にスペイン語の発音を褒められるように、ティミーの日本語もまた上手だったのだ。
「上手過ぎるよ、ティミー。オートラ・ベス」独りで照れまくっている僕を見て、ティミーは不思議そうな可笑しそうな表情をしている。
「キスして…」
ドキッとして、顔を上げて彼女を見る。
彼女も僕を見た。
あれ、部屋の中には二人だけ…いつの間に!?
頭の中がクラクラしてきた。椅子をくっつけ合わせるように並べていたので、彼女の唇は目と鼻の先だった。ティミーの息づかいを感じるくらい、距離は危険な近さだった。まったく馬鹿げた話だが、この瞬間、僕は日本で女のコと密室にいるような錯覚を覚えた。
(ヤバイぞぉーヤバイぞぉー!)
彼女の目を見れば、そこに何の感情も無い事は一目瞭然なのだが…ドキドキする!
「ひどいぜトニー、二人きりにするなんて!」
「嬉しかったくせに。それにしても、やけに早いじゃない?」
「おいおい、僕が彼女に何もする訳ないだろ」
グラシエラとビアネイの部屋に行って、僕はトニーに抗議した。
「で、ティミーは?」
「僕が『トニーはここにいるだろうから捜してくる』って言ったら帰っちゃったよ」
ビアネイが笑顔で「サルベッサ?」と尋ねるので、冷蔵庫からビールを取ってもらう。
僕の日本語教室、第二回目は「乾杯!」で開講した。
メキシコ旅情【立身編・6 ホットなベイビー】
ビアネイ達の部屋で笑い話に興じていると、ノックもなしにドアが勢いよく開いた。そうやって登場する輩は、エドベンしかいない。女性達も彼の流儀には慣れたもので、驚く様子も見せず笑っている。
「さぁ、ディスコに行こう!」
話の途中だったのに、彼の勢いに圧されて出掛けることになっちまった。トニーと僕は女性陣も誘ってみたが、グラシエラとビアネイの二人は笑って辞退した。そりゃまぁ、普通はもう寝る時間だもんね。彼女達は気にしてなかったけれど、なんだか僕らが話の腰を折ってしまったようで恐縮してしまう。
エドベンめ〜、いつも急に現れて一方的に決めるんだから〜! この男の、子供のように無邪気…というより無頓着な態度には苛々させられる事があった。悪い奴じゃないんだが、時々おふざけの過ぎる一面にもウンザリさせられる。
例えばトニーの誕生日に「メキシコでは、ケーキのロウソクを吹き消したら目を閉じて祈るんだよ」と言って、真に受けたトニーの頭をケーキに押し付けて喜んだりするのだ。トニーはその件を苦笑いしながら話してくれたのだけど、よくシャレで済ませてるもんだと思う。それとも僕が、融通の効かない石頭なのか?
一日だけでいいから、エドベンを思いっ切りコケにしてみたいものだ。
その夜、ディスコに向かう途中でジュビアが降りだした。
エドベンの車がゾナ・オテレッラへの一本道を走っていると、一気にアスファルトが水浸しになった。ホテル前のレストランやカジノには雨宿りの人々と、夜遊びに繰り出した車があふれ返っている。リゾート客が逃げ惑うように通りを横切り、迎えの車でちょっとした渋滞になっていた。
エドベンは無理矢理Uターンして、目当ての店にゴルフを横付けする。ディスコの入口までダッシュで駆け込むと、ファサードの下は若者でごった返していた。場所がリゾート地区の中だけに、若い観光客で満員だ。ブロンドの女性達を縫って店に入ると、席はすでに埋まっていた。ステージがまぶしい。
「セニョール・フロッグ」は、ディスコというより生バンドのライブ・レストランだった。エドベンは、駐車場から戻って来たと思ったらまたすぐに消えた。あの大学生達に連絡して呼び出すつもりらしい。
ステージでは次から次へと、休む間もなく演奏が続く。フロアの客が踊りながら入れ替わってゆく度に、僕は前の方に押されていった。芋洗い状態の頭上に、ダンサーやシンガーの兄ちゃんがダイブしてくる。
クライマックスの長い曲が終わって休憩になり、テーブル席の手すりに寄りかかるようにして立っているトニーを見つけた。僕に気が付くと、手に持ったグラスを掲げて合図をよこす。
「ヘーイ、楽しんでる?」
「そうでもないけど、トニーは?」
僕が聞き返すと、彼は肩をすくめてみせた。
「ダンスはね、見てるほうがいい。もうオジサンだからね。…何か飲む?」
「自分で行ってくるよ、どこ?」
しかしトニーは「いや、一緒に行こう」と言うと先に立って歩きだした。
この店には、外の湖につながる滑り台があるという。トニーが以前来た時は、女のコ達が服のままで飛び込んでいくのを見たそうだ。ステージ斜め後ろの天井に、太いダクト状のチューブが走っている。それは窓を突き抜けて、環礁内の湖に向かって口を開けていた。
雨は止んだみたいだけど、総ガラス張りの壁の外は真っ暗。そこに拡がっている筈の湖が、どんななのか見当がつかない。僕は頭の中に、酔っ払った女性達が落っこちていく姿をイメージしてみた。水深は? 岩肌の防護は? 監視員は? …僕が気を揉んでみても詮無いが、一度は死人が出てるだろうな。
違うバンドが演奏を始めて、ダンス・フロアの人口密度が再び上昇してゆく。しかし女性客が大半で、男性はテーブル席をキープするかの如く座ったままだ。
「男はあんまり踊らないものなの?」
「ここは地元のカップルも多いけど、マヤ人はシャイだからね。」
なぜか日本語で返されたけど、別に密談するような話でもないだろうに。
「ディスコで酒飲んでるだけじゃあ、女のコが可哀想じゃない?」
僕も一応、日本語に切り替えて話を続ける。
「女のコは踊るのも好きで男のコを誘うんだけど、彼らはお酒飲んでるだけで踊らないんだ。」 と答えるトニーに、念を押すように聞き返す。
「女のコが一人で踊ってたら、ナンパされちゃうかもでしょ?…そしたらどうするの?」
そう言いながら、僕は無意識に女性達を品定めしている。
「どうって、多分どうもしないでしょ。男のコはケンカとかしないし、女のコも一緒に帰るよ。みんなグループで来ていて、自分の彼女が踊ってる間は男のコたち同士でずっと飲んでる。」
そしてトニーは付け足すように、本気とも冗談とも取れる言い方で僕にほのめかした。
「…でも〈アイヌ〉は、君次第だよ。」
ヘセラの事だ。
先日のプラジャ・デル・カルメンで彼女の話をする時、名前で内容がバレないようにと考えた暗号だった。インディオ系の濃い顔立ちをしたヘセラに相応しいコード・ネームで、差別的な意味は皆無だ。
僕は、ヘセラは(デビュー当時の中山美穂に似てる)と思った。ワイルドかつエキゾチックな、僕が今まで出逢った事のない通好みなルックスだった。滑らかに焼けた肌と、妖しい微笑み…。したたかそうな、その野性的な視線が僕の心を捕らえていた。
「女のコが来たぞ〜!」
突然、エドベンが背中から僕の肩を叩いた。
(えっ、あっ、どうしよう?!)と戸惑いながら振り返ると、彼の背後から顔を出した女性と目が合った。トニーが彼女の名を呼んだ。
「エレーナ!」
そう、彼にスペイン語を教えているブラジル人だ。チッ、すごく良いタイミングでガックリさせてくれる。
僕らは、フロアで輪になって踊った。彼女も友達と一緒だったが、ブラジル女性は2人とも豊満で開放的だった。エレーナは愛嬌があって良いのだけど、友達のほうはキツイ香水+化粧で、派手な服の下からホルモンが盛んに分泌されている感じ。失礼ながら精が吸われてく気がして、強烈な個性にタジタジ…。
「ダンスはね、もっと腰を使って〜?! もっとセクシーに、こうして…」
めちゃくちゃ寒い流し目で、ホルモンの彼女が僕に体をすり寄せてくる。踊りの極意を指導されて、僕は半ばヤケクソで真似して踊った。でも確かに彼女の言うとおり、踊りは下半身だ。ブラジル人は皆ダンスが上手なのかな?
「ブラーボ、ダンスは腰がポイントなのよ。…セックスと同じ…(流し目&ウィンク)」
うぅ、凍るっ!
「トニー、このヒトこわい。やられそう。」
エドベンの姿が見えないすきに、僕はトニーに話しかける。彼も、いかにも楽しそうに踊りながら同意してくれる。
「〈アイヌ〉じゃなくて残念ね。」
なんだか、ますます面白くなくなってきた。やっぱり来るんじゃなかったな。
帰りの車中では、後部座席でエレーナ達に挟まれたまま硬直していた。ホルモンの彼女の濃い匂いで胸がムカムカして吐き気を覚えたが、酒のせいかもしれないし…とにかく耐え忍ぶ。
明け方近く、簡易ベッドに倒れ込んで午後2時まで眠っていた。
どんどん生活リズムがズレてゆく。
「さぁ、ディスコに行こう!」
話の途中だったのに、彼の勢いに圧されて出掛けることになっちまった。トニーと僕は女性陣も誘ってみたが、グラシエラとビアネイの二人は笑って辞退した。そりゃまぁ、普通はもう寝る時間だもんね。彼女達は気にしてなかったけれど、なんだか僕らが話の腰を折ってしまったようで恐縮してしまう。
エドベンめ〜、いつも急に現れて一方的に決めるんだから〜! この男の、子供のように無邪気…というより無頓着な態度には苛々させられる事があった。悪い奴じゃないんだが、時々おふざけの過ぎる一面にもウンザリさせられる。
例えばトニーの誕生日に「メキシコでは、ケーキのロウソクを吹き消したら目を閉じて祈るんだよ」と言って、真に受けたトニーの頭をケーキに押し付けて喜んだりするのだ。トニーはその件を苦笑いしながら話してくれたのだけど、よくシャレで済ませてるもんだと思う。それとも僕が、融通の効かない石頭なのか?
一日だけでいいから、エドベンを思いっ切りコケにしてみたいものだ。
その夜、ディスコに向かう途中でジュビアが降りだした。
エドベンの車がゾナ・オテレッラへの一本道を走っていると、一気にアスファルトが水浸しになった。ホテル前のレストランやカジノには雨宿りの人々と、夜遊びに繰り出した車があふれ返っている。リゾート客が逃げ惑うように通りを横切り、迎えの車でちょっとした渋滞になっていた。
エドベンは無理矢理Uターンして、目当ての店にゴルフを横付けする。ディスコの入口までダッシュで駆け込むと、ファサードの下は若者でごった返していた。場所がリゾート地区の中だけに、若い観光客で満員だ。ブロンドの女性達を縫って店に入ると、席はすでに埋まっていた。ステージがまぶしい。
「セニョール・フロッグ」は、ディスコというより生バンドのライブ・レストランだった。エドベンは、駐車場から戻って来たと思ったらまたすぐに消えた。あの大学生達に連絡して呼び出すつもりらしい。
ステージでは次から次へと、休む間もなく演奏が続く。フロアの客が踊りながら入れ替わってゆく度に、僕は前の方に押されていった。芋洗い状態の頭上に、ダンサーやシンガーの兄ちゃんがダイブしてくる。
クライマックスの長い曲が終わって休憩になり、テーブル席の手すりに寄りかかるようにして立っているトニーを見つけた。僕に気が付くと、手に持ったグラスを掲げて合図をよこす。
「ヘーイ、楽しんでる?」
「そうでもないけど、トニーは?」
僕が聞き返すと、彼は肩をすくめてみせた。
「ダンスはね、見てるほうがいい。もうオジサンだからね。…何か飲む?」
「自分で行ってくるよ、どこ?」
しかしトニーは「いや、一緒に行こう」と言うと先に立って歩きだした。
この店には、外の湖につながる滑り台があるという。トニーが以前来た時は、女のコ達が服のままで飛び込んでいくのを見たそうだ。ステージ斜め後ろの天井に、太いダクト状のチューブが走っている。それは窓を突き抜けて、環礁内の湖に向かって口を開けていた。
雨は止んだみたいだけど、総ガラス張りの壁の外は真っ暗。そこに拡がっている筈の湖が、どんななのか見当がつかない。僕は頭の中に、酔っ払った女性達が落っこちていく姿をイメージしてみた。水深は? 岩肌の防護は? 監視員は? …僕が気を揉んでみても詮無いが、一度は死人が出てるだろうな。
違うバンドが演奏を始めて、ダンス・フロアの人口密度が再び上昇してゆく。しかし女性客が大半で、男性はテーブル席をキープするかの如く座ったままだ。
「男はあんまり踊らないものなの?」
「ここは地元のカップルも多いけど、マヤ人はシャイだからね。」
なぜか日本語で返されたけど、別に密談するような話でもないだろうに。
「ディスコで酒飲んでるだけじゃあ、女のコが可哀想じゃない?」
僕も一応、日本語に切り替えて話を続ける。
「女のコは踊るのも好きで男のコを誘うんだけど、彼らはお酒飲んでるだけで踊らないんだ。」 と答えるトニーに、念を押すように聞き返す。
「女のコが一人で踊ってたら、ナンパされちゃうかもでしょ?…そしたらどうするの?」
そう言いながら、僕は無意識に女性達を品定めしている。
「どうって、多分どうもしないでしょ。男のコはケンカとかしないし、女のコも一緒に帰るよ。みんなグループで来ていて、自分の彼女が踊ってる間は男のコたち同士でずっと飲んでる。」
そしてトニーは付け足すように、本気とも冗談とも取れる言い方で僕にほのめかした。
「…でも〈アイヌ〉は、君次第だよ。」
ヘセラの事だ。
先日のプラジャ・デル・カルメンで彼女の話をする時、名前で内容がバレないようにと考えた暗号だった。インディオ系の濃い顔立ちをしたヘセラに相応しいコード・ネームで、差別的な意味は皆無だ。
僕は、ヘセラは(デビュー当時の中山美穂に似てる)と思った。ワイルドかつエキゾチックな、僕が今まで出逢った事のない通好みなルックスだった。滑らかに焼けた肌と、妖しい微笑み…。したたかそうな、その野性的な視線が僕の心を捕らえていた。
「女のコが来たぞ〜!」
突然、エドベンが背中から僕の肩を叩いた。
(えっ、あっ、どうしよう?!)と戸惑いながら振り返ると、彼の背後から顔を出した女性と目が合った。トニーが彼女の名を呼んだ。
「エレーナ!」
そう、彼にスペイン語を教えているブラジル人だ。チッ、すごく良いタイミングでガックリさせてくれる。
僕らは、フロアで輪になって踊った。彼女も友達と一緒だったが、ブラジル女性は2人とも豊満で開放的だった。エレーナは愛嬌があって良いのだけど、友達のほうはキツイ香水+化粧で、派手な服の下からホルモンが盛んに分泌されている感じ。失礼ながら精が吸われてく気がして、強烈な個性にタジタジ…。
「ダンスはね、もっと腰を使って〜?! もっとセクシーに、こうして…」
めちゃくちゃ寒い流し目で、ホルモンの彼女が僕に体をすり寄せてくる。踊りの極意を指導されて、僕は半ばヤケクソで真似して踊った。でも確かに彼女の言うとおり、踊りは下半身だ。ブラジル人は皆ダンスが上手なのかな?
「ブラーボ、ダンスは腰がポイントなのよ。…セックスと同じ…(流し目&ウィンク)」
うぅ、凍るっ!
「トニー、このヒトこわい。やられそう。」
エドベンの姿が見えないすきに、僕はトニーに話しかける。彼も、いかにも楽しそうに踊りながら同意してくれる。
「〈アイヌ〉じゃなくて残念ね。」
なんだか、ますます面白くなくなってきた。やっぱり来るんじゃなかったな。
帰りの車中では、後部座席でエレーナ達に挟まれたまま硬直していた。ホルモンの彼女の濃い匂いで胸がムカムカして吐き気を覚えたが、酒のせいかもしれないし…とにかく耐え忍ぶ。
明け方近く、簡易ベッドに倒れ込んで午後2時まで眠っていた。
どんどん生活リズムがズレてゆく。
メキシコ旅情【立身編・7 伏線(妄想?)】
朝方、日本の夢を見た。
内容は覚えていないのだけど、空気感がリアル過ぎて愕然となった。それで目が覚めた瞬間、苦しいほど現実に違和感を覚えた。きっと瞬間移動とかすると、こういうギャップを感じるんだろうな。
初めて気付いたが、あの生まれ暮らしてきた国にも独特の空気があったんだ。それは友人の家に行った時の感じと、似ているかもしれない。
夢とはいえ、日本の空気の居心地良さは生々しかった。起きている現実のほうが、よっぽど非現実的だろう。この青い壁の色も信じられないし、月蝕とか月光浴とか毎日がウソ臭い位。
一体、ナニが〈本当〉なんだろう?…すべて僕の妄想なんじゃないか?
薄暗い部屋に、発光する窓ガラスが目にしみる。簡易ベッドを片付けて、起きぬけの一発。腹の調子は下り坂で、メキシカンな辛さが火を噴きそうだ。プラジャ・デル・カルメンで食べ過ぎた夕食が効いてる、更に昨日の焼きトウモロコシだな。
閉め切った個室は蒸し暑くて、汗が噴きこぼれる。今度から裸で入らなきゃ。
「…ちょっと!」
カーテン越しに、苛立ったようなトニーの声。彼の人生でも、かなり最悪の起こされ方だったろう。荒々しく、部屋の外に出て行った。
トニーは何か言いたいことが喉につかえている様子だったけれど、マナー違反を詫びると渋い顔で許してくれた。実は彼も昨日から腹痛気味だったのに、僕のいない間にトイレに入っていたのだ。そんな彼の気遣いを、僕はちっとも知らなかった。
ポスト・カードを出して、ぶらりぶらりと写真屋に。やはり今日も謎の男が店の前でタバコをふかしていて、僕が「オーラ」と声を掛けると黙って手を上げた。ちょっとフレディ・マーキュリーっぽい、といっても顔だけで格好は普通。
彼は、店の奥に向かって大声で店員を呼んでくれた。男達の話し声は何でこんなにデカいんだ? ちょっと真似して、僕も大きめの声で店員と話す。彼らは英語が通じないけれど、僕の片言スペイン語でも事足りた。「クァント・クェスタ[いくら]?」とか「クァンド[いつ]」といった単語を覚えておいたのが、辛くも役に立った。
「仕上がり時間が閉店ギリギリになる」と言われたので、僕は単語を並べて(明日で問題ない)と返答した。
「マニァーナ、ノ・プロブレマ」
彼らは(閉店までにやっとくから今日中に来い)という様な事を言ってくれるが、僕は時間に気を取られる位なら明日で構わなかった。それに折角の好意でも、急ぐあまりに粗い仕事をされてもね。
「エスト、ノ・ラピド」
これ、早くない…で通じるのかは疑問だったけど、そう言って店を出た。
その隣の角に、下町のタバコ屋の風情を漂わせる雑貨屋がある。なぜか「アメリカ」という名の、オーソドックスな品揃えのグローサリー。
外国人が来るのは珍しいのか、みんな気遣わし気に僕を見てる。客は近所の主婦や子供、それに年寄り。彼らに「オーラ?」と微笑みかけると、ためらいながらも笑顔を返してくれた。しかしレジにいた老店主だけは、なおさら疑わしげに眉をひそめたままだ。
僕は気にせず、薄っぺらい中とじの雑誌などを物色する。文具の上には、うっすらとホコリが積もっていた。駄菓子と缶ジュースを、菓子パン陳列棚を兼ねた商品カウンターに置く。そして老店主にタバコを吸う仕草を見せて、
「ティエネ[…はありますか]・シガレット?」と問いかけた。
彼はまだ胡散臭そうな顔付きのまま、背後の棚から出して僕に見せる。やはりここでは国産品しか置いていなかったが、まぁいい。幾つかの銘柄を選んで金を払い、おばさん店員から茶紙の袋に入った商品を受け取る。
彼らに礼を言って向き直ると、そこに意外な顔があった。
ヘセラ!
昼下がりの日差しを避けるように、アレタと並んで軒先に入って来たところだった。僕から声を掛けると、彼女達はびっくりした顔で笑った。こんな所で出逢えるなんて、やっぱ運命?
ヘセラだけなら結構ドラマチック方面に持ち込めそうなのに…と、猛烈に頭を働かせているのも構わずアレタが割り込んでくる。思わず露骨に煙たい顔をしてしまう僕に、気にする素振りもない。
「ねぇ、エドベンに伝えてほしいんだけど。明日の晩のディスコの事」
てっきり(エドベンを口説いたのか)と思ったら、僕らも一緒に誘ったって? 知らないなぁ。アレタはちょっと悲しそうな顔をしたが、ヘセラが彼女を元気づけるように言った。
「そうそう、闘牛を観に行かない?」
メキシコなのに闘牛?! スペイン統治時代の名残りなのかな、それにしてもまた突飛な展開だ。闘牛は週に2回あるそうで、次の水曜日を指定された。
「楽しいわよ、きっと…」
あぁっ、ヘセラ! 君にそんなコト言われたら、どんなトコだって〜!
「じゃ、ちゃんと話しておいてね」
またアレタは、とっとと自分の用件だけで話をまとめようとしてる。ちょっと待ってよ、まだヘセラと話もしていないのに…。で、ちなみに今日はこれからどうするの?
「試験勉強するのよ! ねっ、ヘセラ」
だーかーらー、引っ込んでくれよ。人の恋路を邪魔すると、犬に蹴られちまうぞ。でも彼女の背後からヘセラが、ちょっと困ったような顔で僕に微笑んでくれた。思い違いだとしても、それだけで有頂天だ。
「あたしに電話ちょうだいって伝えて」
アレタが僕に手を振る。おいおい、まだ僕はヘセラと話していないのにぃ。
「闘牛とディスコ、君も行くの?」
ヘセラが笑った。「えぇ、多分ね」
「ワォ、そりゃー楽しみだ!」なんて単純な僕。
明日のディスコと水曜日の闘牛、忘れずにエドベンに言っておかなきゃ。闘牛は痛々しそうで気乗りしないけど。
「トニー、ヘセラ達に逢ったよ!」
僕は部屋に入るなり、彼に今さっきの出来事を話した。
「明日の夜、ディスコって聞いてた?」
「知らないなぁ。それよりさぁ、これから一緒にチビっ子達と水風船で遊ばない?」
また水風船かよ…!
「エドベンは、いつ帰るか判らないよ。でも今夜は彼と外で会うから伝言しておくね」
トニーは、彼を介して携帯電話を買うのだそうだ。1996年当時、まだ日本でもポケベル全盛の御時世だ。携帯電話なんて、メキシコでも安くはないだろうに。ましてや夜間営業してる電話屋がある訳ないし、そもそも外国人である彼が易々と入手出来る筈がない。
案の定、聞けばどうやら名義貸しのようだ。エドベンが、親戚であるホゼの知人を紹介してくれるらしかった。彼の一番下の妹、ウェンディの旦那さんだ。エドベンの家族の中では唯一、いかにもメキシカンな人相で胡散臭さをプンプンさせている。
そんなホゼのアミーゴなんて、むしろ要注意なんじゃないの? 以前、エドベンが盗難車を買わされた時も彼絡みだっていうし。
「借りるとしたら、結局は他人に頼るしか手がないんだ。メキシコではそうするしかない」
騙されても泣き寝入りするしかない、それは承知の上なのだ。身内の人間に紹介してもらったほうがリスクを減らせる、そうトニーに言われるとなぁー。
しかしエドベンは、こう言って反論したそうだ。
「みんなコネを大事にする。でもそれは血縁であって、ホゼは家族と見なしていない」
うぅむ…、わかりません。
結局、僕も子供たちと水風船遊びでビショビショになった。
アスファルトの上で温まった水は、独特の匂いがする。町なかの、夏の匂いだ。道路中に飛び散った鮮やかな風船の破片は、また今日もそのまま日干しになっていった。服ごとシャワーを浴びてから、着替えて屋上のロープに濡れ物をぶら下げに行く。
メキシコ式の洗濯干しは、ロープのねじれの間を拡げて裾を挟み込む。まだ僕はママのように手際良く出来ない、絞っていない分の重みでロープをこじ開けるのに四苦八苦。
日が落ちてからトニーは出て行き、僕は留守番。現場の様子を見てみたかったけど、珍しくトニーは僕を連れて行くのを嫌がった。彼が帰宅したのは、かなり遅い時間だった気がする。「電話を見せて」と言ったら「今はない」。取引がどうなったのか、教えてもらえなかった。
「エドベンには伝えたよ」
思い出したようにトニーが言って、意味ありげにチラリと僕を見た。
「そういえば彼女、あの男のコと逢ってないらしいぜ?」
ナニ言ってるんだ、ここ数日の話だろ…?
内容は覚えていないのだけど、空気感がリアル過ぎて愕然となった。それで目が覚めた瞬間、苦しいほど現実に違和感を覚えた。きっと瞬間移動とかすると、こういうギャップを感じるんだろうな。
初めて気付いたが、あの生まれ暮らしてきた国にも独特の空気があったんだ。それは友人の家に行った時の感じと、似ているかもしれない。
夢とはいえ、日本の空気の居心地良さは生々しかった。起きている現実のほうが、よっぽど非現実的だろう。この青い壁の色も信じられないし、月蝕とか月光浴とか毎日がウソ臭い位。
一体、ナニが〈本当〉なんだろう?…すべて僕の妄想なんじゃないか?
薄暗い部屋に、発光する窓ガラスが目にしみる。簡易ベッドを片付けて、起きぬけの一発。腹の調子は下り坂で、メキシカンな辛さが火を噴きそうだ。プラジャ・デル・カルメンで食べ過ぎた夕食が効いてる、更に昨日の焼きトウモロコシだな。
閉め切った個室は蒸し暑くて、汗が噴きこぼれる。今度から裸で入らなきゃ。
「…ちょっと!」
カーテン越しに、苛立ったようなトニーの声。彼の人生でも、かなり最悪の起こされ方だったろう。荒々しく、部屋の外に出て行った。
トニーは何か言いたいことが喉につかえている様子だったけれど、マナー違反を詫びると渋い顔で許してくれた。実は彼も昨日から腹痛気味だったのに、僕のいない間にトイレに入っていたのだ。そんな彼の気遣いを、僕はちっとも知らなかった。
ポスト・カードを出して、ぶらりぶらりと写真屋に。やはり今日も謎の男が店の前でタバコをふかしていて、僕が「オーラ」と声を掛けると黙って手を上げた。ちょっとフレディ・マーキュリーっぽい、といっても顔だけで格好は普通。
彼は、店の奥に向かって大声で店員を呼んでくれた。男達の話し声は何でこんなにデカいんだ? ちょっと真似して、僕も大きめの声で店員と話す。彼らは英語が通じないけれど、僕の片言スペイン語でも事足りた。「クァント・クェスタ[いくら]?」とか「クァンド[いつ]」といった単語を覚えておいたのが、辛くも役に立った。
「仕上がり時間が閉店ギリギリになる」と言われたので、僕は単語を並べて(明日で問題ない)と返答した。
「マニァーナ、ノ・プロブレマ」
彼らは(閉店までにやっとくから今日中に来い)という様な事を言ってくれるが、僕は時間に気を取られる位なら明日で構わなかった。それに折角の好意でも、急ぐあまりに粗い仕事をされてもね。
「エスト、ノ・ラピド」
これ、早くない…で通じるのかは疑問だったけど、そう言って店を出た。
その隣の角に、下町のタバコ屋の風情を漂わせる雑貨屋がある。なぜか「アメリカ」という名の、オーソドックスな品揃えのグローサリー。
外国人が来るのは珍しいのか、みんな気遣わし気に僕を見てる。客は近所の主婦や子供、それに年寄り。彼らに「オーラ?」と微笑みかけると、ためらいながらも笑顔を返してくれた。しかしレジにいた老店主だけは、なおさら疑わしげに眉をひそめたままだ。
僕は気にせず、薄っぺらい中とじの雑誌などを物色する。文具の上には、うっすらとホコリが積もっていた。駄菓子と缶ジュースを、菓子パン陳列棚を兼ねた商品カウンターに置く。そして老店主にタバコを吸う仕草を見せて、
「ティエネ[…はありますか]・シガレット?」と問いかけた。
彼はまだ胡散臭そうな顔付きのまま、背後の棚から出して僕に見せる。やはりここでは国産品しか置いていなかったが、まぁいい。幾つかの銘柄を選んで金を払い、おばさん店員から茶紙の袋に入った商品を受け取る。
彼らに礼を言って向き直ると、そこに意外な顔があった。
ヘセラ!
昼下がりの日差しを避けるように、アレタと並んで軒先に入って来たところだった。僕から声を掛けると、彼女達はびっくりした顔で笑った。こんな所で出逢えるなんて、やっぱ運命?
ヘセラだけなら結構ドラマチック方面に持ち込めそうなのに…と、猛烈に頭を働かせているのも構わずアレタが割り込んでくる。思わず露骨に煙たい顔をしてしまう僕に、気にする素振りもない。
「ねぇ、エドベンに伝えてほしいんだけど。明日の晩のディスコの事」
てっきり(エドベンを口説いたのか)と思ったら、僕らも一緒に誘ったって? 知らないなぁ。アレタはちょっと悲しそうな顔をしたが、ヘセラが彼女を元気づけるように言った。
「そうそう、闘牛を観に行かない?」
メキシコなのに闘牛?! スペイン統治時代の名残りなのかな、それにしてもまた突飛な展開だ。闘牛は週に2回あるそうで、次の水曜日を指定された。
「楽しいわよ、きっと…」
あぁっ、ヘセラ! 君にそんなコト言われたら、どんなトコだって〜!
「じゃ、ちゃんと話しておいてね」
またアレタは、とっとと自分の用件だけで話をまとめようとしてる。ちょっと待ってよ、まだヘセラと話もしていないのに…。で、ちなみに今日はこれからどうするの?
「試験勉強するのよ! ねっ、ヘセラ」
だーかーらー、引っ込んでくれよ。人の恋路を邪魔すると、犬に蹴られちまうぞ。でも彼女の背後からヘセラが、ちょっと困ったような顔で僕に微笑んでくれた。思い違いだとしても、それだけで有頂天だ。
「あたしに電話ちょうだいって伝えて」
アレタが僕に手を振る。おいおい、まだ僕はヘセラと話していないのにぃ。
「闘牛とディスコ、君も行くの?」
ヘセラが笑った。「えぇ、多分ね」
「ワォ、そりゃー楽しみだ!」なんて単純な僕。
明日のディスコと水曜日の闘牛、忘れずにエドベンに言っておかなきゃ。闘牛は痛々しそうで気乗りしないけど。
「トニー、ヘセラ達に逢ったよ!」
僕は部屋に入るなり、彼に今さっきの出来事を話した。
「明日の夜、ディスコって聞いてた?」
「知らないなぁ。それよりさぁ、これから一緒にチビっ子達と水風船で遊ばない?」
また水風船かよ…!
「エドベンは、いつ帰るか判らないよ。でも今夜は彼と外で会うから伝言しておくね」
トニーは、彼を介して携帯電話を買うのだそうだ。1996年当時、まだ日本でもポケベル全盛の御時世だ。携帯電話なんて、メキシコでも安くはないだろうに。ましてや夜間営業してる電話屋がある訳ないし、そもそも外国人である彼が易々と入手出来る筈がない。
案の定、聞けばどうやら名義貸しのようだ。エドベンが、親戚であるホゼの知人を紹介してくれるらしかった。彼の一番下の妹、ウェンディの旦那さんだ。エドベンの家族の中では唯一、いかにもメキシカンな人相で胡散臭さをプンプンさせている。
そんなホゼのアミーゴなんて、むしろ要注意なんじゃないの? 以前、エドベンが盗難車を買わされた時も彼絡みだっていうし。
「借りるとしたら、結局は他人に頼るしか手がないんだ。メキシコではそうするしかない」
騙されても泣き寝入りするしかない、それは承知の上なのだ。身内の人間に紹介してもらったほうがリスクを減らせる、そうトニーに言われるとなぁー。
しかしエドベンは、こう言って反論したそうだ。
「みんなコネを大事にする。でもそれは血縁であって、ホゼは家族と見なしていない」
うぅむ…、わかりません。
結局、僕も子供たちと水風船遊びでビショビショになった。
アスファルトの上で温まった水は、独特の匂いがする。町なかの、夏の匂いだ。道路中に飛び散った鮮やかな風船の破片は、また今日もそのまま日干しになっていった。服ごとシャワーを浴びてから、着替えて屋上のロープに濡れ物をぶら下げに行く。
メキシコ式の洗濯干しは、ロープのねじれの間を拡げて裾を挟み込む。まだ僕はママのように手際良く出来ない、絞っていない分の重みでロープをこじ開けるのに四苦八苦。
日が落ちてからトニーは出て行き、僕は留守番。現場の様子を見てみたかったけど、珍しくトニーは僕を連れて行くのを嫌がった。彼が帰宅したのは、かなり遅い時間だった気がする。「電話を見せて」と言ったら「今はない」。取引がどうなったのか、教えてもらえなかった。
「エドベンには伝えたよ」
思い出したようにトニーが言って、意味ありげにチラリと僕を見た。
「そういえば彼女、あの男のコと逢ってないらしいぜ?」
ナニ言ってるんだ、ここ数日の話だろ…?
メキシコ旅情【立身編・8 ハーレム・ビーチ】
10時にアラームが鳴った。
昨晩、グラシエラとビアネイから海水浴に誘われたのだ。2人の休みが重なったらしい。しかしトニーは生憎だが、2時からエレーナが来てスペイン語の授業がある。
「他にもクラウディアっていう、確かグラシエラの英語学校の友達も来るんだって」
あんまり彼が未練がましい顔をしてるので、からかってみる。
「それからティミーもね!」
「…ちょっとだけ、行こうかな」
真顔で言ったって、下心みえみえだぞ! 彼はベイビー・ベイブの一件以来、ティミーに御執心だからな。
ビアネイにグラシエラ、ティミーとトニー、そして僕。
クラウディアとは、セントロのバス・ターミナルで待ち合わせだった。
トニーは終始ジョークを飛ばしまくって、みんなを笑わせ続けた。歩いているだけで暑さに参ってしまいそうなのに、よく疲れないものだと妙に感心したりもする。
バス・ターミナルの発券ブースの上には、様々な行き先が書かれていた。このキンタナ・ルー州よりも離れた遺跡や、メリダなどの周辺都市に行くような長距離バスも発着している。ここからホテル地区へ行くバスに乗り、僕らはクラブ・メッドのプライベート・ビーチに向かうのだ。
ターミナルの横に土産物屋があり、女のコ達の後に付いて入っていくとグラシエラが急に大声を出した。何事かと思ったら、店内で偶然クラウディアを見つけたのだった。やれやれ、これは奇遇じゃなくて(どこの国でも女のコは同じ事を考えてる)って証拠だろう。
アクセサリーや髪飾りを手にとっては、楽しそうにキャアキャアやっている。それを横目で見ながら、トニーは時計を気にして僕に耳打ちした。
「どうして女のコって、こうやって時間をムダにするのかな。もう1時になっちゃうよ!」
それとなく彼が急かし立てると、女性陣はスーパーに行って食料の買出しをするという。残念ながら、ここでトニーは時間切れだ。彼は、女のコ達に聞こえないように囁いた。
「聞いてくれ、ひとつだけ頼みたい。これを持っていって、これで…」
彼の落胆ぶりに釣り込まれ、思わず真面目に聞いてしまう。すると彼は切羽詰まった眼差しで、ポケットからカメラを僕に手渡した。まさか、ティミーの水着姿とかって言うなよ?
「笑うなよ、忘れずに撮ってきてくれ!」
…ったく、さっさと帰って勉強したまえ。
ホテル地区は、典型的なハリウッド型のリゾート地だ。一流ホテルに外海の眺めを奪われて、銀色のバスから見えるのは建物とヤシの並木。これで素直に感動できたほうが幸せなのかもなぁ、だけどちょっと…と思う。
段々とホテルの間隔が広くなってきて、やっと海が見えてきた。気が付けば、バスの乗客は僕達だけだ。終点で降りると、銀バスはUターンして引き返して行く。まだ道は続いていたが、この先には何もないらしい。
ホテルの階段を上がってゆく女のコ達は、入り口の脇を素通りする。ビーチを背景に写真を撮った。僕を取り巻く四人の女性たち! い〜ねぇ、こんな機会は二度と来ないかも…いやいや、そんな事ないって。
砂浜に下りると、みんなサンダルを脱いで素足になった。ホテルから張り出したプールのデッキチェアに、どう見ても日本人のカップルが僕を見ている。グラサン越しに、まるで変わった動物でも見るかのように。女が男に耳打ちした。
「現地女性に囲まれてる男の人、なんか日本人っぽくない?!」と言ってるのか、
「あの男性だけ、歩き方が変じゃない?!」…だったりして。
いかん、意識して歩くと却ってモタついちまった。
しかしエドベンがいなければ、僕も彼らと同じようにするしかなかったんだな。ああいう場所で時間と金を使い果たし、あのセノーテの青さもヘセラの事も知りようがなかったろう。
月蝕の夜も、月光浴も。
かなり遠くまで砂浜を歩いた。岩場に行き当たると、みんなホテル側に上がった。そこの敷地は他と違って、低い建物が分散してゆったりとした感じがする。あぁ、多分ここがクラブ・メッドなんだな。他のホテルよりも〈品の良い滞在型リゾート施設〉といったイメージに近い気がする。
少し離れたゲートからマイクロバスが入って来た。
スタッフと滞在客らしき若者達がワサワサ出て来て大合唱する中、バスから降りてくる旅行者たちが迎え入れられる。なんだか、健全なるボーイ・スカウトの儀式でも見ちゃったような気分だ。
岩場に沿って敷地を行くと、角にわらぶきの低い屋根があった。昼食にするには、おあつらえ向きじゃないか。敷地内の施設は利用できないという事らしいけど、僕が「施設といってもテーブル一つだ、注意されたら片付ければ構わないんじゃない?」と言って半ば強引にランチ・タイム。
食べ終わってくつろいでいるところに、警備員らしき初老のメキシコ人男性が現れた。言われるままテーブルから離れ、後片付けしてビーチに引き返す。
ふと波間に目をやって、僕はギョッとした。なぜだかそこに、ペリカンがゆらゆら浮かんでいたからだ。一瞬、何がなんだか分からなかったが誰も気にしない。ひょっとして、この辺じゃニワトリ並みに珍しくもないの?
ペリカンは、近くで見ると案外に大きな鳥だった。別にこちらを気にする素振りも見せないが、どことなく威圧感がある。見とれていて近寄り過ぎたのか、いきなり凄い目つきで睨まれてしまった。
「そっとしておいてあげようよ」
タイミング良く、女のコの誰かが呼びかけてくる声が聞こえた。動物だろうが人間だろうが、間合いというのは大切だ。小さな声で、彼らへの非礼を詫びて退散する。それにしてもペリカンが、逃げるどころか「ケンカ上等」的オーラを出すとは!
やっぱり海は気持ち良い。
湯冷ましのような海水だが、汗にまみれていた体が潤ってゆくようだ。肌の表面から、水分をチューチュー吸い込んでいる感じがする。
濡れた腕を持ち上げて、頭髪の海水を払い落とす。意味のない習慣的な動作だったけど、頭に触れてみて本当に不必要な動きだったと気が付く。そういえば今の僕はマルガリータで、こめかみの辺りから鉢でも被ったような坊主頭だった。
ベイビー・ベイブめ、どんなイメージで切ったんだか。僕は確か(カンクンで一番クールな髪型に)とリクエストした筈だ、でもこれじゃあメキシコ全土で一、二を争える間抜け頭ではないか!
そういえば、あの日の帰り際に彼女は「今日はまだ完成ではないので、もう少し髪が伸びたら段差を整えるから」とか言っていたらしい。ちゃんちゃら可笑しいぜ、そんな床屋があるものか。
ここでは鏡を見る機会がなかったので、僕は余計この髪形に慣れる事が出来なかった。毎度、不意に触る度にギクッとする。…そうか。さっきの若い日本人カップル、この髪形を話題にしていただけかもしれないなぁ。これは日本にない発想のヘアスタイルだ、彼らは僕を見て(メキシコ・インディオって日本人みたい)とでも思ったのだろうか?
昨晩、グラシエラとビアネイから海水浴に誘われたのだ。2人の休みが重なったらしい。しかしトニーは生憎だが、2時からエレーナが来てスペイン語の授業がある。
「他にもクラウディアっていう、確かグラシエラの英語学校の友達も来るんだって」
あんまり彼が未練がましい顔をしてるので、からかってみる。
「それからティミーもね!」
「…ちょっとだけ、行こうかな」
真顔で言ったって、下心みえみえだぞ! 彼はベイビー・ベイブの一件以来、ティミーに御執心だからな。
ビアネイにグラシエラ、ティミーとトニー、そして僕。
クラウディアとは、セントロのバス・ターミナルで待ち合わせだった。
トニーは終始ジョークを飛ばしまくって、みんなを笑わせ続けた。歩いているだけで暑さに参ってしまいそうなのに、よく疲れないものだと妙に感心したりもする。
バス・ターミナルの発券ブースの上には、様々な行き先が書かれていた。このキンタナ・ルー州よりも離れた遺跡や、メリダなどの周辺都市に行くような長距離バスも発着している。ここからホテル地区へ行くバスに乗り、僕らはクラブ・メッドのプライベート・ビーチに向かうのだ。
ターミナルの横に土産物屋があり、女のコ達の後に付いて入っていくとグラシエラが急に大声を出した。何事かと思ったら、店内で偶然クラウディアを見つけたのだった。やれやれ、これは奇遇じゃなくて(どこの国でも女のコは同じ事を考えてる)って証拠だろう。
アクセサリーや髪飾りを手にとっては、楽しそうにキャアキャアやっている。それを横目で見ながら、トニーは時計を気にして僕に耳打ちした。
「どうして女のコって、こうやって時間をムダにするのかな。もう1時になっちゃうよ!」
それとなく彼が急かし立てると、女性陣はスーパーに行って食料の買出しをするという。残念ながら、ここでトニーは時間切れだ。彼は、女のコ達に聞こえないように囁いた。
「聞いてくれ、ひとつだけ頼みたい。これを持っていって、これで…」
彼の落胆ぶりに釣り込まれ、思わず真面目に聞いてしまう。すると彼は切羽詰まった眼差しで、ポケットからカメラを僕に手渡した。まさか、ティミーの水着姿とかって言うなよ?
「笑うなよ、忘れずに撮ってきてくれ!」
…ったく、さっさと帰って勉強したまえ。
ホテル地区は、典型的なハリウッド型のリゾート地だ。一流ホテルに外海の眺めを奪われて、銀色のバスから見えるのは建物とヤシの並木。これで素直に感動できたほうが幸せなのかもなぁ、だけどちょっと…と思う。
段々とホテルの間隔が広くなってきて、やっと海が見えてきた。気が付けば、バスの乗客は僕達だけだ。終点で降りると、銀バスはUターンして引き返して行く。まだ道は続いていたが、この先には何もないらしい。
ホテルの階段を上がってゆく女のコ達は、入り口の脇を素通りする。ビーチを背景に写真を撮った。僕を取り巻く四人の女性たち! い〜ねぇ、こんな機会は二度と来ないかも…いやいや、そんな事ないって。
砂浜に下りると、みんなサンダルを脱いで素足になった。ホテルから張り出したプールのデッキチェアに、どう見ても日本人のカップルが僕を見ている。グラサン越しに、まるで変わった動物でも見るかのように。女が男に耳打ちした。
「現地女性に囲まれてる男の人、なんか日本人っぽくない?!」と言ってるのか、
「あの男性だけ、歩き方が変じゃない?!」…だったりして。
いかん、意識して歩くと却ってモタついちまった。
しかしエドベンがいなければ、僕も彼らと同じようにするしかなかったんだな。ああいう場所で時間と金を使い果たし、あのセノーテの青さもヘセラの事も知りようがなかったろう。
月蝕の夜も、月光浴も。
かなり遠くまで砂浜を歩いた。岩場に行き当たると、みんなホテル側に上がった。そこの敷地は他と違って、低い建物が分散してゆったりとした感じがする。あぁ、多分ここがクラブ・メッドなんだな。他のホテルよりも〈品の良い滞在型リゾート施設〉といったイメージに近い気がする。
少し離れたゲートからマイクロバスが入って来た。
スタッフと滞在客らしき若者達がワサワサ出て来て大合唱する中、バスから降りてくる旅行者たちが迎え入れられる。なんだか、健全なるボーイ・スカウトの儀式でも見ちゃったような気分だ。
岩場に沿って敷地を行くと、角にわらぶきの低い屋根があった。昼食にするには、おあつらえ向きじゃないか。敷地内の施設は利用できないという事らしいけど、僕が「施設といってもテーブル一つだ、注意されたら片付ければ構わないんじゃない?」と言って半ば強引にランチ・タイム。
食べ終わってくつろいでいるところに、警備員らしき初老のメキシコ人男性が現れた。言われるままテーブルから離れ、後片付けしてビーチに引き返す。
ふと波間に目をやって、僕はギョッとした。なぜだかそこに、ペリカンがゆらゆら浮かんでいたからだ。一瞬、何がなんだか分からなかったが誰も気にしない。ひょっとして、この辺じゃニワトリ並みに珍しくもないの?
ペリカンは、近くで見ると案外に大きな鳥だった。別にこちらを気にする素振りも見せないが、どことなく威圧感がある。見とれていて近寄り過ぎたのか、いきなり凄い目つきで睨まれてしまった。
「そっとしておいてあげようよ」
タイミング良く、女のコの誰かが呼びかけてくる声が聞こえた。動物だろうが人間だろうが、間合いというのは大切だ。小さな声で、彼らへの非礼を詫びて退散する。それにしてもペリカンが、逃げるどころか「ケンカ上等」的オーラを出すとは!
やっぱり海は気持ち良い。
湯冷ましのような海水だが、汗にまみれていた体が潤ってゆくようだ。肌の表面から、水分をチューチュー吸い込んでいる感じがする。
濡れた腕を持ち上げて、頭髪の海水を払い落とす。意味のない習慣的な動作だったけど、頭に触れてみて本当に不必要な動きだったと気が付く。そういえば今の僕はマルガリータで、こめかみの辺りから鉢でも被ったような坊主頭だった。
ベイビー・ベイブめ、どんなイメージで切ったんだか。僕は確か(カンクンで一番クールな髪型に)とリクエストした筈だ、でもこれじゃあメキシコ全土で一、二を争える間抜け頭ではないか!
そういえば、あの日の帰り際に彼女は「今日はまだ完成ではないので、もう少し髪が伸びたら段差を整えるから」とか言っていたらしい。ちゃんちゃら可笑しいぜ、そんな床屋があるものか。
ここでは鏡を見る機会がなかったので、僕は余計この髪形に慣れる事が出来なかった。毎度、不意に触る度にギクッとする。…そうか。さっきの若い日本人カップル、この髪形を話題にしていただけかもしれないなぁ。これは日本にない発想のヘアスタイルだ、彼らは僕を見て(メキシコ・インディオって日本人みたい)とでも思ったのだろうか?
メキシコ旅情【立身編・9 内心】
僕は、ひとり砂浜に座っているティミーに手を振った。
「みんなと一緒に、海に入って遊ぼうよー!?」
何度か手招きで呼ぶと、彼女はTシャツを脱いでビキニ姿になった。トニーとの約束が、なんとか果たせそうだ。腰まで浸かった海水をザブザブかき分け、僕は入れ替わるように浜に戻る。
「さぁみんなー、撮るよー」
ティミーは僕の不純な胸中を悟ったのだろうか。能天気な声でカメラを構えた瞬間、避けるように海から上がってしまった。内気な彼女が、せっかく水遊びに加わってくれたのに…。情けなく、申し訳ない気持ちになった。
どうして僕は、あんな頼み事を引き受けてしまったんだ?
帰り道は、来た道より長く感じられる。
すでにトニーの個人授業は終わっていて、エレーナはいなかった。
「ごめん。ティミーの水着写真は撮れなかった」
「いいんだよ、気にするな」
トニーは笑いながら、ちょっと残念がってみせた。
約束といえば、もう1件あったな。
昨日、写真屋の店員に「今日行く」と言ったのを思い出した。陽も傾いてきたしシエスタにしたい気分だったけど、腰が重くなる前に家を出る。
謎の男は今日もまた店の前でタバコをふかしていて、奥に向かって大声を上げた。声の調子からして(昨日の客が来たから写真を出してやりな)と言ってる感じだった。
店内で確かめると、仕上がりは悪くないが写真が大きい。日本では特別に頼まない限りサービス判のプリントなのに、これは葉書サイズだった。しかも考えてみれば、翌日仕上げは特急料金が普通だろう。
(カモられたかも?)という疑念を抑えつつ、念のため「これより小さいサイズは無かったの?」と訊ねる。すると店員は意外そうな顔で「ああ、ないよ。不満だったか?」と肩をすくめた。
それならまぁ、いいさ。整理する時に面倒そうだが、大判だと迫力が違う。画面が横長になるパノラマ写真も、上手く収まるよう工夫してプリントしてあった。上下の余白部分をマスキングして、映画のワンシーンみたく黒くなってる。
(日本で頼んだら、これだと手焼き指定で料金上乗せ&中三日ってとこだな…)そう考えると、却って得した気分だ。それでも、袋にマジックで書かれた値段を見て思わず「内訳を説明してくれ」と言ってしまう。
日本円に換算すれば高くもないけど、今後も現像出しの度にカモられては敵わないからな。店員は、厭そうな素振りも見せずに教えてくれた。顔つきが微妙に胡散臭いだけで、中身は真っ当な写真屋なのだ。疑いはじめたらキリがない、僕は言い値で支払った。
今度もまた、謎の男に見送られた。
リビングに顔を出すと、珍しくエドベンも帰宅している。
「ヘーイ、どこ行ってた?」
そう言って僕の肩を叩く彼に、出来上がったばかりの写真を見せる。ママやパティも、テーブルを囲むようにして集まってきた。セノーテ巡りで撮ったり、散歩の途中で写した風景などなど。僕の説明をエドベンが家族に訳してくれていると、ディエゴがアルバムを持ち出してきた。
それはエドベンの物らしく、彼の日本滞在時の写真が何枚も入っていた。エドベンとトニーは、日本でのルームメイトだった。2人は、僕がトニーと知り合う以前からの古い間柄だ。京都、箱根、草津温泉、どこかのスキー場…。一緒に写っている何人かは、僕も会った事がある。
ママが、僕にまとわりつくディエゴをたしなめてから、ふと思い出したように言った。
「おなかが空いてるでしょ?」
さすが肝っ玉母さん、鋭いね。でも一昨日の腹痛から、僕は食事を控えめにしてたのだ。ママのジャンクフード嫌いが頭にあって、何と返事しようか思案しているとエドベンが支度を頼んでしまった。
「気にするなよ、ママは君を気に入ってるんだから」
嬉しい事を言ってくれるじゃないか、そう思いつつ僕は急いで付け足す。
「温め直さなくていいよ、少しだけでいいんだ。ありがとう」
ママは耳ざとく振り向き、エドベンが茶々を入れる。
「夜中に屋台のタコスなんか食べるからだ」
それを聞いたママが憤慨して、トニーの悪影響だというような事を言い出したのには慌てた。僕を気に入ってくれるのは嬉しいけれども、それで彼の分が悪くなるのは間違いというものだ。それに、僕は〈ヘンなガイジン〉ではあってもガキじゃない。
「僕がタコスを食べたくて誘ったんだよ、彼が悪いんじゃない」
そう言ってみたところで、ママの思い込みは直りそうになかったけれど…。
僕が食事を終えようとしていると、上からトニーが降りてきた。
夕食を僕と一緒にとる気でいたのか、こっちを見て少しムッとしたようだった。それでも顔には出さず、茶目っ気たっぷりに笑顔を振りまく。僕が勝手に食事を済ませた事を詫びると、彼は冗談めかして「そうだぞ」を一瞥をよこした。
ママが出してくれた食後のコーヒーを飲みながら、僕はテーブルの上の写真を楽しそうに眺めている彼に解説をする。ソファに腰掛けてTVを観ていたエドベンも横に来て、さっきのアルバムを拡げた。それはトニーをひどく懐かしがらせた。
2人が思い出話に興じている間、僕はそのアルバムを手に取ってめくっていった。後半はエドベンがメキシコに帰国してからの写真だったが、なぜか一人の女性が大方を占めていた。このリビングの、書棚の前に立つ彼女は日本人だった。
この家を訪れた日本人は、僕の前にもいた訳か。それは不思議じゃないにしても、その事を誰も話題にしなかったのが腑に落ちない。僕が女性に見入っていると、ママとパティが彼女について教えてくれた。
2〜3年くらい前だそうだが、しばらくここに滞在してから南方のチアパス州かどこかに向かったのだそうだ。何かを勉強するためらしかったけれど、それ以上はジェスチャー会話では分かりようがなかった。エドベンの知人だというのに彼は何も言わないし、僕に関係ない事だから敢えて訊く話でもないのかもな。
部屋に戻る途中、階段を上がりながらトニーが言った。
「夕飯を食べるんだったら、先にそう言ってくれよ」
やっぱり気にしていたのか。
「ああ、さっきは悪い事をした。謝るよ。そんなつもりじゃなかったんだけど」
「判ってるよ。ママは自分の料理を食べてもらえると嬉しいのさ」
ここに来てから、大抵はビアネイ達の部屋で夜を過ごしている。今日の昼間みたいにジャンクで適当に済ませて、まともに夕飯を食べない事が多かった。ところでトニーは今夜の食事をどうするのだろう、まさか懲りずにタコ屋台か…?!
「まさか。冷蔵庫には何か残ってるだろう」
ビアネイ達の冷蔵庫なのに、ほとんど僕らのジャンクで占領しているのも如何かと。
夜空の隅に、小さな雲がいくつか懸かっている。
今夜も隣の部屋に押しかけ、真夜中過ぎに「おやすみ」を言ってから僕一人で屋上に上がった。
少し氣を練ってみるが、やはり何も感じられない。
風は凪いでいて、タバコの煙がまっすぐに立ちのぼってゆく。
昼間のホテル地区で、銀バスから見えたホテルの廃墟群を思い出した。
ティミーの夜の仕事と、呼び名の由来に関する噂話を思い出した。
昔ここにいた日本人の女のコが、今どこで何をしているのかと思った。
それから、僕はタバコの火を消した。
「みんなと一緒に、海に入って遊ぼうよー!?」
何度か手招きで呼ぶと、彼女はTシャツを脱いでビキニ姿になった。トニーとの約束が、なんとか果たせそうだ。腰まで浸かった海水をザブザブかき分け、僕は入れ替わるように浜に戻る。
「さぁみんなー、撮るよー」
ティミーは僕の不純な胸中を悟ったのだろうか。能天気な声でカメラを構えた瞬間、避けるように海から上がってしまった。内気な彼女が、せっかく水遊びに加わってくれたのに…。情けなく、申し訳ない気持ちになった。
どうして僕は、あんな頼み事を引き受けてしまったんだ?
帰り道は、来た道より長く感じられる。
すでにトニーの個人授業は終わっていて、エレーナはいなかった。
「ごめん。ティミーの水着写真は撮れなかった」
「いいんだよ、気にするな」
トニーは笑いながら、ちょっと残念がってみせた。
約束といえば、もう1件あったな。
昨日、写真屋の店員に「今日行く」と言ったのを思い出した。陽も傾いてきたしシエスタにしたい気分だったけど、腰が重くなる前に家を出る。
謎の男は今日もまた店の前でタバコをふかしていて、奥に向かって大声を上げた。声の調子からして(昨日の客が来たから写真を出してやりな)と言ってる感じだった。
店内で確かめると、仕上がりは悪くないが写真が大きい。日本では特別に頼まない限りサービス判のプリントなのに、これは葉書サイズだった。しかも考えてみれば、翌日仕上げは特急料金が普通だろう。
(カモられたかも?)という疑念を抑えつつ、念のため「これより小さいサイズは無かったの?」と訊ねる。すると店員は意外そうな顔で「ああ、ないよ。不満だったか?」と肩をすくめた。
それならまぁ、いいさ。整理する時に面倒そうだが、大判だと迫力が違う。画面が横長になるパノラマ写真も、上手く収まるよう工夫してプリントしてあった。上下の余白部分をマスキングして、映画のワンシーンみたく黒くなってる。
(日本で頼んだら、これだと手焼き指定で料金上乗せ&中三日ってとこだな…)そう考えると、却って得した気分だ。それでも、袋にマジックで書かれた値段を見て思わず「内訳を説明してくれ」と言ってしまう。
日本円に換算すれば高くもないけど、今後も現像出しの度にカモられては敵わないからな。店員は、厭そうな素振りも見せずに教えてくれた。顔つきが微妙に胡散臭いだけで、中身は真っ当な写真屋なのだ。疑いはじめたらキリがない、僕は言い値で支払った。
今度もまた、謎の男に見送られた。
リビングに顔を出すと、珍しくエドベンも帰宅している。
「ヘーイ、どこ行ってた?」
そう言って僕の肩を叩く彼に、出来上がったばかりの写真を見せる。ママやパティも、テーブルを囲むようにして集まってきた。セノーテ巡りで撮ったり、散歩の途中で写した風景などなど。僕の説明をエドベンが家族に訳してくれていると、ディエゴがアルバムを持ち出してきた。
それはエドベンの物らしく、彼の日本滞在時の写真が何枚も入っていた。エドベンとトニーは、日本でのルームメイトだった。2人は、僕がトニーと知り合う以前からの古い間柄だ。京都、箱根、草津温泉、どこかのスキー場…。一緒に写っている何人かは、僕も会った事がある。
ママが、僕にまとわりつくディエゴをたしなめてから、ふと思い出したように言った。
「おなかが空いてるでしょ?」
さすが肝っ玉母さん、鋭いね。でも一昨日の腹痛から、僕は食事を控えめにしてたのだ。ママのジャンクフード嫌いが頭にあって、何と返事しようか思案しているとエドベンが支度を頼んでしまった。
「気にするなよ、ママは君を気に入ってるんだから」
嬉しい事を言ってくれるじゃないか、そう思いつつ僕は急いで付け足す。
「温め直さなくていいよ、少しだけでいいんだ。ありがとう」
ママは耳ざとく振り向き、エドベンが茶々を入れる。
「夜中に屋台のタコスなんか食べるからだ」
それを聞いたママが憤慨して、トニーの悪影響だというような事を言い出したのには慌てた。僕を気に入ってくれるのは嬉しいけれども、それで彼の分が悪くなるのは間違いというものだ。それに、僕は〈ヘンなガイジン〉ではあってもガキじゃない。
「僕がタコスを食べたくて誘ったんだよ、彼が悪いんじゃない」
そう言ってみたところで、ママの思い込みは直りそうになかったけれど…。
僕が食事を終えようとしていると、上からトニーが降りてきた。
夕食を僕と一緒にとる気でいたのか、こっちを見て少しムッとしたようだった。それでも顔には出さず、茶目っ気たっぷりに笑顔を振りまく。僕が勝手に食事を済ませた事を詫びると、彼は冗談めかして「そうだぞ」を一瞥をよこした。
ママが出してくれた食後のコーヒーを飲みながら、僕はテーブルの上の写真を楽しそうに眺めている彼に解説をする。ソファに腰掛けてTVを観ていたエドベンも横に来て、さっきのアルバムを拡げた。それはトニーをひどく懐かしがらせた。
2人が思い出話に興じている間、僕はそのアルバムを手に取ってめくっていった。後半はエドベンがメキシコに帰国してからの写真だったが、なぜか一人の女性が大方を占めていた。このリビングの、書棚の前に立つ彼女は日本人だった。
この家を訪れた日本人は、僕の前にもいた訳か。それは不思議じゃないにしても、その事を誰も話題にしなかったのが腑に落ちない。僕が女性に見入っていると、ママとパティが彼女について教えてくれた。
2〜3年くらい前だそうだが、しばらくここに滞在してから南方のチアパス州かどこかに向かったのだそうだ。何かを勉強するためらしかったけれど、それ以上はジェスチャー会話では分かりようがなかった。エドベンの知人だというのに彼は何も言わないし、僕に関係ない事だから敢えて訊く話でもないのかもな。
部屋に戻る途中、階段を上がりながらトニーが言った。
「夕飯を食べるんだったら、先にそう言ってくれよ」
やっぱり気にしていたのか。
「ああ、さっきは悪い事をした。謝るよ。そんなつもりじゃなかったんだけど」
「判ってるよ。ママは自分の料理を食べてもらえると嬉しいのさ」
ここに来てから、大抵はビアネイ達の部屋で夜を過ごしている。今日の昼間みたいにジャンクで適当に済ませて、まともに夕飯を食べない事が多かった。ところでトニーは今夜の食事をどうするのだろう、まさか懲りずにタコ屋台か…?!
「まさか。冷蔵庫には何か残ってるだろう」
ビアネイ達の冷蔵庫なのに、ほとんど僕らのジャンクで占領しているのも如何かと。
夜空の隅に、小さな雲がいくつか懸かっている。
今夜も隣の部屋に押しかけ、真夜中過ぎに「おやすみ」を言ってから僕一人で屋上に上がった。
少し氣を練ってみるが、やはり何も感じられない。
風は凪いでいて、タバコの煙がまっすぐに立ちのぼってゆく。
昼間のホテル地区で、銀バスから見えたホテルの廃墟群を思い出した。
ティミーの夜の仕事と、呼び名の由来に関する噂話を思い出した。
昔ここにいた日本人の女のコが、今どこで何をしているのかと思った。
それから、僕はタバコの火を消した。