久しぶりに早起きだ。エドベンを待たせてしまわないように、急いでキューバ行きの支度をする。空港で働いている彼の出勤ついでに、僕らは車に便乗させてもらうのだ。こういう時に目的地が一緒だと、こちらも気兼ねがなくて良い。
1泊2日の、首都ハバナだけの小旅行…にしては大荷物だった。インライン・スケートの道具一式を持って行くからだが、しかもトニーときたら更に行商みたく余計に詰めて遠征状態。自分のシューズとプロテクターだけで充分なのに、向こうで女のコを誘うつもりだな〜?!
朝は意外に車が多い。出勤ラッシュ、という訳だ。それでも渋滞なしでスイスイ走れるのは、信号や横断歩道が少ないからか。キビキビと活気にあふれた空気は、いつもの僕が目を覚まして出歩く時間帯とは大違いだ。
ロータリー形式の大きな交差点は、倍速メリーゴーランドのように石像の周りを車が廻っている。ノンストップで合流すると慣れたハンドルさばきで弧を描き、エドベンはウィンカーも出さずにヒョイヒョイッと外側の車線へ移ってゆく。車間距離もスタント・カー並みで、よく事故らないものだと舌を巻く。
トゥルム通りには、もうセントロの賑わいは無い。もう家並みも消え去り、空港への一本道は低い木々に囲まれている。左手に見え隠れする海は、内陸とホテル地区に挟まれたサンゴ礁の湖だ。全速力で走るから、隙間だらけの車体は風がビュービュー吹き込んでくる。頭上を、超低空飛行のジェットが横切ってゆく。
カンクン国際空港だ、着いた初日のむせ返るような感覚が懐かしくなる。
「楽しんでおいでよ。リコンファームは任せておいて」
それから握手をして、エドベンと別れた。
昨日、トニーは「お金を使わなくったって平気だ」と言っていた。キューバ女性の事だ。
彼に言わせると、熱帯の女性たちは(心身ともにオープン)なのだという。町なかで友達になって、気が合えばOK。お金目的じゃなく、非常にフレンドリーな感覚で一夜を共にしてくれるのだそうだ。しかも女性たちのほうがゴム特有の匂いを嫌っているので、男性諸氏にとってこれほど都合の良い相手はいなかったろう。ただ彼女達はいまだに感染症にも無頓着だったりするから、近頃は男性側が自衛手段を講じなければならないらしいが。
もちろん熱帯に属する国すべての女性という話ではないし、どこまで真顔で相槌を打つ話なのかも定かじゃない。でも何となく(そんなモンなんだろう)とは思ったりする、というのも(だって〈貞操〉なんて普遍的な美徳でもないよなぁ)という気がしたからだ。
つまり〈操を守る〉というのはローカル・ルールの一種であって、それを必要とする集団によって作り出された幻想に過ぎないと。個別に意志として相手を限定するかは別だし、性差による役割分担とも貞操の正邪は関係ない。ひょっとしたら、外敵や天災など死亡率が高い南国にとって繁殖の知恵だったのかもしれない。とにかく機会を設けて人口を増やしていく方が、全滅を回避する理に適っていたのではないだろうか。
そもそも「熱帯=パラダイス」という発想自体が西洋的な幻想なのだ。この陽差しのように生死苦楽のコントラストが強い、どう猛な自然と気候の中で人々は喜びも苦しみも等しく受け入れていく。性的な事を生きる力として、タブー視するのではなく堂々と肯定してみせる…カッコ良いじゃないか。
僕の脳裏に、あの「ストリップティーズの踊り子」の感触が蘇ってきた。野性的で、汗に濡れて、火照った肌。それに動物のような匂い、まるで劇薬だ…。その生命力には触れてみたいけれど、僕には取り扱いが危険そうだな。
だが突然のキューバ行きは、もう出発前から波乱万丈だった。
まさか搭乗前にドラッグ・ポリスの洗礼を受ける羽目になろうとは!
ドラッグ・ポリスは、麻薬の取締を行う警官だ。空港で初めてお目にかかった。メキシコの警官は良くない噂ばかりだが、奴らは特にタチの悪い、手に負えない連中なのだと聞かされていた。
搭乗手続きに並んでいた時、彼らを見かけたトニーは先ず(振り返らないで)と僕に忠告した上で「彼らの注意を引かないように!」と言った。前を向いたまま、さりげなく小さな声でだ。僕は、彼の態度に緊張した。
ドラッグ・ポリスは3人連れで、肩を揺するようにしてロビーを闊歩していた。どの男も巨漢で人相が悪く、柄の悪い私服姿で、どこから見ても公僕ではない。しかも時々、罪のない若いバックパッカーに麻薬を売りつけて検挙率を稼いだり、押収した麻薬を横流しして小遣い稼ぎに精を出したりしているという。
「最低だな」
奴らを横目で見ながら言うと、トニーが目で(黙れ!)と合図した。しかし、もう遅い。大男が、向きを変えてゆっくりと近寄ってきた。ただでさえ特に外人を目の敵にしている奴らだ、トニーが急に笑い出した。
「…いや参ったよホント最低だったよな、あの時は!」
彼の目が(調子を合わせろ)と言っていた。奴らが目の前に来て、トニーは初めて気が付いたふりをして陽気にあいさつする。
「あ、どうも。メキシコは暑いですネ、我々はアメリカから来て…」
「そうかね、良かったらこちらに来て話しましょう」
奴らの口調はごく普通なのだが、見えない圧力の掛け方を心得ている。危うく〈毒蛇の巣〉へ連れ込まれる寸前、運良く通りかかったエドベンの職員権限で事なきを得た。
「君は目立つから、くれぐれも注意しろよ。いいね?」
エドベンは、いつになく険しい表情をした。やり取りしていた内容は解らなかったけど、下手をすれば説得しようとした彼までしょっ引かれかねなかったらしい。許してくれたのは、言わばまぐれのようなものだったのだ。
「なぁ、怒らないで聞けよ」
トニーとしては、出発前に不精ヒゲを剃って無難な格好をして欲しかっただろう。今まで、彼はそのような事を口にしなかった。マナーとして外見的な強制を避けたのだ、その人の在り方に干渉しないように。危ない目に巻き込まれかかった腹立ちを抑えて、トニーは僕の置かれている状況を分かるように説明してくれた。
日本が経済大国になったこと以外には、メキシコの華僑を憎む人もいたりして好意的でない事。
この辺は東洋人が少なく、ラフな格好で不精ヒゲを伸ばしてる僕は余計に目立つ事。
そういうメキシコの常識では(まとも)に見られない外見から、僕はドラッグ・ポリスの標的にされやすい事。
僕はトニーの言うとおりに行動しようと思った。
2006年06月30日
メキシコ旅情【ハバナ!前編・2 ドラッグ・ポリスの逆襲】
人影がまばらだった出発ロビーにも人が増えて、カウンター前の椅子も埋まってきた。
先程の一件からずっと身動きもせず気配を消していたが、僕の尿意は我慢の限界を越えていた。搭乗する便の発券まで当分かかりそうだし、僕は人の波に隠れて席を立った。遠くに見えるドラッグ・ポリスの死角を突いて、トイレへ歩いてゆく。
「ふぅー」
誰もいないトイレで独りごち、思わず声がもれる。
人の気配に目をやると、大柄な地元の男性が狭い戸口を動きにくそうに入ってきたところだった。意味ありげに僕を見ながら、更に後ろから2体の巨漢が…。
ドラッグ・ポリス?!
連中が用足しに来ただけであって欲しい、だが僕を尾行してきたのは明らかだった。
畜生、こっちはそれどころじゃない。途中で止まっちまいそうになりながら、それも癪だし時間を稼ぐ必要もあった。僕は上半身をひねりながら、努めて明るくあいさつする。しかし先方は意に介さず、警察手帳らしき物を見せて一方的に切り出した。
背後から三方を囲んで、まったく「NY麻薬警察25時」かっての。何言ってんのか分からないが、こちとら揺るぎない潔白だぜ。それにしても身構えてベルトに手をかけるのは止めてもらいたいね、銃なんか出すなよ? これじゃあ時間稼ぎも奇襲作戦も通じないな。
用を終えて向き直ると、圧倒的な体格差が鼻先にあった。このまま別室に連行する気らしく、前後をドラッグ・ポリスに挟まれてロビーに出る。
空港内にある取調室に放り込まれたら最後、白でも黒になる…。トニーが言っていたのを思い出した途端、僕はパニックに陥った。黙って付いて行ったらダメだ!
「友達が待っている、彼のところに行かせてくれ」
泣き出したい気持ちを静めながら、足を止めて彼らに訴えた。
「頼むから聞いて下さい。友人に説明しないと心配するので、僕は逃げないから一緒に来て下さい。手間は取らせません、すぐそこです。お願いだから…」
もう必死だった。ここであきらめたら2度とチャンスはない、僕は冷静に断固として主張し続けた。トイレの前は人気が少なかったが、誰もが(何事だ?)という顔で通り過ぎていく。3人は顔を見合わせ、やがて(いいだろう)というふうに頷いた。
「ムーチャス・グラシアス! あなたがたの好意に感謝します」
こちらです、と案内しながら彼らの先を歩く。怪しまれないよう、歩調を落として何度も振り返りながら進む。トニーの姿が見えて目が合った時、思わず走りだしたい衝動に駆られた。彼は僕の背後に目をやり、すぐに事の次第を悟った様子だった。
「こちらの方々が僕と話したいと言うので、話が済むまで待っていて欲しい…」
もちろん再会なんて出来ないだろう、しかしトニーは懸命の説得を試みてくれた。ありがたい反面、彼のビザは期限切れなのだ! 巻き添えを食らって連行されたら、僕よりも危険な目に遭うのは明白だった。
私服警官たちは聞く耳を持たず、僕をうながした。
「ありがとうトニー、ちょっと行ってくる。フライトに遅れそうだったら先に行ってくれ」
もはやこれまで、だな。
「OK…一緒に行くよ。いいだろう?」
もちろん僕は断ったけれど、トニーは決然とした表情で同行の意志を告げたのだった。そう言ってくれたのは…正直いって心強かった。
僕ら2人はドラッグ・ポリスに従って歩きだした。
取調室には、レスラーの控室かと思うほど何人もの私服警官がいた。「虎の穴」だと思った。
トニーに小声で指示されて、僕は(お馬鹿な外国人観光客)を演じてみせる。愛想よくポケットの中身を並べ、担当者にカバンを突付かれたら手早く開いた。せめて今回はサープラス[軍放出品]のカバンは避けるべきだったな…。
トゥルム旅行の検問で引っ掛かった小バッグ、それに大きいリュックまで軍製品だ。こうなると判っていたら、以前トニーに貰ったスーツケースで来てたのに。だけどこれでメキシコに来ちゃった以上、選択の余地はなかった。
リュックを開けようとして、担当者の手に遮られた。奥に座っている小男が、僕らを連行してきた男達と言い合っているようだ。
「まぁ気にせず見てくださいよ。ついでだし、とりあえず」
トニーが(よせ!)と忠告するのも構わず「はいこれタオル、こちらがシャツにパンツ…」とやっていると、担当者が黙ってリュックの上ぶたを閉めた。
「いやいや、そう言わずに見て」と妙な意地を張る僕の腕を取って、トニーが有無を言わさぬ口調で(終わりだ、すぐにしまうんだ)ささやいた。
「なんでさ? こうなったら、とことん身の潔白を…」言い終わらないうちに、彼が語気を荒げた。「もういいんだ、行くぞ!」
渋々、訳も判らず荷造りし直していると(奴らの気が変わらないうちに出るんだ!)と急かされた。そそくさと荷物を抱えて「虎の穴」を早足で離れ、発券カウンターでリュックを預けると税関を越えた。ここまで来れば治外法権だ、もう奴等に怯えてビクつく心配もない。
「なんだ、心配するほど大したコトなかったじゃん」
正直ホッとして軽口を叩く僕を、トニーは冷ややかに見た。
「奴らを甘く見るなよ、今は運が良かっただけなんだ」
奥にいた初老の小男こそがボスで、たまたま彼の食事中に僕らの取り調べが行われようとしていたのだ。こんな時間にボスが食事してくれていたおかげで、それに(檻に閉じ込めておこう)と思わなかった事で救われたのだ。僕らが「虎の穴」から抜け出せたのは、偶然と奇跡と一種の気まぐれだった。
「今すぐヒゲを剃って、少しはサッパリしろ!」
怖い目をしたトニーに命令されて、僕はすぐに不精ヒゲを剃って借りたシェーバーを返した。そんなの普通は親しくても貸し借りなどしないが、僕は最初から持っていないし売店にも置いていなかったのだ。
「いいか、ここは日本のように身の安全が保障されている国ではないんだ」
彼は僕に「キリング・フィールド」という映画を観たか、と尋ねた。その一言だけで、充分に言いたいことは伝わってきた。僕にとって〈正しいこと〉が、万国共通な正義とは限らない。それは単に、僕の属するシステムが依拠する倫理観の象徴でしかなかった。いくら声高に(権力機構の腐敗)を非難しようと、ここでは僕の正義など何の力も持たない。ジャッジするのは彼らだった。〈長いものには巻かれろ〉ではなく〈郷に入れば郷に従え〉なのだ。
「迷惑を掛けて、本当に申し訳ないと思ってる」
「楽しい旅行をしたければ、目立たず保守的にならないと。これは覚えておいて損はないよ」
搭乗ゲートの正面に係員がやって来た。間もなくカンクン出発だ。
先程の一件からずっと身動きもせず気配を消していたが、僕の尿意は我慢の限界を越えていた。搭乗する便の発券まで当分かかりそうだし、僕は人の波に隠れて席を立った。遠くに見えるドラッグ・ポリスの死角を突いて、トイレへ歩いてゆく。
「ふぅー」
誰もいないトイレで独りごち、思わず声がもれる。
人の気配に目をやると、大柄な地元の男性が狭い戸口を動きにくそうに入ってきたところだった。意味ありげに僕を見ながら、更に後ろから2体の巨漢が…。
ドラッグ・ポリス?!
連中が用足しに来ただけであって欲しい、だが僕を尾行してきたのは明らかだった。
畜生、こっちはそれどころじゃない。途中で止まっちまいそうになりながら、それも癪だし時間を稼ぐ必要もあった。僕は上半身をひねりながら、努めて明るくあいさつする。しかし先方は意に介さず、警察手帳らしき物を見せて一方的に切り出した。
背後から三方を囲んで、まったく「NY麻薬警察25時」かっての。何言ってんのか分からないが、こちとら揺るぎない潔白だぜ。それにしても身構えてベルトに手をかけるのは止めてもらいたいね、銃なんか出すなよ? これじゃあ時間稼ぎも奇襲作戦も通じないな。
用を終えて向き直ると、圧倒的な体格差が鼻先にあった。このまま別室に連行する気らしく、前後をドラッグ・ポリスに挟まれてロビーに出る。
空港内にある取調室に放り込まれたら最後、白でも黒になる…。トニーが言っていたのを思い出した途端、僕はパニックに陥った。黙って付いて行ったらダメだ!
「友達が待っている、彼のところに行かせてくれ」
泣き出したい気持ちを静めながら、足を止めて彼らに訴えた。
「頼むから聞いて下さい。友人に説明しないと心配するので、僕は逃げないから一緒に来て下さい。手間は取らせません、すぐそこです。お願いだから…」
もう必死だった。ここであきらめたら2度とチャンスはない、僕は冷静に断固として主張し続けた。トイレの前は人気が少なかったが、誰もが(何事だ?)という顔で通り過ぎていく。3人は顔を見合わせ、やがて(いいだろう)というふうに頷いた。
「ムーチャス・グラシアス! あなたがたの好意に感謝します」
こちらです、と案内しながら彼らの先を歩く。怪しまれないよう、歩調を落として何度も振り返りながら進む。トニーの姿が見えて目が合った時、思わず走りだしたい衝動に駆られた。彼は僕の背後に目をやり、すぐに事の次第を悟った様子だった。
「こちらの方々が僕と話したいと言うので、話が済むまで待っていて欲しい…」
もちろん再会なんて出来ないだろう、しかしトニーは懸命の説得を試みてくれた。ありがたい反面、彼のビザは期限切れなのだ! 巻き添えを食らって連行されたら、僕よりも危険な目に遭うのは明白だった。
私服警官たちは聞く耳を持たず、僕をうながした。
「ありがとうトニー、ちょっと行ってくる。フライトに遅れそうだったら先に行ってくれ」
もはやこれまで、だな。
「OK…一緒に行くよ。いいだろう?」
もちろん僕は断ったけれど、トニーは決然とした表情で同行の意志を告げたのだった。そう言ってくれたのは…正直いって心強かった。
僕ら2人はドラッグ・ポリスに従って歩きだした。
取調室には、レスラーの控室かと思うほど何人もの私服警官がいた。「虎の穴」だと思った。
トニーに小声で指示されて、僕は(お馬鹿な外国人観光客)を演じてみせる。愛想よくポケットの中身を並べ、担当者にカバンを突付かれたら手早く開いた。せめて今回はサープラス[軍放出品]のカバンは避けるべきだったな…。
トゥルム旅行の検問で引っ掛かった小バッグ、それに大きいリュックまで軍製品だ。こうなると判っていたら、以前トニーに貰ったスーツケースで来てたのに。だけどこれでメキシコに来ちゃった以上、選択の余地はなかった。
リュックを開けようとして、担当者の手に遮られた。奥に座っている小男が、僕らを連行してきた男達と言い合っているようだ。
「まぁ気にせず見てくださいよ。ついでだし、とりあえず」
トニーが(よせ!)と忠告するのも構わず「はいこれタオル、こちらがシャツにパンツ…」とやっていると、担当者が黙ってリュックの上ぶたを閉めた。
「いやいや、そう言わずに見て」と妙な意地を張る僕の腕を取って、トニーが有無を言わさぬ口調で(終わりだ、すぐにしまうんだ)ささやいた。
「なんでさ? こうなったら、とことん身の潔白を…」言い終わらないうちに、彼が語気を荒げた。「もういいんだ、行くぞ!」
渋々、訳も判らず荷造りし直していると(奴らの気が変わらないうちに出るんだ!)と急かされた。そそくさと荷物を抱えて「虎の穴」を早足で離れ、発券カウンターでリュックを預けると税関を越えた。ここまで来れば治外法権だ、もう奴等に怯えてビクつく心配もない。
「なんだ、心配するほど大したコトなかったじゃん」
正直ホッとして軽口を叩く僕を、トニーは冷ややかに見た。
「奴らを甘く見るなよ、今は運が良かっただけなんだ」
奥にいた初老の小男こそがボスで、たまたま彼の食事中に僕らの取り調べが行われようとしていたのだ。こんな時間にボスが食事してくれていたおかげで、それに(檻に閉じ込めておこう)と思わなかった事で救われたのだ。僕らが「虎の穴」から抜け出せたのは、偶然と奇跡と一種の気まぐれだった。
「今すぐヒゲを剃って、少しはサッパリしろ!」
怖い目をしたトニーに命令されて、僕はすぐに不精ヒゲを剃って借りたシェーバーを返した。そんなの普通は親しくても貸し借りなどしないが、僕は最初から持っていないし売店にも置いていなかったのだ。
「いいか、ここは日本のように身の安全が保障されている国ではないんだ」
彼は僕に「キリング・フィールド」という映画を観たか、と尋ねた。その一言だけで、充分に言いたいことは伝わってきた。僕にとって〈正しいこと〉が、万国共通な正義とは限らない。それは単に、僕の属するシステムが依拠する倫理観の象徴でしかなかった。いくら声高に(権力機構の腐敗)を非難しようと、ここでは僕の正義など何の力も持たない。ジャッジするのは彼らだった。〈長いものには巻かれろ〉ではなく〈郷に入れば郷に従え〉なのだ。
「迷惑を掛けて、本当に申し訳ないと思ってる」
「楽しい旅行をしたければ、目立たず保守的にならないと。これは覚えておいて損はないよ」
搭乗ゲートの正面に係員がやって来た。間もなくカンクン出発だ。
メキシコ旅情【ハバナ!前編・3 鉄板一枚カリブ海上空】
滑走路を歩いていると、アスファルトの反射熱で脳みそが溶けそうだ。
目指す先に駐機している、その尾翼のマークと手にしたチケットを見比べる。エアロ・ガビオータ…間違いない、あのプロペラ機だ。その、小さなお尻の辺りがガバッと開いてタラップになっている。すげぇーなぁ、こういう飛行機に乗れるなんて!
そういえば、こうやって「後乗り」する飛行機に憧れたっけなぁ。戦争映画でしか見たことなかったもん、ちょっと形は違っているけど(サンド・マン)と呼ばれていた補給機に似ている。しかし実際に真下から見上げると、恐竜の体内を探検するような気分だ。
機内は思ってたより狭く、20席程度しかない。それに後ろの右側は荷物置き場、というか旅行バッグを床に積み上げてネットを被せただけじゃん…。エドベンの車みたく飾りっ気がない、これでも旅客機? って感じ。左側は2座席×5列、右側は3列程度だった。通路正面に鉄板の扉、この奥は直接コックピットなのだと思う。トイレはなさそうだし、全席自由でリクライニングもサイド・テーブルもない。
「替わろうか?」
窓際のトニーに、僕は「平気だよ」と答えた。深紅色の厚いカーテンを持ち上げると、船倉のような丸窓から主翼のプロペラ・エンジンが見える。後ろのタラップが閉じられ、エンジン音が高まってゆく。そして午前11時30分、カンクン空港を飛び立った。
可愛らしい飛行機だと思っていたが、いざ動き出したらそれが心配になってきた。
「これ、大丈夫なのかね…」
僕の言葉は轟音に呑み込まれ、自分の耳にも届かない。機体をギシギシと鳴らしながら、やっとの思いで離陸してゆく。まるで(よっこいしょ、よっこいしょ)と見えない階段をよじ登っているみたい。水平飛行に移ると、声にならない安堵の吐息が全員の口からもれてきた。
ここまできたら不安がっていても仕様がない、覚悟を決めて楽に行こう。トニーを見ると、落ち着き払って本を読み始めていた。旅馴れた人は、さすがに余裕があるものだ。
「何を読んでるの〜?!」
「…聞こえないよー?!」
すぐ横で絶叫してるのに、爆音にかき消されてしまう。彼はガイドブックに目を通していたが、細かな英字で写真ひとつないので面白くない。することがないし眠りたかったけど、やかましすぎるし揺れも激しかった。
丸い窓の外は海と空、主翼が上下に羽ばたきしてやがる…。多少は気圧が保たれているのだろうが、冷たい隙間風が吹き込んでくる。まさに「板コ一枚、海の上」ならぬ、雲の上だな。明らかに(高度何千メートルの空中を飛んでいる)という生々しい感触、気分は空挺部隊だった。
やがて着陸態勢に入ると、鉄板越しの操縦席から緊張感が伝わってきた。ここ一番の正念場だ、焦るなよ落ち着いて…思わず目を閉じて祈る。いきなり成功とも失敗ともつかない衝撃に突き上げられ、ゆっくりとスピードが下がり始めると、機内は乗客全員の喝采に包まれた。この生死を分かち合ったような、何ともいえない一体感!
タラップを降りてゆくと、地上ではクルーが整列していた。僕らを見上げて、両側から笑顔と拍手で迎えてくれる。こういうアットホームさに、僕は(やっぱり人だよなぁー)と改めて思う。乗り心地を補って余りあるもてなし方に、僕はクルー全員に礼を述べながら足を着けた。
キューバだ!
ハバナ空港は、やたらシンプルだった。滑走路もそうだけど、何よりも建物が箱なのだ。ガラス戸を押し開けると、20m程前方が仕切られているだけ。それも芝居用のセットみたいで、本当はどうだっていいのだろう。意味なく高い天井の下、風呂屋の番台みたいな税関の先にキューバ国内が見通せる。
僕は、トニーの後から審査を受けた。恐い顔付きをした係員のオッサンが黙って書類を見つめ、しばらく間を置いて僕に質問をした。
「職業は?」
非常に聞き取りにくい英語だが、係官のほうも僕の発音じゃ理解できないのか。
「だからさ、ナッシングだってば」
互いに苛立ってきて、同じ言葉を連呼し続け話が進まない。しびれを切らした係官が僕を小部屋に連れ込む寸前、トニーが説得に飛び込んできた。
「この日本人は失業したばかりですが、次の仕事は決まっていますので…」
今にも怒り出しそうな係官たちに、彼は辻褄あわせをでっち上げる。おかげで僕は、何事もなく通過できた。ありがたいと感謝してはいるが、理由は何であれ嘘は良くないんじゃないのかなぁ〜? そんな僕の発言に、彼は(判ってないな)という顔をした。
「あのねー、無職と言って税関の審査を通してくれると思うなよ」
そう言われても…だって、それが事実じゃん。そう僕が言うより早く、トニーは言葉を付け加えた。
「無職の人間が入国しようとしたら、普通はこう考えるだろうよ」
・不法就労しようとしている
・人に言えない職業に就いている
・何かの病気にかかっている
「…つまり君の意見がどうであれ、今の一件で分かっただろ?」
日本以外の国では、フリーターなんて言っても通用しないのだ。たとえ大金持ちだろうと、僕の年齢で職業を持たない事は考えられない。
「悪かったよ。トニーの言うとおりだね」
確かにそれが健全な認識というものだ、そういう意識を今まで持ったことが無かったけど…。意気消沈する僕に、彼は「君が悪い訳じゃないよ」と肩を叩いた。
「ただ、覚えておいて欲しかったんだ」
「ともかくハバナ市街に出よう」
ロビーの外には、メルセデス・ベンツが並んでいた。これ全部タクシーだ、と聞いてビックリ。ブルー・グレーの制服を着込んだ運転手たちが、次々に旅行者たちに群がっている。他の観光客なんて、スーツケースを持っていかれそうな勢いだ。よく見ると、50年代の古いアメ車も何台か混ざっている。
いつの間に交渉したのか、トニーが僕を呼んでいた。ありゃりゃー、日本車? とにかく出発、ガツガツ客引きしている空気には馴染めない。
左ハンドル仕様でも内装など日本車独特で、ハンドルの切れ具合やサスペンションの感触に懐かしさを覚える。日本では気にも留めない事なのに、エンジンやギアの音からも直感的に感じ取れるから不思議だ。
道幅は広くはないけど、中央分離帯を挟んで上下2車線ある。平坦で見通しが良く、車はほとんど走っていない。濃い緑は雨上がりの鮮やかな色で、空気も湿り気を帯びていて暑過ぎず快適だ。森林はカンクンよりも文字通りジャングルの様相を呈しているが、景色が開けると道に沿って家々が建ち並びはじめた。人も自転車も目立つようになり、元気に遊んでいる子供たちを見て妙に嬉しくなる。やっぱり子供はこうでなくちゃ。
対向車線を、オリーブ色の軍用車が走り去る。それがジープやトラックだけならまだしも、ロケット・ランチャーまで公道を走っているのには恐れ入った。しまいにはミサイルを積んだ超特大トレーラーが、野中の一本道を揺られて行く始末。(中米危機か?!)と、ギクリとする。でも誰も気にしていない。
次第に緑が減って、鉄筋の建物がそこかしこに現れた。壁面にチェ・ゲバラの肖像が描かれたビルを見て、つくづく(遠い国に来たんだなぁー)と思う。
自分が今、社会主義国家キューバにいるのだと感じた瞬間だった。
目指す先に駐機している、その尾翼のマークと手にしたチケットを見比べる。エアロ・ガビオータ…間違いない、あのプロペラ機だ。その、小さなお尻の辺りがガバッと開いてタラップになっている。すげぇーなぁ、こういう飛行機に乗れるなんて!
そういえば、こうやって「後乗り」する飛行機に憧れたっけなぁ。戦争映画でしか見たことなかったもん、ちょっと形は違っているけど(サンド・マン)と呼ばれていた補給機に似ている。しかし実際に真下から見上げると、恐竜の体内を探検するような気分だ。
機内は思ってたより狭く、20席程度しかない。それに後ろの右側は荷物置き場、というか旅行バッグを床に積み上げてネットを被せただけじゃん…。エドベンの車みたく飾りっ気がない、これでも旅客機? って感じ。左側は2座席×5列、右側は3列程度だった。通路正面に鉄板の扉、この奥は直接コックピットなのだと思う。トイレはなさそうだし、全席自由でリクライニングもサイド・テーブルもない。
「替わろうか?」
窓際のトニーに、僕は「平気だよ」と答えた。深紅色の厚いカーテンを持ち上げると、船倉のような丸窓から主翼のプロペラ・エンジンが見える。後ろのタラップが閉じられ、エンジン音が高まってゆく。そして午前11時30分、カンクン空港を飛び立った。
可愛らしい飛行機だと思っていたが、いざ動き出したらそれが心配になってきた。
「これ、大丈夫なのかね…」
僕の言葉は轟音に呑み込まれ、自分の耳にも届かない。機体をギシギシと鳴らしながら、やっとの思いで離陸してゆく。まるで(よっこいしょ、よっこいしょ)と見えない階段をよじ登っているみたい。水平飛行に移ると、声にならない安堵の吐息が全員の口からもれてきた。
ここまできたら不安がっていても仕様がない、覚悟を決めて楽に行こう。トニーを見ると、落ち着き払って本を読み始めていた。旅馴れた人は、さすがに余裕があるものだ。
「何を読んでるの〜?!」
「…聞こえないよー?!」
すぐ横で絶叫してるのに、爆音にかき消されてしまう。彼はガイドブックに目を通していたが、細かな英字で写真ひとつないので面白くない。することがないし眠りたかったけど、やかましすぎるし揺れも激しかった。
丸い窓の外は海と空、主翼が上下に羽ばたきしてやがる…。多少は気圧が保たれているのだろうが、冷たい隙間風が吹き込んでくる。まさに「板コ一枚、海の上」ならぬ、雲の上だな。明らかに(高度何千メートルの空中を飛んでいる)という生々しい感触、気分は空挺部隊だった。
やがて着陸態勢に入ると、鉄板越しの操縦席から緊張感が伝わってきた。ここ一番の正念場だ、焦るなよ落ち着いて…思わず目を閉じて祈る。いきなり成功とも失敗ともつかない衝撃に突き上げられ、ゆっくりとスピードが下がり始めると、機内は乗客全員の喝采に包まれた。この生死を分かち合ったような、何ともいえない一体感!
タラップを降りてゆくと、地上ではクルーが整列していた。僕らを見上げて、両側から笑顔と拍手で迎えてくれる。こういうアットホームさに、僕は(やっぱり人だよなぁー)と改めて思う。乗り心地を補って余りあるもてなし方に、僕はクルー全員に礼を述べながら足を着けた。
キューバだ!
ハバナ空港は、やたらシンプルだった。滑走路もそうだけど、何よりも建物が箱なのだ。ガラス戸を押し開けると、20m程前方が仕切られているだけ。それも芝居用のセットみたいで、本当はどうだっていいのだろう。意味なく高い天井の下、風呂屋の番台みたいな税関の先にキューバ国内が見通せる。
僕は、トニーの後から審査を受けた。恐い顔付きをした係員のオッサンが黙って書類を見つめ、しばらく間を置いて僕に質問をした。
「職業は?」
非常に聞き取りにくい英語だが、係官のほうも僕の発音じゃ理解できないのか。
「だからさ、ナッシングだってば」
互いに苛立ってきて、同じ言葉を連呼し続け話が進まない。しびれを切らした係官が僕を小部屋に連れ込む寸前、トニーが説得に飛び込んできた。
「この日本人は失業したばかりですが、次の仕事は決まっていますので…」
今にも怒り出しそうな係官たちに、彼は辻褄あわせをでっち上げる。おかげで僕は、何事もなく通過できた。ありがたいと感謝してはいるが、理由は何であれ嘘は良くないんじゃないのかなぁ〜? そんな僕の発言に、彼は(判ってないな)という顔をした。
「あのねー、無職と言って税関の審査を通してくれると思うなよ」
そう言われても…だって、それが事実じゃん。そう僕が言うより早く、トニーは言葉を付け加えた。
「無職の人間が入国しようとしたら、普通はこう考えるだろうよ」
・不法就労しようとしている
・人に言えない職業に就いている
・何かの病気にかかっている
「…つまり君の意見がどうであれ、今の一件で分かっただろ?」
日本以外の国では、フリーターなんて言っても通用しないのだ。たとえ大金持ちだろうと、僕の年齢で職業を持たない事は考えられない。
「悪かったよ。トニーの言うとおりだね」
確かにそれが健全な認識というものだ、そういう意識を今まで持ったことが無かったけど…。意気消沈する僕に、彼は「君が悪い訳じゃないよ」と肩を叩いた。
「ただ、覚えておいて欲しかったんだ」
「ともかくハバナ市街に出よう」
ロビーの外には、メルセデス・ベンツが並んでいた。これ全部タクシーだ、と聞いてビックリ。ブルー・グレーの制服を着込んだ運転手たちが、次々に旅行者たちに群がっている。他の観光客なんて、スーツケースを持っていかれそうな勢いだ。よく見ると、50年代の古いアメ車も何台か混ざっている。
いつの間に交渉したのか、トニーが僕を呼んでいた。ありゃりゃー、日本車? とにかく出発、ガツガツ客引きしている空気には馴染めない。
左ハンドル仕様でも内装など日本車独特で、ハンドルの切れ具合やサスペンションの感触に懐かしさを覚える。日本では気にも留めない事なのに、エンジンやギアの音からも直感的に感じ取れるから不思議だ。
道幅は広くはないけど、中央分離帯を挟んで上下2車線ある。平坦で見通しが良く、車はほとんど走っていない。濃い緑は雨上がりの鮮やかな色で、空気も湿り気を帯びていて暑過ぎず快適だ。森林はカンクンよりも文字通りジャングルの様相を呈しているが、景色が開けると道に沿って家々が建ち並びはじめた。人も自転車も目立つようになり、元気に遊んでいる子供たちを見て妙に嬉しくなる。やっぱり子供はこうでなくちゃ。
対向車線を、オリーブ色の軍用車が走り去る。それがジープやトラックだけならまだしも、ロケット・ランチャーまで公道を走っているのには恐れ入った。しまいにはミサイルを積んだ超特大トレーラーが、野中の一本道を揺られて行く始末。(中米危機か?!)と、ギクリとする。でも誰も気にしていない。
次第に緑が減って、鉄筋の建物がそこかしこに現れた。壁面にチェ・ゲバラの肖像が描かれたビルを見て、つくづく(遠い国に来たんだなぁー)と思う。
自分が今、社会主義国家キューバにいるのだと感じた瞬間だった。
メキシコ旅情【ハバナ!前編・4 キューバについて】
キューバの女性は格別に魅力的だ、という。…まぁ一般論として。
「残念ながら、巨乳ファンの期待には添えないがね」と、トニー。
すらりキュッとした肢体に小顔(死語か?)、彫りの深い目鼻立ちと豊かな腰回り。白人と黒人の優れた特徴が、絶妙に〈ブレンド〉された女性達のプロポーション。しかしながらそれは、サトウキビ生産のために多くの黒人が労働力として〈輸入〉された歴史の産物でもあった。農奴として所有されていた女性達に好き勝手しまくった、いわゆる男の性の愚かしさは同性として情けなく思う。もちろんそれは、社会主義国家として冷遇を受けるよりもずっと前の話。
メキシコの大多数を占める「メスチーソ」も、インディオと白人の混血だ。それにもかかわらず世界の男性たちから、キューバ女性ほどの称賛を浴びてはいない。ヤられた事は同じなのに…というか、キューバには先住のインディオはいなかったのだろうか? やはり彼らは、キューバでもマイノリティなのだろうか。
キューバに関して、僕が知っていること。
有名な葉巻の産地で野球チームが強く、カストロ議長とチェ・ゲバラ…そんなところか。何も知らないようなものだ。僕は「メキシコについて」だって語るほどの知識は無いが、キューバは突然のオマケ旅行なので予備知識を仕入れてもいない。それでも旅は続く。気楽に構えていこう。そのキューバ女性にだって、もうすぐ逢えることになっている。
現地に着いたら、先ず連絡を取る相手がいた。ハバナ近郊に住んでいる筈の、ビアネイの友人だった。
「しばらく連絡を取っていないから、引っ越しているかも知れないけど」
ビアネイがそう言って前の晩にくれた、1枚のメモが頼りだ。その女性はイダルミという名前で、ビアネイとは元ルーム・メイトの間柄だという。2人ともなぜか、ベリーズの学校に通っていたらしい。ベリーズ。
多分、知らない人のほうが多いだろう。僕だって、かろうじて名前を知っているだけの国だ。四国程度の国土面積を持ち、中南米では珍しく政情が安定している若い国。メキシコとはユカタン半島の付け根で国境を接しているが、政策的な経緯の違いから黒人が多いらしい。英語を公用語に定めている点でも、また距離的にもジャマイカに近い。そのせいか、レゲエとお祭りが大好きな人々が住んでいるそうだ。
それだからって、わざわざ外国で英語を習うかなぁ〜?
昨夜ビアネイがくれたポスト・カードに、上空から見たカリブ海の青い円が写っていた。それは「ブルー・ホール」と呼ばれるダイビング・ポイントで、石灰質の海底が円形に陥没して出来た巨大な穴だった。他には世界第2の規模のバリア・リーフでも知られていて、観光地化が進んでいないマヤ遺跡や広大な野生保護区が密かな人気を集めているとか。
いつか行ってみたいものだ、ビアネイもお勧めだと言ってたし。
僕らの泊まる「ホテル・コイーバ」は、キューバでも新しい高層ホテルだった。
中心地オールド・ハバナ[旧市街]からは離れているものの、グランド・フロアには有名な一流ブランドの店がひしめいている。この位ならハワイイやグアムあたりにゴロゴロしてるが、何といっても豪快な眺望はコイーバならでは! と断言しても差し支えないだろう。目の前にカリブ海と、スラム街…。
これは凄まじい絶景だなー、カーテンを開けた時は絶句してしまった。運悪く空がどんより曇っていたせいもあろうけど、薄暗いトーンに沈み込んだ街は廃墟さながらの光景。カリブ海もまた、カンクンの透き通ったブルーではない深みがある。防波堤を乗り越えて打ち寄せる荒波は、とても常夏の国というより陰鬱な北海だ。
チェック・イン早々、トニーはイダルミに電話をかけた。地元に知り合いがいる、というのは心強い。メキシコにいて実感したが、美味い店、穴場に修羅場、危険なエリア、面白い体験などなど…それは土地の事情を知る友人がいなければあり得なかったもんね。
だが、あいにくイダルミとは連絡がつかないようだった。
「こうしていても、埒があかない。先に何か食べよう」
そうこなくっちゃ、朝食から何も口にしていなかったのだ。着いて早々、休む間もなく部屋を後にしてエレベーターに向かう。ロビーには、高い天井からジャラジャラした馬鹿でかいシャンデリアが下がっていた。こういう社交界然とした悪趣味さは、およそ僕らに似つかわしくない。 玄関を出た外には本物の光があり、この街の現実がある。ガタガタにひび割れた歩道、ほこりっぽい空気、黒い肌の子供たち…。虚飾の夢が覚めるように、ホテルに漂っていた倦怠も消し飛ぶ。
玄関前に横付けされたベンツ、このタクシーはホテルと契約して車寄せを使っているに違いない。きっと近くに、別な車が客待ちしている筈だ。だけど周囲は閑散としていて、仕方がないのでホテルに戻ってベンツに乗る。値段は組合料金だとかで、交渉は出来ない決まりになっているらしい。白髪の白人運転手が、嫌な顔もせずにそう言った。
この車の料金メーターが、唯一のタクシーらしさを感じさせる。デジタル表示の隅っこに、USドルであることが示されている。この国で外国人が使えるのはキューバ・ペソではなく、USドルに限られるのだ。同じ$表記ではあれど、アメリカとは今も国交断絶しているのに。
思わずウトウトしかけていると、目的地についてしまった。
ホテル・コイーバから10分程度だったろうか、オールド・ハバナでタクシーを降りた。歴史を感じさせる石造りの建物、その路地を入ると賑わう市場に出た。といっても大聖堂らしき建造物の前で、民芸品の露店が並んでいるだけの広場だ。今日が縁日なのか不明だけれど、きっと観光客相手に毎日やっているのだと思う。ヤシの実の人形とかボンゴとかいった、いかにも素朴なオミヤゲ中心。
空は雲が多く、陽が射したり陰ったりしている。トニーに付きあって、彼の後ろから一通り見てまわった。売り手は何もせずに座っている割に目付きが鋭いので気味が悪く、立ち止まらずに通過する。一軒ぐらい南国の果物をジュースにしている店なんかがありそうなものだが、残念な事にそういう飲食を扱う屋台はひとつもなかった。
大聖堂は、外壁の補修工事をしていた。門は閉じられていて、内部を見学できないのは惜しい。広場を囲む建物は、どれもスペイン植民地時代の名残を留めていた。オールド・ハバナは、こういった風情ある町並みが多く残されている人気エリアだという。首都機能は、近接するハバナ・シティに移されている。
広場から離れるとすぐに人だかりが見えた。路地に面した、レストランらしき店だ。外国人観光客が通りにまであふれ出して、店内の様子はまったく判らない。まさか、ここが作家ヘミングウェイゆかりのバーだなんて知る由もなかった。一番奥には、彼の指定席が残されているのだそうだ。
とにかく今は、観光よりも食事が先だ。頭の中は、そのことだけしかなかった。
キューバについて・補足(後知恵)
「残念ながら、巨乳ファンの期待には添えないがね」と、トニー。
すらりキュッとした肢体に小顔(死語か?)、彫りの深い目鼻立ちと豊かな腰回り。白人と黒人の優れた特徴が、絶妙に〈ブレンド〉された女性達のプロポーション。しかしながらそれは、サトウキビ生産のために多くの黒人が労働力として〈輸入〉された歴史の産物でもあった。農奴として所有されていた女性達に好き勝手しまくった、いわゆる男の性の愚かしさは同性として情けなく思う。もちろんそれは、社会主義国家として冷遇を受けるよりもずっと前の話。
メキシコの大多数を占める「メスチーソ」も、インディオと白人の混血だ。それにもかかわらず世界の男性たちから、キューバ女性ほどの称賛を浴びてはいない。ヤられた事は同じなのに…というか、キューバには先住のインディオはいなかったのだろうか? やはり彼らは、キューバでもマイノリティなのだろうか。
キューバに関して、僕が知っていること。
有名な葉巻の産地で野球チームが強く、カストロ議長とチェ・ゲバラ…そんなところか。何も知らないようなものだ。僕は「メキシコについて」だって語るほどの知識は無いが、キューバは突然のオマケ旅行なので予備知識を仕入れてもいない。それでも旅は続く。気楽に構えていこう。そのキューバ女性にだって、もうすぐ逢えることになっている。
現地に着いたら、先ず連絡を取る相手がいた。ハバナ近郊に住んでいる筈の、ビアネイの友人だった。
「しばらく連絡を取っていないから、引っ越しているかも知れないけど」
ビアネイがそう言って前の晩にくれた、1枚のメモが頼りだ。その女性はイダルミという名前で、ビアネイとは元ルーム・メイトの間柄だという。2人ともなぜか、ベリーズの学校に通っていたらしい。ベリーズ。
多分、知らない人のほうが多いだろう。僕だって、かろうじて名前を知っているだけの国だ。四国程度の国土面積を持ち、中南米では珍しく政情が安定している若い国。メキシコとはユカタン半島の付け根で国境を接しているが、政策的な経緯の違いから黒人が多いらしい。英語を公用語に定めている点でも、また距離的にもジャマイカに近い。そのせいか、レゲエとお祭りが大好きな人々が住んでいるそうだ。
それだからって、わざわざ外国で英語を習うかなぁ〜?
昨夜ビアネイがくれたポスト・カードに、上空から見たカリブ海の青い円が写っていた。それは「ブルー・ホール」と呼ばれるダイビング・ポイントで、石灰質の海底が円形に陥没して出来た巨大な穴だった。他には世界第2の規模のバリア・リーフでも知られていて、観光地化が進んでいないマヤ遺跡や広大な野生保護区が密かな人気を集めているとか。
いつか行ってみたいものだ、ビアネイもお勧めだと言ってたし。
僕らの泊まる「ホテル・コイーバ」は、キューバでも新しい高層ホテルだった。
中心地オールド・ハバナ[旧市街]からは離れているものの、グランド・フロアには有名な一流ブランドの店がひしめいている。この位ならハワイイやグアムあたりにゴロゴロしてるが、何といっても豪快な眺望はコイーバならでは! と断言しても差し支えないだろう。目の前にカリブ海と、スラム街…。
これは凄まじい絶景だなー、カーテンを開けた時は絶句してしまった。運悪く空がどんより曇っていたせいもあろうけど、薄暗いトーンに沈み込んだ街は廃墟さながらの光景。カリブ海もまた、カンクンの透き通ったブルーではない深みがある。防波堤を乗り越えて打ち寄せる荒波は、とても常夏の国というより陰鬱な北海だ。
チェック・イン早々、トニーはイダルミに電話をかけた。地元に知り合いがいる、というのは心強い。メキシコにいて実感したが、美味い店、穴場に修羅場、危険なエリア、面白い体験などなど…それは土地の事情を知る友人がいなければあり得なかったもんね。
だが、あいにくイダルミとは連絡がつかないようだった。
「こうしていても、埒があかない。先に何か食べよう」
そうこなくっちゃ、朝食から何も口にしていなかったのだ。着いて早々、休む間もなく部屋を後にしてエレベーターに向かう。ロビーには、高い天井からジャラジャラした馬鹿でかいシャンデリアが下がっていた。こういう社交界然とした悪趣味さは、およそ僕らに似つかわしくない。 玄関を出た外には本物の光があり、この街の現実がある。ガタガタにひび割れた歩道、ほこりっぽい空気、黒い肌の子供たち…。虚飾の夢が覚めるように、ホテルに漂っていた倦怠も消し飛ぶ。
玄関前に横付けされたベンツ、このタクシーはホテルと契約して車寄せを使っているに違いない。きっと近くに、別な車が客待ちしている筈だ。だけど周囲は閑散としていて、仕方がないのでホテルに戻ってベンツに乗る。値段は組合料金だとかで、交渉は出来ない決まりになっているらしい。白髪の白人運転手が、嫌な顔もせずにそう言った。
この車の料金メーターが、唯一のタクシーらしさを感じさせる。デジタル表示の隅っこに、USドルであることが示されている。この国で外国人が使えるのはキューバ・ペソではなく、USドルに限られるのだ。同じ$表記ではあれど、アメリカとは今も国交断絶しているのに。
思わずウトウトしかけていると、目的地についてしまった。
ホテル・コイーバから10分程度だったろうか、オールド・ハバナでタクシーを降りた。歴史を感じさせる石造りの建物、その路地を入ると賑わう市場に出た。といっても大聖堂らしき建造物の前で、民芸品の露店が並んでいるだけの広場だ。今日が縁日なのか不明だけれど、きっと観光客相手に毎日やっているのだと思う。ヤシの実の人形とかボンゴとかいった、いかにも素朴なオミヤゲ中心。
空は雲が多く、陽が射したり陰ったりしている。トニーに付きあって、彼の後ろから一通り見てまわった。売り手は何もせずに座っている割に目付きが鋭いので気味が悪く、立ち止まらずに通過する。一軒ぐらい南国の果物をジュースにしている店なんかがありそうなものだが、残念な事にそういう飲食を扱う屋台はひとつもなかった。
大聖堂は、外壁の補修工事をしていた。門は閉じられていて、内部を見学できないのは惜しい。広場を囲む建物は、どれもスペイン植民地時代の名残を留めていた。オールド・ハバナは、こういった風情ある町並みが多く残されている人気エリアだという。首都機能は、近接するハバナ・シティに移されている。
広場から離れるとすぐに人だかりが見えた。路地に面した、レストランらしき店だ。外国人観光客が通りにまであふれ出して、店内の様子はまったく判らない。まさか、ここが作家ヘミングウェイゆかりのバーだなんて知る由もなかった。一番奥には、彼の指定席が残されているのだそうだ。
とにかく今は、観光よりも食事が先だ。頭の中は、そのことだけしかなかった。
キューバについて・補足(後知恵)
メキシコ旅情【ハバナ!前編・5 チーノ…?!】
僕らは古い町並みからさまよい出て、まだレストランを見つけられずにいた。薄曇りの空が、ますます暗くなってくる…なーんか気分まで滅入るなぁ。
車道には、中古アメ車のオンパレードだ。路肩はギッチリ路上駐車、道幅も狭くてカンクンとは大違い。交通量も多く、四方八方からクラクション。思わず(事故か?)とキョロキョロしちゃうが、どうやら単に渋滞のストレスを発散するため「プップー」とやってるようだ。
歩道はやっと2人が通れる幅で、入り乱れる観光客の流れを泳ぐようにトニーを追いかける。その混雑に拍車を掛けるのが、やたらに多い客引きの若者だ。ほっそりした、黒人ふうな顔立ちの青年たち。
「アミーゴ、どこにいくんだい?」
「タクシーに乗らないか?」
ひっきりなしに「チーノ[中国人]!」と間違われ、いちいち「ハポネス!」と訂正すれば「そうか、じゃあリッチなんだな」ってさぁ…。見りゃ分かるだろ、金持ちがこんな格好しねーっての!
カンクンの客引きは「ノ・グラシアス」の一言で済んでいたのに、ここじゃあ「ノ・エンティエンド[解りません]」でも引き下がらない。無視したところで、一方的に「自分の知りあいがどうだ」とか「安くて得する話だ」と足止めにかかる。しまいには仲間を集めて、数人がかりでカモろうとする始末。
「おーい、トニー。待ってくれよ!」
「そいつらに構うな」
違うってば、薄情者め。
彼らは「ヒューイッ」と片手で指笛を吹いて、離れた場所の知り合いに合図する。それはなかなかカッコ良いけれど、うっかり振り返ると目ざとく寄ってきちまう。口笛で僕を呼び止めようとする奴までいて、反応しないよう気を張ってるうちに肩が凝ってきた。
ついに小雨が降り出して、ハバナ初日からツイてない。クラクションの喧噪と排気ガスの臭いで、ネズミ色に濡れた街が余計に息苦しく感じられる。都会の嫌な面ばかりが鼻に付くようだ、サングラス越しの街並みは何もかもセピア色。車も建築物も道路の感じも使い古されて、外国の古いTVドラマみたい…。そう思ったら少し可笑しくなった。
通りの向かい側にある寂れた映画館は、ポスターも何もないから廃業したように見える。でもアメリカの古いシアターみたいなファサードには、ビル・ボードの文字が(マルクス兄弟を上映中)って…ウソだろ〜!?
グラサンが雨と人いきれで、拭いたそばから曇ってくる。すごい湿度だ。
結局、食事はどうってことない外人向けの店で済ませた。トニーも僕も(安く食べさせる地元の食堂)みたいな所に行きたかったが、もう日本のファミレス並みの料理だろうが構ってはいられいほど空腹だったのだ。
その店の隣はブランド品を扱っていて、昼間から毒々しい格好をした女性が出入りしていた。明らかにキューバ人の、いかにも娼婦な彼女たちが肩に掛けたハンドバッグに一目瞭然の紋所が輝く。他に地元の客はなく、海外渡航者然とした白人の姿がちらほら。
その店は全面ガラス張りなのに、びっちりと各種一流ブランドのポスターで店内の様子を隠している。ドアのすき間から見た印象は日本の格安店で、すべて箱のまま山積みしていた。外観のポスターからして統一性がなく、アディダスとディオールとフェンディが肩を並べてブランド・イメージまるで無視。
早めにホテルへ引き上げ、待ちに待った風呂に入ろう。高級ホテルの小生意気さは虫が好かないが、何といってもバス・ルームの充実ぶりは文句の付けようがない。広い窓の向こうに、カリブ海の夕景が見えた。
「その前に、ちょっとスケートしないか?」
トニーが言った。まったり気分なんだけど、風呂でさっぱりする前にひとっ走りも悪かないな。荷物の底からインライン・スケートを引っぱり出し、部屋から履いていこうとする僕をトニーが慌てて引き止めた。
「マズいよ! 仮にもここは一流ホテルなんだから…」
はいはい。スケート・シューズを靴紐で肩に掛け、エレベーターに乗る。2階で降りて、倍の高さはありそうなエスカレーターでフロント前へ。こういう大仰な仕掛けはオーナーの自己満足だな、豪奢なシャンデリアとか。
「よっしゃぁー、行くぜいっ!」
車寄せの下で準備を整え、威勢よく滑り出して歩道のひび割れにつまずいた。カンクン以上にガタガタの歩道で、トロトロ走っていると却って転びそうになる。海岸通りは防波堤を越える波に洗われてビシャビシャだ、濡れた路面ではスリップするので内陸寄りを市街方向に走った。
先行するトニーを追って加速するものの、所々に出来た水溜まりを植え込みの影と見間違えて足を取られる。いつの間にか陽は落ちて、すでに足元は真っ暗だった。やっと外灯で照らされた場所でトニーに追いついた。
「この公園には、ヘミングウェイの像が立ってるんだって」
少し先には、グラン・パパの記念碑だか何かがあるという。海に面した緑地帯を遠巻きに囲むビル群が、わずかな夕日の残照に映えている。トニーの指さすほうに白いものが建っているが、公衆便所か小さな灯台か判然としない。
「工事中なんだね」
遠目にも、それが見学できない事が見てとれた。僕も学生時代には好んでヘミングウェイの短編を読んだものだから少し残念な気はしたが、史跡名所を巡る「観光」をするのは得意じゃない。それに今は、まっすぐホテルに帰って休みたかった。歩道を回れ右して、今度は僕が先頭に立った。
トニーが後ろから何か言っているので、何かと思えば車道のまんなかで大きな看板を指して手招きをしている。
「何してんだ、危ないよトニー!」
そこにはアメリカを風刺した絵と、ポップな字体でスペイン語のスローガンが踊っていた。カストロ議長はともかく、星条旗をまとった男がレーガンだとはトニーの解説がないと判らなかった。それにしても古いなぁ、いつ描かれたんだろう。
きっとレーガノミックス時代は冷え切っていたのだろうが、現状はホテル・コイーバでMTVのビデオ・クリップが観られる。今や社会主義のキューバでも、スマッシング・パンプキンズがリアル・タイムで流れるのだ(1996,10/12)。
だからといってキューバ全土をCATVが網羅している訳ではなかろう、でなけりゃ首都の目抜き通りに「喜劇王・マルクス兄弟」の白黒映画を持ち込んで採算が取れる訳がない。表向きは外交断絶しながらも、資本主義に侵食されつつあるのだ。イデオロギーの手前で悶々として、ねじれながらも外貨は欲しい…という感じか。
USドルしか使えない海外渡航者を相手に、一般市民が無認可で商売しているという。これは憶測だけど、こっそりドル製品が流通しているのだろう。市街では、ドアを黒くした店に一般市民が出入りしているのを見かけた。街を歩いていても、そんな外的資本の気配がある。
だけどその一方で国威発揚のスローガンを掲げ続けているのが、如何にも社会主義らしくって健気にも思える。
「ねぇ、これをバックに写真を撮ろうよ!」
「トニー、もう暗いから明日にしようね」
あーもう、早く帰ろうよ!
チーノ…?!・補足(後知恵)
車道には、中古アメ車のオンパレードだ。路肩はギッチリ路上駐車、道幅も狭くてカンクンとは大違い。交通量も多く、四方八方からクラクション。思わず(事故か?)とキョロキョロしちゃうが、どうやら単に渋滞のストレスを発散するため「プップー」とやってるようだ。
歩道はやっと2人が通れる幅で、入り乱れる観光客の流れを泳ぐようにトニーを追いかける。その混雑に拍車を掛けるのが、やたらに多い客引きの若者だ。ほっそりした、黒人ふうな顔立ちの青年たち。
「アミーゴ、どこにいくんだい?」
「タクシーに乗らないか?」
ひっきりなしに「チーノ[中国人]!」と間違われ、いちいち「ハポネス!」と訂正すれば「そうか、じゃあリッチなんだな」ってさぁ…。見りゃ分かるだろ、金持ちがこんな格好しねーっての!
カンクンの客引きは「ノ・グラシアス」の一言で済んでいたのに、ここじゃあ「ノ・エンティエンド[解りません]」でも引き下がらない。無視したところで、一方的に「自分の知りあいがどうだ」とか「安くて得する話だ」と足止めにかかる。しまいには仲間を集めて、数人がかりでカモろうとする始末。
「おーい、トニー。待ってくれよ!」
「そいつらに構うな」
違うってば、薄情者め。
彼らは「ヒューイッ」と片手で指笛を吹いて、離れた場所の知り合いに合図する。それはなかなかカッコ良いけれど、うっかり振り返ると目ざとく寄ってきちまう。口笛で僕を呼び止めようとする奴までいて、反応しないよう気を張ってるうちに肩が凝ってきた。
ついに小雨が降り出して、ハバナ初日からツイてない。クラクションの喧噪と排気ガスの臭いで、ネズミ色に濡れた街が余計に息苦しく感じられる。都会の嫌な面ばかりが鼻に付くようだ、サングラス越しの街並みは何もかもセピア色。車も建築物も道路の感じも使い古されて、外国の古いTVドラマみたい…。そう思ったら少し可笑しくなった。
通りの向かい側にある寂れた映画館は、ポスターも何もないから廃業したように見える。でもアメリカの古いシアターみたいなファサードには、ビル・ボードの文字が(マルクス兄弟を上映中)って…ウソだろ〜!?
グラサンが雨と人いきれで、拭いたそばから曇ってくる。すごい湿度だ。
結局、食事はどうってことない外人向けの店で済ませた。トニーも僕も(安く食べさせる地元の食堂)みたいな所に行きたかったが、もう日本のファミレス並みの料理だろうが構ってはいられいほど空腹だったのだ。
その店の隣はブランド品を扱っていて、昼間から毒々しい格好をした女性が出入りしていた。明らかにキューバ人の、いかにも娼婦な彼女たちが肩に掛けたハンドバッグに一目瞭然の紋所が輝く。他に地元の客はなく、海外渡航者然とした白人の姿がちらほら。
その店は全面ガラス張りなのに、びっちりと各種一流ブランドのポスターで店内の様子を隠している。ドアのすき間から見た印象は日本の格安店で、すべて箱のまま山積みしていた。外観のポスターからして統一性がなく、アディダスとディオールとフェンディが肩を並べてブランド・イメージまるで無視。
早めにホテルへ引き上げ、待ちに待った風呂に入ろう。高級ホテルの小生意気さは虫が好かないが、何といってもバス・ルームの充実ぶりは文句の付けようがない。広い窓の向こうに、カリブ海の夕景が見えた。
「その前に、ちょっとスケートしないか?」
トニーが言った。まったり気分なんだけど、風呂でさっぱりする前にひとっ走りも悪かないな。荷物の底からインライン・スケートを引っぱり出し、部屋から履いていこうとする僕をトニーが慌てて引き止めた。
「マズいよ! 仮にもここは一流ホテルなんだから…」
はいはい。スケート・シューズを靴紐で肩に掛け、エレベーターに乗る。2階で降りて、倍の高さはありそうなエスカレーターでフロント前へ。こういう大仰な仕掛けはオーナーの自己満足だな、豪奢なシャンデリアとか。
「よっしゃぁー、行くぜいっ!」
車寄せの下で準備を整え、威勢よく滑り出して歩道のひび割れにつまずいた。カンクン以上にガタガタの歩道で、トロトロ走っていると却って転びそうになる。海岸通りは防波堤を越える波に洗われてビシャビシャだ、濡れた路面ではスリップするので内陸寄りを市街方向に走った。
先行するトニーを追って加速するものの、所々に出来た水溜まりを植え込みの影と見間違えて足を取られる。いつの間にか陽は落ちて、すでに足元は真っ暗だった。やっと外灯で照らされた場所でトニーに追いついた。
「この公園には、ヘミングウェイの像が立ってるんだって」
少し先には、グラン・パパの記念碑だか何かがあるという。海に面した緑地帯を遠巻きに囲むビル群が、わずかな夕日の残照に映えている。トニーの指さすほうに白いものが建っているが、公衆便所か小さな灯台か判然としない。
「工事中なんだね」
遠目にも、それが見学できない事が見てとれた。僕も学生時代には好んでヘミングウェイの短編を読んだものだから少し残念な気はしたが、史跡名所を巡る「観光」をするのは得意じゃない。それに今は、まっすぐホテルに帰って休みたかった。歩道を回れ右して、今度は僕が先頭に立った。
トニーが後ろから何か言っているので、何かと思えば車道のまんなかで大きな看板を指して手招きをしている。
「何してんだ、危ないよトニー!」
そこにはアメリカを風刺した絵と、ポップな字体でスペイン語のスローガンが踊っていた。カストロ議長はともかく、星条旗をまとった男がレーガンだとはトニーの解説がないと判らなかった。それにしても古いなぁ、いつ描かれたんだろう。
きっとレーガノミックス時代は冷え切っていたのだろうが、現状はホテル・コイーバでMTVのビデオ・クリップが観られる。今や社会主義のキューバでも、スマッシング・パンプキンズがリアル・タイムで流れるのだ(1996,10/12)。
だからといってキューバ全土をCATVが網羅している訳ではなかろう、でなけりゃ首都の目抜き通りに「喜劇王・マルクス兄弟」の白黒映画を持ち込んで採算が取れる訳がない。表向きは外交断絶しながらも、資本主義に侵食されつつあるのだ。イデオロギーの手前で悶々として、ねじれながらも外貨は欲しい…という感じか。
USドルしか使えない海外渡航者を相手に、一般市民が無認可で商売しているという。これは憶測だけど、こっそりドル製品が流通しているのだろう。市街では、ドアを黒くした店に一般市民が出入りしているのを見かけた。街を歩いていても、そんな外的資本の気配がある。
だけどその一方で国威発揚のスローガンを掲げ続けているのが、如何にも社会主義らしくって健気にも思える。
「ねぇ、これをバックに写真を撮ろうよ!」
「トニー、もう暗いから明日にしようね」
あーもう、早く帰ろうよ!
チーノ…?!・補足(後知恵)
メキシコ旅情【ハバナ!前編・6 ロスト・イン・ハバナ】
お湯のシャワーで汗を流す。やっぱり、水シャワーより断然に気持ちが良い。
(所詮、僕は日本人以外の何者でもないのだ)と、つくづく思った。コスメル島でお湯のシャワーを浴びて以来、たまらなく湯舟が恋しかった。まさかメキシコ暮らしで日本的なものに郷愁や未練を感じるなんて、しかも日本食より風呂だったとは…! 我ながら意外。
「風呂は素晴らしい日本の文化だよね」
先に入浴を済ませたトニーが、湯上りの僕に言った。彼は日本に住んでいる間、各地の温泉にしょっちゅう出掛けていたのだという。
「でもさぁ、君の国にだって泡立てたバスタブがあるでしょ?」
それを苦々しい顔で否定した彼は、マリリン・モンローみたいに浴槽を泡だらけにするなんて(レトロ趣味のおばぁちゃん)ぐらいなものだと言った。
「さ、すぐに出掛けるヨ。」
いつの間にか、イダルミと連絡をつけたらしい。手際がいいのは結構だけど、パンツ一丁でベッドにひっくり返った僕はダラダラと眠りたかった。
「もう夜じゃないか、冗談だろ〜!?」
どうして今からなんだよ、明日にしようぜ〜。観光めぐりでドタバタするの嫌なんだ、って言ったって聞いちゃいないんだよな。それに旅の手筈を整えてもらった手前、こうしてハバナ風呂にも浸かれた義理もある訳で。
「さぁさ、急いで支度して!『今すぐ行く』って言ったんだから」
だからって、こう事後報告で急かすのは止してくんないかな。
ホテルを出て白タクをつかまえた。もちろん白タクが正面の車寄せに入ってきたりはしないので、海岸通りに立って待ち構える。すると案の定、ものの数分でポンコツが停車した。
トニーがメモに書かれた住所を見せて交渉にかかる。値切ってはみたが兄ちゃんも強気で、結局は言い値を少し下げたところで折り合いが付いた。せめてアメ車ならポンコツでも有り難かったけど、これはひょっとしたらソ連製か…? それはそれで、レアだけど。
海岸通りをUターン、オールド・ハバナとは逆方向に走り出す。コンパクトな車で、恐ろしくサスペンションが軟らかい。あと少しでもアクセルを踏んだら、そのまま遠心力で転がってしまいそうだ。海沿いの道はトンネルに入り、明るいオレンジ色の照明灯が現代的な印象を受ける。
トンネルを抜けると闇の中、いきなり郊外だ。うら寂しい白色電球の街灯が並ぶ、影絵の中をブクブクと間抜けなエンジン音で静寂を打ち破る。コラムシフトなので前席がベンチシートになっていて、後部座席から背もたれに顔を乗せていると首が疲れてきた。路面のデコボコはカンクン郊外より激しく、夜は一段と暗く、兄ちゃんは無口だ。
やがて車は速度を落とし、街路樹に埋もれた外灯が緑色に照らす団地に近付いてゆく。その外観は、まるで自分が生まれ育った下町の都営アパートそのものだ…! 蒸し暑い夏の宵の、空気感まで僕の記憶をトレースしている。自分が今、一体どこにいるのか解らなくなった。更にスピードを落とし、懐かしくて非現実的な場所で車が停まる。
「トニー、逃げようぜ。なんかヤバそうだ」
兄ちゃんは車のドアを開け放ったまま、アパートに駆け込んでいった。
「どうして? 運ちゃんが道に迷ったんで、知り合いに訊きに行っただけだよ」
そんな…って、トニーの方がまともだよな。兄ちゃんは戻ってきて、再び延々と走って住宅街に入り込んだ。道の両脇から歩道が消えて道幅も細くなり、挟み込むように密集した家々のブロック塀越しに団欒の息遣いが感じられる。開け放された窓の明かりと、たまにテレビ中継の音が聞こえてきたりする風情は親近感を覚えるね。さっきまでの静けさはどこへやら、だ。
ただし滅多に車が通らないせいなのか、好奇心まるだしで塀から顔をのぞかせてくる。僕と目が合った途端、部屋の中に向かって大声で叫び出す輩もいて(なんだなんだ〜)と心配になってくる。気分はサファリ・パーク、というよりも裸族の獲物といった感じ。車を停めるたび、目をランランと光らせた群衆が(待ってました)と湧いて出る。
とっとと行こうぜ兄ちゃんよ、何もこんな所で道に迷う事ないだろ〜? 道路はガラガラに空いているのにさ、悪い奴ではないらしいけど「オレは道を知っている」なぁんて言い張ったんなら上手くフォローしてくれなきゃ。しかも「近くだ」と言っておいて、何度となく道を訊いては住民の知ったかぶりに振り回されている様子。もう20人くらいに道を聞いているが、遠回りしたって自分が損するだけなのに。
…とか散々けなしといてから、ちょっと補足。これは後から知った事なのだ。
キューバは社会主義国で、住宅といえど個人財産ではない。つまり全国民の所有物なので、この国の住宅地図は日々激変しているものらしい。事情に応じて空き家の情報を交換しあい、転々と住所が変わってゆくのが日常茶飯事だとか。とすれば白タクの兄ちゃんは、ビアネイの持っていた古い住所から転居順に辿って現住所を追っていったと考えるべきだろうな。誠にご苦労であった。
約40分かけて、やっと到着。イダルミの家は、親戚一同が集まったような大所帯だった。確かめに行った兄ちゃんが戸口で振り返り、感極まったような表情で叫んだ時は思わずこちらも釣り込まれて感激しちまった。しかし甘いぜ運ちゃん、まさか(これでやっと帰れる)とでも思ったのかい?
トニーは僕を車に残して、イダルミとボーイ・フレンドを迎えに行った。そして白タクは、4人に増えたお客を乗せて市街へと折り返す事になる。
イダルミと彼氏のアイザックは大学の職員をしているそうで、英語はかなり達者だ。ビアネイの学友なのだから(下手だというのではなく)彼女と同程度だろう、という予想は大間違いだった。2人とも高い教育を受けたことが感じられる言葉遣いで、ネイティブほどではないが僕では会話に追いつけない。しかもスペイン語の強いアクセントが混じるので、お手上げだった。
「アイザック、どこか良い店に案内してくれるかな」
助手席のトニーが振り返り、イダルミの彼氏に尋ねる。その問いかけに、彼は戸惑ったような思案顔を浮かべた。坊主頭で肌が黒く、中肉中背の青年だ。声変わりしていないような少年じみた声質と、まっすぐな力を感じる瞳。物静かな話し振りに彼の性格が著れているようで、僕は一目で好感を覚えた。
彼は隣に座っているイダルミに助け舟を求めたが、僕から彼女の姿はアイザックに隠れてよく見えない。小柄できゃしゃだが快活そうな彼女は、カフェオレ色の肌に鮮やかなサマー・ドレスを身につけていた。
「何でもいいよ、美味しいレストランとか、流行ってるディスコとか」
トニーが付け足して言ったが、2人は困惑した顔を見合わせていた。
(ディスコ…?)そんなつぶやきがアイザックからこぼれるのを聞いて、僕は(そうか)と思った。多分、彼らはドルと無縁な「普通の生活」をしているのだろう。ディスコどころか、ひょっとしたらレストランさえ行かないのかもしれない。ドルの使い道を知っているのは、外国人に関わる仕事に就いているか〈社会主義的には失業している人種〉に限られるのだと想像がつく。
しばしの沈黙が流れた。
ロスト・イン・ハバナ・補足(後知恵)
(所詮、僕は日本人以外の何者でもないのだ)と、つくづく思った。コスメル島でお湯のシャワーを浴びて以来、たまらなく湯舟が恋しかった。まさかメキシコ暮らしで日本的なものに郷愁や未練を感じるなんて、しかも日本食より風呂だったとは…! 我ながら意外。
「風呂は素晴らしい日本の文化だよね」
先に入浴を済ませたトニーが、湯上りの僕に言った。彼は日本に住んでいる間、各地の温泉にしょっちゅう出掛けていたのだという。
「でもさぁ、君の国にだって泡立てたバスタブがあるでしょ?」
それを苦々しい顔で否定した彼は、マリリン・モンローみたいに浴槽を泡だらけにするなんて(レトロ趣味のおばぁちゃん)ぐらいなものだと言った。
「さ、すぐに出掛けるヨ。」
いつの間にか、イダルミと連絡をつけたらしい。手際がいいのは結構だけど、パンツ一丁でベッドにひっくり返った僕はダラダラと眠りたかった。
「もう夜じゃないか、冗談だろ〜!?」
どうして今からなんだよ、明日にしようぜ〜。観光めぐりでドタバタするの嫌なんだ、って言ったって聞いちゃいないんだよな。それに旅の手筈を整えてもらった手前、こうしてハバナ風呂にも浸かれた義理もある訳で。
「さぁさ、急いで支度して!『今すぐ行く』って言ったんだから」
だからって、こう事後報告で急かすのは止してくんないかな。
ホテルを出て白タクをつかまえた。もちろん白タクが正面の車寄せに入ってきたりはしないので、海岸通りに立って待ち構える。すると案の定、ものの数分でポンコツが停車した。
トニーがメモに書かれた住所を見せて交渉にかかる。値切ってはみたが兄ちゃんも強気で、結局は言い値を少し下げたところで折り合いが付いた。せめてアメ車ならポンコツでも有り難かったけど、これはひょっとしたらソ連製か…? それはそれで、レアだけど。
海岸通りをUターン、オールド・ハバナとは逆方向に走り出す。コンパクトな車で、恐ろしくサスペンションが軟らかい。あと少しでもアクセルを踏んだら、そのまま遠心力で転がってしまいそうだ。海沿いの道はトンネルに入り、明るいオレンジ色の照明灯が現代的な印象を受ける。
トンネルを抜けると闇の中、いきなり郊外だ。うら寂しい白色電球の街灯が並ぶ、影絵の中をブクブクと間抜けなエンジン音で静寂を打ち破る。コラムシフトなので前席がベンチシートになっていて、後部座席から背もたれに顔を乗せていると首が疲れてきた。路面のデコボコはカンクン郊外より激しく、夜は一段と暗く、兄ちゃんは無口だ。
やがて車は速度を落とし、街路樹に埋もれた外灯が緑色に照らす団地に近付いてゆく。その外観は、まるで自分が生まれ育った下町の都営アパートそのものだ…! 蒸し暑い夏の宵の、空気感まで僕の記憶をトレースしている。自分が今、一体どこにいるのか解らなくなった。更にスピードを落とし、懐かしくて非現実的な場所で車が停まる。
「トニー、逃げようぜ。なんかヤバそうだ」
兄ちゃんは車のドアを開け放ったまま、アパートに駆け込んでいった。
「どうして? 運ちゃんが道に迷ったんで、知り合いに訊きに行っただけだよ」
そんな…って、トニーの方がまともだよな。兄ちゃんは戻ってきて、再び延々と走って住宅街に入り込んだ。道の両脇から歩道が消えて道幅も細くなり、挟み込むように密集した家々のブロック塀越しに団欒の息遣いが感じられる。開け放された窓の明かりと、たまにテレビ中継の音が聞こえてきたりする風情は親近感を覚えるね。さっきまでの静けさはどこへやら、だ。
ただし滅多に車が通らないせいなのか、好奇心まるだしで塀から顔をのぞかせてくる。僕と目が合った途端、部屋の中に向かって大声で叫び出す輩もいて(なんだなんだ〜)と心配になってくる。気分はサファリ・パーク、というよりも裸族の獲物といった感じ。車を停めるたび、目をランランと光らせた群衆が(待ってました)と湧いて出る。
とっとと行こうぜ兄ちゃんよ、何もこんな所で道に迷う事ないだろ〜? 道路はガラガラに空いているのにさ、悪い奴ではないらしいけど「オレは道を知っている」なぁんて言い張ったんなら上手くフォローしてくれなきゃ。しかも「近くだ」と言っておいて、何度となく道を訊いては住民の知ったかぶりに振り回されている様子。もう20人くらいに道を聞いているが、遠回りしたって自分が損するだけなのに。
…とか散々けなしといてから、ちょっと補足。これは後から知った事なのだ。
キューバは社会主義国で、住宅といえど個人財産ではない。つまり全国民の所有物なので、この国の住宅地図は日々激変しているものらしい。事情に応じて空き家の情報を交換しあい、転々と住所が変わってゆくのが日常茶飯事だとか。とすれば白タクの兄ちゃんは、ビアネイの持っていた古い住所から転居順に辿って現住所を追っていったと考えるべきだろうな。誠にご苦労であった。
約40分かけて、やっと到着。イダルミの家は、親戚一同が集まったような大所帯だった。確かめに行った兄ちゃんが戸口で振り返り、感極まったような表情で叫んだ時は思わずこちらも釣り込まれて感激しちまった。しかし甘いぜ運ちゃん、まさか(これでやっと帰れる)とでも思ったのかい?
トニーは僕を車に残して、イダルミとボーイ・フレンドを迎えに行った。そして白タクは、4人に増えたお客を乗せて市街へと折り返す事になる。
イダルミと彼氏のアイザックは大学の職員をしているそうで、英語はかなり達者だ。ビアネイの学友なのだから(下手だというのではなく)彼女と同程度だろう、という予想は大間違いだった。2人とも高い教育を受けたことが感じられる言葉遣いで、ネイティブほどではないが僕では会話に追いつけない。しかもスペイン語の強いアクセントが混じるので、お手上げだった。
「アイザック、どこか良い店に案内してくれるかな」
助手席のトニーが振り返り、イダルミの彼氏に尋ねる。その問いかけに、彼は戸惑ったような思案顔を浮かべた。坊主頭で肌が黒く、中肉中背の青年だ。声変わりしていないような少年じみた声質と、まっすぐな力を感じる瞳。物静かな話し振りに彼の性格が著れているようで、僕は一目で好感を覚えた。
彼は隣に座っているイダルミに助け舟を求めたが、僕から彼女の姿はアイザックに隠れてよく見えない。小柄できゃしゃだが快活そうな彼女は、カフェオレ色の肌に鮮やかなサマー・ドレスを身につけていた。
「何でもいいよ、美味しいレストランとか、流行ってるディスコとか」
トニーが付け足して言ったが、2人は困惑した顔を見合わせていた。
(ディスコ…?)そんなつぶやきがアイザックからこぼれるのを聞いて、僕は(そうか)と思った。多分、彼らはドルと無縁な「普通の生活」をしているのだろう。ディスコどころか、ひょっとしたらレストランさえ行かないのかもしれない。ドルの使い道を知っているのは、外国人に関わる仕事に就いているか〈社会主義的には失業している人種〉に限られるのだと想像がつく。
しばしの沈黙が流れた。
ロスト・イン・ハバナ・補足(後知恵)
メキシコ旅情【ハバナ!前編・7 カサデラムジカの夜】
ふとアイザックがもらした言葉に、イダルミが眼を輝かせた。
「彼がね、ダンス・ホールを勧めたらどうかって」
そりゃあ名案だ、僕らは喜んで彼の提案を受け入れた。
白タクは僕ら4人を暗い通りで降ろすと、さっさと走り去って行った。通りを動く気配は何もなく、点々と並んだ街灯が消えてたらゴースト・タウンだぜ…? 僕の脳内BGMは、歌曲「はげ山の一夜」。
十字路の角に、閉鎖された映画館みたいな建物が見える。華やかなネオンもなければポスターもないが、このダンス・ホールはキューバでも大変由緒ある所だそうだ。
「カサ・デ・ラ・ムジカ」…直訳すれば〈音楽の家〉か?
アイザックは、確か「今夜は、キューバでも最高のグループが出演する」と言っていた筈だ。この辛気臭さからは、とても想像できないけれど。もはや来ちゃった以上は行くしかない、他に行くあてもないし手段もないのだから。
ここでもUSドルしか使えず、申し訳なさそうな様子の2人に「気にしないで」とトニーがチケットを買う。奥にモギリのオバサンが立っていて、その投げやりな雰囲気からして絵に描いたような場末っぷり。
ホールに入る分厚いドアは閉ざされていたので、ロビーに併設されたレコード店で時間つぶし。青白い照明の、静かでガラス張りの小部屋だ。しかもレジの姉ちゃんしかいなくて、その視線がまた刺々しくて居心地悪いったらない。
この国では売れ筋かもしれないけれど、少なくとも僕が知っているようなロック系ではないカリビアンなジャケットばかり。今夜のメインは「エヌヘーラバンダ」というそうなので、カセット・テープで「NGラ・バンダ」の名前を見つけてレジに置く。
どうでも良い事だけど「G」を「ヘー」と発音すると、妙に間の抜けた語感に思えてしまう。実際、開演時刻に最初の客が来るようでは何が最高なのかと疑いたくもなる。人気? それとも実力? …アイザックの答えは、どちらも「Yes」だった。
カセット・テープなら、ビアネイ達のラジカセでカンクンに帰ってすぐに聴けるし、土産話のBGMにもちょうど良いだろう。それにしても収録曲が「リオ・スミダ」とか「ムラカミ・マンボ」とか、妙に日本的だな。まさか(勘違いオリエンタル)なコミック・バンドかと、一抹の不安が…。それでもいいや、ネタとして。何故かカナダ製で、安さ爆発の4USドル也。
そろそろ開演時間だ、ホールに入ろうとして(おや?)と思った。開け放された分厚い扉の、深紅の革張りに貼ってあったポスターが目に付いたのだ。モノクロ写真の男性が、やけに日本人的な顔立ちで…って、村上龍じゃん?!
そういえばキューバづいてるという話は何かで読んだな、一時期はキューバ音楽のプロモートまでやってたらしい。なるほど、噂はハッタリじゃなかったのね…。(1996当時)
フロア一面に、テーブルと椅子が散らばっている。どれもが、カンクンでおなじみの白いプラスチック製。広々とした会場に、客といえば僕らだけ…いや従業員も見当たらないな。舞台正面の席に案内されたは良いけれど、照明は僕らのテーブル真上のみ点灯。高い天井から降り積もる静寂、そして効き過ぎの冷房で身も心も寒々としてくる。
開演時間の8:30pmから1時間半を過ぎても、この深閑とした有様。逢ったばかりの4人で、そんなに間が持つ話題なんてないに決まっている。指先まで冷たくなって、たった一杯のコーラで何度もトイレに立っていた。
腹の虫も鳴き止んだ頃、やっと2番目の客が入って来て僕は(少なくとも日時を間違えてた訳ではないらしい)などと妙な安心感を覚えた。ようやくホールの客席が埋まってきたのは、なんと10時を回ってからだった。そして会場にBGMが流れ出したのは、更に小1時間して満席になった後。おそるべし、南国時間…。延々と待たされて、これでヘナチョコだったら座布団投げてやる(ないけどさ)。
やがて、客席の明かりが消えた。2時間ちょっと遅れで前座からスタート、結成20日くらいの若手らしい。とはいえラテン音楽だけに大所帯バンドで、ホーンに3人、キーボードが2人。その他にパーカッションで5,6人はいる。ドラムとベースが白人系で、それ以外のメンバーは褐色の男性だ。ベーシストがヤマハの黒いBBを弾いていて、いくら旧モデルとはいえ日本製とは意外だった。
1曲目はテナー・サックスを軸にした、コンテンポラリー・タッチのジャズを聴かせてくれた。とても急ごしらえとは信じ難い、タイトなアンサンブルだ。そのまま2曲目へ流れるようにつなぎ、ソデから男性ボーカルが登場する。
短髪で、いかにもジャズ・シンガーといった古風な出で立ちだ。きゅうくつそうなダブルのジャケットは細かいハウンド・トゥース柄、白い襟は大きく上に出している。黒いエナメル靴に、ゆったりした黒のパンツ…あれがいわゆる(マンボ・ズボン)なのかな。
彼の横に並んだ2人の女性コーラス兼ダンサーが、歯切れの良いステップを刻み出した。白いハイ・ソックスに黒っぽいギャザー・スカート、メンズっぽいシャツをはおってレジメンのタイを締めている。複雑なラテンのリズムを、軽やかにキレのある動きで乗りこなす。振り付けが完璧にシンクロしてる!
ベースがまた良いのだ。無駄がなく、パーカッシブでいて唄っているベース。エレキ・ピアノの、絶妙に切り込んでくるオブリガードも心をくすぐる。どの音もスキがなく絡み合い、なおかつお互いにフェイントかまし合っているような緊迫したリラックス感!
もう体中の血が逆流し、毛穴が一気に開いた。ステージ・ライトも激しく点滅し、僕の体は音の渦にもみくちゃにされて揺れる。前座にしてこのレベルとは、しかも組んで1ヶ月も経ってないって?! 思わず席から立ち上がろうとして…あれ?
何気なく後ろを振り向くと、誰も盛り上がってなかった。勢いを削がれた僕は、同時に頭の中が疑問符でいっぱいになってしまう。著名なダンス・ホールだからって、黙って静かに鑑賞するのがマナーなのか…そりゃヘンだよなぁ〜? でもやっぱり、最前列で下手な踊りを晒す勇気はない。
聴衆も曲が終わるごとに拍手で応えているし、プレイヤー自身が演奏を楽しんでいる。それなのに、観客のボルテージが音の熱気に見合ってないじゃん…。それとも、まさか僕だけ沸点が高いのか?
やがてステージ脇から、オジサンに伴われて女性ボーカルが登場する。客席、一斉に大拍手。なんだなんだ、みんなオジサンのほうに声援を送っているけど…ステージ衣装じゃないから、支配人か有名プロデューサー?
そのオジサンと男性歌手が引っ込み、女性ボーカルでミディアム・ナンバーを1曲。モータウン時代のダイアナ・ロスを思わせる、白いフリンジだらけのワンピース。小柄でナイス・プロポーションの彼女と両脇に立つスクール・ガールズは、楽しげに目配せしながら動きには寸分の乱れもない。
再び男性が加わって、4人フロントで最後まで唄い踊り続けた。「小ダイアナ・ロス&スクール・ガールズ」の白い衣装が、小麦色の素肌に映える。カラフルなステージ・ライトに染め変えられ、右ステップ、左ステップ、ジャンプしてターンして腕を拡げ、手をかざし…。
「彼がね、ダンス・ホールを勧めたらどうかって」
そりゃあ名案だ、僕らは喜んで彼の提案を受け入れた。
白タクは僕ら4人を暗い通りで降ろすと、さっさと走り去って行った。通りを動く気配は何もなく、点々と並んだ街灯が消えてたらゴースト・タウンだぜ…? 僕の脳内BGMは、歌曲「はげ山の一夜」。
十字路の角に、閉鎖された映画館みたいな建物が見える。華やかなネオンもなければポスターもないが、このダンス・ホールはキューバでも大変由緒ある所だそうだ。
「カサ・デ・ラ・ムジカ」…直訳すれば〈音楽の家〉か?
アイザックは、確か「今夜は、キューバでも最高のグループが出演する」と言っていた筈だ。この辛気臭さからは、とても想像できないけれど。もはや来ちゃった以上は行くしかない、他に行くあてもないし手段もないのだから。
ここでもUSドルしか使えず、申し訳なさそうな様子の2人に「気にしないで」とトニーがチケットを買う。奥にモギリのオバサンが立っていて、その投げやりな雰囲気からして絵に描いたような場末っぷり。
ホールに入る分厚いドアは閉ざされていたので、ロビーに併設されたレコード店で時間つぶし。青白い照明の、静かでガラス張りの小部屋だ。しかもレジの姉ちゃんしかいなくて、その視線がまた刺々しくて居心地悪いったらない。
この国では売れ筋かもしれないけれど、少なくとも僕が知っているようなロック系ではないカリビアンなジャケットばかり。今夜のメインは「エヌヘーラバンダ」というそうなので、カセット・テープで「NGラ・バンダ」の名前を見つけてレジに置く。
どうでも良い事だけど「G」を「ヘー」と発音すると、妙に間の抜けた語感に思えてしまう。実際、開演時刻に最初の客が来るようでは何が最高なのかと疑いたくもなる。人気? それとも実力? …アイザックの答えは、どちらも「Yes」だった。
カセット・テープなら、ビアネイ達のラジカセでカンクンに帰ってすぐに聴けるし、土産話のBGMにもちょうど良いだろう。それにしても収録曲が「リオ・スミダ」とか「ムラカミ・マンボ」とか、妙に日本的だな。まさか(勘違いオリエンタル)なコミック・バンドかと、一抹の不安が…。それでもいいや、ネタとして。何故かカナダ製で、安さ爆発の4USドル也。
そろそろ開演時間だ、ホールに入ろうとして(おや?)と思った。開け放された分厚い扉の、深紅の革張りに貼ってあったポスターが目に付いたのだ。モノクロ写真の男性が、やけに日本人的な顔立ちで…って、村上龍じゃん?!
そういえばキューバづいてるという話は何かで読んだな、一時期はキューバ音楽のプロモートまでやってたらしい。なるほど、噂はハッタリじゃなかったのね…。(1996当時)
フロア一面に、テーブルと椅子が散らばっている。どれもが、カンクンでおなじみの白いプラスチック製。広々とした会場に、客といえば僕らだけ…いや従業員も見当たらないな。舞台正面の席に案内されたは良いけれど、照明は僕らのテーブル真上のみ点灯。高い天井から降り積もる静寂、そして効き過ぎの冷房で身も心も寒々としてくる。
開演時間の8:30pmから1時間半を過ぎても、この深閑とした有様。逢ったばかりの4人で、そんなに間が持つ話題なんてないに決まっている。指先まで冷たくなって、たった一杯のコーラで何度もトイレに立っていた。
腹の虫も鳴き止んだ頃、やっと2番目の客が入って来て僕は(少なくとも日時を間違えてた訳ではないらしい)などと妙な安心感を覚えた。ようやくホールの客席が埋まってきたのは、なんと10時を回ってからだった。そして会場にBGMが流れ出したのは、更に小1時間して満席になった後。おそるべし、南国時間…。延々と待たされて、これでヘナチョコだったら座布団投げてやる(ないけどさ)。
やがて、客席の明かりが消えた。2時間ちょっと遅れで前座からスタート、結成20日くらいの若手らしい。とはいえラテン音楽だけに大所帯バンドで、ホーンに3人、キーボードが2人。その他にパーカッションで5,6人はいる。ドラムとベースが白人系で、それ以外のメンバーは褐色の男性だ。ベーシストがヤマハの黒いBBを弾いていて、いくら旧モデルとはいえ日本製とは意外だった。
1曲目はテナー・サックスを軸にした、コンテンポラリー・タッチのジャズを聴かせてくれた。とても急ごしらえとは信じ難い、タイトなアンサンブルだ。そのまま2曲目へ流れるようにつなぎ、ソデから男性ボーカルが登場する。
短髪で、いかにもジャズ・シンガーといった古風な出で立ちだ。きゅうくつそうなダブルのジャケットは細かいハウンド・トゥース柄、白い襟は大きく上に出している。黒いエナメル靴に、ゆったりした黒のパンツ…あれがいわゆる(マンボ・ズボン)なのかな。
彼の横に並んだ2人の女性コーラス兼ダンサーが、歯切れの良いステップを刻み出した。白いハイ・ソックスに黒っぽいギャザー・スカート、メンズっぽいシャツをはおってレジメンのタイを締めている。複雑なラテンのリズムを、軽やかにキレのある動きで乗りこなす。振り付けが完璧にシンクロしてる!
ベースがまた良いのだ。無駄がなく、パーカッシブでいて唄っているベース。エレキ・ピアノの、絶妙に切り込んでくるオブリガードも心をくすぐる。どの音もスキがなく絡み合い、なおかつお互いにフェイントかまし合っているような緊迫したリラックス感!
もう体中の血が逆流し、毛穴が一気に開いた。ステージ・ライトも激しく点滅し、僕の体は音の渦にもみくちゃにされて揺れる。前座にしてこのレベルとは、しかも組んで1ヶ月も経ってないって?! 思わず席から立ち上がろうとして…あれ?
何気なく後ろを振り向くと、誰も盛り上がってなかった。勢いを削がれた僕は、同時に頭の中が疑問符でいっぱいになってしまう。著名なダンス・ホールだからって、黙って静かに鑑賞するのがマナーなのか…そりゃヘンだよなぁ〜? でもやっぱり、最前列で下手な踊りを晒す勇気はない。
聴衆も曲が終わるごとに拍手で応えているし、プレイヤー自身が演奏を楽しんでいる。それなのに、観客のボルテージが音の熱気に見合ってないじゃん…。それとも、まさか僕だけ沸点が高いのか?
やがてステージ脇から、オジサンに伴われて女性ボーカルが登場する。客席、一斉に大拍手。なんだなんだ、みんなオジサンのほうに声援を送っているけど…ステージ衣装じゃないから、支配人か有名プロデューサー?
そのオジサンと男性歌手が引っ込み、女性ボーカルでミディアム・ナンバーを1曲。モータウン時代のダイアナ・ロスを思わせる、白いフリンジだらけのワンピース。小柄でナイス・プロポーションの彼女と両脇に立つスクール・ガールズは、楽しげに目配せしながら動きには寸分の乱れもない。
再び男性が加わって、4人フロントで最後まで唄い踊り続けた。「小ダイアナ・ロス&スクール・ガールズ」の白い衣装が、小麦色の素肌に映える。カラフルなステージ・ライトに染め変えられ、右ステップ、左ステップ、ジャンプしてターンして腕を拡げ、手をかざし…。
メキシコ旅情【ハバナ!前編・8 NGラ・バンダ】
前座にしては長いステージが終わり、客電がついて休憩時間になった。いつの間にか超満員で、新しい席が次々と用意されてゆく。世間話で盛り上がる人々と、合間を立ち回るウェイター…有名人のパーティみたい、トイレに行くのも人込みをかき分けて大回りだ。
客層は中年男性客と、若い女性客が目立つ。どこを向いても、肌を大きく露出させた鮮やかな色の曲線が。男性客はシャツかポロにスラックスで、色褪せたTシャツと短パンという格好は僕だけだ。もう少しまともな服も用意しておけば良かったかな。ところで化粧室はモデルルーム並みに清潔で、予想に反して落書きひとつなかった。
再び、会場の音楽と照明が落ちる。
立ち話をしていた人々は、着席するかと思えばステージ前に押し寄せて来た。前座バンドとは大違いで、始まる前から異様な熱気だ。柱の時計は、11時30分を指している。
舞台上の暗がりに人影が集まってくるごとに、観客のボルテージが高まってゆく。音合わせのデタラメなフレーズが収束され、ステージ・ライトが全開になると瞬時にホール全体が沸騰した。
大御所の登場だ! はちきれたように女性達が叫び、みんな弾かれたように踊り出した。出遅れた聴衆も前に集まり、僕らの席から舞台までの空間が一気にダンス・フロア化。もはや座っていては何も見えない、僕も席を立って芋洗い状態へ。ステージの上も下も、まるで午前8時の山の手線だ!
こんな押し合いへしあいでも、みんな軽やかにステップを決めている。後ろを振り返ると、シャイな3人は相変わらず腰掛けていた。トニーは(自分はダンスが下手くそだ)と思い込んでいるから判らなくもないが、イダルミ&アイザック・ペアが平然としているのは意外だった。まぁ(キューバ人は誰もが陽気で踊り好き)なんて思っちゃいない、僕は2人に演奏に負けない大声で尋ねた。
「踊るのは好きじゃないのー?」
アイザックは伏せ目がちに微笑して首を振り、イダルミが彼の肩に手をかけて笑った。彼が照れ屋なのかぁ。なら良いんだけど、席に着いているのはこのテーブルだけだ。
「でもさ、トニー。もう遅いから帰らない?」
僕が腕時計を指さして言うと、彼は気乗りしなさそうな表情を見せた。僕としては存分に満喫したのだし、もう今夜は寝るだけで充分だった。
「いいじゃないの、せっかくなんだし。最後まで楽しみましょうよ!」
意外にも、そう言って身を乗り出してきたのはイダルミのほうだった。見開いた黒い瞳を、いたずらっ子みたいにキラキラさせて。あらら、帰る潮時だと踏んだのに…そうなの?
1時間も経たずにステージが終わった。
(あっけない終わり方だ)と思ったら予想通り、まだ最初のステージが終了しただけだった。さすが〈キューバNo.1バンド〉の名声はダテじゃない、休憩を挟んで3ステージぐらい続けるらしい。これだけ人気も実力もあるんだから、入れ替え制にしたって不思議じゃないのに。
客もタフだよなー、誰も帰る気配がない。おそるべし、ダンス天国!
でも最後まで付き合ったら明日がキツイなー、キューバの最終日は有意義に過ごしたいし…と頃合いを計っているうちに第2ラウンドに突入〜! またもやステージ前は人があふれ、こちらのテーブルをグイグイ圧迫してくる。
よーく観察していると、ダンスが下手な人の見分けがつくようになってきた。面白い事に、踊れない男と踊れる女がペアになっている。外国人観光客、主に非ラテン系男性とセクシー系のキューバ女性だ。要するに(ダンスが下手でも平気で踊っている人が結構いる)っていう事で、僕も図々しく踊ってみる気になった。
まずは椅子に腰掛けたままで、上手そうな人のステップを真似てみる。それでトニーに声をかけてみたら、意外にも彼はすんなり腰を上げた。言ってみるもんだな、ダンス嫌いでも座り疲れたか? アイザックは、また人懐っこそうに微笑んでいた。
客層は中年男性客と、若い女性客が目立つ。どこを向いても、肌を大きく露出させた鮮やかな色の曲線が。男性客はシャツかポロにスラックスで、色褪せたTシャツと短パンという格好は僕だけだ。もう少しまともな服も用意しておけば良かったかな。ところで化粧室はモデルルーム並みに清潔で、予想に反して落書きひとつなかった。
再び、会場の音楽と照明が落ちる。
立ち話をしていた人々は、着席するかと思えばステージ前に押し寄せて来た。前座バンドとは大違いで、始まる前から異様な熱気だ。柱の時計は、11時30分を指している。
舞台上の暗がりに人影が集まってくるごとに、観客のボルテージが高まってゆく。音合わせのデタラメなフレーズが収束され、ステージ・ライトが全開になると瞬時にホール全体が沸騰した。
大御所の登場だ! はちきれたように女性達が叫び、みんな弾かれたように踊り出した。出遅れた聴衆も前に集まり、僕らの席から舞台までの空間が一気にダンス・フロア化。もはや座っていては何も見えない、僕も席を立って芋洗い状態へ。ステージの上も下も、まるで午前8時の山の手線だ!
こんな押し合いへしあいでも、みんな軽やかにステップを決めている。後ろを振り返ると、シャイな3人は相変わらず腰掛けていた。トニーは(自分はダンスが下手くそだ)と思い込んでいるから判らなくもないが、イダルミ&アイザック・ペアが平然としているのは意外だった。まぁ(キューバ人は誰もが陽気で踊り好き)なんて思っちゃいない、僕は2人に演奏に負けない大声で尋ねた。
「踊るのは好きじゃないのー?」
アイザックは伏せ目がちに微笑して首を振り、イダルミが彼の肩に手をかけて笑った。彼が照れ屋なのかぁ。なら良いんだけど、席に着いているのはこのテーブルだけだ。
「でもさ、トニー。もう遅いから帰らない?」
僕が腕時計を指さして言うと、彼は気乗りしなさそうな表情を見せた。僕としては存分に満喫したのだし、もう今夜は寝るだけで充分だった。
「いいじゃないの、せっかくなんだし。最後まで楽しみましょうよ!」
意外にも、そう言って身を乗り出してきたのはイダルミのほうだった。見開いた黒い瞳を、いたずらっ子みたいにキラキラさせて。あらら、帰る潮時だと踏んだのに…そうなの?
1時間も経たずにステージが終わった。
(あっけない終わり方だ)と思ったら予想通り、まだ最初のステージが終了しただけだった。さすが〈キューバNo.1バンド〉の名声はダテじゃない、休憩を挟んで3ステージぐらい続けるらしい。これだけ人気も実力もあるんだから、入れ替え制にしたって不思議じゃないのに。
客もタフだよなー、誰も帰る気配がない。おそるべし、ダンス天国!
でも最後まで付き合ったら明日がキツイなー、キューバの最終日は有意義に過ごしたいし…と頃合いを計っているうちに第2ラウンドに突入〜! またもやステージ前は人があふれ、こちらのテーブルをグイグイ圧迫してくる。
よーく観察していると、ダンスが下手な人の見分けがつくようになってきた。面白い事に、踊れない男と踊れる女がペアになっている。外国人観光客、主に非ラテン系男性とセクシー系のキューバ女性だ。要するに(ダンスが下手でも平気で踊っている人が結構いる)っていう事で、僕も図々しく踊ってみる気になった。
まずは椅子に腰掛けたままで、上手そうな人のステップを真似てみる。それでトニーに声をかけてみたら、意外にも彼はすんなり腰を上げた。言ってみるもんだな、ダンス嫌いでも座り疲れたか? アイザックは、また人懐っこそうに微笑んでいた。
メキシコ旅情【ハバナ!前編・9 青いバンビ】
人込みに揉まれているうち、ダンス・フロアの真ん中まで来てしまった。他の3人を見失ったのが気掛かりだけど、次の休憩時間に見つければいいか。
正面にいる女のコと、たびたび目が合った。(バンビみたい)と思ったのは、その印象的な黒い瞳と栗色のほっそりとした面立ちからだった。青いワンピースの浅い胸元に桃色の貝のネックレスが揺れている。
ここで踊っている大多数のセクシー系とは違って、どこか物腰に品があるような。ダンガリーの青が、素肌に映えて美しい。お互い、ニッコリほほ笑む。…悪くないじゃない、キューバ。不愉快さもあったけど、こんな気分で一日を締めくくれるなんて。
トニーの声で振り返ると、イダルミとアイザックが抱き合うようにして踊っていた。僕に気付いた彼女が、はにかんだような照れ笑いを浮かべる。なぁんだ、本当は得意だったんじゃないの。本当に軽やかで楽しんでいる、何も考えずに体が動くままに任せているようだ。
せめて形だけでもそれらしく…と見よう見まねの即席では、ちっとも様にならなかった。ブレイクやキメのタイミングは、ロックとかポップスとかを聴き慣れた僕の耳には予測不能だった。ラテンに来るならステップは必須だな、リード出来なきゃ男じゃない…とさえ思った。それはカンクンでのダンス・コンテストでも痛感したが、きちんと女性をエスコート出来ない男はみじめなのだ。
そうして僕が必死になって踊っていると、気付けばバンビが隣にいた。僕と並んでステップを踏んで、ゆっくりと向きを替えて僕を見つめて…ワオ! しかし浮かれちゃいけない、踊る女性にはパートナーが付き物。同伴者もなく女性が踊りに来てる筈がないのだ、日本の感覚と違って。
じゃあ何故だ? いまや僕らは触れそうな距離で、特殊な引力を無視できなかった。彼女が僕を見つめ、そっと顔を近づけ…。何事かを、僕の耳元にささやいたのだ。でも僕には理解不能だった。
「あの、ノ・エンティエンド」
ドキドキしつつも、僕にはそう答えるしかなかった。バンビは首をかしげ、再び耳に息を吹きかけてくる。彼女に首をすくめてみせ、トニーを呼んで通訳してもらう。
彼はバンビを見てから、小声で僕に(本当は判ってるんだろ…)と言った。まさにその通り、訳された彼女の台詞は直球のビジネス・トークだった。しきりに後押しするトニーに、僕は断りをいれてもらう。バンビは最後の微笑を浮かべ、僕のそばから離れていった。
僕の個人的な考えでは「娼婦という職種は『心に携わる仕事』の一種」だ。異論はあろうが、それは僕の価値観では奉仕を務める尊い魂だ。しかし僕には縁のない世界だった。予算もない。
トニーは、バンビが口にした値段の高さを嘆いていた。日本に比べりゃ、まぁ安いモンじゃない? というか、この会場の客層と男女比からしてプロスティテュートだらけなのだろうなぁ。
僕らがステージから目を離していた間に音楽が止んで、前座の時に出てきたオジサンが話をしていた。彼は、実はこの「NGラ・バンダ」のバンド・マスターだった。
「何か日本のこと話してる」
アイザックは、そう言った。でもそれ以上詳しくは、彼にも聞き取れなかったらしい。
バンマスがひとしきり話すと観客に拍手をうながして、右ソデに向かって手招きした。拍手に気押されるようにして出て来たのは、何故か日本人の女のコだった…遠目に見ても、とにかく判るものなのだ。間違いなく彼女は、日本以外で育ったアジア人ではなかった。
ステージに上がった日本人が、バンマスから改めて紹介された。次いで、彼女自身がマイクを握ってあいさつする。その間、拍手の嵐で一切聞き取れず。今、何が起ころうとしているんだろう? 奇妙な焦りのようなものを感じ、僕はトニーに「なんて言ったんだ?」と訊いた。自分の語気が、知らずと荒くなっている。
「んん? キューバ人の話すスペイン語は早すぎてねぇー、それに訛りも強いし」
彼は気圧されたのか、戸惑い気味に弁解する。イダルミ達にも聞こえなかったようで、訳が分からないまま彼女は拍手に送られて舞台を下りた。女優とか、有名人の類いには見えない。あれこれと想像を働かせてみるが、どうしても分からない。何者だよ? 僕の視線は彼女に釘付けになっている。
彼女が、若い数人に取り巻かれながら移動し始めた。砕氷船のように人混みを切り拓きながら、現地の男性連中が彼女を護衛している。まるでVIP扱いだな。割と可愛いけど、明らかに気配が素人だ。近くに来た時、彼女と目線が合った。
その目の色には、自分と同じ(げっ、日本人がいやがる)的なニュアンスがあった。
「…ムネ、マエ。アーッ、アスーカ!」
マイクから、片言の日本語が聞こえてきた。どうやら、メンバーが観客に振り付けを説明しているようだ。「右」、「左」、「目」、「上」、「胸」、「前」ときて、「アスーカ!」で両手を股間に当ててグイッと突き出す。アソコ、と言っているのだ。ずいぶんと露骨なネタだなぁ。観客達も照れながら、苦笑交じりで腰を落とす。
そしてラスト・ナンバーが始まった。
曲の半ばでブレイクして、ドラムがキープするリズムに乗って振り付けが開始される。コール&レスポンス式に、「ミギ?」と言われて「右」と返し、同時に両腕を右方向に。…という調子で続けて、最後のフレーズは会場一丸となって「アーッ、アソーコッ!」グイッ。
ホール全体に、奇妙な日本語の大合唱が起こっていた。この間抜けでおかしな振り付けを、掛け声と共に繰り返して踊る。やがてドラムにパーカッションが重なり合ってくる。コンガ、ボンゴ、アゴゴ、ギロ。スペイン語で繰り返し、ホーン・セクションも息を吹き返して一気に音楽が沸き上がる。ピアノが刹那げなオブリガードを決め、僕は感極まって泣きそうになった。そしてその時、全てを圧倒する生の歓喜に呑み込まれていった。
確かアンコールは二回か、それ以上だったと思う。終わったのは、午前3時近かった。意識はもう限界で、アイザック達を見送って帰る間の事は覚えていない。
正面にいる女のコと、たびたび目が合った。(バンビみたい)と思ったのは、その印象的な黒い瞳と栗色のほっそりとした面立ちからだった。青いワンピースの浅い胸元に桃色の貝のネックレスが揺れている。
ここで踊っている大多数のセクシー系とは違って、どこか物腰に品があるような。ダンガリーの青が、素肌に映えて美しい。お互い、ニッコリほほ笑む。…悪くないじゃない、キューバ。不愉快さもあったけど、こんな気分で一日を締めくくれるなんて。
トニーの声で振り返ると、イダルミとアイザックが抱き合うようにして踊っていた。僕に気付いた彼女が、はにかんだような照れ笑いを浮かべる。なぁんだ、本当は得意だったんじゃないの。本当に軽やかで楽しんでいる、何も考えずに体が動くままに任せているようだ。
せめて形だけでもそれらしく…と見よう見まねの即席では、ちっとも様にならなかった。ブレイクやキメのタイミングは、ロックとかポップスとかを聴き慣れた僕の耳には予測不能だった。ラテンに来るならステップは必須だな、リード出来なきゃ男じゃない…とさえ思った。それはカンクンでのダンス・コンテストでも痛感したが、きちんと女性をエスコート出来ない男はみじめなのだ。
そうして僕が必死になって踊っていると、気付けばバンビが隣にいた。僕と並んでステップを踏んで、ゆっくりと向きを替えて僕を見つめて…ワオ! しかし浮かれちゃいけない、踊る女性にはパートナーが付き物。同伴者もなく女性が踊りに来てる筈がないのだ、日本の感覚と違って。
じゃあ何故だ? いまや僕らは触れそうな距離で、特殊な引力を無視できなかった。彼女が僕を見つめ、そっと顔を近づけ…。何事かを、僕の耳元にささやいたのだ。でも僕には理解不能だった。
「あの、ノ・エンティエンド」
ドキドキしつつも、僕にはそう答えるしかなかった。バンビは首をかしげ、再び耳に息を吹きかけてくる。彼女に首をすくめてみせ、トニーを呼んで通訳してもらう。
彼はバンビを見てから、小声で僕に(本当は判ってるんだろ…)と言った。まさにその通り、訳された彼女の台詞は直球のビジネス・トークだった。しきりに後押しするトニーに、僕は断りをいれてもらう。バンビは最後の微笑を浮かべ、僕のそばから離れていった。
僕の個人的な考えでは「娼婦という職種は『心に携わる仕事』の一種」だ。異論はあろうが、それは僕の価値観では奉仕を務める尊い魂だ。しかし僕には縁のない世界だった。予算もない。
トニーは、バンビが口にした値段の高さを嘆いていた。日本に比べりゃ、まぁ安いモンじゃない? というか、この会場の客層と男女比からしてプロスティテュートだらけなのだろうなぁ。
僕らがステージから目を離していた間に音楽が止んで、前座の時に出てきたオジサンが話をしていた。彼は、実はこの「NGラ・バンダ」のバンド・マスターだった。
「何か日本のこと話してる」
アイザックは、そう言った。でもそれ以上詳しくは、彼にも聞き取れなかったらしい。
バンマスがひとしきり話すと観客に拍手をうながして、右ソデに向かって手招きした。拍手に気押されるようにして出て来たのは、何故か日本人の女のコだった…遠目に見ても、とにかく判るものなのだ。間違いなく彼女は、日本以外で育ったアジア人ではなかった。
ステージに上がった日本人が、バンマスから改めて紹介された。次いで、彼女自身がマイクを握ってあいさつする。その間、拍手の嵐で一切聞き取れず。今、何が起ころうとしているんだろう? 奇妙な焦りのようなものを感じ、僕はトニーに「なんて言ったんだ?」と訊いた。自分の語気が、知らずと荒くなっている。
「んん? キューバ人の話すスペイン語は早すぎてねぇー、それに訛りも強いし」
彼は気圧されたのか、戸惑い気味に弁解する。イダルミ達にも聞こえなかったようで、訳が分からないまま彼女は拍手に送られて舞台を下りた。女優とか、有名人の類いには見えない。あれこれと想像を働かせてみるが、どうしても分からない。何者だよ? 僕の視線は彼女に釘付けになっている。
彼女が、若い数人に取り巻かれながら移動し始めた。砕氷船のように人混みを切り拓きながら、現地の男性連中が彼女を護衛している。まるでVIP扱いだな。割と可愛いけど、明らかに気配が素人だ。近くに来た時、彼女と目線が合った。
その目の色には、自分と同じ(げっ、日本人がいやがる)的なニュアンスがあった。
「…ムネ、マエ。アーッ、アスーカ!」
マイクから、片言の日本語が聞こえてきた。どうやら、メンバーが観客に振り付けを説明しているようだ。「右」、「左」、「目」、「上」、「胸」、「前」ときて、「アスーカ!」で両手を股間に当ててグイッと突き出す。アソコ、と言っているのだ。ずいぶんと露骨なネタだなぁ。観客達も照れながら、苦笑交じりで腰を落とす。
そしてラスト・ナンバーが始まった。
曲の半ばでブレイクして、ドラムがキープするリズムに乗って振り付けが開始される。コール&レスポンス式に、「ミギ?」と言われて「右」と返し、同時に両腕を右方向に。…という調子で続けて、最後のフレーズは会場一丸となって「アーッ、アソーコッ!」グイッ。
ホール全体に、奇妙な日本語の大合唱が起こっていた。この間抜けでおかしな振り付けを、掛け声と共に繰り返して踊る。やがてドラムにパーカッションが重なり合ってくる。コンガ、ボンゴ、アゴゴ、ギロ。スペイン語で繰り返し、ホーン・セクションも息を吹き返して一気に音楽が沸き上がる。ピアノが刹那げなオブリガードを決め、僕は感極まって泣きそうになった。そしてその時、全てを圧倒する生の歓喜に呑み込まれていった。
確かアンコールは二回か、それ以上だったと思う。終わったのは、午前3時近かった。意識はもう限界で、アイザック達を見送って帰る間の事は覚えていない。
メキシコ旅情【ハバナ!前編・10 路上の都会っ子】
レース越しの太陽が眩しい。キューバ2日目は、上天気で始まった。
数時間前までの夜更かしを思えば仮眠のようなものだったが、それでも旅先での緊張だか興奮だか目覚めも良好。
「おはよう、もうすぐイダルミとアイザックが来るから」
いつの間に段取りを付けたのか、トニーはすでに彼女たち2人分のスケート道具をバッグに詰めていた。早起きした気でいたけれど、すでに10amを回ろうとしている。
「でも朝ごはんは?」
「すぐにお昼なんだから。ちょっと我慢して、みんなで一緒に食べればいいじゃない?」
…ちぇっ、そこまで段取るか。
周囲の家並みは、日曜日だというのに閑散としていた。
ホテル前の車道に挟まれた緑道では子供が遊び、ベンチにはお年寄りが座っている。イダルミ達が来る前に、僕らはインライン・スケートの支度を始めた。滑りながら体の筋を伸ばしてゆくと、昨夜の踊り疲れが全身から染み出してくる。
木陰の向こうに、チビッ子のスケーターが見えた。僕は子供達からは目の届かない場所で、クルクルと円を描いて足を慣らす。コンクリートの散歩道は、アスファルトよりガタつきがなくて滑りやすい。
やがて、イダルミとアイザックが現れた。「グヮグヮ」で来たという。
「グヮグヮ」とは大型バスの呼称で、ハバナ中心部と郊外を結ぶ一般市民の足として活躍しているらしい。けん引するトレーラーの騒音が名前の由来だそうだ。僕も昨日、ベンツ・タクシーに乗っている時に見かけた。確かに喧しい。
早速みんなで滑ろうという事で、トニーがイダルミにスケート・シューズの着け方や立った時の姿勢を説明している。彼女ら2人は英語ペラペラだけど、トニーのほうがスペイン語を使いたいのかもしれない。
いやきっと彼のことだから、初スケートでガチガチになってる彼女を気遣ったのだろう。僕が最初の時も、いざ滑り出すと頭がパニックだった僕に日本語でコーチしてくれたっけ。
おそるおそる立ち上がったイダルミを支えている、アイザックのほうはチャレンジする気はないようだ。コツをつかんだイダルミは、アイザックの手を離して滑り出した。だけどまだ及び腰で、付き添って歩く彼も身構えたままだ。
すると向こうのチビッ子達が、僕らの声を聞き付けて集まってきた。最初は遠巻きに、そして少しづつ近寄ってくる。なぜか連中は僕に話しかけてくるけれど、とりあえずはトニーの対応を見て考えよう。
彼にも子供達がまとわりついて、話しかけながらバッグの中をのぞき込んだりしていた。トニーはイダルミ達を眺めつつ、一見ニコニコとチビッ子の相手をしているようだ。しかしそれはフェイクで、油断した子がバッグに手を入れようとする前に素早くブロックしている。
獲物に群がる野犬のように人数が増えて、さすがにピリピリしたオーラが噴き出てきた。その気配を察した子供が仲間を仕切り始め、僕を見上げて(違うの、見張り番だからね)と必死の眼差し。
横からは裸の少年が、熱弁を振るいながら僕に左手に触れてくる。振り払ってもあきらめず、まっすぐ見つめて手を伸ばしてくる。彼は本気で僕に頼んでいるのだが、この防具が君の何に役立つの?
これでは気が抜けないので、海沿いに移動する。車通りのない海岸道路を走って渡ると、チビッ子達は緑道の端で引き返して行った。分厚い堤防と車道の間にある、えんじ色のコーティングがされた幅い歩道だ。
防波堤は腰までの高さで、向こうにはカリブ海が見渡せる。波は穏やかだ。今日は朝から晴れているとはいえ、うす曇のような青空だ。降りそうな気配はないので、むしろちょうど良い位だ。ふいに雲が晴れ、照りつける太陽が灼熱の風を吹かせる。昨日のぐずついた空模様はどこへやら…真夏だ。
防波堤の上で戯れている若者達が見えた。彼らからは距離を置いて、トニーは歩道に荷物を降ろした。コーティングされた歩道は、スケートにうってつけだった。なめらかに滑れて、しかもデコボコや段差がない。
防波堤の上の少年達は、こちらの警戒心を察してか、すぐには近付いて来なかった。しかしトニーが誘いに乗って、うっかり言葉を交わしたのが呼び水になった。どこにこんなに潜んでいたのかと思うほどの人数が、まるで旧知の仲みたいに僕らを取り巻いた。
ほとんど全員が上半身裸で、白人系の若者や未成年に見えない奴らも混じっている。さりげなく離脱を試みてはいたが、すでに僕らは包囲網の中だった。知らず知らずに僕ら4人は孤立させられ、僕がトニーやイダルミ達を見ようとすると目線をブロックされるのだ。その純真な眼差しとは裏腹の見事な戦略、まさに多勢に無勢だった。
「離れるな、みんな固まれ!」
トニーの声が聞こえ、僕は少年をかき分けて合流する。僕らの周囲だけがラッシュ・アワー状態だ。アイザックは僕らの荷物を取られたりしないように、弱々しい笑みを浮かべて抱えて込んでいた。彼は物怖じしない少年達に当惑しながらもガールフレンドを守り、トラブルが起きないように気を配っているのだった。イイ奴だなぁ。
僕は(この少年達の言葉が判らなくて良かった)と思う。僕の耳は彼らの声を「やかましいノイズ」として無視することが出来るけど、アイザック達には聞こえているのだ。自分達の要求を「外人連れの同胞」に通訳させようとする、彼らの声が。アイザックとイダルミの目に、この少年達はどのように映っているのだろうか? 僕が二人の立場だったら…。
アイザックは微笑みを浮かべたまま、疲れたような悲しげな顔をしている。けれどイダルミは対照的にニコニコとして、なんだか少年達を弟のように思ってるみたいだ。僕は、ひたすら彼らを無視することで余裕を保ってはいた。昨日の客引き以来、僕は「キューバ人恐怖症」気味だった。
とりあえずスケート遊びはあきらめ、僕らは目配せで引き上げる。連中のほうはあきらめが悪く、何人かはホテル付近まで付きまとってきた。
数時間前までの夜更かしを思えば仮眠のようなものだったが、それでも旅先での緊張だか興奮だか目覚めも良好。
「おはよう、もうすぐイダルミとアイザックが来るから」
いつの間に段取りを付けたのか、トニーはすでに彼女たち2人分のスケート道具をバッグに詰めていた。早起きした気でいたけれど、すでに10amを回ろうとしている。
「でも朝ごはんは?」
「すぐにお昼なんだから。ちょっと我慢して、みんなで一緒に食べればいいじゃない?」
…ちぇっ、そこまで段取るか。
周囲の家並みは、日曜日だというのに閑散としていた。
ホテル前の車道に挟まれた緑道では子供が遊び、ベンチにはお年寄りが座っている。イダルミ達が来る前に、僕らはインライン・スケートの支度を始めた。滑りながら体の筋を伸ばしてゆくと、昨夜の踊り疲れが全身から染み出してくる。
木陰の向こうに、チビッ子のスケーターが見えた。僕は子供達からは目の届かない場所で、クルクルと円を描いて足を慣らす。コンクリートの散歩道は、アスファルトよりガタつきがなくて滑りやすい。
やがて、イダルミとアイザックが現れた。「グヮグヮ」で来たという。
「グヮグヮ」とは大型バスの呼称で、ハバナ中心部と郊外を結ぶ一般市民の足として活躍しているらしい。けん引するトレーラーの騒音が名前の由来だそうだ。僕も昨日、ベンツ・タクシーに乗っている時に見かけた。確かに喧しい。
早速みんなで滑ろうという事で、トニーがイダルミにスケート・シューズの着け方や立った時の姿勢を説明している。彼女ら2人は英語ペラペラだけど、トニーのほうがスペイン語を使いたいのかもしれない。
いやきっと彼のことだから、初スケートでガチガチになってる彼女を気遣ったのだろう。僕が最初の時も、いざ滑り出すと頭がパニックだった僕に日本語でコーチしてくれたっけ。
おそるおそる立ち上がったイダルミを支えている、アイザックのほうはチャレンジする気はないようだ。コツをつかんだイダルミは、アイザックの手を離して滑り出した。だけどまだ及び腰で、付き添って歩く彼も身構えたままだ。
すると向こうのチビッ子達が、僕らの声を聞き付けて集まってきた。最初は遠巻きに、そして少しづつ近寄ってくる。なぜか連中は僕に話しかけてくるけれど、とりあえずはトニーの対応を見て考えよう。
彼にも子供達がまとわりついて、話しかけながらバッグの中をのぞき込んだりしていた。トニーはイダルミ達を眺めつつ、一見ニコニコとチビッ子の相手をしているようだ。しかしそれはフェイクで、油断した子がバッグに手を入れようとする前に素早くブロックしている。
獲物に群がる野犬のように人数が増えて、さすがにピリピリしたオーラが噴き出てきた。その気配を察した子供が仲間を仕切り始め、僕を見上げて(違うの、見張り番だからね)と必死の眼差し。
横からは裸の少年が、熱弁を振るいながら僕に左手に触れてくる。振り払ってもあきらめず、まっすぐ見つめて手を伸ばしてくる。彼は本気で僕に頼んでいるのだが、この防具が君の何に役立つの?
これでは気が抜けないので、海沿いに移動する。車通りのない海岸道路を走って渡ると、チビッ子達は緑道の端で引き返して行った。分厚い堤防と車道の間にある、えんじ色のコーティングがされた幅い歩道だ。
防波堤は腰までの高さで、向こうにはカリブ海が見渡せる。波は穏やかだ。今日は朝から晴れているとはいえ、うす曇のような青空だ。降りそうな気配はないので、むしろちょうど良い位だ。ふいに雲が晴れ、照りつける太陽が灼熱の風を吹かせる。昨日のぐずついた空模様はどこへやら…真夏だ。
防波堤の上で戯れている若者達が見えた。彼らからは距離を置いて、トニーは歩道に荷物を降ろした。コーティングされた歩道は、スケートにうってつけだった。なめらかに滑れて、しかもデコボコや段差がない。
防波堤の上の少年達は、こちらの警戒心を察してか、すぐには近付いて来なかった。しかしトニーが誘いに乗って、うっかり言葉を交わしたのが呼び水になった。どこにこんなに潜んでいたのかと思うほどの人数が、まるで旧知の仲みたいに僕らを取り巻いた。
ほとんど全員が上半身裸で、白人系の若者や未成年に見えない奴らも混じっている。さりげなく離脱を試みてはいたが、すでに僕らは包囲網の中だった。知らず知らずに僕ら4人は孤立させられ、僕がトニーやイダルミ達を見ようとすると目線をブロックされるのだ。その純真な眼差しとは裏腹の見事な戦略、まさに多勢に無勢だった。
「離れるな、みんな固まれ!」
トニーの声が聞こえ、僕は少年をかき分けて合流する。僕らの周囲だけがラッシュ・アワー状態だ。アイザックは僕らの荷物を取られたりしないように、弱々しい笑みを浮かべて抱えて込んでいた。彼は物怖じしない少年達に当惑しながらもガールフレンドを守り、トラブルが起きないように気を配っているのだった。イイ奴だなぁ。
僕は(この少年達の言葉が判らなくて良かった)と思う。僕の耳は彼らの声を「やかましいノイズ」として無視することが出来るけど、アイザック達には聞こえているのだ。自分達の要求を「外人連れの同胞」に通訳させようとする、彼らの声が。アイザックとイダルミの目に、この少年達はどのように映っているのだろうか? 僕が二人の立場だったら…。
アイザックは微笑みを浮かべたまま、疲れたような悲しげな顔をしている。けれどイダルミは対照的にニコニコとして、なんだか少年達を弟のように思ってるみたいだ。僕は、ひたすら彼らを無視することで余裕を保ってはいた。昨日の客引き以来、僕は「キューバ人恐怖症」気味だった。
とりあえずスケート遊びはあきらめ、僕らは目配せで引き上げる。連中のほうはあきらめが悪く、何人かはホテル付近まで付きまとってきた。
メキシコ旅情【ハバナ!前編・11 オールド・ハバナの光と影】
重たいバッグを急いで放り込み、ホテルの部屋から出てきた。もう子供達に付きまとわれる心配はないだろうけど、いつまでもアイザック達を外で待たせる訳にはいかない。これから4人で昼飯を食べに、オールド・ハバナへ出掛けるのだ。
最初、アイザックはベンツ・タクシーに拒否反応を示した。一般市民には、まず縁のない乗り物だもんなぁ。交通手段といえば自転車かバスの「グヮグヮ」といったところだし、僕らに支払いを負担させる事への気遣いもあったのだろう。そこへいくとイダルミは落ち着いていて、やはり留学経験からなのかな。
海岸沿いのマレコン通りを飛ばしてゆくベンツ、さすが白タクとは乗り心地が違う。アメリカやメキシコと同じ右側通行で、反対車線の防波堤がまったく役に立ってなくてビシャビシャ。
豪快な荒波は車道まで届く勢い、うっかり歩道に立っていたら…想像すると恐ろしい。
オールド・ハバナに着いてタクシーを降りると、トニーが独り言のように呟いた。
「一年前と比べて、古いアメ車が減った」
日本などからもヴィンテージ・カーのブローカーが来て、日本車と引き換えに安値で買い取っているんだとか。トニーは去年も来ていたが、確実に日本車が増えているそうだ。この街並みには最新型の日本車よりも、50年代アメ車の優雅で洗練された車体が相応しい。
教会前の広場は、今日も民芸市場になっている。こうして外貨を稼いでいる人々の、社会主義上の位置付けはどうなっているのかな?…つい怪しい想像をしてしまう。
路地裏にも昨日より大勢の人があふれていて、今日も超満員の「ヘミングウェイ御用達の店」は足早に通過する。そこを過ぎると、石畳の狭い路地は観光客がまばらになった。横丁に積み上げられたゴミの山が壮絶な悪臭を放っていて、思わず僕は顔をしかめた。
この町の独特な匂いの素が、実はゴミの腐臭だったとは!
排気ガスや街中の埃に紛れていた時と違って、実物を目前にすると非常にキツイ。でも悪臭への抵抗感は、不快ではあるけれど順応してしまう。由緒ある町並みの中で今も歴史を刻んでいるのだ、花の都と呼ばれるパリも昔は悪臭とゴミの貧民窟だった…というではないか。そう思い込んでいれば、大航海時代をリアルタイムで訪れているような感覚に、ならないでもない。
歴史と破壊、清浄と汚濁、新旧聖俗…明暗が混在する町の活気。日が差し込んで、光と影のコントラストが目を射るようだ。路地を回り込んで、住宅街から盛り場に引き返す。樹木の茂った公園の周囲だけが、石畳ならぬ木畳だ。所々グラグラしていて、見た目に比べると非常に歩きにくい。どこからかまた悪臭が漂ってきた…慣れるなんてウソだ、臭いものはクサイ!
向こうのほうにレストラン発見。バルコニーに張り出した天幕の下、数人の若者達が生楽器で演奏を聴かせている。それを見て、イダルミがちょっと自慢げに教えてくれた。
「彼も休みの日にはプレイするのよ」
何の楽器を演るのか、僕が聞き返すとアイザックはギターだと言った。当然、エレキではなくガットのほう。たまに店先で、仲間達と演奏する事もあるらしい。照れ臭いのか、しきりに彼が「でも僕らは本当に大したことないから」と強調するのでイダルミに話を振った。
「私は、そんなことないと思うけど?」…仲睦まじくて結構。率直なところは、彼女の長所のひとつでもある。
僕らの前でほめられたアイザックは、居心地悪そうにイダルミを突ついた。謙虚なのは良いけど、だからって自分を卑下する必要なんてないのに。そしたら僕の立場はどうなるのかね。カンクンのギターロおじさんの前で恥かいた、僕の立場は?
公園に面して、重厚な石の建築物が建っている。その回廊では古書市が開かれていて、本の合間に重そうな青銅の鐘が幾つかあった。これが売り物だとしても、持ってくるのも大変だったろう。
ギリシャ神殿をおもわせる巨大な円柱が平屋根を支え、奥の建物本体との間に縦長の回廊が設けられている。オールド・ハバナのコロニアル建築物に共通する特徴だったが、スペイン統治時代はゴシック様式だったかな…? 細かい事は、この際おいておこう。
暗い陰に縁取られた入口の先、中庭の鮮やかな緑が浮かび上がって美しい。中央に立つ白い立像は、どうやらコロンブスらしい。だがしかし、彼は侵略者なんじゃないのか? いつだったか〈アメリカ発見の歴史は西欧からの迫害の歴史だ〉とかいう抗議運動を、ニュースでみた覚えがある。
「うーん、でも英雄並みの扱いみたいだよ」
トニーが、僕の疑問に答えた。深まる疑問にひかれて建物の中へ。
冷やりとした暗がりに湿ったほこりが舞っていて、建物の内側はパティオ[中庭]になっていた。中庭を囲む内壁も二段重ねの細い回廊になっていて、本格的なコロニアル形式だ。思わず、僕の口からため息がもれる。家や不動産なんて一切興味のない僕だけど、柄にもなく興奮と陶酔を覚えた。ここに身を置くだけでも、入場料を払う価値があると思う。この立派な建物には、かつて総督が住んでいたそうだ。それ以上は、トニーも詳しく判らないようだった。
イダルミの声に振り返ると、僕らの左手に一羽のクジャクが…はて?
優雅な足取りで、平民の好奇心などには無関心に歩み去っていく。鳥の分際で格下扱いしやがって、しゃくに障る奴だが生まれ持った威厳には敵わない。4人は呆然と立ち尽くし、お通りを黙って見送る。クジャクが出てきたのは、片隅の小さなプレハブだった。
ニワトリ小屋ではないけれど、アルミ・サッシがはめ込まれた無粋な小屋だ。資料展示室かと思いきや、そこは土産物屋になっていて退屈そうな若い女性が座っていた。物色してみると結構センスの良い物が揃っていて、つい買物心をくすぐられてしまう。店員も第一印象よりは意外に愛想が良く、さっきのクジャクが可愛くて仕方ないと笑った。あれもこれも捨て難かったけれども、お土産価格として安くはないし適当に切り上げた。
さぁさ、とにかくメシだメシだ。そろそろ何か食べないと。さっきまでバンド演奏してた店も、いい加減に空いた頃だろう…。そう思っていたら、いつの間にか閉まっている! タイミングの悪さを嘆くも、今さら仕方のないことだ。それより、下手をするとシエスタでどこの店も閉まりかねない。
急いで見つけた店に入ると、そこも「軽食は終了です」と冷たい御返事。食い下がると「アイスとドリンクならOK」ということで、この際それでも善しとしよう。何も食べられないよりはマシというものだし、喉の渇きも半端じゃなかった。
テラスに陣取ってコーラを待っていると、愛想のないウェイトレスがアイザックのほうを見て変な表情を浮かべた。おそらく、観光客とキューバ人の取り合わせが奇妙に感じられたのだろう。それにしたって、あの顔はないだろう。性格の悪いキューバ女性に出逢うたび、南国幻想が壊れてゆく気がする。
とりあえず、コーラで乾杯。乾いた喉に染み渡る。そういえば、ペプシにお目にかかるのは久しぶりだな。カンクンではコカ・コーラばかりを飲み慣れていたせいか、はっきりと味の違いが分かる。甘いというか、くどいというか。
やがてアイスが運ばれてきた。ボート皿にストロベリーとチョコとバニラの3種類が大盛りだった。でも、ここでハーゲンダッツ並みを期待してはいけない。どれもなつかしい、デパート屋上の味がする。それもまた、乙なものよ。
オールド・ハバナの光と影・補足(後知恵)
最初、アイザックはベンツ・タクシーに拒否反応を示した。一般市民には、まず縁のない乗り物だもんなぁ。交通手段といえば自転車かバスの「グヮグヮ」といったところだし、僕らに支払いを負担させる事への気遣いもあったのだろう。そこへいくとイダルミは落ち着いていて、やはり留学経験からなのかな。
海岸沿いのマレコン通りを飛ばしてゆくベンツ、さすが白タクとは乗り心地が違う。アメリカやメキシコと同じ右側通行で、反対車線の防波堤がまったく役に立ってなくてビシャビシャ。
豪快な荒波は車道まで届く勢い、うっかり歩道に立っていたら…想像すると恐ろしい。
オールド・ハバナに着いてタクシーを降りると、トニーが独り言のように呟いた。
「一年前と比べて、古いアメ車が減った」
日本などからもヴィンテージ・カーのブローカーが来て、日本車と引き換えに安値で買い取っているんだとか。トニーは去年も来ていたが、確実に日本車が増えているそうだ。この街並みには最新型の日本車よりも、50年代アメ車の優雅で洗練された車体が相応しい。
教会前の広場は、今日も民芸市場になっている。こうして外貨を稼いでいる人々の、社会主義上の位置付けはどうなっているのかな?…つい怪しい想像をしてしまう。
路地裏にも昨日より大勢の人があふれていて、今日も超満員の「ヘミングウェイ御用達の店」は足早に通過する。そこを過ぎると、石畳の狭い路地は観光客がまばらになった。横丁に積み上げられたゴミの山が壮絶な悪臭を放っていて、思わず僕は顔をしかめた。
この町の独特な匂いの素が、実はゴミの腐臭だったとは!
排気ガスや街中の埃に紛れていた時と違って、実物を目前にすると非常にキツイ。でも悪臭への抵抗感は、不快ではあるけれど順応してしまう。由緒ある町並みの中で今も歴史を刻んでいるのだ、花の都と呼ばれるパリも昔は悪臭とゴミの貧民窟だった…というではないか。そう思い込んでいれば、大航海時代をリアルタイムで訪れているような感覚に、ならないでもない。
歴史と破壊、清浄と汚濁、新旧聖俗…明暗が混在する町の活気。日が差し込んで、光と影のコントラストが目を射るようだ。路地を回り込んで、住宅街から盛り場に引き返す。樹木の茂った公園の周囲だけが、石畳ならぬ木畳だ。所々グラグラしていて、見た目に比べると非常に歩きにくい。どこからかまた悪臭が漂ってきた…慣れるなんてウソだ、臭いものはクサイ!
向こうのほうにレストラン発見。バルコニーに張り出した天幕の下、数人の若者達が生楽器で演奏を聴かせている。それを見て、イダルミがちょっと自慢げに教えてくれた。
「彼も休みの日にはプレイするのよ」
何の楽器を演るのか、僕が聞き返すとアイザックはギターだと言った。当然、エレキではなくガットのほう。たまに店先で、仲間達と演奏する事もあるらしい。照れ臭いのか、しきりに彼が「でも僕らは本当に大したことないから」と強調するのでイダルミに話を振った。
「私は、そんなことないと思うけど?」…仲睦まじくて結構。率直なところは、彼女の長所のひとつでもある。
僕らの前でほめられたアイザックは、居心地悪そうにイダルミを突ついた。謙虚なのは良いけど、だからって自分を卑下する必要なんてないのに。そしたら僕の立場はどうなるのかね。カンクンのギターロおじさんの前で恥かいた、僕の立場は?
公園に面して、重厚な石の建築物が建っている。その回廊では古書市が開かれていて、本の合間に重そうな青銅の鐘が幾つかあった。これが売り物だとしても、持ってくるのも大変だったろう。
ギリシャ神殿をおもわせる巨大な円柱が平屋根を支え、奥の建物本体との間に縦長の回廊が設けられている。オールド・ハバナのコロニアル建築物に共通する特徴だったが、スペイン統治時代はゴシック様式だったかな…? 細かい事は、この際おいておこう。
暗い陰に縁取られた入口の先、中庭の鮮やかな緑が浮かび上がって美しい。中央に立つ白い立像は、どうやらコロンブスらしい。だがしかし、彼は侵略者なんじゃないのか? いつだったか〈アメリカ発見の歴史は西欧からの迫害の歴史だ〉とかいう抗議運動を、ニュースでみた覚えがある。
「うーん、でも英雄並みの扱いみたいだよ」
トニーが、僕の疑問に答えた。深まる疑問にひかれて建物の中へ。
冷やりとした暗がりに湿ったほこりが舞っていて、建物の内側はパティオ[中庭]になっていた。中庭を囲む内壁も二段重ねの細い回廊になっていて、本格的なコロニアル形式だ。思わず、僕の口からため息がもれる。家や不動産なんて一切興味のない僕だけど、柄にもなく興奮と陶酔を覚えた。ここに身を置くだけでも、入場料を払う価値があると思う。この立派な建物には、かつて総督が住んでいたそうだ。それ以上は、トニーも詳しく判らないようだった。
イダルミの声に振り返ると、僕らの左手に一羽のクジャクが…はて?
優雅な足取りで、平民の好奇心などには無関心に歩み去っていく。鳥の分際で格下扱いしやがって、しゃくに障る奴だが生まれ持った威厳には敵わない。4人は呆然と立ち尽くし、お通りを黙って見送る。クジャクが出てきたのは、片隅の小さなプレハブだった。
ニワトリ小屋ではないけれど、アルミ・サッシがはめ込まれた無粋な小屋だ。資料展示室かと思いきや、そこは土産物屋になっていて退屈そうな若い女性が座っていた。物色してみると結構センスの良い物が揃っていて、つい買物心をくすぐられてしまう。店員も第一印象よりは意外に愛想が良く、さっきのクジャクが可愛くて仕方ないと笑った。あれもこれも捨て難かったけれども、お土産価格として安くはないし適当に切り上げた。
さぁさ、とにかくメシだメシだ。そろそろ何か食べないと。さっきまでバンド演奏してた店も、いい加減に空いた頃だろう…。そう思っていたら、いつの間にか閉まっている! タイミングの悪さを嘆くも、今さら仕方のないことだ。それより、下手をするとシエスタでどこの店も閉まりかねない。
急いで見つけた店に入ると、そこも「軽食は終了です」と冷たい御返事。食い下がると「アイスとドリンクならOK」ということで、この際それでも善しとしよう。何も食べられないよりはマシというものだし、喉の渇きも半端じゃなかった。
テラスに陣取ってコーラを待っていると、愛想のないウェイトレスがアイザックのほうを見て変な表情を浮かべた。おそらく、観光客とキューバ人の取り合わせが奇妙に感じられたのだろう。それにしたって、あの顔はないだろう。性格の悪いキューバ女性に出逢うたび、南国幻想が壊れてゆく気がする。
とりあえず、コーラで乾杯。乾いた喉に染み渡る。そういえば、ペプシにお目にかかるのは久しぶりだな。カンクンではコカ・コーラばかりを飲み慣れていたせいか、はっきりと味の違いが分かる。甘いというか、くどいというか。
やがてアイスが運ばれてきた。ボート皿にストロベリーとチョコとバニラの3種類が大盛りだった。でも、ここでハーゲンダッツ並みを期待してはいけない。どれもなつかしい、デパート屋上の味がする。それもまた、乙なものよ。
オールド・ハバナの光と影・補足(後知恵)
メキシコ旅情【ハバナ!前編・12 ハバナの黄昏】
店を出てからの僕ら4人は、空腹のままオールド・ハバナを歩き回っていた。
観光客目当ての店が、意外に少ない。民芸市場を別にすれば、土産物屋が何処にもないのが不思議だ。
博物館の前にそびえていた城塞は、今は警察署として利用されているのだという(見学もできるそうだ)。こうした歴史的建造物を有効活用しているのは賢明な発想だな、ただ警察署にしては高い城壁に掘割もある外観がいかめしい。
掘割に沿って海岸道路へと回り込むと、最初にタクシーを降りた場所が見えた。そして、その手前には軽食スタンドが! なんと、降りてすぐ後ろを振り向けば食事ができたのだ…まったく皮肉だな。早くも陽が傾きかけているのに、今朝から未だにアイスとコーラだけしか口にしていない。考えてみれば、昨夜もコーラしか飲んでいなかった。
公園のホットドッグ・スタンドそのものだから、ハンバーガー程度の食べ物はあるだろう。腹の足しになりそうなメニューはホットドッグだけで、仕方なく2つ頼んでベンチで待つ。皆くたびれて無口。
店員が運んでくると、入れ替わりに物乞いの犬と子供が登場。さすがに今度ばかりは、イダルミも困惑した表情で身を固くしている。いかにも浮浪児な、薄汚れた身なりをしている少年だ。
しかし、彼にやる分はない。とにかく僕も、空腹の度合いでは良い勝負だったのだ。小僧、何も言わないうちからホットドッグに手を出そうとしやがって。僕が声を荒げたら、すぐに店員が飛んできて少年を追い払った。
まだ日暮れまでには時間があったけれど、お別れの時だった。これから、アイザックとイダルミは「グヮグヮ」バスに揺られて帰途に就くのだ。そしてトニーと僕は、インライン・スケートに履き替える。少し背が高くなった僕らは、2人と向き合って立っていた。しばしの沈黙。
「逢えて良かったわ、ありがとう。ビアネイによろしく伝えて」
そう言うと、イダルミは僕の手に木の実で作られた置物を乗せた。ココナツの殻に盛られた、鮮やかな南国風フルーツ・バスケットを模している。それは、僕の手のひらに収まった。
「記念にプレゼントするわ、つまらないものだけど」
アイザックが僕にくれたカードは、城塞の砲台が写っている絵ハガキだった。観光名所になっているのだと、彼が教えてくれた。
「時間がなくて、こんなものしかあげられないけど…」
済まなそうな顔をして言われてしまうと、自分の気が利かなさに悲しくなる。
「気にしないで、もらっておきな」
トニーが、僕の胸中を察して言ってくれた。言い足りない気持ちを込めて、2人を見つめた。素的な心の持ち主に出逢えた事が、この旅の何よりも大切な記念になるだろう。
「それじゃあ」
僕らは、去ってゆく2人の後ろ姿を見送った。気持ちの良い、束の間の出逢いと別れだ。彼らの贈り物をカバンにしまう前に、僕はもう一度アイザックの手書きのメッセージを読んだ。
「私達を忘れないでね![Don't ever forget us!]」
…そう書かれていた。
お互いの住所を交換しなかったことを後になって悔やんだが、きっとこれで良かったんだと思う。
インライン・スケートでオールド・ハバナを回る。
路地裏の舗装はガタガタだから走りにくかったけど、それでも徐々に慣れて快調に飛ばす。古い建物の谷間を駆け抜けると、通行人が目を丸くする。好奇心丸出しで声をかけられても、笑顔で手を振って通過。これは気が楽だぁ〜!
住宅街が開けて、尖塔に白塗りのアラビックな建物が見えてきた。質実剛健なボンネット型のトラック、プロパガンダが色鮮やかに大書きされている塀…いかにも社会主義。
大広場に出ると、緑の芝生に戦車が横付けされている。台座に固定されてるとはいえ、今にも使えそう。カストロ議長、だてに軍服姿で決めている訳ではないな。この物騒な飾り、妙に実用的すぎ。
僕が一息いれようと止まった途端、すかさず2人のキューバ人男性から話しかけられた。下手くそなりに礼儀正しい英語なんだけど、態度はやはり馴れ馴れしい。
「チーノ、どこから来たの? ロサンヘルス?」
どいつもこいつもチーノ呼ばわり…! ムッとした僕が睨みつけても意に介さず、それを見たトニーが急いで間に入ってきた。外国で揉め事を起こすのも厄介だし(というか散々懲りたし)、愛想笑いで握手もそこそこに逃げ出す。
目の前に、見た事もないアパートが現れた。コロニアル様式に似せた近代建築で、柱が高いと思ったら、回廊の奥が2階建てになっていて、しかも柱の上に3階のバルコニーがあり、それが何十戸も奥に連なっている。バルコニーの窓もむやみに高く、住民の身長よりも3倍くらいある。
通りの向こうから女学生の注目を浴びて、スタイルいいなぁ…と思ったらまだローティーンっぽい。おそるべし、ボディコンシャスな小中学生。
トニーの声に振り向くと、彼は減速してアパートの柱の陰に消えるところだった。クイック・ターンで後を追うと、そこには2人の女が立っていた。素肌に張り付いたベアトップの赤いドレスと、見事な脚線美…おぉっ! ナンパですかぁ?
でも僕の広範な守備範囲から外れる顔立ちだったので、距離を置いて成り行きを見守っていた。しばらくして交渉は不成立に終わったようで、トニーは嘆き交じりの情けないため息を吐いた。
「いいじゃない、元気だしなよ。あれじゃあ、後で悔やんじゃうぜ?」
神経を逆なでするつもりじゃなかったんだけど、逆効果だったかなぁ。でも、ありゃあ結構スレた目付きをしてたぜ。昨夜のバンビちゃんと比べたら、雲泥の差だ。
「本当に、去年はこんなんじゃなかったんだけどなぁ〜」
なんだか、ここまでガックリ気落ちしている姿を見ると気の毒になる。
「パラダイス・ロストだねー」
…いけね、また一言多かった。
「ハバナの黄昏(後知恵)」
観光客目当ての店が、意外に少ない。民芸市場を別にすれば、土産物屋が何処にもないのが不思議だ。
博物館の前にそびえていた城塞は、今は警察署として利用されているのだという(見学もできるそうだ)。こうした歴史的建造物を有効活用しているのは賢明な発想だな、ただ警察署にしては高い城壁に掘割もある外観がいかめしい。
掘割に沿って海岸道路へと回り込むと、最初にタクシーを降りた場所が見えた。そして、その手前には軽食スタンドが! なんと、降りてすぐ後ろを振り向けば食事ができたのだ…まったく皮肉だな。早くも陽が傾きかけているのに、今朝から未だにアイスとコーラだけしか口にしていない。考えてみれば、昨夜もコーラしか飲んでいなかった。
公園のホットドッグ・スタンドそのものだから、ハンバーガー程度の食べ物はあるだろう。腹の足しになりそうなメニューはホットドッグだけで、仕方なく2つ頼んでベンチで待つ。皆くたびれて無口。
店員が運んでくると、入れ替わりに物乞いの犬と子供が登場。さすがに今度ばかりは、イダルミも困惑した表情で身を固くしている。いかにも浮浪児な、薄汚れた身なりをしている少年だ。
しかし、彼にやる分はない。とにかく僕も、空腹の度合いでは良い勝負だったのだ。小僧、何も言わないうちからホットドッグに手を出そうとしやがって。僕が声を荒げたら、すぐに店員が飛んできて少年を追い払った。
まだ日暮れまでには時間があったけれど、お別れの時だった。これから、アイザックとイダルミは「グヮグヮ」バスに揺られて帰途に就くのだ。そしてトニーと僕は、インライン・スケートに履き替える。少し背が高くなった僕らは、2人と向き合って立っていた。しばしの沈黙。
「逢えて良かったわ、ありがとう。ビアネイによろしく伝えて」
そう言うと、イダルミは僕の手に木の実で作られた置物を乗せた。ココナツの殻に盛られた、鮮やかな南国風フルーツ・バスケットを模している。それは、僕の手のひらに収まった。
「記念にプレゼントするわ、つまらないものだけど」
アイザックが僕にくれたカードは、城塞の砲台が写っている絵ハガキだった。観光名所になっているのだと、彼が教えてくれた。
「時間がなくて、こんなものしかあげられないけど…」
済まなそうな顔をして言われてしまうと、自分の気が利かなさに悲しくなる。
「気にしないで、もらっておきな」
トニーが、僕の胸中を察して言ってくれた。言い足りない気持ちを込めて、2人を見つめた。素的な心の持ち主に出逢えた事が、この旅の何よりも大切な記念になるだろう。
「それじゃあ」
僕らは、去ってゆく2人の後ろ姿を見送った。気持ちの良い、束の間の出逢いと別れだ。彼らの贈り物をカバンにしまう前に、僕はもう一度アイザックの手書きのメッセージを読んだ。
「私達を忘れないでね![Don't ever forget us!]」
…そう書かれていた。
お互いの住所を交換しなかったことを後になって悔やんだが、きっとこれで良かったんだと思う。
インライン・スケートでオールド・ハバナを回る。
路地裏の舗装はガタガタだから走りにくかったけど、それでも徐々に慣れて快調に飛ばす。古い建物の谷間を駆け抜けると、通行人が目を丸くする。好奇心丸出しで声をかけられても、笑顔で手を振って通過。これは気が楽だぁ〜!
住宅街が開けて、尖塔に白塗りのアラビックな建物が見えてきた。質実剛健なボンネット型のトラック、プロパガンダが色鮮やかに大書きされている塀…いかにも社会主義。
大広場に出ると、緑の芝生に戦車が横付けされている。台座に固定されてるとはいえ、今にも使えそう。カストロ議長、だてに軍服姿で決めている訳ではないな。この物騒な飾り、妙に実用的すぎ。
僕が一息いれようと止まった途端、すかさず2人のキューバ人男性から話しかけられた。下手くそなりに礼儀正しい英語なんだけど、態度はやはり馴れ馴れしい。
「チーノ、どこから来たの? ロサンヘルス?」
どいつもこいつもチーノ呼ばわり…! ムッとした僕が睨みつけても意に介さず、それを見たトニーが急いで間に入ってきた。外国で揉め事を起こすのも厄介だし(というか散々懲りたし)、愛想笑いで握手もそこそこに逃げ出す。
目の前に、見た事もないアパートが現れた。コロニアル様式に似せた近代建築で、柱が高いと思ったら、回廊の奥が2階建てになっていて、しかも柱の上に3階のバルコニーがあり、それが何十戸も奥に連なっている。バルコニーの窓もむやみに高く、住民の身長よりも3倍くらいある。
通りの向こうから女学生の注目を浴びて、スタイルいいなぁ…と思ったらまだローティーンっぽい。おそるべし、ボディコンシャスな小中学生。
トニーの声に振り向くと、彼は減速してアパートの柱の陰に消えるところだった。クイック・ターンで後を追うと、そこには2人の女が立っていた。素肌に張り付いたベアトップの赤いドレスと、見事な脚線美…おぉっ! ナンパですかぁ?
でも僕の広範な守備範囲から外れる顔立ちだったので、距離を置いて成り行きを見守っていた。しばらくして交渉は不成立に終わったようで、トニーは嘆き交じりの情けないため息を吐いた。
「いいじゃない、元気だしなよ。あれじゃあ、後で悔やんじゃうぜ?」
神経を逆なでするつもりじゃなかったんだけど、逆効果だったかなぁ。でも、ありゃあ結構スレた目付きをしてたぜ。昨夜のバンビちゃんと比べたら、雲泥の差だ。
「本当に、去年はこんなんじゃなかったんだけどなぁ〜」
なんだか、ここまでガックリ気落ちしている姿を見ると気の毒になる。
「パラダイス・ロストだねー」
…いけね、また一言多かった。
「ハバナの黄昏(後知恵)」
メキシコ旅情【ハバナ!前編・13 ブラック・マーケット】
広々とした中央分離帯を挟んで、車道がヘアピン・カーブしてる。幹線道路の起点なのだろうか、青空が見渡せるのは気持ち良いけれど…。郊外行きの「グヮグヮ」が並んでいて、空気は一段と不味い。
大型のトレーラー・ヘッドが黒煙を吹き上げ、開け放った窓にスシ詰めの乗客を隠す。さすがにぶら下がっている人はいないけれど、窓の中は非人間的な密度だ。客車内の熱気で、窓が曇っている。
イダルミもアイザックも、これに耐えて来てくれたのだ。そして帰りも…。
また一台、ものすごい騒音と黒煙を立ててグズグズと走り出した。僕らは逃げ出すようにUターンして、通りの果てに見えるハバナ湾へ。道路は傾斜していないのに、すうっとこのまま海に転がり落ちそうな錯覚を覚えた。(元々は、港町なんだな)と思う。
陽差しは出たり引っ込んだりで、また曇ってきた。空一面、薄いベールに包まれている。
海岸沿いのマレコン通りを、ローラー・ブレードで走る。喉が渇いたのに、売店どころか自動販売機すら見つけられなかった。ホテルに戻る途中に、1箇所ぐらいは見つかるだろうという予想は甘かった。
2人は海側の歩道を走っていた。波に洗われて濡れた所もあるけれど、舗装がコーティングされているし幅も広い。気持ちが良くてスピードが上がる。反対側の歩道を見ると、まるで寂びれた廃墟と合わせたように舗装もガタガタだった。冷たいコーラなど期待できそうにない。
長いカーブを抜けると、ホテルの高い頭が突き出て見えた。思ってたよりも近そうで、そう思ったら余計に喉が渇いてきた。ふいに道路が上り坂になり、ずっと走りっぱなしなので足の筋肉がガクガクしている。普段から運動している訳でもないのに、調子に乗って飛ばし過ぎたせいだ。汗が出にくくなってきて、僕は高熱でハイになりかけていた。もし蛇口を見つけたら、生水かどうかも気にせずガブ飲みしただろう。
どうにかホテルの前までたどり着くと、防波堤で僕らをブロックした若者達は消えていたのでホッとした。
「おい、あれを見て」
そう言ってトニーが指で示したのは、僕らが市街地で(ブラック・マーケット)と呼んでいた店と同じ黒いドアだった。僕はゴクリ、と唾を呑み込む真似だけする。なにしろ口の中で舌が貼り付いてしまうくらい、極度の水不足なのだから仕方ない。
なにしろガラス戸を黒くして看板も出していないし、地元の人間さえコッソリ出入りしているようだ。ここならコーラだって手に入るだろうが、安全という保障はないだけに賭けだった。覚悟を決めて店の入口に立つと、思い詰めたような僕らの横を地元の人間が怪訝そうにすり抜けてゆく。
ためらいながらも踏み出そうとした時、警棒を握りしめた警官が現れて店内に入った。トニーと僕はドキッとして、思わず顔を見合わせてしまう。だがしかし、警官は何事もなく立ち去って行った。トニーは僕に、
「あっちで待っててくれ、そして万が一の時はホテルに走って逃げるように」
真剣な目をして言うと扉の奥に消えた。しばらくは大人しく待ってみたが、結局しびれを切らした僕も突入する。ドアを開けるまでは勇気が要ったものの、そこから先は肝が据わった。ただ、客も店員もジロジロ見るので居心地が悪い。入口の右に商品台とレジがあり、左の壁づたいに狭い通路が続く。トニーはその奥にいた。
「大丈夫?」
僕はヒソヒソ声で話しかける。予想通り、ここは食料雑貨を扱う店だった。何も起こらないうちに、早くコーラを買って立ち去ろうぜ。だけど、どうやって買えば良いのかが判らなかった。レジ上のボードに書かれた一覧が、商品と価格の相場らしい事は見当がつく。トニーが判読できないのだから、僕には尚更ちんぷんかんぷんだ。他の人の様子を見ていても、買い方の仕組みは想像もつかない。
「混んでるから表にいて。まとめて買うよ」
僕は黒い扉を押し開けて出た。すると視界の隅に走る人影が…!?
この町で走っている人間なんて一度も見たことがないだけに、その動きは不自然に思えた。まして、僕が怪しげな店から出てきた瞬間の事だ。消えた影を無防備に追って、公園の角で鉢合わせしそうになってしまった。
防具を着用した長身の男だが、しかしよく見れば着てるのはトレーナー…。そのまま足元に視線を下ろして目を疑った。
インライン・スケート!
この青年は大学のホッキー・チームに所属しているのだそうで、カナダ製の最新モデルを身につけていた。キューバの大学生は、アメリカ・カナダの学生と何ら変わらなかった。というか、むしろ僕のイメージする北米の若者より品があるかも知れない。
彼もまた、イダルミ&アイザックと同様に滑らかな英語を話し、身のこなしには洗練された雰囲気が感じられた。
大型のトレーラー・ヘッドが黒煙を吹き上げ、開け放った窓にスシ詰めの乗客を隠す。さすがにぶら下がっている人はいないけれど、窓の中は非人間的な密度だ。客車内の熱気で、窓が曇っている。
イダルミもアイザックも、これに耐えて来てくれたのだ。そして帰りも…。
また一台、ものすごい騒音と黒煙を立ててグズグズと走り出した。僕らは逃げ出すようにUターンして、通りの果てに見えるハバナ湾へ。道路は傾斜していないのに、すうっとこのまま海に転がり落ちそうな錯覚を覚えた。(元々は、港町なんだな)と思う。
陽差しは出たり引っ込んだりで、また曇ってきた。空一面、薄いベールに包まれている。
海岸沿いのマレコン通りを、ローラー・ブレードで走る。喉が渇いたのに、売店どころか自動販売機すら見つけられなかった。ホテルに戻る途中に、1箇所ぐらいは見つかるだろうという予想は甘かった。
2人は海側の歩道を走っていた。波に洗われて濡れた所もあるけれど、舗装がコーティングされているし幅も広い。気持ちが良くてスピードが上がる。反対側の歩道を見ると、まるで寂びれた廃墟と合わせたように舗装もガタガタだった。冷たいコーラなど期待できそうにない。
長いカーブを抜けると、ホテルの高い頭が突き出て見えた。思ってたよりも近そうで、そう思ったら余計に喉が渇いてきた。ふいに道路が上り坂になり、ずっと走りっぱなしなので足の筋肉がガクガクしている。普段から運動している訳でもないのに、調子に乗って飛ばし過ぎたせいだ。汗が出にくくなってきて、僕は高熱でハイになりかけていた。もし蛇口を見つけたら、生水かどうかも気にせずガブ飲みしただろう。
どうにかホテルの前までたどり着くと、防波堤で僕らをブロックした若者達は消えていたのでホッとした。
「おい、あれを見て」
そう言ってトニーが指で示したのは、僕らが市街地で(ブラック・マーケット)と呼んでいた店と同じ黒いドアだった。僕はゴクリ、と唾を呑み込む真似だけする。なにしろ口の中で舌が貼り付いてしまうくらい、極度の水不足なのだから仕方ない。
なにしろガラス戸を黒くして看板も出していないし、地元の人間さえコッソリ出入りしているようだ。ここならコーラだって手に入るだろうが、安全という保障はないだけに賭けだった。覚悟を決めて店の入口に立つと、思い詰めたような僕らの横を地元の人間が怪訝そうにすり抜けてゆく。
ためらいながらも踏み出そうとした時、警棒を握りしめた警官が現れて店内に入った。トニーと僕はドキッとして、思わず顔を見合わせてしまう。だがしかし、警官は何事もなく立ち去って行った。トニーは僕に、
「あっちで待っててくれ、そして万が一の時はホテルに走って逃げるように」
真剣な目をして言うと扉の奥に消えた。しばらくは大人しく待ってみたが、結局しびれを切らした僕も突入する。ドアを開けるまでは勇気が要ったものの、そこから先は肝が据わった。ただ、客も店員もジロジロ見るので居心地が悪い。入口の右に商品台とレジがあり、左の壁づたいに狭い通路が続く。トニーはその奥にいた。
「大丈夫?」
僕はヒソヒソ声で話しかける。予想通り、ここは食料雑貨を扱う店だった。何も起こらないうちに、早くコーラを買って立ち去ろうぜ。だけど、どうやって買えば良いのかが判らなかった。レジ上のボードに書かれた一覧が、商品と価格の相場らしい事は見当がつく。トニーが判読できないのだから、僕には尚更ちんぷんかんぷんだ。他の人の様子を見ていても、買い方の仕組みは想像もつかない。
「混んでるから表にいて。まとめて買うよ」
僕は黒い扉を押し開けて出た。すると視界の隅に走る人影が…!?
この町で走っている人間なんて一度も見たことがないだけに、その動きは不自然に思えた。まして、僕が怪しげな店から出てきた瞬間の事だ。消えた影を無防備に追って、公園の角で鉢合わせしそうになってしまった。
防具を着用した長身の男だが、しかしよく見れば着てるのはトレーナー…。そのまま足元に視線を下ろして目を疑った。
インライン・スケート!
この青年は大学のホッキー・チームに所属しているのだそうで、カナダ製の最新モデルを身につけていた。キューバの大学生は、アメリカ・カナダの学生と何ら変わらなかった。というか、むしろ僕のイメージする北米の若者より品があるかも知れない。
彼もまた、イダルミ&アイザックと同様に滑らかな英語を話し、身のこなしには洗練された雰囲気が感じられた。
メキシコ旅情【ハバナ!前編・14 看板のないレストラン】
シャワーを浴びた後、ホテルの便せんで手紙を書く。
ついでにアイザックのくれたカードを自分宛に送ろうと思いついたが、フロントで「日本には送れない」と断られた。詰まらなそうに働いている姉ちゃんだから、ひょっとしたら面倒で適当にあしらってるのでは…と思ったけれど、やっぱり駄目なものはダメらしかった。何しろ国交が無いからなぁー、でも国際郵便法はどうなってるんだ?
最初は仏頂面だった従業員が(送ってあげたいのは山々なんだけどねェー)という表情で、お手上げポーズを作ってみせる。彼女につられて僕もニコッとして、仕方がないと肩をすくめた。それなら明日、メキシコに帰ってすぐに出せばいいか。海外郵便は、メキシコからでも1,2週間はかかる。だから僕はこちらの自分が出したカードを、日本に帰国して数日後に受け取る事が出来る訳だ。
まるで一人キャッチボールをするみたい。これを受け取る未来の僕は、今この瞬間に感じるすべてを(書かれた出来事)として読むのだろうな。
たかが1カ月前までの(記憶のなかの日本)が、目を凝らすほど遠く色褪せている。ほとんど地球の裏側で、まったく違った時間を生きているのだ。こうしてカリブ海を見下ろしていると、東京のリアルさをまったく思い出せない。
部屋に戻ると、だしぬけにトニーが「キューバで一番のディスコに行く」と言い出した。あいにく僕はTシャツに短パンしかないけど、観光客なんだから行けば追い返しはしないと彼は楽観的観測。確かに、昨夜のカサ・デ・ラ・ムジカも大丈夫だったしなぁ(ただ他は全員、長袖長ズボンだったけど)。
白タクを拾って乗り込むと、今回の運転手は感じの良い初老の男性。念願のアメ車ではあるけれど、とりあえず50年代といった程度。外国で日本車というのに比べれば、雰囲気があってよろしい。
まずは夕飯を、運ちゃんオススメのレストランに案内してもらう。尋ねられた初老ドライバーは何やらメモを読み込んで、閑静な住宅街まで車を走らせた。割と裕福そうな一戸建てが並ぶ、真っ暗な区画のド真ん中。運ちゃんは紙切れを見直して頷くと、僕らを促して先を歩く。そしてなぜか、灯りの消えた一軒の民家へ…。
トニーと僕は目線で(どうするどうする?!)とやり合いながら、運ちゃんの後に付いて階段を上がった。呼び鈴を立て続けに鳴らし、静まり返った家々に響き渡る。運ちゃんは何か勘違いしちまったに違いない、うろたえたトニーは運ちゃんを引き止め僕は階下で逃げの構え…。
やがて窓が明るくなり、中年の女性がドアを開けた。トニーが平身低頭で謝ろうとするのを運ちゃんが押し止め、低い声で家人と何やら話し合っている。奥さんは家じゅうの人間を集めている様子で、ドアの向こうでドタバタと走り回る人の気配があった。僕は階段上のトニーを見つめ、緊急事態のシュミレーションを何通りも組み立て直す。
運ちゃんは階段を下りてきて、僕に(上に行きな)という仕草をした。ちょうど玄関先に出てきた奥さんが、にわか作りの笑顔でトニーを招き入れようとしている。どうしたものか戸惑っていると、僕に気が付いた彼女がにこやかに階段を下りてきた。促されるまま警戒心を隠して入口に立つと、トニーの背中越しに見た内装は完全にレストランそのものだった。しかもドア脇には、しっかりレジまで備え付けられている!
外目には洒落た一般住宅なのに、これは一体どういうコト?
振り返って後ろを見ると、階下の奥さんが素早く運ちゃんに何か手渡して駆け上がってくる所だった。なーるほど、ようやく合点がいった。別に彼が知り合いの家で飯を食わしてくれる訳じゃなくて、いわば非合法のレストランなのね…。多分ここは営業許可を持ってなくて、客を紹介してくれる白タクの運ちゃんにバックマージンを出しているのだ。そう考えれば、彼らがコソコソやっていたのも説明がつく。
持ちつ持たれつ、こうしてみんな外貨収入を得ているのだろう。なかなか、たくましいなぁ。僕は(一般市民の裏事情)をかいま見たのだと思うと、ちょっと得した気分になった。
でも当局に〈違法営業行為〉で踏み込まれたら、僕らも危険な立場かも? いや万が一そうなっても、こっちに害が及ぶ心配はないな。あのブラック・マーケットの警官からして、おそらく(誰に外貨が落ちるか)よりも全体として潤っていれば問題ないのだろう…そんな計算が一瞬のうちにまとまった。
僕の観察眼が確かなら、運ちゃんは決して悪人ではない。道中の、トニーとのやり取りから判断する限りでは。食事が終わるまで車の中で待っている、彼はそう言っていた。
僕らを迎え入れたシェフと若いコックは、どう見てもこの家の住人に思える。慌てて支度をしたのを隠そうとしているのか、はつらつとした笑顔は良いけど荒い鼻息で肩を上下させているのが気色悪い。そんなに気張らないでくれ、まるでこっちが食い物にされそうな勢いだぜ。
観光客を相手にするには不向きな立地条件とはいえ、充分に雰囲気のある店だ。今さら他を捜す気にもならないし、この(看板のないレストラン)で食事をするのも一興じゃないか。家庭料理で庶民の味を知るなんて、滅多にない機会だ。
看板のないレストラン・補足(後知恵)
ついでにアイザックのくれたカードを自分宛に送ろうと思いついたが、フロントで「日本には送れない」と断られた。詰まらなそうに働いている姉ちゃんだから、ひょっとしたら面倒で適当にあしらってるのでは…と思ったけれど、やっぱり駄目なものはダメらしかった。何しろ国交が無いからなぁー、でも国際郵便法はどうなってるんだ?
最初は仏頂面だった従業員が(送ってあげたいのは山々なんだけどねェー)という表情で、お手上げポーズを作ってみせる。彼女につられて僕もニコッとして、仕方がないと肩をすくめた。それなら明日、メキシコに帰ってすぐに出せばいいか。海外郵便は、メキシコからでも1,2週間はかかる。だから僕はこちらの自分が出したカードを、日本に帰国して数日後に受け取る事が出来る訳だ。
まるで一人キャッチボールをするみたい。これを受け取る未来の僕は、今この瞬間に感じるすべてを(書かれた出来事)として読むのだろうな。
たかが1カ月前までの(記憶のなかの日本)が、目を凝らすほど遠く色褪せている。ほとんど地球の裏側で、まったく違った時間を生きているのだ。こうしてカリブ海を見下ろしていると、東京のリアルさをまったく思い出せない。
部屋に戻ると、だしぬけにトニーが「キューバで一番のディスコに行く」と言い出した。あいにく僕はTシャツに短パンしかないけど、観光客なんだから行けば追い返しはしないと彼は楽観的観測。確かに、昨夜のカサ・デ・ラ・ムジカも大丈夫だったしなぁ(ただ他は全員、長袖長ズボンだったけど)。
白タクを拾って乗り込むと、今回の運転手は感じの良い初老の男性。念願のアメ車ではあるけれど、とりあえず50年代といった程度。外国で日本車というのに比べれば、雰囲気があってよろしい。
まずは夕飯を、運ちゃんオススメのレストランに案内してもらう。尋ねられた初老ドライバーは何やらメモを読み込んで、閑静な住宅街まで車を走らせた。割と裕福そうな一戸建てが並ぶ、真っ暗な区画のド真ん中。運ちゃんは紙切れを見直して頷くと、僕らを促して先を歩く。そしてなぜか、灯りの消えた一軒の民家へ…。
トニーと僕は目線で(どうするどうする?!)とやり合いながら、運ちゃんの後に付いて階段を上がった。呼び鈴を立て続けに鳴らし、静まり返った家々に響き渡る。運ちゃんは何か勘違いしちまったに違いない、うろたえたトニーは運ちゃんを引き止め僕は階下で逃げの構え…。
やがて窓が明るくなり、中年の女性がドアを開けた。トニーが平身低頭で謝ろうとするのを運ちゃんが押し止め、低い声で家人と何やら話し合っている。奥さんは家じゅうの人間を集めている様子で、ドアの向こうでドタバタと走り回る人の気配があった。僕は階段上のトニーを見つめ、緊急事態のシュミレーションを何通りも組み立て直す。
運ちゃんは階段を下りてきて、僕に(上に行きな)という仕草をした。ちょうど玄関先に出てきた奥さんが、にわか作りの笑顔でトニーを招き入れようとしている。どうしたものか戸惑っていると、僕に気が付いた彼女がにこやかに階段を下りてきた。促されるまま警戒心を隠して入口に立つと、トニーの背中越しに見た内装は完全にレストランそのものだった。しかもドア脇には、しっかりレジまで備え付けられている!
外目には洒落た一般住宅なのに、これは一体どういうコト?
振り返って後ろを見ると、階下の奥さんが素早く運ちゃんに何か手渡して駆け上がってくる所だった。なーるほど、ようやく合点がいった。別に彼が知り合いの家で飯を食わしてくれる訳じゃなくて、いわば非合法のレストランなのね…。多分ここは営業許可を持ってなくて、客を紹介してくれる白タクの運ちゃんにバックマージンを出しているのだ。そう考えれば、彼らがコソコソやっていたのも説明がつく。
持ちつ持たれつ、こうしてみんな外貨収入を得ているのだろう。なかなか、たくましいなぁ。僕は(一般市民の裏事情)をかいま見たのだと思うと、ちょっと得した気分になった。
でも当局に〈違法営業行為〉で踏み込まれたら、僕らも危険な立場かも? いや万が一そうなっても、こっちに害が及ぶ心配はないな。あのブラック・マーケットの警官からして、おそらく(誰に外貨が落ちるか)よりも全体として潤っていれば問題ないのだろう…そんな計算が一瞬のうちにまとまった。
僕の観察眼が確かなら、運ちゃんは決して悪人ではない。道中の、トニーとのやり取りから判断する限りでは。食事が終わるまで車の中で待っている、彼はそう言っていた。
僕らを迎え入れたシェフと若いコックは、どう見てもこの家の住人に思える。慌てて支度をしたのを隠そうとしているのか、はつらつとした笑顔は良いけど荒い鼻息で肩を上下させているのが気色悪い。そんなに気張らないでくれ、まるでこっちが食い物にされそうな勢いだぜ。
観光客を相手にするには不向きな立地条件とはいえ、充分に雰囲気のある店だ。今さら他を捜す気にもならないし、この(看板のないレストラン)で食事をするのも一興じゃないか。家庭料理で庶民の味を知るなんて、滅多にない機会だ。
看板のないレストラン・補足(後知恵)
メキシコ旅情【ハバナ!前編・15 真夜中のオアシス】
玄関を入ると左にレジと観葉樹、右に二階への階段が。その先には左側に厨房が、右のスペースにはテーブル席がしつらえてあった。壁には小さな絵なんかが飾られて、暖かなサンタフェ・カラーで統一されている。
唯一気になったのは、先客のいない静けさだった。僕らの他に一組でもいれば安心していられるのだけど…。そんな不安を消そうとするように、ラジカセから音楽が奏でられ始めた。ゆったりしたラテン・ナンバーだ。家族はそれぞれ支度にかかり、調理場に活気が生まれる。
「どうぞどうぞ、せっかくですから窓際の御席へ」
そんな感じで女主人に勧められ、トニーと僕はバルコニーの席に着いた。手すりの先には緑の茂る庭が夕闇に浮かんで、夏の宵の口の空気を漂わせている。小さな照明と共に、卓上のキャンドルが灯された。テーブル・クロスは、大柄で明るい色のギンガム・チェックだ。鮮やかな布地が映えて食欲を刺激する。
マダムがメニューを持ってきたので、先ずはトニーに渡す。彼は(チョット高いヨ)と言って、僕のほうにメニューを向けた。肉か魚のコースで、値段はほぼ同じく12ドルと14ドル。それぞれサラダとデザート、飲み物は紅茶かコーヒーが付く。
良くも悪くもファミレス並みだね、と僕は日本語でコメントして(出ようか、どうする?)と目線で尋ねた。でも彼は納得したようで、肉のコースを選んだ。僕は魚のコースを選び、ハーフ・ボトルのワインを追加する。マダムが席から下がると、トニーは小さくため息をもらした。
「今や何もかもが、アメリカ並みの値段だヨ。」
いつの間に調べてたんだか、一年前の相場とは比べものにならない物価高になっているそうだ。ホテル前のディスコは、去年は2000円もしなかった入場料が今は7000円近くなっているという。一年前の3倍以上とは!
しかしまぁ、ここで愚痴っぽくなっていても詰まらない。2000円しないコース料理と思えば、しかも落ち着いた内装と良い調べも含む貸し切り状態なのだから安いものだ。ここでの物価がどうだろうと、サービスのグレードはファミレスじゃない。それに気持ちの良い夜だ、草木の深い匂いと虫たちの静かな音色…。このムードで男同士ってのが、実に勿体無い。
ワインが来たので、静かに杯を上げる。サラダはパリッとみずみずしく、メイン・ディッシュもさっぱりしていて美味しい。ワインも肉と魚の両方にあって、味を引き立てている。
「あのさぁ、トニー。考えてみたら、こういうまともな食事はずいぶん久し振りだよ」
食後のコーヒーを飲みながら、僕は自分で言いながら可笑しくなった。カンクンでも、ママの手料理以外はジャンクフードばかりだったのだ。特にこの数日といったら、ろくな食事にすらありついていなかった。ここでキューバの家庭料理が食べられなかったのは残念だったけど、何といっても食べ慣れた味は気楽だ。
「サブロッシモ[非常に美味しかった]!」
帰りがけにそう言うと、女主人はとても嬉しそうな顔をしていた。通じたらしい。本当にそういう表現があるのかどうか知らないが「サブロー[美味しい]」の比較級が「サブローソ」らしいので、勝手に最上級の造語を作らせてもらう。僕はいい気になって、厨房から出てきたシェフと息子にも「サブロッシモ!」を連発する。(ちなみに、正確には「サブロシシモ」という言い方がある)
もしも機会があるのなら再び訪れてみたい店だが、二度と来られない事は判っている。何故なら、ここは(看板のないレストラン)なのだ。
待たせていた車に乗って、いよいよディスコ「コモドロ」へ。
しばらく閑静な住宅街を走ると、刑務所みたいな高いコンクリート塀が見えてきた。ぐるりと正面に回り込むと突然、滑走路の誘導灯みたいに両側から照らされた入口に出た。これまた監獄じみたゲートには制服姿のボーイが立っていて、乗客を確かめるように車内をのぞき込んでくる。なんだか会員制の秘密クラブみたいだ。
しかし門の中は、塀の縁にぼんぼり灯して盆踊り状態。外からは聴こえなかったダンス・ビートで地元の若者達が踊っている。屋外ディスコ、っていうか単にお祭り?
塀の片側に長いスロープがあり、奥に建っている平屋根の公民館っぽい建物に入場待ちの行列が。ドアマンが立っているものの、服装チェックは無し。ドアの向こうは真っ暗で、児童館の肝試しを思い出した。
次のドアが開かれて、ようやくディスコらしくなった。暗い店内に浮かび上がるブラック・ライトとネオンの照明、低音を効かせた音楽は新鮮でも懐かしくもない半端な選曲…。大した事ないじゃんか、ちょっとガッカリしたけど同時に安心もした。なんだか超満員で、ハリウッド映画の酒場みたいな感じもする。
とにかく酒をもらおうと、ギュウギュウのカウンターを押し分けて大声で注文した。なんだ、まさか1杯目から有料かよ!? トニーには黙ってたけど、彼が気が済むまでナンパしている間を酒で潰そうと思ってたのに…。来た早々ゲンナリ、これじゃあ単なるCOD(キャッシュ・オン・デリバリー)の呑み屋じゃん?
男2人でジン・トニックをなめながら、手すりにもたれてダンス・フロアを見下ろす。たわいもない話をしては、野郎共の間を縫うように泳ぎ回る女性たちの品定めに余念が無い僕ら。ただ、僕にはナンパの下調べなんて気はなかった。
どいつもこいつも行き場がないんだなー、自分も含めて…。
真夜中のオアシス・補足(後知恵)
唯一気になったのは、先客のいない静けさだった。僕らの他に一組でもいれば安心していられるのだけど…。そんな不安を消そうとするように、ラジカセから音楽が奏でられ始めた。ゆったりしたラテン・ナンバーだ。家族はそれぞれ支度にかかり、調理場に活気が生まれる。
「どうぞどうぞ、せっかくですから窓際の御席へ」
そんな感じで女主人に勧められ、トニーと僕はバルコニーの席に着いた。手すりの先には緑の茂る庭が夕闇に浮かんで、夏の宵の口の空気を漂わせている。小さな照明と共に、卓上のキャンドルが灯された。テーブル・クロスは、大柄で明るい色のギンガム・チェックだ。鮮やかな布地が映えて食欲を刺激する。
マダムがメニューを持ってきたので、先ずはトニーに渡す。彼は(チョット高いヨ)と言って、僕のほうにメニューを向けた。肉か魚のコースで、値段はほぼ同じく12ドルと14ドル。それぞれサラダとデザート、飲み物は紅茶かコーヒーが付く。
良くも悪くもファミレス並みだね、と僕は日本語でコメントして(出ようか、どうする?)と目線で尋ねた。でも彼は納得したようで、肉のコースを選んだ。僕は魚のコースを選び、ハーフ・ボトルのワインを追加する。マダムが席から下がると、トニーは小さくため息をもらした。
「今や何もかもが、アメリカ並みの値段だヨ。」
いつの間に調べてたんだか、一年前の相場とは比べものにならない物価高になっているそうだ。ホテル前のディスコは、去年は2000円もしなかった入場料が今は7000円近くなっているという。一年前の3倍以上とは!
しかしまぁ、ここで愚痴っぽくなっていても詰まらない。2000円しないコース料理と思えば、しかも落ち着いた内装と良い調べも含む貸し切り状態なのだから安いものだ。ここでの物価がどうだろうと、サービスのグレードはファミレスじゃない。それに気持ちの良い夜だ、草木の深い匂いと虫たちの静かな音色…。このムードで男同士ってのが、実に勿体無い。
ワインが来たので、静かに杯を上げる。サラダはパリッとみずみずしく、メイン・ディッシュもさっぱりしていて美味しい。ワインも肉と魚の両方にあって、味を引き立てている。
「あのさぁ、トニー。考えてみたら、こういうまともな食事はずいぶん久し振りだよ」
食後のコーヒーを飲みながら、僕は自分で言いながら可笑しくなった。カンクンでも、ママの手料理以外はジャンクフードばかりだったのだ。特にこの数日といったら、ろくな食事にすらありついていなかった。ここでキューバの家庭料理が食べられなかったのは残念だったけど、何といっても食べ慣れた味は気楽だ。
「サブロッシモ[非常に美味しかった]!」
帰りがけにそう言うと、女主人はとても嬉しそうな顔をしていた。通じたらしい。本当にそういう表現があるのかどうか知らないが「サブロー[美味しい]」の比較級が「サブローソ」らしいので、勝手に最上級の造語を作らせてもらう。僕はいい気になって、厨房から出てきたシェフと息子にも「サブロッシモ!」を連発する。(ちなみに、正確には「サブロシシモ」という言い方がある)
もしも機会があるのなら再び訪れてみたい店だが、二度と来られない事は判っている。何故なら、ここは(看板のないレストラン)なのだ。
待たせていた車に乗って、いよいよディスコ「コモドロ」へ。
しばらく閑静な住宅街を走ると、刑務所みたいな高いコンクリート塀が見えてきた。ぐるりと正面に回り込むと突然、滑走路の誘導灯みたいに両側から照らされた入口に出た。これまた監獄じみたゲートには制服姿のボーイが立っていて、乗客を確かめるように車内をのぞき込んでくる。なんだか会員制の秘密クラブみたいだ。
しかし門の中は、塀の縁にぼんぼり灯して盆踊り状態。外からは聴こえなかったダンス・ビートで地元の若者達が踊っている。屋外ディスコ、っていうか単にお祭り?
塀の片側に長いスロープがあり、奥に建っている平屋根の公民館っぽい建物に入場待ちの行列が。ドアマンが立っているものの、服装チェックは無し。ドアの向こうは真っ暗で、児童館の肝試しを思い出した。
次のドアが開かれて、ようやくディスコらしくなった。暗い店内に浮かび上がるブラック・ライトとネオンの照明、低音を効かせた音楽は新鮮でも懐かしくもない半端な選曲…。大した事ないじゃんか、ちょっとガッカリしたけど同時に安心もした。なんだか超満員で、ハリウッド映画の酒場みたいな感じもする。
とにかく酒をもらおうと、ギュウギュウのカウンターを押し分けて大声で注文した。なんだ、まさか1杯目から有料かよ!? トニーには黙ってたけど、彼が気が済むまでナンパしている間を酒で潰そうと思ってたのに…。来た早々ゲンナリ、これじゃあ単なるCOD(キャッシュ・オン・デリバリー)の呑み屋じゃん?
男2人でジン・トニックをなめながら、手すりにもたれてダンス・フロアを見下ろす。たわいもない話をしては、野郎共の間を縫うように泳ぎ回る女性たちの品定めに余念が無い僕ら。ただ、僕にはナンパの下調べなんて気はなかった。
どいつもこいつも行き場がないんだなー、自分も含めて…。
真夜中のオアシス・補足(後知恵)
メキシコ旅情【ハバナ!前編・16 ディスコ・インフェルノ…?】
僕らは最初の一杯でずいぶん粘っていた。トニーは、まだ腰を上げそうになかった。
エスコートなしに、1人でディスコに来る女性はいない。というのは建前で、男性客が連れてくる女性達の同業者がうようよしてる。要は相手を入店前に決めてくるか、ディスコで口説く体裁にするかの違いだ。
出入りする客は男性全員が白人観光客、女性達もまたカモを狙って集まって来る。だからイイ女なほど、例外なく一番年老いた男性を選ぶ。ここでは、年配であればあるほどモテる。小気味よいくらい、目的がハッキリしてるのがいい。
眼下のダンス・フロアで、最高の美女が最高齢の白人に寄り添っている。二番の女は、次に老けた男…その組み合わせからいけば、男女の比率からして僕らには何も回ってこない筈だ。
ところが、こんな唐変木にもチャンスはあったのだ。背中越しに吐息を吹き掛けられ、気取って振り返ると厚化粧の梅垣…っぽい女性が2人!! 僕は言葉が分からないのを良い事にトニー任せ、彼もへどもどと断った。
何やら妖艶な捨て台詞を残して去る人の渦に、イイ女が小金持ちにすり寄ってゆく姿が過ぎる。そんな格差をため息まじりに眺め、ずいぶん経った頃に再びカラスが舞い降りる。ピタリと寄り添う、この強い香水の匂い…。
また出ました、先程の腰を抜かしそうな2人組。その口元に浮かんだ不敵な笑み、まるで(そろそろ観念したらどうなの?)って感じで全身鳥肌状態。もとから僕には、女を買うために使う金なんて無いのだ。さすがのトニーも、彼女達にお願いする気がないのは分かっていた。
深夜、ホテルに戻る。しかしロビーは宿泊客が行き交い、とても真夜中とは思えない雰囲気。みんな夜更かしして遊んでいるんだな。
エレベーターに乗り合わせた宿泊客が、降りる間際に何かつぶやいてゆく。後に残った人々も一様に、ボソッと何か言い返す。昨夜、この不思議な状況に僕らは首をひねったのだった。
おおよそ察しはつくのだけれど、小声で早口だからまったく聞き取れない。今朝、イダルミから「アスタ・ルエゴ」だと教わった。それでも僕らには舌がもつれて「ムニャムニャ」と言葉を濁すばかりだった。
その意味は日本語では[また後ほど]だから妙な気もする、それに素人耳には「ハロー」にしか聞こえないのだから物凄い早口だ。
カンクンの場合、たとえば「パードレ[お父さん]」が「クール[カッコ良い]」を意味するスラングとして若者に使われていた。エドベンの家族を見る限りではママが一家を牛耳っていたから、もしパパが知ったら喜んだろう。
キューバには「クール」に相当する言葉は存在しないらしく、イダルミ達に「パードレ」と言っても通じなかった。
喉が渇いたが、彼は「水道の水はやめとけ」と忠告してくれた。一流ホテルとはいえ、アイス・ルームにミネラル・ウォーターもあるだろうという。そんな部屋があるなんて、初めて知った。各室のスモール・バー用に、氷や水を補充する場所があるのだという。
「このフロアになければ、上か下の階に行けばある筈だ」
早くも寝る態勢のトニーに言われ、僕は1人で部屋を出た。廊下にあるフロア見取り図には、それらしき小部屋は見当たらない。ということは、上か下の階だな。エレベーターを待つまでもなく階段を使おう、だが夜中の非常階段って不気味…。小さな虫のように、遠くから冷たいノイズが押し寄せる。打ち放しコンクリート独特の湿気、異界の空気だ。やっぱエレベーターにしよう、先客があってホッとした。
アイス・ルームは、オフィス・ビルの給湯室に似ていた。大きな製氷機のスイッチを入れると、ゴンゴリンと耳障りな音を立てて氷が落ちてくる。それはまるで、ハンド・スピーカーの前でうがいしているような音だった。近くの部屋の人を起こしてしまいそうで、ちょっと気が咎める。アイス・ペールを手に提げて、上に行くエレベーターに乗った。下りる時よりも先客が増えていて、夜遊び同士の親近感みたいな空気があった。降り際に早口で「ハロー」と言ってみたら、背後の空気が固まっていた…。
トニーはディスコ「コモドロ」で落ち込んでしまい、僕が戻るともう寝てた。
1年で様変わりしたハバナには、彼の期待してたロマンスの欠片もなかったのだ。それを目の当たりにすれば、気を落とすのも無理からぬ事だと思う。
僕は逆に、気分転換に一人で踊っているうちゴキゲンさんになってしまった。
見とれるほどの美女が、足取りもおぼつかない爺さんをエスコートしてる。首から(アメリカの片田舎から、フルムーン旅行のついでに青春を取り戻してます)と大書きした札を下げているような、厚顔無恥な小市民。でも、同時に(様々な苦難を乗り越えて余生に至った、名も無き庶民)のささやかな幸せを祝いたいような気持ちにもなったのだ。
誰もが、他人の視線など気にせずに充足している。そして誰の事も気にしてはいない。フロアに降りても気分だけ味わって引き上げてしまう老人に、セクシーな現地女性が手を添えながら優しく付き従う…こんな世界も在って良いのだ。だけど何というユーモアのセンスだ! バカバカしくって笑える。
「ディスコ・インフェルノ…?(後知恵)」
エスコートなしに、1人でディスコに来る女性はいない。というのは建前で、男性客が連れてくる女性達の同業者がうようよしてる。要は相手を入店前に決めてくるか、ディスコで口説く体裁にするかの違いだ。
出入りする客は男性全員が白人観光客、女性達もまたカモを狙って集まって来る。だからイイ女なほど、例外なく一番年老いた男性を選ぶ。ここでは、年配であればあるほどモテる。小気味よいくらい、目的がハッキリしてるのがいい。
眼下のダンス・フロアで、最高の美女が最高齢の白人に寄り添っている。二番の女は、次に老けた男…その組み合わせからいけば、男女の比率からして僕らには何も回ってこない筈だ。
ところが、こんな唐変木にもチャンスはあったのだ。背中越しに吐息を吹き掛けられ、気取って振り返ると厚化粧の梅垣…っぽい女性が2人!! 僕は言葉が分からないのを良い事にトニー任せ、彼もへどもどと断った。
何やら妖艶な捨て台詞を残して去る人の渦に、イイ女が小金持ちにすり寄ってゆく姿が過ぎる。そんな格差をため息まじりに眺め、ずいぶん経った頃に再びカラスが舞い降りる。ピタリと寄り添う、この強い香水の匂い…。
また出ました、先程の腰を抜かしそうな2人組。その口元に浮かんだ不敵な笑み、まるで(そろそろ観念したらどうなの?)って感じで全身鳥肌状態。もとから僕には、女を買うために使う金なんて無いのだ。さすがのトニーも、彼女達にお願いする気がないのは分かっていた。
深夜、ホテルに戻る。しかしロビーは宿泊客が行き交い、とても真夜中とは思えない雰囲気。みんな夜更かしして遊んでいるんだな。
エレベーターに乗り合わせた宿泊客が、降りる間際に何かつぶやいてゆく。後に残った人々も一様に、ボソッと何か言い返す。昨夜、この不思議な状況に僕らは首をひねったのだった。
おおよそ察しはつくのだけれど、小声で早口だからまったく聞き取れない。今朝、イダルミから「アスタ・ルエゴ」だと教わった。それでも僕らには舌がもつれて「ムニャムニャ」と言葉を濁すばかりだった。
その意味は日本語では[また後ほど]だから妙な気もする、それに素人耳には「ハロー」にしか聞こえないのだから物凄い早口だ。
カンクンの場合、たとえば「パードレ[お父さん]」が「クール[カッコ良い]」を意味するスラングとして若者に使われていた。エドベンの家族を見る限りではママが一家を牛耳っていたから、もしパパが知ったら喜んだろう。
キューバには「クール」に相当する言葉は存在しないらしく、イダルミ達に「パードレ」と言っても通じなかった。
喉が渇いたが、彼は「水道の水はやめとけ」と忠告してくれた。一流ホテルとはいえ、アイス・ルームにミネラル・ウォーターもあるだろうという。そんな部屋があるなんて、初めて知った。各室のスモール・バー用に、氷や水を補充する場所があるのだという。
「このフロアになければ、上か下の階に行けばある筈だ」
早くも寝る態勢のトニーに言われ、僕は1人で部屋を出た。廊下にあるフロア見取り図には、それらしき小部屋は見当たらない。ということは、上か下の階だな。エレベーターを待つまでもなく階段を使おう、だが夜中の非常階段って不気味…。小さな虫のように、遠くから冷たいノイズが押し寄せる。打ち放しコンクリート独特の湿気、異界の空気だ。やっぱエレベーターにしよう、先客があってホッとした。
アイス・ルームは、オフィス・ビルの給湯室に似ていた。大きな製氷機のスイッチを入れると、ゴンゴリンと耳障りな音を立てて氷が落ちてくる。それはまるで、ハンド・スピーカーの前でうがいしているような音だった。近くの部屋の人を起こしてしまいそうで、ちょっと気が咎める。アイス・ペールを手に提げて、上に行くエレベーターに乗った。下りる時よりも先客が増えていて、夜遊び同士の親近感みたいな空気があった。降り際に早口で「ハロー」と言ってみたら、背後の空気が固まっていた…。
トニーはディスコ「コモドロ」で落ち込んでしまい、僕が戻るともう寝てた。
1年で様変わりしたハバナには、彼の期待してたロマンスの欠片もなかったのだ。それを目の当たりにすれば、気を落とすのも無理からぬ事だと思う。
僕は逆に、気分転換に一人で踊っているうちゴキゲンさんになってしまった。
見とれるほどの美女が、足取りもおぼつかない爺さんをエスコートしてる。首から(アメリカの片田舎から、フルムーン旅行のついでに青春を取り戻してます)と大書きした札を下げているような、厚顔無恥な小市民。でも、同時に(様々な苦難を乗り越えて余生に至った、名も無き庶民)のささやかな幸せを祝いたいような気持ちにもなったのだ。
誰もが、他人の視線など気にせずに充足している。そして誰の事も気にしてはいない。フロアに降りても気分だけ味わって引き上げてしまう老人に、セクシーな現地女性が手を添えながら優しく付き従う…こんな世界も在って良いのだ。だけど何というユーモアのセンスだ! バカバカしくって笑える。
「ディスコ・インフェルノ…?(後知恵)」