出発の時が来た。
そして僕らは寝過ごし、飛行機を逃した…!
今になって思えば、カンクンとハバナの間に時差があったのかもしれない。あるいは、サマータイム絡みとかで1時間ズレてたんだろう。とにかく僕らが大慌てで空港に駆け込んだ時、僕らの腕時計は10時15分前を差していた。
「よしっ、ギリギリセーフ!」
僕らは見合って笑うとロビーを横切り、駅の改札みたいな出国ゲートに急いだ。しかし突然、トニーは青ざめた顔で立ち止まった。
「乗れないって…」
10時の便は、すでに飛び立った後だというのだ。飛行機がフライング? 冗談キツイぜ! 番狂わせもいいところだ、出国審査の係員が間違えているに決まってる。じゃなけりゃあ嘘をついて、セコイ手数料でも巻き上げようって魂胆だろうさ。
頭に血が上って強行突破しようとして、僕はトニーに力ずくで押さえ込まれた。
「事態を余計にややこしくするな」
粘り強く説得を試みる彼と腕時計を見比べ、5分、4分、3分…。僕は極度のストレスで吐きそうだった、もはや土壇場の奇跡を祈るしかない。
僕の頭の中から、飛行機が離陸して行った…時間切れだ。
そして僕はカンクンに帰れないどころか、日本にさえも帰れなくなってしまったのだと思った。日本へ帰るのは明後日の便だ、おそらく間に合わないだろう。FIXチケットだから変更できないし、もし何とかなるとしても僕に差額を払うほどの余裕はなかった。
「どうしてくれるんだ、トニー!」
こんな相手と交渉しても無駄だったんだ、強引な手を使ってでも乗り込むべきだったんだ…! こちらの落胆ぶりに、係官は初めて気の毒そうな表情をみせて言った。
「次の便は満席だけど、おまえ達が可哀想だから何とか都合して乗せてやる」
それを聞いて一気に怒りと絶望が吹き飛び、今では〈地獄に仏〉という気分だった。
「助かったぁ〜、それで何時の出発だい?」
大喜びでトニーに訊くと、浮かない顔で「彼は『明朝の便に乗せてやる』って」と答えた。そんな、一日一便かよ…。今夜はどうすりゃ良いのさ、でも帰れるんだから文句は言えないか。
急に元気を取り戻した僕に、トニーは冴えない表情のまま日本語で耳打ちしてきた。
(何かおかしい。彼の言ってるヒコーキの値段、スゴーイ高いョ)
なるほど、やっぱこいつは悪徳係官って訳だ。もう一歩で危うく引っ掛かるところだったが、こうなったら責任者にねじ込もうぜ。
「ダメだ、証拠ないョ。それより、すぐに行こう。」
トニーはそう言って、チケットは必ず買えると断言した。次の便が本当に売り切れていたら、彼なんかに都合をつけられる筈がないのだ。
僕らは彼に目もくれず、足早に立ち去った。
再び、タクシーでハバナに逆戻りする。空港周辺には、ホテルどころか民家もないのだ。この道を2日前に通った時、まさか同じ眺めをもう一度見るとは思いもしなかった。さすがに今は何も目に入らない。
明朝の便は押さることが出来たし、後は今日をいかにして乗り切るかだった。単純な話だ、でも冷静に考えるのは難しかった。トニーの言うとおり、確かに明後日の帰国便には間に合うだろう。だけどまた乗り損ねたり、係官の妨害や欠航などでカンクンに帰れなかったら僕は…? 延々と、良くない思考が渦を巻く。
漠然とした不安+余計な出費が、重なりあって心にのしかかる。明日を逃したら今度こそ成田行きのチケットは紙切れ同然で、そうなったら買い直すなんて無理だ。いや、それどころかキューバに来るためトニーに借金した分ですでに赤字じゃん。
少しは帰国後の生活費が残る予定だったのが、すべてキューバに来たせいで計算が狂ってしまった。
僕は(トニーに押し切られて来てしまった自分)を責めた。相手の意見を尊重したつもりでも、最後は僕自身の責任なのだ。結局は己の問題だ、理屈では分かっていてもトニーへの苛立ちを抑え切れない。へそを曲げてどうなるものでもないが、僕はムッとしたまま沈黙していた。
ともかく街にUターンして、タクシーで宿を探す。
ハバナに向かう車中、トニーはガイドブックの安宿をくまなくチェックしていた。良さそうな所から総当りでいけば、平日だから空き部屋が見つかると彼は言った。僕は、わざと投げやりな言葉を返す。あからさまな態度に(我ながら情けない)と思うけれど、むしろ元気が残っていたら怒鳴り散らしていたろう。
市街に入り、トニーは安宿に車を止めてフロントに向かう。言われるがままに同行したものの、スペイン語で交渉しているのに僕が立ち会うのは無意味だった。この旅行は彼に頼まれたから来たのだし、僕は一切の決定に従ってきた。落ち度はトニーのほうにあるのだから、彼が宿と食事をフォローするのは当然だと思っていた。
フロントが「満室です」と言ってゆずらないのに、トニーは粘り強く事情を説明している。彼のそういうやり方も、端で見ていると焦れったい。日本に限らず、まともなホテルは飛び込みの客を嫌うのだ。満室と言われたら、それがその宿の方針なのだから諦めるしかなかった。次の候補へと車を走らせる。
「ここで待ってるよ、僕が行っても意味がない。それに、退屈で疲れる」
僕はそう言って後部座席のシートにもたれかかり、しばらくして2軒目も無駄足に終わった事を知った。3軒目も4軒目も同じ結果で、すっかりトニーは汗まみれだった。僕は(せめて当日アポでも電話の一本でも入れれば違うだろうに…)と思いながらも、涼しい車内で目を閉じていた。彼のやることに口出しする気はないし、僕のミスではない。
僕は、自分の態度を客観的に想像してみる。嫌な奴かもしれない、と思った。
2006年09月15日
メキシコ旅情【ハバナ!後編・2 女神の居所】
タクシーは、ハバナ中のホテルをしらみつぶしに回る羽目になった。遂にガイドブックもお手上げ状態で、トニーは疲れきって髪まで汗だくだった。さすがに僕も申し訳ない気持ちになる。
運ちゃんが「知ってる宿を紹介しようか」と提案してくれた。40代くらいのオジサンで、初めのうちは(面倒な客を拾っちゃったな)という面持ちだったが、今は事情を知って同情してくれていた。3枚の紙片に手書きの住所があり、それは予想どおり個人営業の宿だった。
最初の所は、どうやら住人が替わってしまったらしい。次は「満室」と言って断られれ、頼みの綱はあと1軒…。僕も祈るような、すがるような思いになってきた。運ちゃんはゆっくり車を走らせながら、家々の番地を確かめていく。
「あのビルだよ。正面からエレベーターで上がりな」
自分でドアを開け、僕も車外に出た。湿度の高い熱気に、軽いめまいを覚える。荷物をトランクに入れたまま離れるのが心配だったものの、僕がドアを閉める時に「幸運を祈る」と言う運ちゃんの声を聞いた気がして(この人は信じて大丈夫だ)と思った。そして、今度こそ宿が決まりそうな感じがした。
建物の廊下はひんやりと薄暗く、人の住んでいる気配が感じられない。突き当たりに僕らを待ち構えるような人影があって、身が引き締まる思いで近付いて行くとビーナス像だった。人だと勘違いして声を掛けてしまったが、まさか女神像だとは!
円形のエントランス・ホールは吹き抜けになっていて、像の向こう正面には階段が、左右にいくつかの扉が円形に沿って並んでいた。まるで「不思議の国のアリス」だ、トニーにそう言うと彼も同意して笑った。
エレベーターは、右の奥にある共同便所みたいなボロい木の扉がそれらしい。粗末な引き戸の上にランプが点灯していて、横のボタンを押すと板越しに何かがゴトンゴトンと音を立てて下りてきた。あまりにシュールだ、気味の悪い夢を見ているような。チーン! そして静寂…。
「ドアを開けて」と、トニー。
「えっ?」
「これは手動なんだよ、きっと」
木戸に手を掛け、ゴロリと横に引く。電話ボックス程度の個室に、木製のスツールが1脚。
「ねぇコレ、各階共用の電話室なんじゃないの?」
ビビッてる僕に軽く舌を鳴らし、彼に「いいから、早く乗りなよ」と急かされる。体重の重みで大きく揺れて、後からトニーが乗り込んでくると体の向きを変えるのもままならない。この狭さと不安定感! ゴロゴロと戸を閉めて5階を押すと、小さな箱は嫌々そうに「ゴットン、ゴットン」と上昇を開始した。
胸の中にマイルス・デイビスの「死刑台のエレベーター」が聞こえ、僕は本気で(落ちないでくれよ〜!)と祈った。
「…この椅子さぁ、何のためにあるんだろうねぇ」
「さぁ。疲れたら座るんじゃないの」
エレベーターは(動力源も手動ではなかろうか)という位、のんびりと揺れながら5階に辿り着いた。引き戸を開け、中央の吹き抜けから石の手すり越しにのぞいた下に恐ろしく小さく女神像が見えて毛穴が開く。その吹き抜けを取り巻いて、いくつもの部屋があった。外見から想像した以上に、建物内部は広く高い。トニーは紙切れを頼りに部屋番号を確認し、僕を振り返ると怒ったように叫んだ。
「何やってるんだ、こっちに来てノックするんだ!」
そうカリカリすんなよ、そんな事は自分ですればいいのに。大人気ないぜ、トニー。でもここは素直に従おう。
「オーラァ、ブエノス・ディアースッ!」
ふざけた声を張り上げてドアを叩くと、出て来たのは愛想の良い女主人だった。なかなか艶っぽい年増だな、ベタベタしていない感じの、キリッとした品の良さとたくましさを漂わせている。カンクンの女性達は年齢と共に豊満になるのに比べ、彼女は割に背丈はあるけど肉付きがしまっている。体質が違うのだろう。
トニーが突然の訪問を詫びて事情を説明すると、彼女の鋭い目付きから微笑みがこぼれた。
「どうぞ入って見て頂戴。ちょうど掃除の途中だったんで、散らかっているけれど」
室内は、予想に反して開放的だった。クッキーを焼いているような、香ばしくて甘い香りが部屋じゅうに充ちていて心地良い。入ってすぐの応接間は、がっしりとした木のテーブルに花が飾られていて、仕切りのない続き部屋の奥からベランダ越しの爽やかな午後の風が流れ込んでくる。
どうやら、彼女の個人宅の一部を貸しているようだ。趣味の良い調度品は、どれも厭味なくこざっぱりと感じられる。僕は彼女の立ち振る舞いと同時に、そのセンスの良い暮らしぶりも気に入った。
「今、空いてる部屋はここになるんだけど…」
そう言って案内された部屋は、ラタンのカウチに飴色をした木のテーブル、小さい棚の上には花が1輪。ベッドはシングル、だけど快適そうだ。
「シングルじゃないか」
トニーが不満げにつぶやく。僕が「じゃあ一緒に寝るか?」とふざけたら、彼は本気で嫌な顔をした。おい、冗談だぜ? 寝床のひとつぐらい、それでもカウチで代用できるだろう。何といっても選択の余地はないんだし、これぐらい目をつぶろうぜ?
「あ、ごめんなさいね。シャワーは故障していて水しか出ないのよ」
それは残念、でも水シャワーだって汗まみれよりはマシだ。隣はサン・ルームみたいな、サッシを隔てた小さなベランダへの縦に細い部屋。マガジン・ラックと安楽椅子が置かれて、洒落た(くつろぎスペース)という感じ。窓から通りを見下ろすと、向かいのビルとに挟まれた歩道を歩く客引き男が米粒サイズ以下! とても5階とは思えない、日本だったら10階からの眺めだな。
「ほら、左を見てよ。ナショナル・ホテルが真正面だ」
トニーが言った。国賓クラスが滞在する、高級ホテルだ。丁字路の向こうの広大な敷地が全部、ホテルの所有地だというから驚く。赤坂の迎賓館に似た飾り門から、建物までの道が意味なく長い。建物も横に広くて、左手の芝生が切れ込んだ先はカリブ海。まさに絢爛豪華。
(どう思う?)と、警戒するようにトニーがささやく。
「いい眺めじゃない。部屋も気に入ったし、ここに住みたいよ」と僕は答えた。
シャワーを別にすれば、この解放感は殺風景なシティ・ホテルなんかとは比べ物にならない。部屋を吹き抜けてゆく風が、僕らをキューバで暮らしているような気にさせてくれるのだ。
運ちゃんが「知ってる宿を紹介しようか」と提案してくれた。40代くらいのオジサンで、初めのうちは(面倒な客を拾っちゃったな)という面持ちだったが、今は事情を知って同情してくれていた。3枚の紙片に手書きの住所があり、それは予想どおり個人営業の宿だった。
最初の所は、どうやら住人が替わってしまったらしい。次は「満室」と言って断られれ、頼みの綱はあと1軒…。僕も祈るような、すがるような思いになってきた。運ちゃんはゆっくり車を走らせながら、家々の番地を確かめていく。
「あのビルだよ。正面からエレベーターで上がりな」
自分でドアを開け、僕も車外に出た。湿度の高い熱気に、軽いめまいを覚える。荷物をトランクに入れたまま離れるのが心配だったものの、僕がドアを閉める時に「幸運を祈る」と言う運ちゃんの声を聞いた気がして(この人は信じて大丈夫だ)と思った。そして、今度こそ宿が決まりそうな感じがした。
建物の廊下はひんやりと薄暗く、人の住んでいる気配が感じられない。突き当たりに僕らを待ち構えるような人影があって、身が引き締まる思いで近付いて行くとビーナス像だった。人だと勘違いして声を掛けてしまったが、まさか女神像だとは!
円形のエントランス・ホールは吹き抜けになっていて、像の向こう正面には階段が、左右にいくつかの扉が円形に沿って並んでいた。まるで「不思議の国のアリス」だ、トニーにそう言うと彼も同意して笑った。
エレベーターは、右の奥にある共同便所みたいなボロい木の扉がそれらしい。粗末な引き戸の上にランプが点灯していて、横のボタンを押すと板越しに何かがゴトンゴトンと音を立てて下りてきた。あまりにシュールだ、気味の悪い夢を見ているような。チーン! そして静寂…。
「ドアを開けて」と、トニー。
「えっ?」
「これは手動なんだよ、きっと」
木戸に手を掛け、ゴロリと横に引く。電話ボックス程度の個室に、木製のスツールが1脚。
「ねぇコレ、各階共用の電話室なんじゃないの?」
ビビッてる僕に軽く舌を鳴らし、彼に「いいから、早く乗りなよ」と急かされる。体重の重みで大きく揺れて、後からトニーが乗り込んでくると体の向きを変えるのもままならない。この狭さと不安定感! ゴロゴロと戸を閉めて5階を押すと、小さな箱は嫌々そうに「ゴットン、ゴットン」と上昇を開始した。
胸の中にマイルス・デイビスの「死刑台のエレベーター」が聞こえ、僕は本気で(落ちないでくれよ〜!)と祈った。
「…この椅子さぁ、何のためにあるんだろうねぇ」
「さぁ。疲れたら座るんじゃないの」
エレベーターは(動力源も手動ではなかろうか)という位、のんびりと揺れながら5階に辿り着いた。引き戸を開け、中央の吹き抜けから石の手すり越しにのぞいた下に恐ろしく小さく女神像が見えて毛穴が開く。その吹き抜けを取り巻いて、いくつもの部屋があった。外見から想像した以上に、建物内部は広く高い。トニーは紙切れを頼りに部屋番号を確認し、僕を振り返ると怒ったように叫んだ。
「何やってるんだ、こっちに来てノックするんだ!」
そうカリカリすんなよ、そんな事は自分ですればいいのに。大人気ないぜ、トニー。でもここは素直に従おう。
「オーラァ、ブエノス・ディアースッ!」
ふざけた声を張り上げてドアを叩くと、出て来たのは愛想の良い女主人だった。なかなか艶っぽい年増だな、ベタベタしていない感じの、キリッとした品の良さとたくましさを漂わせている。カンクンの女性達は年齢と共に豊満になるのに比べ、彼女は割に背丈はあるけど肉付きがしまっている。体質が違うのだろう。
トニーが突然の訪問を詫びて事情を説明すると、彼女の鋭い目付きから微笑みがこぼれた。
「どうぞ入って見て頂戴。ちょうど掃除の途中だったんで、散らかっているけれど」
室内は、予想に反して開放的だった。クッキーを焼いているような、香ばしくて甘い香りが部屋じゅうに充ちていて心地良い。入ってすぐの応接間は、がっしりとした木のテーブルに花が飾られていて、仕切りのない続き部屋の奥からベランダ越しの爽やかな午後の風が流れ込んでくる。
どうやら、彼女の個人宅の一部を貸しているようだ。趣味の良い調度品は、どれも厭味なくこざっぱりと感じられる。僕は彼女の立ち振る舞いと同時に、そのセンスの良い暮らしぶりも気に入った。
「今、空いてる部屋はここになるんだけど…」
そう言って案内された部屋は、ラタンのカウチに飴色をした木のテーブル、小さい棚の上には花が1輪。ベッドはシングル、だけど快適そうだ。
「シングルじゃないか」
トニーが不満げにつぶやく。僕が「じゃあ一緒に寝るか?」とふざけたら、彼は本気で嫌な顔をした。おい、冗談だぜ? 寝床のひとつぐらい、それでもカウチで代用できるだろう。何といっても選択の余地はないんだし、これぐらい目をつぶろうぜ?
「あ、ごめんなさいね。シャワーは故障していて水しか出ないのよ」
それは残念、でも水シャワーだって汗まみれよりはマシだ。隣はサン・ルームみたいな、サッシを隔てた小さなベランダへの縦に細い部屋。マガジン・ラックと安楽椅子が置かれて、洒落た(くつろぎスペース)という感じ。窓から通りを見下ろすと、向かいのビルとに挟まれた歩道を歩く客引き男が米粒サイズ以下! とても5階とは思えない、日本だったら10階からの眺めだな。
「ほら、左を見てよ。ナショナル・ホテルが真正面だ」
トニーが言った。国賓クラスが滞在する、高級ホテルだ。丁字路の向こうの広大な敷地が全部、ホテルの所有地だというから驚く。赤坂の迎賓館に似た飾り門から、建物までの道が意味なく長い。建物も横に広くて、左手の芝生が切れ込んだ先はカリブ海。まさに絢爛豪華。
(どう思う?)と、警戒するようにトニーがささやく。
「いい眺めじゃない。部屋も気に入ったし、ここに住みたいよ」と僕は答えた。
シャワーを別にすれば、この解放感は殺風景なシティ・ホテルなんかとは比べ物にならない。部屋を吹き抜けてゆく風が、僕らをキューバで暮らしているような気にさせてくれるのだ。
メキシコ旅情【ハバナ!後編・3 矛先】
「気に入ってくれた? 1泊40ドルです。朝食も付けますか?」
「ムイ・ビエン[とても良い]!」
僕が叫ぶと、女主人はニッコリした。トニーを見ると、相変わらず渋い表情をしている。どうやら彼は、非合法という点に引っ掛かりを感じるらしい。白タクもレストランもOKなのに、宿だけはイヤなんて変なの。
「いいじゃんか、他に見つけられなかったんだから」
他に捜し回る当てでもあるのかい? という殺し文句で、ようやく彼も首を縦に振った。今になって何をこだわるのか、むしろオマケのような一日だからこそ(こういう下宿風ホテルに身をやつす)というのも乙なものではないの?
階段を駆け降りて、タクシーから荷物を引き上げる。僕らの宿が決まって、不安顔だった運ちゃんも胸をなでおろす仕草をしてみせた。いい人に出逢ったり助けられたりすると、涸れかけた心も幸せに沸き返る。彼には、本当に救われた。手を振って別れる。
トニーの希望で、僕らはナショナル・ホテルに来た。
僕としては、あの部屋のサン・ルームでぼんやりと過ごたかった。もうどこへも行きたくない、ひたすら平穏無事に眠りたかった。しかし彼に空腹を指摘されると、ここで寝て待つ訳にはいかなかった。
宿の窓から見えたホテルの門は目の前だったが建物までが長過ぎて、芝生の照り返しの蒸し暑さに何度か意識が遠のいた。めかし込んだ旅行客でロビーはごった返していたが、さすが国賓クラスだけあって僕らのような軽装の若者は皆無。ものすっごく場違いな雰囲気。
「ここを動かないで。すぐ戻る」
トニーは早口で僕に告げ、振り向いた時には人混みに消えていた。そうやって、何でも一方的に…。数分後に戻ってきたら、何の説明もなく階段を下りて行く。地階の照明は白く、冷淡でよそよそしい感じだ。開け放たれた部屋は土産物売り場、とはいえ一流ホテルだけにちゃちな民芸品は少ない。高そうな酒と葉巻がDFSを連想させるが、僕らには無縁の場所だ。というか地階には他に何もなかった。
「あのさぁ、僕らは何を捜しているんだっけ?」
僕の遠回しな皮肉を無視した彼は階段を引き返し、人の流れをかわしつつ無言で先に進む。立ち止まった彼に追いつくと、高い天井に届くほどの全面ガラスに透けて見えるテラスを指した。うねるような芝生の起伏と点在するヤシの木、その先はカリブ海。
「はぁ…?」
僕の意図的な間抜け声に、トニーは少しムッとした。だって今は景色どころじゃない、食事だ。彼は感情を抑えて僕をうながし、素通しの扉を押し開ける。渋々、僕はガラス戸の外に出た。
蒸すような熱気に包まれるが、日陰にいると風が気持ち良い。建物から広く突き出した屋根の下に、ラタンのテーブルセットが連なっていた。席に着いた人々の間を、ナプキンを提げたボーイが行き来している。…屋外レストランか! 内側から見た時は、窓際の人影に隠れて気が付かなかった。
手前の席に座ると、早速ボーイが通りがかったので呼び止める。が、なぜかメニューを持ってこない。今は飲み物だけしか出来ないと言って、若い男は申し訳無さそうな表情を浮かべた。ランチ・タイムには遅すぎた、と。周囲では中年夫婦が舌鼓を打っているというのに、それが(ほんのタッチの差でした)という訳か…?
1分や2分が何なんだ、この大馬鹿者の胸倉つかんで張り倒してやりたかった。こいつら身なりで客をあしらってやがる、そうに違いない。ここで「二度と来るかよ!」と椅子を蹴り上げて出て行きたかったが、最早そんな気力も出てこなかった。この調子じゃ、どこ行ったってシエスタを理由に門前払いされるのがオチだ。
そう、単に僕らが理解と学習を怠っていたせいなのだ。3日間の滞在中、一度でも昼食を食べただろうか? ことごとくシエスタで食べ損ねて、それでも同じケアレス・ミスを繰り返すのは僕らの問題だった。情けなくて涙が出ちゃうぜ。飲み物メニューを得意げに暗唱する若者にコーラを頼むと、礼儀正しい態度を崩さず去った。
どうしようもない僕の憤りは、目の前のトニーに向かってしまう。彼は最善を尽くしたし、宿を確保できて感謝している。だけど…。
(あと一分でも早く宿を決めていたら)
(地階に迷い込んでいなければ)
彼を責めるまい、そう思うとなおさら腹が立った。葛藤の激しさで胸苦しく、何もかも投げ出してしまいたかった。
唐突にトニーが切り出した。
「ここでお金の事をハッキリさせておこう」
僕は思わずドキッ、とした。いきなりここで持ち出すとは…。それまで彼に矛先を向けていた怒りが、この一言で首根っこを押さえ込まれた。だけど彼は正しい。僕だって明確にしておきたかったし、いつまでも漠然と不安に思っているのは気分が悪かった。
「まずはチケットの613ドルをを2人で割って…」
テラスでノートを広げ、ハバナで使った金額を書き出して割り勘にする。本来なら結構な額になってしまうところだが、彼は数字をかなり割り引いてくれた。それ以外にキューバに発つ前日に借りた分を加えて、彼は444ドルだけを返せば良いと言ってくれた。
「でもこれじゃあトニーが損する…」
それならディズニーのビデオを2本買ってくれ、そう言って彼は笑った。
「日本語版が欲しかったんだ。吹き替えしてるのは有名な俳優なんだろ?」
彼は身を乗り出すようにして、目を輝かせている。英語とスペイン語版のビデオは持っているのだそうだ。日本語版があれば、それを子供たちの教材に使うのだという。
「気にするな。だけど年末までには、日本から送金してくれよ」
「ロサンゼルスに帰るの?」
「語学留学したいんだ、ここに」
「ここって、キューバに!?」
「そうさ。だから今日は、下調べをしにハバナ大学に行きたいんだけどね〜?」
それは面白そうだと思ったけど、やっぱり僕は部屋でダラダラしたい。トニーだって、たまには1人のほうが身軽で動きやすいだろう。
ところが、そう言った途端に彼は「もう我慢出来ない」と僕を非難し始めた。感情的になった彼を見たのは初めてで、その勢いに僕は圧倒されてしまった。いわく「どれだけ親切にしても、君は自分の都合しか考えていない」…云々。ごもっとも。
僕にも言い分があったのに、いざとなると何も浮かんでこない。色々な面で彼の好意に甘えていた、その事実は認める。確かに、彼の提案にことごとく反対していた。それが意地悪からでなかったにせよ、彼にしてみれば不愉快の連続だったろう。
「君も疲れているだろうけど、その条件は同じなんだ。一緒に来てくれよ」
強気の姿勢から一転して、今度は穏やかな態度でトニーは言った。これでは断れないなぁー。
ハバナ大学は、ハバナ市街にあった。一番最初に断られた宿の向かいだ。ちょっと見学して受付で話を聞くぐらい、たいした時間は掛かるまい…。
「よし、行くよ」
そうして僕は、トニーに付いてハバナ市街に足を向けたのだった。
「ムイ・ビエン[とても良い]!」
僕が叫ぶと、女主人はニッコリした。トニーを見ると、相変わらず渋い表情をしている。どうやら彼は、非合法という点に引っ掛かりを感じるらしい。白タクもレストランもOKなのに、宿だけはイヤなんて変なの。
「いいじゃんか、他に見つけられなかったんだから」
他に捜し回る当てでもあるのかい? という殺し文句で、ようやく彼も首を縦に振った。今になって何をこだわるのか、むしろオマケのような一日だからこそ(こういう下宿風ホテルに身をやつす)というのも乙なものではないの?
階段を駆け降りて、タクシーから荷物を引き上げる。僕らの宿が決まって、不安顔だった運ちゃんも胸をなでおろす仕草をしてみせた。いい人に出逢ったり助けられたりすると、涸れかけた心も幸せに沸き返る。彼には、本当に救われた。手を振って別れる。
トニーの希望で、僕らはナショナル・ホテルに来た。
僕としては、あの部屋のサン・ルームでぼんやりと過ごたかった。もうどこへも行きたくない、ひたすら平穏無事に眠りたかった。しかし彼に空腹を指摘されると、ここで寝て待つ訳にはいかなかった。
宿の窓から見えたホテルの門は目の前だったが建物までが長過ぎて、芝生の照り返しの蒸し暑さに何度か意識が遠のいた。めかし込んだ旅行客でロビーはごった返していたが、さすが国賓クラスだけあって僕らのような軽装の若者は皆無。ものすっごく場違いな雰囲気。
「ここを動かないで。すぐ戻る」
トニーは早口で僕に告げ、振り向いた時には人混みに消えていた。そうやって、何でも一方的に…。数分後に戻ってきたら、何の説明もなく階段を下りて行く。地階の照明は白く、冷淡でよそよそしい感じだ。開け放たれた部屋は土産物売り場、とはいえ一流ホテルだけにちゃちな民芸品は少ない。高そうな酒と葉巻がDFSを連想させるが、僕らには無縁の場所だ。というか地階には他に何もなかった。
「あのさぁ、僕らは何を捜しているんだっけ?」
僕の遠回しな皮肉を無視した彼は階段を引き返し、人の流れをかわしつつ無言で先に進む。立ち止まった彼に追いつくと、高い天井に届くほどの全面ガラスに透けて見えるテラスを指した。うねるような芝生の起伏と点在するヤシの木、その先はカリブ海。
「はぁ…?」
僕の意図的な間抜け声に、トニーは少しムッとした。だって今は景色どころじゃない、食事だ。彼は感情を抑えて僕をうながし、素通しの扉を押し開ける。渋々、僕はガラス戸の外に出た。
蒸すような熱気に包まれるが、日陰にいると風が気持ち良い。建物から広く突き出した屋根の下に、ラタンのテーブルセットが連なっていた。席に着いた人々の間を、ナプキンを提げたボーイが行き来している。…屋外レストランか! 内側から見た時は、窓際の人影に隠れて気が付かなかった。
手前の席に座ると、早速ボーイが通りがかったので呼び止める。が、なぜかメニューを持ってこない。今は飲み物だけしか出来ないと言って、若い男は申し訳無さそうな表情を浮かべた。ランチ・タイムには遅すぎた、と。周囲では中年夫婦が舌鼓を打っているというのに、それが(ほんのタッチの差でした)という訳か…?
1分や2分が何なんだ、この大馬鹿者の胸倉つかんで張り倒してやりたかった。こいつら身なりで客をあしらってやがる、そうに違いない。ここで「二度と来るかよ!」と椅子を蹴り上げて出て行きたかったが、最早そんな気力も出てこなかった。この調子じゃ、どこ行ったってシエスタを理由に門前払いされるのがオチだ。
そう、単に僕らが理解と学習を怠っていたせいなのだ。3日間の滞在中、一度でも昼食を食べただろうか? ことごとくシエスタで食べ損ねて、それでも同じケアレス・ミスを繰り返すのは僕らの問題だった。情けなくて涙が出ちゃうぜ。飲み物メニューを得意げに暗唱する若者にコーラを頼むと、礼儀正しい態度を崩さず去った。
どうしようもない僕の憤りは、目の前のトニーに向かってしまう。彼は最善を尽くしたし、宿を確保できて感謝している。だけど…。
(あと一分でも早く宿を決めていたら)
(地階に迷い込んでいなければ)
彼を責めるまい、そう思うとなおさら腹が立った。葛藤の激しさで胸苦しく、何もかも投げ出してしまいたかった。
唐突にトニーが切り出した。
「ここでお金の事をハッキリさせておこう」
僕は思わずドキッ、とした。いきなりここで持ち出すとは…。それまで彼に矛先を向けていた怒りが、この一言で首根っこを押さえ込まれた。だけど彼は正しい。僕だって明確にしておきたかったし、いつまでも漠然と不安に思っているのは気分が悪かった。
「まずはチケットの613ドルをを2人で割って…」
テラスでノートを広げ、ハバナで使った金額を書き出して割り勘にする。本来なら結構な額になってしまうところだが、彼は数字をかなり割り引いてくれた。それ以外にキューバに発つ前日に借りた分を加えて、彼は444ドルだけを返せば良いと言ってくれた。
「でもこれじゃあトニーが損する…」
それならディズニーのビデオを2本買ってくれ、そう言って彼は笑った。
「日本語版が欲しかったんだ。吹き替えしてるのは有名な俳優なんだろ?」
彼は身を乗り出すようにして、目を輝かせている。英語とスペイン語版のビデオは持っているのだそうだ。日本語版があれば、それを子供たちの教材に使うのだという。
「気にするな。だけど年末までには、日本から送金してくれよ」
「ロサンゼルスに帰るの?」
「語学留学したいんだ、ここに」
「ここって、キューバに!?」
「そうさ。だから今日は、下調べをしにハバナ大学に行きたいんだけどね〜?」
それは面白そうだと思ったけど、やっぱり僕は部屋でダラダラしたい。トニーだって、たまには1人のほうが身軽で動きやすいだろう。
ところが、そう言った途端に彼は「もう我慢出来ない」と僕を非難し始めた。感情的になった彼を見たのは初めてで、その勢いに僕は圧倒されてしまった。いわく「どれだけ親切にしても、君は自分の都合しか考えていない」…云々。ごもっとも。
僕にも言い分があったのに、いざとなると何も浮かんでこない。色々な面で彼の好意に甘えていた、その事実は認める。確かに、彼の提案にことごとく反対していた。それが意地悪からでなかったにせよ、彼にしてみれば不愉快の連続だったろう。
「君も疲れているだろうけど、その条件は同じなんだ。一緒に来てくれよ」
強気の姿勢から一転して、今度は穏やかな態度でトニーは言った。これでは断れないなぁー。
ハバナ大学は、ハバナ市街にあった。一番最初に断られた宿の向かいだ。ちょっと見学して受付で話を聞くぐらい、たいした時間は掛かるまい…。
「よし、行くよ」
そうして僕は、トニーに付いてハバナ市街に足を向けたのだった。
メキシコ旅情【ハバナ!後編・4 ジョ・アモー・キューバ】
昼下がりのハバナ市街。
汗とホコリがまとわりついてくる。騒音と排気ガス。そして、しつこい客引き…こいつらには、さすがに僕も慣れてきた。相変わらず「おい、チノ!」とは呼ばれるが、いちいち気にならなくなってきた。彼らにどう思われたって、放っとけばのいいだ。
アイデンティティなんて、自己イメージの産物だ。望んでいるように扱われたい自分、見せたくない自分…。突き放して眺めると、そんな自分にも人間くさくて愛着を覚える。僕は妙に晴れ晴れとした気分になって、街を歩きながら笑っていた。
やっと僕は「キューバ人恐怖症」を克服した。
そうこうするうち、トニーと僕は見覚えのある通りを歩いていた。初日に入ったレストランと「謎のブランドショップ」だ、その向かいある土産物店をのぞく。葉巻やべっ甲などの特産品にはチト手が出せないけど、ちょっと見てみるか。
「これ良くない?」
僕がトニーに示したのは、ヘミングウェイの髭面がプリントされたTシャツだ。地色の微妙な色味も悪くない。いかにも土産用の薄い生地だったが、それは値段相応で仕方ないか。
「いいじゃないか、でもこっちの方が面白くない?」
彼が指したのは(アイ・ラブ・キューバ)というデザインのTシャツ。YO[私は]のOがハート・マークで「ラブ」に引っ掛けていて、キューバ国旗のプリントに乗っかっている。
「大事なのは『私は皆さんの国をこんなに愛しています』という姿勢を見せる事さ」
というともっともらしいね、それで(アメリカ人は観光地で悪趣味なTシャツを買い込む)なんていう自虐的なジョークが生まれるのか。これも外交手段の一つ、という訳? まぁ、その辺は〈国民性の違い〉なのか、あるいは個人の趣味の問題。
土産物店を出て通りを横切り、ブランド・ショップとレストランの間にある建物に入った。正確には(ブランド・ショップの後ろに建っている雑居ビル)だ。外の日差しが強すぎる分、内部は薄暗く感じられた。蛍光灯の明かりが、リノリウム張りの暗い廊下に鈍く光る。一昔前の診療所が、こういう感じだったな。あまりに愛想がなくて戸惑ってしまう、あの雰囲気もそっくりだ。どの部屋のドアも特徴がなく、上のほうに横長のプレートが飛び出ていた。
トイレで真新しいTシャツに着替えたトニーは、廊下を引き返して出入り口手前の部屋に入った。中は意外に混み合っていて、更に奥の部屋に入る順番を待っている様子だ。
「トニー、ここは何?」
「ああ、エドベンに電話しておこうと思ってね」
事もなげに彼は答えた。そうか、空港まで迎えに来てくれる手筈になっていたのだな。だけど何でまた、わざわざこんな所で電話するのか…? そっか、町中に公衆電話が無いもんなぁ。ましてや、国際電話を掛けられる場所なんて限られているんだろう。
窓がないせいか、室内には換気が悪く蒸し暑い空気が溜まっている。みな不機嫌そうな顔をしながらも、押し黙って順番を待っていた。奥の部屋からは、途切れなく話し声が続いていた。声の主は椅子に座って話しているけれど、他に2,3人いるオペレーターは機械類に張り付いたようにして立っている。〈立錐の余地もないほどの狭さ〉とは、この事だ。
待合部屋から廊下に出て深呼吸、電話待ちの列は開け放した扉の外まで伸びていた。長椅子に腰掛けている地元の人たちも、じっとりと肌が汗ばんでいる。列はちっとも動かないが、市民は辛抱強く沈黙を守っていた。ひょっとしたら、みんな何とも思ってないのか…? キューバの人は、待たされる事で目くじらを立てたりはしないのかな〜。
しばらく経って、部屋から出てきたトニーが言った。
「エドベンが『君のリコンファームは済ませたから』ってさ」
すっかり忘れてた! トニーが彼に訊いてくれたのだろうか、それともエドベンから言い出したのだろうか。どちらであれ、改めて(2人には世話になりっ放しだなぁ)と思う。当たり前なのだけど、僕は独りぽっちではないのだ。ふいに気が付いてみて、この「手触りのない普通さ」に心を打たれる。
薄曇りの空からポツリ、と雨が降り出した。バスを待つ人の傘が、次々と開いてゆく。ちょうどハリケーンが接近中らしいが、それにしてもツイてない。トニーが僕に振り向いて「すぐに止むと思うよ」と声を掛ける。
「まだハリケーンは遠くの海にある。これは一番外側の、切れっぱしが降らせる雨だ」
カンクンのジュビアみたく、一気にびしょ濡れにならないだけマシだな。あの調子でやられたら、ハバナ大学に行くどころではなくなってしまう。しかし雨脚は(ポツリ、ポツリ)が(ポツ、ポツ)に変わってきた。見上げた空は色を失っていて、何の気配も読めなかった。勢いがない分、少しづつ心を萎えさせえる降り方だ。
ゆるい上り坂には、路上駐車の列が途切れなく続いている。それはどれもビンテージ・カーばかりで、トニーは1台ごとにのぞき込んで興奮気味。
「この車も写真に撮って!」
「フィルムは残り少ないんだよ、それに外車アルバム作るんじゃないからさー」
「いいじゃないか、ちゃんと貴重な車を選んでる。これなんか、まるでSFみたいだろ?」
黒塗りのビューイック。ボンネットに据えられたマスコットがジェット機で、フロント・グリルもそれを思わせるクローム・メタリックの曲線で構成されている。フューチャリズム、バラ色の未来に酔いしれていた古きよき時代。
「判るよ。惜しむらくは、この無粋なドア・ミラーだね」
オリジナルの凝ったフェンダー・ミラーが健在なのに、なぜか真っ赤な耳が両側から突き出ているのだ。せめて色合わせぐらいはして欲しい。車体の痛みが少ないだけに、可哀想だよなぁ。乗っている人にしてみれば、フェティッシュな造形などには関心のかけらも無いらしい。所詮は単なる箱だもんね。
「ザッツ・ア・ビークル、ノット・ビューティフル」
僕の言葉遊びが、トニーの笑いのツボを押したようだ。彼に笑わせられる事ばかりで、僕の冗談が大当たりする事は滅多にない。そんなに受けるとは思いもよらなかった。
最初の安宿を通り過ぎた。今朝、一軒目に断られたホテルだ。さっきはタクシーに乗っていて地理感覚がつかめなかったけど、この通り沿いだったのか。
「ここは安い割に良さそうだから、今度来たら泊まろう」とトニー。
利便性も良いし、ホテル・コヒバの1泊分で3泊以上できるのであれば文句無いね。
「でもさぁ、今度って?」
「留学するって言ったでしょ。家が見つかるまでここから通うつもりだよ、大学の目の前だし」
そう言って、トニーは道路の向かいを肩で示した。
「ええっ!? ってコトは…」
ずっとつながっている塀の奥に見える、神殿みたいな建物は全部そうだったの?
汗とホコリがまとわりついてくる。騒音と排気ガス。そして、しつこい客引き…こいつらには、さすがに僕も慣れてきた。相変わらず「おい、チノ!」とは呼ばれるが、いちいち気にならなくなってきた。彼らにどう思われたって、放っとけばのいいだ。
アイデンティティなんて、自己イメージの産物だ。望んでいるように扱われたい自分、見せたくない自分…。突き放して眺めると、そんな自分にも人間くさくて愛着を覚える。僕は妙に晴れ晴れとした気分になって、街を歩きながら笑っていた。
やっと僕は「キューバ人恐怖症」を克服した。
そうこうするうち、トニーと僕は見覚えのある通りを歩いていた。初日に入ったレストランと「謎のブランドショップ」だ、その向かいある土産物店をのぞく。葉巻やべっ甲などの特産品にはチト手が出せないけど、ちょっと見てみるか。
「これ良くない?」
僕がトニーに示したのは、ヘミングウェイの髭面がプリントされたTシャツだ。地色の微妙な色味も悪くない。いかにも土産用の薄い生地だったが、それは値段相応で仕方ないか。
「いいじゃないか、でもこっちの方が面白くない?」
彼が指したのは(アイ・ラブ・キューバ)というデザインのTシャツ。YO[私は]のOがハート・マークで「ラブ」に引っ掛けていて、キューバ国旗のプリントに乗っかっている。
「大事なのは『私は皆さんの国をこんなに愛しています』という姿勢を見せる事さ」
というともっともらしいね、それで(アメリカ人は観光地で悪趣味なTシャツを買い込む)なんていう自虐的なジョークが生まれるのか。これも外交手段の一つ、という訳? まぁ、その辺は〈国民性の違い〉なのか、あるいは個人の趣味の問題。
土産物店を出て通りを横切り、ブランド・ショップとレストランの間にある建物に入った。正確には(ブランド・ショップの後ろに建っている雑居ビル)だ。外の日差しが強すぎる分、内部は薄暗く感じられた。蛍光灯の明かりが、リノリウム張りの暗い廊下に鈍く光る。一昔前の診療所が、こういう感じだったな。あまりに愛想がなくて戸惑ってしまう、あの雰囲気もそっくりだ。どの部屋のドアも特徴がなく、上のほうに横長のプレートが飛び出ていた。
トイレで真新しいTシャツに着替えたトニーは、廊下を引き返して出入り口手前の部屋に入った。中は意外に混み合っていて、更に奥の部屋に入る順番を待っている様子だ。
「トニー、ここは何?」
「ああ、エドベンに電話しておこうと思ってね」
事もなげに彼は答えた。そうか、空港まで迎えに来てくれる手筈になっていたのだな。だけど何でまた、わざわざこんな所で電話するのか…? そっか、町中に公衆電話が無いもんなぁ。ましてや、国際電話を掛けられる場所なんて限られているんだろう。
窓がないせいか、室内には換気が悪く蒸し暑い空気が溜まっている。みな不機嫌そうな顔をしながらも、押し黙って順番を待っていた。奥の部屋からは、途切れなく話し声が続いていた。声の主は椅子に座って話しているけれど、他に2,3人いるオペレーターは機械類に張り付いたようにして立っている。〈立錐の余地もないほどの狭さ〉とは、この事だ。
待合部屋から廊下に出て深呼吸、電話待ちの列は開け放した扉の外まで伸びていた。長椅子に腰掛けている地元の人たちも、じっとりと肌が汗ばんでいる。列はちっとも動かないが、市民は辛抱強く沈黙を守っていた。ひょっとしたら、みんな何とも思ってないのか…? キューバの人は、待たされる事で目くじらを立てたりはしないのかな〜。
しばらく経って、部屋から出てきたトニーが言った。
「エドベンが『君のリコンファームは済ませたから』ってさ」
すっかり忘れてた! トニーが彼に訊いてくれたのだろうか、それともエドベンから言い出したのだろうか。どちらであれ、改めて(2人には世話になりっ放しだなぁ)と思う。当たり前なのだけど、僕は独りぽっちではないのだ。ふいに気が付いてみて、この「手触りのない普通さ」に心を打たれる。
薄曇りの空からポツリ、と雨が降り出した。バスを待つ人の傘が、次々と開いてゆく。ちょうどハリケーンが接近中らしいが、それにしてもツイてない。トニーが僕に振り向いて「すぐに止むと思うよ」と声を掛ける。
「まだハリケーンは遠くの海にある。これは一番外側の、切れっぱしが降らせる雨だ」
カンクンのジュビアみたく、一気にびしょ濡れにならないだけマシだな。あの調子でやられたら、ハバナ大学に行くどころではなくなってしまう。しかし雨脚は(ポツリ、ポツリ)が(ポツ、ポツ)に変わってきた。見上げた空は色を失っていて、何の気配も読めなかった。勢いがない分、少しづつ心を萎えさせえる降り方だ。
ゆるい上り坂には、路上駐車の列が途切れなく続いている。それはどれもビンテージ・カーばかりで、トニーは1台ごとにのぞき込んで興奮気味。
「この車も写真に撮って!」
「フィルムは残り少ないんだよ、それに外車アルバム作るんじゃないからさー」
「いいじゃないか、ちゃんと貴重な車を選んでる。これなんか、まるでSFみたいだろ?」
黒塗りのビューイック。ボンネットに据えられたマスコットがジェット機で、フロント・グリルもそれを思わせるクローム・メタリックの曲線で構成されている。フューチャリズム、バラ色の未来に酔いしれていた古きよき時代。
「判るよ。惜しむらくは、この無粋なドア・ミラーだね」
オリジナルの凝ったフェンダー・ミラーが健在なのに、なぜか真っ赤な耳が両側から突き出ているのだ。せめて色合わせぐらいはして欲しい。車体の痛みが少ないだけに、可哀想だよなぁ。乗っている人にしてみれば、フェティッシュな造形などには関心のかけらも無いらしい。所詮は単なる箱だもんね。
「ザッツ・ア・ビークル、ノット・ビューティフル」
僕の言葉遊びが、トニーの笑いのツボを押したようだ。彼に笑わせられる事ばかりで、僕の冗談が大当たりする事は滅多にない。そんなに受けるとは思いもよらなかった。
最初の安宿を通り過ぎた。今朝、一軒目に断られたホテルだ。さっきはタクシーに乗っていて地理感覚がつかめなかったけど、この通り沿いだったのか。
「ここは安い割に良さそうだから、今度来たら泊まろう」とトニー。
利便性も良いし、ホテル・コヒバの1泊分で3泊以上できるのであれば文句無いね。
「でもさぁ、今度って?」
「留学するって言ったでしょ。家が見つかるまでここから通うつもりだよ、大学の目の前だし」
そう言って、トニーは道路の向かいを肩で示した。
「ええっ!? ってコトは…」
ずっとつながっている塀の奥に見える、神殿みたいな建物は全部そうだったの?
メキシコ旅情【ハバナ!後編・5 キャンパス・ピンボール】
ホコリを洗い流されたスペイン調の町並みが、乳白色の空の下で沈黙していた。商業地区を少し離れただけで、人通りの喧噪が嘘のようだ。
ひとしきり路面を濡らし、そっと雨足が遠のいた異国の街に風がそよいでいる。サラリとした空気が心地よいものの、湿度が高いせいか僕のTシャツは早くも汗ばんできた。太陽が隠れているのが、せめてもの救いだ。
「大きいねー」
僕は、ため息交じりにつぶやいた。トニーと僕は、ハバナ大学の正門前にいる。ゆるやかな階段の幅は50m位ありそうで、その上に神殿じみた建物を背にして青銅の聖母像が両腕を拡げて鎮座している。僕らは、彼女に向かって長い階段を上り始めた。まるで巡礼者だな。
「UCLAは、もっと大きいよ」
トニーにしてみれば、この程度の規模ならば驚くには値しないらしい。階段の八分目あたりで振り返ると、欧風な香りを残すハバナ市街が拡がっていた。雨上がりの閑散とした市街は目線よりも下にあり、上半分は空白だ。高層ビルがないだけで、同じ人工物でも自然に調和してるように思える。雨上がりの瞬間じゃなかったら味わえない美しさ、かもしれない。
「トニー、早く来て見なよ!」
フウフウ言いながら追いついてきた彼に、背後の景色を指さしてみせる。しかし彼には関心がないらしく、チラリと見返しただけで歩きだした。町じゅうのゴミやホコリの汚れが消えた新鮮な空気を深く吸い込むと、僕はそこに隠れていた様々な匂いを感じて嬉しくなった。
それから急いでトニーの後を追った。
神殿ふうの校舎に囲まれた、人影まばらな中庭に出た。そんな(学問の殿堂)といった感じの片隅、場違いな戦車が木陰に見え隠れしている。小型の装甲車はキャタピラーの代わりにゴツいタイヤで、小回りが利きそうな短い砲身だ。その機動性が、市内の広場にあった鈍重な戦車よりも生々しく見える。公共機関すべてに戦車を配置しているのだろうか、こんなふうに?
いつでも臨戦態勢というか、市街戦の覚悟でいる…。そう思うと、〈革命〉という言葉が現実味を帯びて迫ってくる。といって、それで現在のキューバは誰に向かって拳を振り上げようというのだろう?
「建物のどれかに入ってみるか、その辺の学生に尋ねてみたら?」
中庭を横切ってゆくトニーの足取りには、大学構内のどこで留学手続きに関する情報を得られるのか、心当たりがあるようには思えなかった。無いのなら、手近なところから手掛かりを探すほうが早い。
しかし彼は生返事で通り過ぎ、裏門側から回り込んで建物に入った。職員らしきスーツ姿の若者に話しかけていたが、その男性には話が通じなかったようだ。そばを通りがかった数人の女子学生がいたけれど、トニーは無視した。学生も忙しそうに、部外者を避けようとしているように見える。トニーは廊下の奥から戻って来て僕を促した。
「さぁ、行こう」
オフィスの見当が付いたのか、裏門の前の道を進む。ゆるく曲がり込んでいる坂を下った先には、小さいアパートがひしめいているのが見える。学生向けの下宿街だろうか、明らかに大学の敷地外だ。
「違ってない?」
僕が尋ねると、トニーも自信なさそうに口ごもった。
「右って言われたんだけどなぁー、でも左と間違えたのかも知れない…」
僕らは一度、来た道を引き返す事にした。もうすっかり汗まみれだ、思っていたよりも厄介になりそうだな。
「もう一度、誰かに訊いてみようよ。ほら、あそこにいる学生とかに」
芝生のベンチに腰掛けて、熱心にページをめくっている若者がいる。だけどトニーは首を振った。
「勉強の邪魔はしたくないな、キューバの学生は真剣に勉強しているからね」
この国の大学は、かなり厳しいらしい。課題も多く出されるし入学後の試験も多いので、学生達は必死になって勉強するのだと言う。
また中庭を横切って、今度は裏門を逆方向に進む。少し歩くと通りの向かい側にも校舎らしき建物が見えたので、その敷地に入って学生を呼び止めた。今度は「通りの向こうに行きなさい」と教えられ、敷地を出ると三叉路だ。僕の頭の中に(三分割された円グラフ)が浮かび、3つのキャンパスのうち2区画が調査済み…。となれば、目指すオフィスは目前だった。
第3のキャンパスにはサンタ・フェ調の校舎が建っていて、トニーは僕を待たせて校舎の奥に消えた。建物の入口に張り出した平屋根の開口部は、両側の壁に造り付けのベンチがある。板の片側を埋め込んだだけという簡単なベンチで、その(ついでの一手間)といった適当さが良い。
壁の色は光の加減でサーモン・ピンクに見えたが、間近に寄ってみると実際は土の風合いを残した色だ。上の方に、風通しを考えてか大きな丸穴が開けられている。向かい側のベンチでは、女子学生が本を片手にノートに書き込みをしている。けれど、僕の視線に気付くと立ち上がって行ってしまった。
気温が上がって、蒸し暑さが増してきたようだ。おそらく、天気は回復傾向にあるのだろう。トニーが出て来たら、後は宿に帰るだけだ。それにしても案外と簡単にオフィスが見つかってホッとした、安心したら眠くなってきたから少し横になろうかな…。
「ここじゃないって」
えーっ!?
再び、話は振り出しに戻った。
一体どうなってるんだ? 尋ねる度に違う答えが返ってきて、お陰でキャンパスをたらい回しじゃないか。学生達の悪ふざけにも思えないが、それにしても自分の大学の窓口ぐらいは覚えておけよ〜! ちょっと前にも同じような振り回され方をした気がするなぁ、あれはイダルミの家に行く時だった。…それで次は、どこへ行けって?
「この道路を左に行って、2つ目の交差点を左だって」
かなり具体的だな、とにかく言われた通りに動いてみるしかない。だが最初は「右だ」と教わった道を、今度は「左に行け」と言われているのだ。トニーは(自分達の理解が悪いか、相手が場所を説明するのが苦手なだけだ)とでも思っているらしいが、そんな真逆に聞き間違える筈がないし説明下手というレベルでもないだろう。いくら良心的に解釈しても、僕には何もかも疑わしく思える。
メキシコ旅情【ハバナ!後編・6 カリブの迷宮?】
ゆるい下り坂の、左手に沿った校舎を過ぎると視界が開けた。
胸の高さのコンクリート塀からは、芝生のグラウンドが下方に見えた。その後ろは濃い緑の樹々で、町並みはもっと低い位置にある様子だった。来た道が上り坂だった訳でもないのに、いつの間にか高低差が拡がっていたらしい。
競技用トラックの中に、白いサッカー・ゴールが取り残されている。奥の白く塗られたフェンスに書かれた「CARIBE」という赤い文字が、深い色の芝生にくっきりと映える。よく見ると「E」の後にある赤い模様は人物画で、奇妙なことに(マゲを結った侍の横顔)に似通っていた。
「ねぇ、トニー。あれさー、サムライかなぁ?」
僕はてっきり(学園祭向けに描かれたジョークか何かだろう)と思っていたから、彼にカリブ先住民だと教えられて驚いてしまった。キューバの先住民、カリベ族の横顔だったのだ。俄然と興味を示した僕の先手を打つように、トニーは一言で彼らの歴史を語った。
「…昔はね。今は絶滅して、一人もいないってよ」
思わず言葉を失う。どおりで、コロンブスが英雄な道理だ。現在のキューバは文字通り〈彼によって発見された国〉なのだからな。深い緑にさす赤い横顔は、この国の人々にとってどんなふうに見えるのだろう。
下り坂の両側は木々に覆われ、むせるような森の息遣いが感じられる。左に巻き込みながら勾配がきつくなり、やがて歩道は土と根っこの狭い未舗装路になった。息が乱れ、額を汗が伝う。
前方から、お喋りに夢中な数人の女子大生が軽やかな足運びで上ってきた。下りの僕らが汗だくでハァハァ言っているというのに、彼女達がすれ違いざまに次々と挨拶してくるので恥ずかしくなる。まるで雰囲気は山歩きだが、今は大学の受付窓口に向かっているのだ…!
後ろからサイドカーが、坂の下に見える十字路を右折して視界から消えた。上下各3車線もある道路は、車はほとんど走っていないのに不自然なほど整備が行き届いていた。一直線に延びている幹線道路は、左右を見渡してみても目に付く建物は見当たらない。これ、絶対に有事の滑走路を想定してるよな…?
確か(2つ目の交差点を左折)だったな、しかしこの十字路の先が大学の敷地ではないのは明白だった。果たして僕らは前進するべきなのだろうか。この時点ですらUターンして山道を引き返すのは嫌だけど、ここから延々と歩いてから「道順が間違っていた」なんて事態は意地でも避けたかった。
これ以上のリスクを背負う前に確実な情報が欲しいのに、こういう肝心な時に限って誰もいなかったりする。僕らは、すでに何時間も歩き回っていた。もう一歩でも徒労を重ねるのは御免だったが、ただ突っ立っていたって疲れが溜まるだけだった。
「もう少し先まで行ってみようよ」
トニーが、遠慮がちに切り出した。それも一理あるな。どうせ疲れるなら、手掛かりを捜しながら歩いてみるのも手だ。長い車道を急いで横断し、まっすぐに進む。
〈闘い続けよう、次の勝利まで〉
道路に面したチェ・ゲバラ看板と、ブロック塀に描かれたスローガンだ。そんな言葉が日常の中に掲げられている暮らしって、一体どんなものなのか想像もつかない。
「写真撮ってよ」とトニーが嬉々として言う。
「その愛国Tシャツで、かい?」
僕の問いかけに、トニーはニヤッと笑いを返した。そのユーモアは、受け止めようによっては彼らしくない毒を含んだ冗談にも思える。(資本主義帝国)アメリカを敵視するプロパガンダの前で、呑気なポーズを決めて観光写真を撮っているアメリカ人…。そんな所がまた、いかにもアメリカ的な感じもするけど。
横道から吹き抜ける風がパーム・ツリーを揺らし、気持ち良く汗を乾かしてくれる。空には、うっすらと青みが射してきた。これ以上は天気が回復しないでいてくれると、しのぎやすい1日なんだけどなぁー。大通りを過ぎて道幅は拡がり、はるか前方で中央分離帯の芝生が途切れている。あそこが交差点なのだろう。やはり人の姿はどこにもなく、少なくともあと何百mか歩いて次の十字路まで行くしかなさそうだった。左折する側の様子が見通せるように、2人は車道を横切って右側を歩いていた。
塀が切れて、空き地が現れた。雑草の奥に水たまりが残る地面が露出していて、そこに怪しげな長屋が建っている。人の住んでいる気配は、見た目からは感じられなかった。
「…あれ見て、何か変だよね」
僕は指さして、トニーに言った。トタン屋根のあばら屋があっても、それだけでは驚いたりしない。むしろ囲むように生い茂った樹木との相乗効果で、ジャマイカ的なレイドバックした雰囲気をかもし出している。僕が気に懸かったのは、壁にびっしりと描かれた絵の奇妙さのせいだ。それは決して(プリミティブ・アートとの融合を目指す都市生活者)などの類いではなく〈何らかの理由で廃屋になった幼稚園〉みたいな、どこか気味の悪いムードを漂わせている。犯罪の匂いに似たものが、僕の全身を駆け巡った。
「何か書いてあるよ」
そのまがまがしい絵の中に隠された文字に気が付いた僕は、トニーの警告を無視して雑草の中に踏み込んで行った。
「P、i、z、z、e、r、i、a…!?」ピザ屋か、それにしても怪しすぎる。
「わはははは、おーいトニー。ピザ屋だってさ、食べてみないか!」
彼は顔をしかめて首を振り、早く来いとばかりに手招きをした。信じられない、あんな店で客が来るのかなぁ? 来ないから潰れたのかもね。そういや食べてないなぁ、ピザ食いてぇー!
思い出した途端に、空腹感がよみがえってきた。でも、どこにも店なんて見えない。
胸の高さのコンクリート塀からは、芝生のグラウンドが下方に見えた。その後ろは濃い緑の樹々で、町並みはもっと低い位置にある様子だった。来た道が上り坂だった訳でもないのに、いつの間にか高低差が拡がっていたらしい。
競技用トラックの中に、白いサッカー・ゴールが取り残されている。奥の白く塗られたフェンスに書かれた「CARIBE」という赤い文字が、深い色の芝生にくっきりと映える。よく見ると「E」の後にある赤い模様は人物画で、奇妙なことに(マゲを結った侍の横顔)に似通っていた。
「ねぇ、トニー。あれさー、サムライかなぁ?」
僕はてっきり(学園祭向けに描かれたジョークか何かだろう)と思っていたから、彼にカリブ先住民だと教えられて驚いてしまった。キューバの先住民、カリベ族の横顔だったのだ。俄然と興味を示した僕の先手を打つように、トニーは一言で彼らの歴史を語った。
「…昔はね。今は絶滅して、一人もいないってよ」
思わず言葉を失う。どおりで、コロンブスが英雄な道理だ。現在のキューバは文字通り〈彼によって発見された国〉なのだからな。深い緑にさす赤い横顔は、この国の人々にとってどんなふうに見えるのだろう。
下り坂の両側は木々に覆われ、むせるような森の息遣いが感じられる。左に巻き込みながら勾配がきつくなり、やがて歩道は土と根っこの狭い未舗装路になった。息が乱れ、額を汗が伝う。
前方から、お喋りに夢中な数人の女子大生が軽やかな足運びで上ってきた。下りの僕らが汗だくでハァハァ言っているというのに、彼女達がすれ違いざまに次々と挨拶してくるので恥ずかしくなる。まるで雰囲気は山歩きだが、今は大学の受付窓口に向かっているのだ…!
後ろからサイドカーが、坂の下に見える十字路を右折して視界から消えた。上下各3車線もある道路は、車はほとんど走っていないのに不自然なほど整備が行き届いていた。一直線に延びている幹線道路は、左右を見渡してみても目に付く建物は見当たらない。これ、絶対に有事の滑走路を想定してるよな…?
確か(2つ目の交差点を左折)だったな、しかしこの十字路の先が大学の敷地ではないのは明白だった。果たして僕らは前進するべきなのだろうか。この時点ですらUターンして山道を引き返すのは嫌だけど、ここから延々と歩いてから「道順が間違っていた」なんて事態は意地でも避けたかった。
これ以上のリスクを背負う前に確実な情報が欲しいのに、こういう肝心な時に限って誰もいなかったりする。僕らは、すでに何時間も歩き回っていた。もう一歩でも徒労を重ねるのは御免だったが、ただ突っ立っていたって疲れが溜まるだけだった。
「もう少し先まで行ってみようよ」
トニーが、遠慮がちに切り出した。それも一理あるな。どうせ疲れるなら、手掛かりを捜しながら歩いてみるのも手だ。長い車道を急いで横断し、まっすぐに進む。
〈闘い続けよう、次の勝利まで〉
道路に面したチェ・ゲバラ看板と、ブロック塀に描かれたスローガンだ。そんな言葉が日常の中に掲げられている暮らしって、一体どんなものなのか想像もつかない。
「写真撮ってよ」とトニーが嬉々として言う。
「その愛国Tシャツで、かい?」
僕の問いかけに、トニーはニヤッと笑いを返した。そのユーモアは、受け止めようによっては彼らしくない毒を含んだ冗談にも思える。(資本主義帝国)アメリカを敵視するプロパガンダの前で、呑気なポーズを決めて観光写真を撮っているアメリカ人…。そんな所がまた、いかにもアメリカ的な感じもするけど。
横道から吹き抜ける風がパーム・ツリーを揺らし、気持ち良く汗を乾かしてくれる。空には、うっすらと青みが射してきた。これ以上は天気が回復しないでいてくれると、しのぎやすい1日なんだけどなぁー。大通りを過ぎて道幅は拡がり、はるか前方で中央分離帯の芝生が途切れている。あそこが交差点なのだろう。やはり人の姿はどこにもなく、少なくともあと何百mか歩いて次の十字路まで行くしかなさそうだった。左折する側の様子が見通せるように、2人は車道を横切って右側を歩いていた。
塀が切れて、空き地が現れた。雑草の奥に水たまりが残る地面が露出していて、そこに怪しげな長屋が建っている。人の住んでいる気配は、見た目からは感じられなかった。
「…あれ見て、何か変だよね」
僕は指さして、トニーに言った。トタン屋根のあばら屋があっても、それだけでは驚いたりしない。むしろ囲むように生い茂った樹木との相乗効果で、ジャマイカ的なレイドバックした雰囲気をかもし出している。僕が気に懸かったのは、壁にびっしりと描かれた絵の奇妙さのせいだ。それは決して(プリミティブ・アートとの融合を目指す都市生活者)などの類いではなく〈何らかの理由で廃屋になった幼稚園〉みたいな、どこか気味の悪いムードを漂わせている。犯罪の匂いに似たものが、僕の全身を駆け巡った。
「何か書いてあるよ」
そのまがまがしい絵の中に隠された文字に気が付いた僕は、トニーの警告を無視して雑草の中に踏み込んで行った。
「P、i、z、z、e、r、i、a…!?」ピザ屋か、それにしても怪しすぎる。
「わはははは、おーいトニー。ピザ屋だってさ、食べてみないか!」
彼は顔をしかめて首を振り、早く来いとばかりに手招きをした。信じられない、あんな店で客が来るのかなぁ? 来ないから潰れたのかもね。そういや食べてないなぁ、ピザ食いてぇー!
思い出した途端に、空腹感がよみがえってきた。でも、どこにも店なんて見えない。
メキシコ旅情【ハバナ!後編・7 Do my duty】
薄日の差す雨上がり、息切れするほどの湿気と暑さ。ようやく2つ目の十字路に辿り着いた。
ここを左に行けば、今度こそ目指す大学窓口…なのだろうか。交差点までのゴースト・タウンのような閑散とした空気が、奥に進むほど人があふれ賑わっていく。期待して良いものか、それより自分の喉が渇き切っている事さえ感じなくなっている。朝から何も食べてないし、汗でベトベト足取りはフラフラだ。
待てよ、キューバに来てから四六時中こうじゃないか?
歩行者天国のように車道を歩き回る人を避けながら進む、車とサイドカーのクラクションとエンジンの音。ひっきりなしにバスが出入りする駐車場の前で、黒煙をまともに浴びて口を手で塞いだ。
(二つ目の交差点を左に曲がってすぐ)という説明が正しければ、この建物だろう。目星をつけた雑居ビルは、キャンパスの雰囲気と大違いの薄汚い印象。大学の敷地からは離れているし、またも疑念がわき起こる。どうやらトニーも同じ気持ちらしく、2人して足が止まった。
狭い出入り口からは、若い男女が引っ切りなしに出入りしている。明らかに外国人の僕らを見て、あけすけにジロジロ眺めてゆく。開け放されたガラス戸を透かして、通路に並べられたテーブルが見えた。
「とりあえず、あそこで訊いてみたら?」
僕は、やんわりとトニーを促した。そこに座っている白髪の女性は厳しそうな表情を浮かべているが、横にいるのは若いキューバ美人だ。彼が熱心に話すと、最初は眉をひそめていた老婦人も理解を示してくれたようだ。階段を上がって4階へ行くようにと言われ、トニーは何度も頭を下げた。
ついに辿り着いた! と感慨に浸る間もなく、ちゃっかりキューバ美人と写真を撮ってるし…。こういうのを、転んでもタダでは起きないっていうんだよなー?
以前、トニーとエドベンで(ハバナにアイスクリームの店を開こう)と考えていたらしい。なにしろキューバは社会主義国家、信じ難い発想だ。最初っから議論の余地すらないと決め付けてる僕とは、そこが彼達との大きな違いだろう。
しかし現実問題としては、開始するまでの莫大な設備投資や、採算の目処が立てられない等の理由から見送られたらしい。しかし、この目でキューバという国を見ていると(誰が手を着けるかは時間の問題だ)と思えないでもなかった。今はまだ模索している段階なのかも知れないが、それでも本音と建前の間で手探りをしながら外国資本との妥協点を見いだそうとしている…そんな気配が感じられる。
そして今、トニーは本気でハバナ大学への留学を検討していた。
「アカデミックにスペイン語を習得したい」
僕から改めて言うまでもないと思ったが、しかしキューバとアメリカとは基本的に今も犬猿の仲だ。
「君はアメリカ人だから、無理なんじゃないの」
僕の忠告に、彼は質問で応えた。
「世界で一番話されているのは、何語だか知ってる?」
彼は今後、アメリカ国内でのヒスパニック人口増加をも視野に入れていた。今後スペイン語はますます重要になってくるから、それをきちんと教えられる教師が求められる…と。
それならカンクンにだって大学はあるし、わざわざハバナにする必要性はないんじゃない? ところが、大アリなのだ。僕のヒアリングに間違いなければ、彼は確かに「キューバでは、学費どころか家賃もタダなのさ」と言っていた。なんとまぁ、ビバ社会主義! 旧ソビエト連邦もそうだったのかは判らないけど、ともかく、キューバでなら食費以外に一銭も使わず暮らせるって訳だ。なんて魅力的な生活、しかも卒業の暁にはトニーの肩書も更にハクがつく…って、そんな都合よく物事が運ぶだろうか?
キューバ政府がメリットを感じなければ、余計な外国人をタダで面倒みる筈がないだろう。そこもトニーは検討済みで、彼の持つ英語を教える国際的な資格で市民の英語教育に貢献する提案を用意していた。
トニーの世界観は、僕とは違う広さとを持っていた。ビジョンと、それを近寄せるプラン。
ついに僕らは、捜していた場所に辿り着く事が出来たらしい。狭い階段をギシギシと4階まで上ると、廊下に面した扉をノックした。そこが入学手続きに関するオフィスのようだ。出てきた年配の職員に用件を説明するトニーの表情を追っていて、物事はすんなりと運びそうにない感じがしてくる。
時間は長く掛からなかったが、相手の男性は最後に済まなそうな表情を浮かべてドアを閉めた。会話の内容は一言も解らなかったけれど、それだけでおおよそは察しがつく。どうやら入学志願の倍率は高く、現状では外国人向けの特別枠を用意することは出来ないといった理由から丁重に断られたようだ。
もちろんトニーもめげずにアピールをしただろうけど、一介の職員に大学の基本的な方針を変える力は望むべくもない。結果は芳しくなかったにせよ、これで本日の約束は終わった。トニーには申し訳ないが、僕にしてみれば義理を果たして荷が下りた気分だ。あとは宿に帰って、サン・ルームでのリラックス・タイムを満喫するのみ…。おっと、その前に!
僕らが立ち話をしている間に、女子大生が廊下の応接セットに腰掛けた。くたびれたモスグリーンのソファーで、黄ばんだ古めかしい本を読み耽っているクール・ビューティ。勉学の邪魔をして恐縮だったが、写真を撮らせてと頼んでみるとニコリともせずOKしてくれた。
「彼女の横に並んだら?」
ファインダー越しにトニーが言う。僕が一人用のソファーに腰を下ろしたのは、美人の隣で緊張するだけじゃないのだ。カメラ・アングル的にはこの位置がベストなのだ、壁に貼られたポスターを使わない手はない。若き日の革命家が笑っている。
「ここでいいんだ、ミスター・チェを挟んでのツー・ショットだぜ!」
トニーに説明すると、彼も同じアングルで撮りたいと言い出した。ダメダメ、君は1階の美人で満足してなさいねー。悔しがる彼をなだめつつ、建物を出た僕らは来た道を引き返す。
「街に戻って、カフェで休もう」
トニー、それは名案だな。
怪しいピザ屋を通過して滑走路を渡り、山道を上って最初のキャンパスに戻る…その道程を想像するだけでウンザリだけど。
ここを左に行けば、今度こそ目指す大学窓口…なのだろうか。交差点までのゴースト・タウンのような閑散とした空気が、奥に進むほど人があふれ賑わっていく。期待して良いものか、それより自分の喉が渇き切っている事さえ感じなくなっている。朝から何も食べてないし、汗でベトベト足取りはフラフラだ。
待てよ、キューバに来てから四六時中こうじゃないか?
歩行者天国のように車道を歩き回る人を避けながら進む、車とサイドカーのクラクションとエンジンの音。ひっきりなしにバスが出入りする駐車場の前で、黒煙をまともに浴びて口を手で塞いだ。
(二つ目の交差点を左に曲がってすぐ)という説明が正しければ、この建物だろう。目星をつけた雑居ビルは、キャンパスの雰囲気と大違いの薄汚い印象。大学の敷地からは離れているし、またも疑念がわき起こる。どうやらトニーも同じ気持ちらしく、2人して足が止まった。
狭い出入り口からは、若い男女が引っ切りなしに出入りしている。明らかに外国人の僕らを見て、あけすけにジロジロ眺めてゆく。開け放されたガラス戸を透かして、通路に並べられたテーブルが見えた。
「とりあえず、あそこで訊いてみたら?」
僕は、やんわりとトニーを促した。そこに座っている白髪の女性は厳しそうな表情を浮かべているが、横にいるのは若いキューバ美人だ。彼が熱心に話すと、最初は眉をひそめていた老婦人も理解を示してくれたようだ。階段を上がって4階へ行くようにと言われ、トニーは何度も頭を下げた。
ついに辿り着いた! と感慨に浸る間もなく、ちゃっかりキューバ美人と写真を撮ってるし…。こういうのを、転んでもタダでは起きないっていうんだよなー?
以前、トニーとエドベンで(ハバナにアイスクリームの店を開こう)と考えていたらしい。なにしろキューバは社会主義国家、信じ難い発想だ。最初っから議論の余地すらないと決め付けてる僕とは、そこが彼達との大きな違いだろう。
しかし現実問題としては、開始するまでの莫大な設備投資や、採算の目処が立てられない等の理由から見送られたらしい。しかし、この目でキューバという国を見ていると(誰が手を着けるかは時間の問題だ)と思えないでもなかった。今はまだ模索している段階なのかも知れないが、それでも本音と建前の間で手探りをしながら外国資本との妥協点を見いだそうとしている…そんな気配が感じられる。
そして今、トニーは本気でハバナ大学への留学を検討していた。
「アカデミックにスペイン語を習得したい」
僕から改めて言うまでもないと思ったが、しかしキューバとアメリカとは基本的に今も犬猿の仲だ。
「君はアメリカ人だから、無理なんじゃないの」
僕の忠告に、彼は質問で応えた。
「世界で一番話されているのは、何語だか知ってる?」
彼は今後、アメリカ国内でのヒスパニック人口増加をも視野に入れていた。今後スペイン語はますます重要になってくるから、それをきちんと教えられる教師が求められる…と。
それならカンクンにだって大学はあるし、わざわざハバナにする必要性はないんじゃない? ところが、大アリなのだ。僕のヒアリングに間違いなければ、彼は確かに「キューバでは、学費どころか家賃もタダなのさ」と言っていた。なんとまぁ、ビバ社会主義! 旧ソビエト連邦もそうだったのかは判らないけど、ともかく、キューバでなら食費以外に一銭も使わず暮らせるって訳だ。なんて魅力的な生活、しかも卒業の暁にはトニーの肩書も更にハクがつく…って、そんな都合よく物事が運ぶだろうか?
キューバ政府がメリットを感じなければ、余計な外国人をタダで面倒みる筈がないだろう。そこもトニーは検討済みで、彼の持つ英語を教える国際的な資格で市民の英語教育に貢献する提案を用意していた。
トニーの世界観は、僕とは違う広さとを持っていた。ビジョンと、それを近寄せるプラン。
ついに僕らは、捜していた場所に辿り着く事が出来たらしい。狭い階段をギシギシと4階まで上ると、廊下に面した扉をノックした。そこが入学手続きに関するオフィスのようだ。出てきた年配の職員に用件を説明するトニーの表情を追っていて、物事はすんなりと運びそうにない感じがしてくる。
時間は長く掛からなかったが、相手の男性は最後に済まなそうな表情を浮かべてドアを閉めた。会話の内容は一言も解らなかったけれど、それだけでおおよそは察しがつく。どうやら入学志願の倍率は高く、現状では外国人向けの特別枠を用意することは出来ないといった理由から丁重に断られたようだ。
もちろんトニーもめげずにアピールをしただろうけど、一介の職員に大学の基本的な方針を変える力は望むべくもない。結果は芳しくなかったにせよ、これで本日の約束は終わった。トニーには申し訳ないが、僕にしてみれば義理を果たして荷が下りた気分だ。あとは宿に帰って、サン・ルームでのリラックス・タイムを満喫するのみ…。おっと、その前に!
僕らが立ち話をしている間に、女子大生が廊下の応接セットに腰掛けた。くたびれたモスグリーンのソファーで、黄ばんだ古めかしい本を読み耽っているクール・ビューティ。勉学の邪魔をして恐縮だったが、写真を撮らせてと頼んでみるとニコリともせずOKしてくれた。
「彼女の横に並んだら?」
ファインダー越しにトニーが言う。僕が一人用のソファーに腰を下ろしたのは、美人の隣で緊張するだけじゃないのだ。カメラ・アングル的にはこの位置がベストなのだ、壁に貼られたポスターを使わない手はない。若き日の革命家が笑っている。
「ここでいいんだ、ミスター・チェを挟んでのツー・ショットだぜ!」
トニーに説明すると、彼も同じアングルで撮りたいと言い出した。ダメダメ、君は1階の美人で満足してなさいねー。悔しがる彼をなだめつつ、建物を出た僕らは来た道を引き返す。
「街に戻って、カフェで休もう」
トニー、それは名案だな。
怪しいピザ屋を通過して滑走路を渡り、山道を上って最初のキャンパスに戻る…その道程を想像するだけでウンザリだけど。
メキシコ旅情【ハバナ!後編・8 ノーチェ・クバーナ】
この店からは、ハバナ大学の正門が見える。やっと市街まで戻ってきたのだ。
冷たいジュースでひと心地つき、売れ残っていたサンドイッチを僕らは半分こして食べた。一口で収まったサンドイッチは、空腹でも不味く感じて余計に喉が渇いた。店は空いているのに、鉢植えの向こうは人通りが激しくなってきた。
疲労のせいなのか、街は鈍く重苦しいモノ・トーンに見える。行き交う人々と車の上に、垂れ込めた雲から静かに雨が降り出した。下り坂になった店の前をまっすぐ行けばオールド・ハバナだ、道の彼方に入り江が見える。
「…もう、後は宿に帰るだけだよね?」
僕は、トニーに念を押した。
路上駐車で狭まった道路をかき分けるように進む「グヮグヮ」が、暗雲の如き排気ガスで町並みを少し黒く染める。帰途に就いた僕らに、壁から伸びたり引っ込んだりしている手が見えた。そこにはバス停があって、乗車待ちの人々が歩道を塞いでいた。
僕らは通り過ぎるふりをして、正体を確かめようと横目で見やった。通りに面した民家の庭先で、柵の間から路上の人手に得体の知れない何かが渡っていく。香ばしい匂いで、すぐに胃袋がピンときた。
ピッツァ!?
柵に掲げられたボール紙に「5$」と足元を見るような数字が書かれていて、僕らは(ずいぶんと値が張るなー)とためらってしまう。しかしトニーの決断は早かった。
「高いから、一切れでもいいよね」
彼の言葉に、すがるような上目遣いをしてしまう僕。
待ち人の列に並ぶと、柵の前でお父さんが慌ただしくピッツァを客に手渡してお母さんがお金を受け取っていた。何人かの娘達が庭の芝生を行き来して、次々に焼きたてのピザを運んでは家の中に消える。家族が分担して立ち働いていて、ピッツァは冷める間もなく人々の冷えきった体に収まってゆくのだった。なんか素的な雰囲気だな。
順番が来て、トニーが1ドル札5枚を柵の向こうに差し込む。と、お父さんが札を押し返してきた。両者ともにビックリ顔で、真相はキューバ・ペソ表示で「一切れ5ペソ」だったのだ。つまり、このピッツァはキューバ市民を相手に売られているのだった。
だからって(ドル紙幣は使えない)と言われても…!
外国人は現地通貨に両替できないので、僕らはどこに行っても米ドル・オンリーだった。キューバ・ペソを持ち合わせていないからって、空腹を堪えるには美味しそうな匂いが充満している。無理無理、食わせて。
トニーは後ろの待ち客に詫びながら、再度1ドル紙幣で交渉する。ちょっと考えてから、お父さんは横のお母さんに何か言い付けて受け取った。お母さんが細かいコインでお釣りをくれたので、ついでに「これでもう一枚買えない?」と訊いてみる。
どのコインも粒のように小さくて、素人目には違いが見分けられない。手を出す娘に小銭を空けると、お父さんは代金分を拾い出して残りは返してくれた。なんて律義な一家なんだ! ハバナには路上で袖を引く若者もいるけれど、一般市民は観光客ズレしていない。周囲の様子からして、ドル札を見る事自体が珍しいような雰囲気だった。
僕らはそれぞれにピッツァを丸ごと手にする事が出来て、食べながら通りを下って宿に着いた。この辺に来ると人通りは絶えて、ヒマそうにぶらついているのは客引きの連中ばかりだ。僕ら2人をカモだと踏んで、あからさまな顔で駆け寄ってくる。実にうざったい。
彼らは白タクの運ちゃんと組んで、客を連れてゆくたびにマージンを得るのだろう。それは当然、乗車料金に上乗せされる訳だよな。そしてその白タクも、個人営業の店や宿からキック・バックを得ている…。
手動ドアのエレベーターで部屋に入り、籐のカウチに腰を下ろした。もう動けない、引力に逆らうなんて重労働は勘弁してくれ。どうにか体を起こし、数日振りの水シャワーでベタつく汗を洗い流した。これが温水だったら、さぞかし疲れも癒されるだろうに…いやいや、納得ずくだから、そんな事は言わないの。
トニーは一足早くベッドに寝ていて、思わず(先に浴びて、彼がいない間に占領して寝ちまうんだった)などという考えが頭をかすめる。でも文句は言うまい、トニーには大きな借りがあるのだ。それに、僕にはラタンのカウチが残されている。
こいつだって寝心地は悪くないだろう、もし悪くたって眠ってしまえば関係ない。まだ7時にもなっていないが、もはや寝ること以外に何もしたくなかった。
「モーニング・コールは6時に頼んでおいたからね、じゃおやすみ」
そう言うやいないや、すぐにトニーは寝息を立て始めた。僕もカウチの足元に小さなスツールを並べ、寝仕度にかかる。目を閉じると、この部屋独特の匂いが感じられた。
それは街中のホコリっぽさとも、エレベーター・ホールのコンクリートのような冷ややかさとも違う。もっと暖かく、穏やかな空気だった。落ち着いた家具と、陽光を吸ったシーツ。それに卓上に飾られた花の仄かな香り…。
色々な出来事が重なった、キューバの濃い日々も〈終わり良ければ全て善し〉だ。そしてカンクンに戻ったら、慌ただしく帰国の準備にかからなければならない。僕は意識を失うように、眠りに落ちていった。
冷たいジュースでひと心地つき、売れ残っていたサンドイッチを僕らは半分こして食べた。一口で収まったサンドイッチは、空腹でも不味く感じて余計に喉が渇いた。店は空いているのに、鉢植えの向こうは人通りが激しくなってきた。
疲労のせいなのか、街は鈍く重苦しいモノ・トーンに見える。行き交う人々と車の上に、垂れ込めた雲から静かに雨が降り出した。下り坂になった店の前をまっすぐ行けばオールド・ハバナだ、道の彼方に入り江が見える。
「…もう、後は宿に帰るだけだよね?」
僕は、トニーに念を押した。
路上駐車で狭まった道路をかき分けるように進む「グヮグヮ」が、暗雲の如き排気ガスで町並みを少し黒く染める。帰途に就いた僕らに、壁から伸びたり引っ込んだりしている手が見えた。そこにはバス停があって、乗車待ちの人々が歩道を塞いでいた。
僕らは通り過ぎるふりをして、正体を確かめようと横目で見やった。通りに面した民家の庭先で、柵の間から路上の人手に得体の知れない何かが渡っていく。香ばしい匂いで、すぐに胃袋がピンときた。
ピッツァ!?
柵に掲げられたボール紙に「5$」と足元を見るような数字が書かれていて、僕らは(ずいぶんと値が張るなー)とためらってしまう。しかしトニーの決断は早かった。
「高いから、一切れでもいいよね」
彼の言葉に、すがるような上目遣いをしてしまう僕。
待ち人の列に並ぶと、柵の前でお父さんが慌ただしくピッツァを客に手渡してお母さんがお金を受け取っていた。何人かの娘達が庭の芝生を行き来して、次々に焼きたてのピザを運んでは家の中に消える。家族が分担して立ち働いていて、ピッツァは冷める間もなく人々の冷えきった体に収まってゆくのだった。なんか素的な雰囲気だな。
順番が来て、トニーが1ドル札5枚を柵の向こうに差し込む。と、お父さんが札を押し返してきた。両者ともにビックリ顔で、真相はキューバ・ペソ表示で「一切れ5ペソ」だったのだ。つまり、このピッツァはキューバ市民を相手に売られているのだった。
だからって(ドル紙幣は使えない)と言われても…!
外国人は現地通貨に両替できないので、僕らはどこに行っても米ドル・オンリーだった。キューバ・ペソを持ち合わせていないからって、空腹を堪えるには美味しそうな匂いが充満している。無理無理、食わせて。
トニーは後ろの待ち客に詫びながら、再度1ドル紙幣で交渉する。ちょっと考えてから、お父さんは横のお母さんに何か言い付けて受け取った。お母さんが細かいコインでお釣りをくれたので、ついでに「これでもう一枚買えない?」と訊いてみる。
どのコインも粒のように小さくて、素人目には違いが見分けられない。手を出す娘に小銭を空けると、お父さんは代金分を拾い出して残りは返してくれた。なんて律義な一家なんだ! ハバナには路上で袖を引く若者もいるけれど、一般市民は観光客ズレしていない。周囲の様子からして、ドル札を見る事自体が珍しいような雰囲気だった。
僕らはそれぞれにピッツァを丸ごと手にする事が出来て、食べながら通りを下って宿に着いた。この辺に来ると人通りは絶えて、ヒマそうにぶらついているのは客引きの連中ばかりだ。僕ら2人をカモだと踏んで、あからさまな顔で駆け寄ってくる。実にうざったい。
彼らは白タクの運ちゃんと組んで、客を連れてゆくたびにマージンを得るのだろう。それは当然、乗車料金に上乗せされる訳だよな。そしてその白タクも、個人営業の店や宿からキック・バックを得ている…。
手動ドアのエレベーターで部屋に入り、籐のカウチに腰を下ろした。もう動けない、引力に逆らうなんて重労働は勘弁してくれ。どうにか体を起こし、数日振りの水シャワーでベタつく汗を洗い流した。これが温水だったら、さぞかし疲れも癒されるだろうに…いやいや、納得ずくだから、そんな事は言わないの。
トニーは一足早くベッドに寝ていて、思わず(先に浴びて、彼がいない間に占領して寝ちまうんだった)などという考えが頭をかすめる。でも文句は言うまい、トニーには大きな借りがあるのだ。それに、僕にはラタンのカウチが残されている。
こいつだって寝心地は悪くないだろう、もし悪くたって眠ってしまえば関係ない。まだ7時にもなっていないが、もはや寝ること以外に何もしたくなかった。
「モーニング・コールは6時に頼んでおいたからね、じゃおやすみ」
そう言うやいないや、すぐにトニーは寝息を立て始めた。僕もカウチの足元に小さなスツールを並べ、寝仕度にかかる。目を閉じると、この部屋独特の匂いが感じられた。
それは街中のホコリっぽさとも、エレベーター・ホールのコンクリートのような冷ややかさとも違う。もっと暖かく、穏やかな空気だった。落ち着いた家具と、陽光を吸ったシーツ。それに卓上に飾られた花の仄かな香り…。
色々な出来事が重なった、キューバの濃い日々も〈終わり良ければ全て善し〉だ。そしてカンクンに戻ったら、慌ただしく帰国の準備にかからなければならない。僕は意識を失うように、眠りに落ちていった。
メキシコ旅情【ハバナ!後編・9 ハンバーガーの聖者】
気が付けば、真夜中過ぎだった。目を閉じてから、まだ5分と経っていない感じがする。目が覚めたのは無理な姿勢が辛くなったせいだ、再び椅子を並べ直して姿勢を変えたが…。もういけなかった、寝る気満々なのに眠れない。それでも執拗に(眠りの穴)に潜り込もうと焦る。
突然、部屋の電話が鳴り響いた。頭に来て速攻で切る。何時だと思ってやがるんだ?
しばらくして、また鳴った。それは間違い電話なんかではなく、明らかにモーニングコールだった。目を開けると、窓の外から淡いブルーの光が差し込んでいた。夜が明けてしまったのだ。
(冗談じゃない、何でオレが先に起こされなきゃいけないんだ!?)
しかし電話が止んだら今度はドアのノックが激しくなり、さすがのトニーも跳び起きた。
「おい朝だぞ、早く起きろ!」
…くそ!
「私は何度も起こしたのよ、電話を掛けてもドアを叩いても…」
小うるさい女主人の声に追われるように、手早く身支度を整える。
女性から親身になって(やきもき)してもらう、それはくすぐったく照れ臭いものだな。案外と僕もまた、そういう男だったのだなぁ。いい年をして、手のかかる子供みたいな甘ったれ野郎。情けない反面、久しぶりの(微かな幸せ)が快い。気丈夫なマダムに繰り返し礼を述べて、名残惜しい宿を後にする。機会があったら、是非ここで暮らしてみたい…無理だろうけど。
今度こそ、おさらばだ。アディオス・キューバ!
気持ちばかりが急いてしまう。宿を出たのは8時だったが、時間には余裕があった。これで帰れなかったら本当にアウトだ、いや今日こそは何をしたって飛行機に乗るもんね。ともかく、また昨日の係官と揉める前に滑り込みたい。
空港はガラ空きで、搭乗手続きも無事に通過する。まずはひと安心。入国時に比べたら、出国審査なんて無いも等しいものだった。あとは搭乗時間まで、何もする事がない。やたらに高い丸天井の下、無意味に広い待合所で過ごすのだ。空港の建物は(だだっ広い駅舎)を想像させる、出入り口の両方から10m以内に改札が設けられた空洞だ。
暇つぶしに、片隅にあるイミグレ[税関]の売店をのぞく。この店のほうが、ハバナ市街よりも手頃な土産が揃っていた。
「ポルファボール」
何度も声を掛けたけど一向に返事がないので「オイガ」と呼びかけ、トニーにたしなめられた。
「その言葉は、使ったらまずいョ!」
でもほら、やっと出てきやがった。思ってた通り、若いのに愛想のかけらも知らない女だ。
「だって、丁寧な言葉でも完全に無視してたでしょ。」
僕が日本語で言い訳すると、彼も日本語で言い返してきた。
「それでも良くないョ、それはケンカする時の言い方になるから。」
丁寧な言葉でないこと位は知っていたさ、だから今まで一度も使った試しがない。
「どうして、そんな問題ばかり起こそうとする!?」
「…はいはい、僕が悪かったよ!」
絵ハガキを選びながら、何げない調子で口論を続ける。
「ここは、よその国でしょ。そういう態度は良くないョ。」
「OK。これまで使ってないし、もう使わない。」
ピッツァを買った時のキューバ・ペソで、絵ハガキを買う。値段が判らないので小銭を店員の手に空けると、そのまま彼女は奥に引っ込んでしまった。偶然にもピッタリの金額だったのだろう。
記念に数枚ぐらい残しておけば良かったが、気付いた時には後の祭りだった。
ベンチに座って、搭乗を待つ。
「腹減ったね、トニー。ハンバーガーが恋しいよ」
「カンクンに着いたら速攻でバーガーキングに行こう」
「それは良いね、ハラペーニョてんこ盛りにしてさぁー!」
…うぅっ、考えるだけで口の中に唾が溜まる。
そんなことを言っていると、どこから現れたのか若い男が目の前に立っていた。彼はニコニコと人の良さそうな笑顔で、何も言わずに僕の手を取り銀色の包み紙を乗せた。それは柔らかくて温かく、まるでハンバーガーみたいな…ってまさか、そんな筈ないよね?!
(話を聞かれていたのか)と思うと恥ずかしくて、そして突然の成り行きに訳が分からなくなった。とにかく慌てて辞退するが、彼は慈愛のこもった眼差しで頷きかけるばかりで受け取ろうとしない。押し問答に詰まった僕は、つい手のひらの包みをめくってみた。立ちのぼる、めくるめく香り…やっぱり!! でも一体どういう事だ?!
この青年に疑わしい素振りは感じられなかったし、ここで僕らをハメる理由も考えつかなかった。美味しそうな匂いに堪らなくなって、僕は好意に甘んじて有り難く頂戴する。すると、若者は嬉しそうに手を振って立ち去っていった。クゥーッ、感動。カッコ良さ過ぎ〜!
彼の後ろ姿を見送りながら、思わずハンバーガーを持ったままで合掌。神はいる、そう僕は実感した。救いの手は、いつもどこかにあるのだと。
最後に出逢ったキューバの人が、貴方で良かった…。と、ここで終われば僕らも少しはカッコがつく気もするが、一応オチがあった。拝むようにしてハンバーガーの紙包みを開くと、キューバ風バーガーはクッタリした貧相なツナ・マフィンだったのだ。なぁんだ、ガッカリ。
でもそれはそれで半分こして、2人でパクッと胃袋に収めた。
その美味さに、思わず泣けてきた。
帰りの便はエアロ・ガビオータではなく、クバーナ航空のマークが尾翼に記されていた。
念のため、僕は手元のボーディング・パスを見る。便所紙のようなペラペラだけど、確かにクバーナのロゴが印刷されていた。座席番号が無いのは分かるけど、行き先と便名だけが殴り書きされていて出発時刻の記載がないのは腹が立つ。航空会社からして、真剣に運行しようとなどと思ってもいないんじゃないか?
正味2時間あまりのフライトで、トニーと僕はカンクン国際空港に降り立った。機内での記憶はなく、おそらく爆睡していたものと思われる。でなければ、宇宙人に連行されていたのであろう。何も覚えていない。
突然、部屋の電話が鳴り響いた。頭に来て速攻で切る。何時だと思ってやがるんだ?
しばらくして、また鳴った。それは間違い電話なんかではなく、明らかにモーニングコールだった。目を開けると、窓の外から淡いブルーの光が差し込んでいた。夜が明けてしまったのだ。
(冗談じゃない、何でオレが先に起こされなきゃいけないんだ!?)
しかし電話が止んだら今度はドアのノックが激しくなり、さすがのトニーも跳び起きた。
「おい朝だぞ、早く起きろ!」
…くそ!
「私は何度も起こしたのよ、電話を掛けてもドアを叩いても…」
小うるさい女主人の声に追われるように、手早く身支度を整える。
女性から親身になって(やきもき)してもらう、それはくすぐったく照れ臭いものだな。案外と僕もまた、そういう男だったのだなぁ。いい年をして、手のかかる子供みたいな甘ったれ野郎。情けない反面、久しぶりの(微かな幸せ)が快い。気丈夫なマダムに繰り返し礼を述べて、名残惜しい宿を後にする。機会があったら、是非ここで暮らしてみたい…無理だろうけど。
今度こそ、おさらばだ。アディオス・キューバ!
気持ちばかりが急いてしまう。宿を出たのは8時だったが、時間には余裕があった。これで帰れなかったら本当にアウトだ、いや今日こそは何をしたって飛行機に乗るもんね。ともかく、また昨日の係官と揉める前に滑り込みたい。
空港はガラ空きで、搭乗手続きも無事に通過する。まずはひと安心。入国時に比べたら、出国審査なんて無いも等しいものだった。あとは搭乗時間まで、何もする事がない。やたらに高い丸天井の下、無意味に広い待合所で過ごすのだ。空港の建物は(だだっ広い駅舎)を想像させる、出入り口の両方から10m以内に改札が設けられた空洞だ。
暇つぶしに、片隅にあるイミグレ[税関]の売店をのぞく。この店のほうが、ハバナ市街よりも手頃な土産が揃っていた。
「ポルファボール」
何度も声を掛けたけど一向に返事がないので「オイガ」と呼びかけ、トニーにたしなめられた。
「その言葉は、使ったらまずいョ!」
でもほら、やっと出てきやがった。思ってた通り、若いのに愛想のかけらも知らない女だ。
「だって、丁寧な言葉でも完全に無視してたでしょ。」
僕が日本語で言い訳すると、彼も日本語で言い返してきた。
「それでも良くないョ、それはケンカする時の言い方になるから。」
丁寧な言葉でないこと位は知っていたさ、だから今まで一度も使った試しがない。
「どうして、そんな問題ばかり起こそうとする!?」
「…はいはい、僕が悪かったよ!」
絵ハガキを選びながら、何げない調子で口論を続ける。
「ここは、よその国でしょ。そういう態度は良くないョ。」
「OK。これまで使ってないし、もう使わない。」
ピッツァを買った時のキューバ・ペソで、絵ハガキを買う。値段が判らないので小銭を店員の手に空けると、そのまま彼女は奥に引っ込んでしまった。偶然にもピッタリの金額だったのだろう。
記念に数枚ぐらい残しておけば良かったが、気付いた時には後の祭りだった。
ベンチに座って、搭乗を待つ。
「腹減ったね、トニー。ハンバーガーが恋しいよ」
「カンクンに着いたら速攻でバーガーキングに行こう」
「それは良いね、ハラペーニョてんこ盛りにしてさぁー!」
…うぅっ、考えるだけで口の中に唾が溜まる。
そんなことを言っていると、どこから現れたのか若い男が目の前に立っていた。彼はニコニコと人の良さそうな笑顔で、何も言わずに僕の手を取り銀色の包み紙を乗せた。それは柔らかくて温かく、まるでハンバーガーみたいな…ってまさか、そんな筈ないよね?!
(話を聞かれていたのか)と思うと恥ずかしくて、そして突然の成り行きに訳が分からなくなった。とにかく慌てて辞退するが、彼は慈愛のこもった眼差しで頷きかけるばかりで受け取ろうとしない。押し問答に詰まった僕は、つい手のひらの包みをめくってみた。立ちのぼる、めくるめく香り…やっぱり!! でも一体どういう事だ?!
この青年に疑わしい素振りは感じられなかったし、ここで僕らをハメる理由も考えつかなかった。美味しそうな匂いに堪らなくなって、僕は好意に甘んじて有り難く頂戴する。すると、若者は嬉しそうに手を振って立ち去っていった。クゥーッ、感動。カッコ良さ過ぎ〜!
彼の後ろ姿を見送りながら、思わずハンバーガーを持ったままで合掌。神はいる、そう僕は実感した。救いの手は、いつもどこかにあるのだと。
最後に出逢ったキューバの人が、貴方で良かった…。と、ここで終われば僕らも少しはカッコがつく気もするが、一応オチがあった。拝むようにしてハンバーガーの紙包みを開くと、キューバ風バーガーはクッタリした貧相なツナ・マフィンだったのだ。なぁんだ、ガッカリ。
でもそれはそれで半分こして、2人でパクッと胃袋に収めた。
その美味さに、思わず泣けてきた。
帰りの便はエアロ・ガビオータではなく、クバーナ航空のマークが尾翼に記されていた。
念のため、僕は手元のボーディング・パスを見る。便所紙のようなペラペラだけど、確かにクバーナのロゴが印刷されていた。座席番号が無いのは分かるけど、行き先と便名だけが殴り書きされていて出発時刻の記載がないのは腹が立つ。航空会社からして、真剣に運行しようとなどと思ってもいないんじゃないか?
正味2時間あまりのフライトで、トニーと僕はカンクン国際空港に降り立った。機内での記憶はなく、おそらく爆睡していたものと思われる。でなければ、宇宙人に連行されていたのであろう。何も覚えていない。