でも、それで却って(出来るけどしない)とか葛藤しそう・・・って今更な話です。
分かりやすくいえば飲食店や電車の中など、手持ち無沙汰な一瞬にふと思い立ったりした時ね。その用件と自分の置かれた状況を秤にかけるような、ケータイのポテンシャルが高まるほど(してはいけないけど、出来なくはない)という時と場所が普遍化してゆく気がして。
たとえばゲーム機能やワンセグTVなどで、目の前の今が退けられてしまう瞬間。
僕もゲームは好きで、家にいて時間があるとついゲームをやってしまう手合いなの。自室での優先順位が変わっちゃうゲーム機能、それが僕のケータイに付けてたら困った事になるね。
仮に恋人とデートしてても、少しでも中だるみした瞬間に思わずゲームの事を考えてしまうとか。そんなユビキタスな葛藤で、してはいけない時と場所で悶々とするかも・・・?
電車に乗っていたりして、隣の空席にどかんと座り込んでゲームを始める勤め人。
すぐ脇の他人が見えないし、ぶつかろうが関係ない。移動時間めいっぱいゲームに浸る、その快感だけで脳みそが痺れているみたい。
ロールプレイング系のゲームには、いわゆる「フラグ立て」という段取りがあるのね。順序が絡み合っている部分は一気に進めないと、それこそ(たかがゲーム)がストレスになりそう。
ケータイの機能で、たまに違和感あるのはカメラ機能だな。
気にしすぎなんだろうけどさ、どうも(こういうものだ)として育ってきたから、いきなりケータイを突きつけられると心外に思っちゃう。
いうまでもなく、僕が育つ過程にはケータイなんて存在しなかった。だからかな、たとえ知人であろうとなかろうと(いやむしろ他人であれば尚更)カメラを向ける時は遠慮会釈があったものだ。それが「すいません」と苦笑のような照れ笑いのようなポーズであったり、目礼であってもね。
大昔の迷信じみた「箱に命を吸い取られる」といった意味でなく、不用意にカメラを向けない無意識の了解があったのだと思う。
でも今は、断りなしに写真を撮ることは常識(多数派)な訳で。
直前まで親しく言葉を交わしていた人も、急に真顔でケータイを構えだす。
フレーム越しに僕を見ている筈が、まるで取るに足らない石ころでも見ているような表情で。
たとえば電話で話していても、笑い声の向こう側ではこんな顔してるかもしれないけど。そんなの見せないでよ、その親しさが虚構だったように錯覚するじゃないのさ・・・。
ましてや赤の他人ともなれば、本当に何のためらいもなく「写メ」る。
呪文なしで邪心を封じ込めるような、魔物退治でもするような勢いよ。無頓着に突きつけられる金属板、あそこから何かが向けられているのではなかろうか?
いきなり見知らぬ人から指差されるような、いわれなき非難じみた気味悪さが少しある。
あれを平気でやってる人たちは、自分がされても気にならないんだろう。そこに年齢の差はなく、だから若者が礼儀知らずといった話じゃないやね。
それとも「知らない人が笑いながら無言でケータイを突きつけてくる」といった経験がないのだろうか?
その人数が多いほど、不思議と無邪気に踏みにじられるような気分になるのだけど・・・。
町中で、ちょっとした事件が起こる。
それが交通事故であれ、通行人どうしの揉め事であれ、気付いた順に通行人が立ち止まり腕を突き出す。傍若無人な振る舞いが、傍若無人に取り囲まれ、結界で封印される非日常。
見えないビームが発射され、撮られた側の魂の一部が飛び散ってゆく。ネットに繋いでそれを眺めていると、撮られた方が悪いような気軽ささえ共有してしまう。
もはや(心の中だけに留めておく)なんて事など、誰にもできない。この世から隠し事がなくなるのは、それほど悪い事でもない気はする。
けれども。
食事に出かけてさ、料理が並ぶと一斉にケータイ(あるいはデジカメ)を取り出す。
いつの間にか「いただきます」よりも当たり前な光景になってるらしいね、自分の家ならば新聞読みながらでも片ヒザ立てても構わないとは思うよ。
まぁ実際さ、旅の思い出には(いつ何を食べたか)を写真に残すって悪くないアイデアだなって思うのね。
それにしても、何をするにも先ずケータイ(あるいはデジカメ)だもんなー。
ユビキタスな葛藤なんて、気にする必要もなさそうだ。
平成19年6月18日
