12月、コオ老人と再会して海への散歩に誘われました。毎朝、ひとりで出かけているそうです。
「これを持って行ってください、差し上げます」
そう言って奥から出してきたのは、水の入ったペットボトル。
よく見れば濡れているし、しかもキャップが開いていますが?
ガイドブックによれば(日本人が生の水道水を飲むのは止めたほうがよい)のだそうだけど、それにしてもラベルに「酷の水」・・・って何!?
アジアの国々では、色々な商品に日本語が使われているようです。それは台湾も同様で、どうやら日本製に似せたイメージで高級感を持たせているらしいのですね。
そこで見られる不思議な日本語が、稀に言葉の壁というか限界を超える時があって、単に見ていて楽しい以上の面白味があります。
でもやっぱ「酷の水」ってのは、ちょっとなぁ〜。
駅前から248のバスに乗り(土日は99)、フェリー乗り場へ向かいます。
愛河を渡るのは初めてで、港口という貨物駅を見下ろす陸橋の上から旗津半島が見えてきました。
フェリーの料金は全票(往復)10元、わずか10分足らずで向こう岸に到着。
人が降りた背後から、1階に待機していたバイクが一気に走り出します。
すごい排気ガス!
港の外れまで歩いて行って戻る間に、すっかり僕はここが気に入ってしまいました。
いいなぁ、このムード!
港から坂を上って「台湾キリスト教伝来の地」を通ると、もう反対側の砂浜でした。
海水浴場なのに「遊泳禁止」の立て札があるのは妙ですが、きれいなビーチです。
サーファー2人が、ボードにまたがり波待ち中でした。
旗津半島とはいうものの、実は堤防のように細長く伸びた島です。
昔は本当に半島だったのですが、内海との海運の都合で外海とつなげるため付け根の陸地を掘り抜いたのだそうです。
コオ老人の話によれば、この半島から高雄は漁業の町として栄えていったとの事。
内陸部の開発が進んだのは日本統治時代で、愛河も日本軍が竣工したのだとか。
そんな旗津も、今は気持ちよくひなびた港町。
ビーチもあるしK−netもあるし、次回はここで宿を探すのも悪くないかも。それに出租(レンタル)MTBとか、観光3輪車(輪タク)もありました。
「帰りはバスを乗り継いで、海底トンネルの方を通りましょう」
せっかくのコオ老人の提案でしたが、一向にバスが来ないので断念してフェリーで戻ります。
空ぶかしをするバイクの音も、2階の客室には聞こえてきません。
旗津の漁港が夏の夕暮れ色に染まって、対岸の近代的な重工業の港にライトが灯り始めていました。
帰路、コオ老人から熱心に
「明日は寿山公園を案内しましょう」、
「息子の車で、台東の温泉に行きましょう」
・・・と、例によって強烈に口説かれてしまいました。
でも明日は最終日ですから、あまり悠長に遠出してる気にはなれないんですよね。
「大丈夫ですよ? 台北には長距離バスで行けば、早いっ! ね、そうなさい」
はぁー、お気持ちだけ頂戴し丁重にお断りしました。
しかし今度は夕食の誘いを受け、さすがに根負けしたような気分でご相伴に預かる事となりました。
家政婦に雇っているタイ人女性の作る、普通の味付けの食事です。
気を利かせて日本食にしてくれたのか、コオ老人が日本びいきだからなのか。
玄米ごはんに焼き魚、そして白玉ぜんざい。
今日は冬至なので、慣習でお団子を食べるのだそうです。
辞去する際に、また明日の昼食を一緒にする約束をしてしまいました。
ははは・・・。
2007年12月26日
2007年12月16日
【'05台湾×2】31/電気マッサージ!
2月にコオ老人と出会い、オムツ交換の後で自宅介護の本を送る約束をして、それから届いた旨の手紙をいただいていました。
12月、僕が再訪する直前に出したカードは、もう着いているだろうか。
晴れ間が出て、宿からコオ老人の家までは僅かな距離なのに汗をかいてしまいました。
オムツ交換をした1階にはシャッターが下りていて、途方に暮れていると通りかかった人が部屋を調べて呼び鈴を鳴らしてくれました。
コオ老人は、僕からのカードを受け取ってすぐ返事を出してくれていたそうですが、それは僕が日本を発つまでに届かなかったので、もう少しで行き違いになるところでした。
4階の自宅でパパイヤと、そして大根とご飯で作ったという挙げ餅もご馳走になりました。
そこにアメリカ在住の息子さんから国際電話が入り、後で聞いた話では娘さんもアメリカ人と結婚して向こうで暮らしてるのだそうです。
つい10日前まで里帰りしていたお孫さんは、アメリカチームのオリンピック選手で、名前はトラさん。
思ったとおり、コオ老人は「日本語に由来する名前を付けました」と誇らしげに言いました。
奥さんは、通りに面した日当たりの好い部屋で横になっていました。
わざわざ起こしてしまうのも、却って申し訳ない気になります。でも奥さんは僕を覚えていて、澄んだ笑みを浮かべました。
レース越しの柔らかな光の中で、僕は生まれて初めて(天使のようだ)という言葉が自然に感じられました。
そして同時に、このご夫婦のような老後を迎える自信がない自分への失望感と、しかしそれは不可能な夢物語ではないという安堵を僕に与えてくれる一瞬でもあったのでした。
コオ老人が思い付いたように「毎朝バスで散歩に行っている海岸まで、是非ご案内しましょう」と言い出し、こうなると断りきれるものではありません。
まぁ顔見せだけは済まないだろうとは予想していましたし、それにどのみち僕に予定などありませんから。
2月のオムツ交換後にも、コオ老人の誘いに負けて一緒に出かけたのでした。
あの日はクッキーをご馳走になった後、市バスに乗って隣町の鳳山まで行ったのです。
なぜか「電気マッサージの無料体験」に・・・!
立派なビルの何階かで降りると、どうやらそこはマッサージベッドの販売会場のようでした。
大勢のお年寄りが、ワイヤレスマイクを持ったインストラクターの指示でボタン操作しています。
みなさん常連同士で、無料の娯楽施設と化している様子。
待合のパイプ椅子が次々に埋まっていく中、スリッパに履き替えると僕までベッドに連れて行かれてしまいました。
どう考えても僕なんか、販売対象ではないのにな〜?
確かに気持ちは好いのですが、僕には温熱効果で汗だくです。
それにボタン操作の指示はともかく、コール&レスポンスまではご期待に沿えません。
そうやって商品名を連呼させ、覚えてもらうのでしょう。そして何度でも来て試してもらって、気に入ったら買ってくださいという商法のようです。
コオ老人に言わせれば「台湾では、こうして高額商品を売るのです」との事でした。
でも最中は、すっかりイビキかいて夢の中でしたが(後日、購入したと手紙にありました)。
帰る頃には夕暮れで、なかなかバスが来ないと思ったら学生の下校時間と重なってしまったんですね。
バス停ごとに乗ってきて、ギューギューの満員状態で逆に疲れてしまいました。
そうしてコオ老人の家まで戻って別れると、ようやく僕は宿に土産を置いたのでした(重いものを買い込んでなくて良かったぁ〜)。
12月、僕が再訪する直前に出したカードは、もう着いているだろうか。
晴れ間が出て、宿からコオ老人の家までは僅かな距離なのに汗をかいてしまいました。
オムツ交換をした1階にはシャッターが下りていて、途方に暮れていると通りかかった人が部屋を調べて呼び鈴を鳴らしてくれました。
コオ老人は、僕からのカードを受け取ってすぐ返事を出してくれていたそうですが、それは僕が日本を発つまでに届かなかったので、もう少しで行き違いになるところでした。
4階の自宅でパパイヤと、そして大根とご飯で作ったという挙げ餅もご馳走になりました。
そこにアメリカ在住の息子さんから国際電話が入り、後で聞いた話では娘さんもアメリカ人と結婚して向こうで暮らしてるのだそうです。
つい10日前まで里帰りしていたお孫さんは、アメリカチームのオリンピック選手で、名前はトラさん。
思ったとおり、コオ老人は「日本語に由来する名前を付けました」と誇らしげに言いました。
奥さんは、通りに面した日当たりの好い部屋で横になっていました。
わざわざ起こしてしまうのも、却って申し訳ない気になります。でも奥さんは僕を覚えていて、澄んだ笑みを浮かべました。
レース越しの柔らかな光の中で、僕は生まれて初めて(天使のようだ)という言葉が自然に感じられました。
そして同時に、このご夫婦のような老後を迎える自信がない自分への失望感と、しかしそれは不可能な夢物語ではないという安堵を僕に与えてくれる一瞬でもあったのでした。
コオ老人が思い付いたように「毎朝バスで散歩に行っている海岸まで、是非ご案内しましょう」と言い出し、こうなると断りきれるものではありません。
まぁ顔見せだけは済まないだろうとは予想していましたし、それにどのみち僕に予定などありませんから。
2月のオムツ交換後にも、コオ老人の誘いに負けて一緒に出かけたのでした。
あの日はクッキーをご馳走になった後、市バスに乗って隣町の鳳山まで行ったのです。
なぜか「電気マッサージの無料体験」に・・・!
立派なビルの何階かで降りると、どうやらそこはマッサージベッドの販売会場のようでした。
大勢のお年寄りが、ワイヤレスマイクを持ったインストラクターの指示でボタン操作しています。
みなさん常連同士で、無料の娯楽施設と化している様子。
待合のパイプ椅子が次々に埋まっていく中、スリッパに履き替えると僕までベッドに連れて行かれてしまいました。
どう考えても僕なんか、販売対象ではないのにな〜?
確かに気持ちは好いのですが、僕には温熱効果で汗だくです。
それにボタン操作の指示はともかく、コール&レスポンスまではご期待に沿えません。
そうやって商品名を連呼させ、覚えてもらうのでしょう。そして何度でも来て試してもらって、気に入ったら買ってくださいという商法のようです。
コオ老人に言わせれば「台湾では、こうして高額商品を売るのです」との事でした。
でも最中は、すっかりイビキかいて夢の中でしたが(後日、購入したと手紙にありました)。
帰る頃には夕暮れで、なかなかバスが来ないと思ったら学生の下校時間と重なってしまったんですね。
バス停ごとに乗ってきて、ギューギューの満員状態で逆に疲れてしまいました。
そうしてコオ老人の家まで戻って別れると、ようやく僕は宿に土産を置いたのでした(重いものを買い込んでなくて良かったぁ〜)。
2007年12月06日
【'05台湾×2】30/オムツ指南・・・?
2月に出会ったコオ老人の家は高雄駅の近くなので、降りるバス停も僕と一緒でした。
仕事について訊かれた時、当時の僕が病院の看護補助をしていると知ってコオ老人は驚いたような反応をしました。なので、仕事内容が特殊な技能職ではない事を話したんですね。
すると彼は少し黙って、そして少し言いにくそうに「オムツの当て方を教えてもらませんでしょうか」と言ったんです。
奥さんが寝たきりなので世話をしているそうなのですが、いつも紙オムツが上手くいかずに布団を汚して困っているというんですね。
自宅介護のご苦労に加えて、排尿のたびに布団交換して洗うとなると大変な労力でしょう。
でもそれより奥さんに申し訳ないのだと許老人は言って、だから思い切って僕に相談したようでした。
バスの中で説明したところで要領がつかめるものでもなく、結局「どうか実際にやってみてくれませんか」と頼まれて断りきれなくなってしまいました。
僕はヒマだし構わないけども、当の奥さんにしてみれば
(急に見知らぬ外国人にパンツ脱がされる)
なんてのは好ましいとは思えませんし。
それに「日本を代表するオムツ交換か」なんて考えちゃうと、責任重大で。
とはいえコオ老人の熱意も無下にはできず、まぁ軽くレクチャーする感じでバスを降りました。
コオ老人の家は客運の裏通りのビルで、1階は店舗貸しだったのか全面ガラス張りです。
そこで車椅子の奥さんが日向ぼっこしていて、耳が遠いのですがコオ老人の説明にニッコリ微笑みました。日本語で何か言ってくれたけど、もう忘れかけているようで言葉が不明瞭です。
そしてコオ老人は、車椅子を入り口に置かれたベッドまで動かしました。
まさかと思ったら案の定・・・。
「ここでオムツ交換を」って、手打ち蕎麦じゃあるまいし面食らってしまいました。
人通りがないとはいえ、これでは表に見せびらかすようなものじゃないですか?
しかしコオ老人も、息子さんらしき中年男性も意に介さぬ様子です。自宅の4階まで行くのも大変ですよ、1階にはここしかベッドないですよ、という雰囲気。
まぁご本人も同意してるというので、仕方なくそこに奥さんを移乗して実演に入りました。
手を動かしながら説明する背後で、コオ老人が息子さんに通訳しながら感嘆し頷きあっています。
僕自身、仕事に就いたばかりの頃はオムツ交換が下手だったので、尿漏れを防ぐポイントを強調して知る限り詳しく教えました。オムツの縁の当て方、尿量が多い場合のパッドの工夫についてなど。
感謝感激されて、これで成果が上がらなかったらと却って不安になってしまいました。
そういえば自宅介護入門の本を後輩に貸しているので、あれを後日郵送すると約束しました。日文が読めなくても、挿絵が大きいから役に立つはずです。
「クッキーをご馳走しますから」と言われて、4階の自宅にお邪魔しました。
コオ老人との茶飲み話で、先週末に結婚65周年のお祝いをしたばかりだと聞きました。
お二人とも90歳で、奥さんは「昭和12年に、台湾大学で産婆さんの資格を取った」のだそうです。
壁の大きな額縁に世界中の写真が飾られていて、パリ、グランドキャニオン、アラスカ、ナイアガラ・・・どれもコオ老人と奥さんの2人が寄り添って写っていたんです。
なぜかしら僕はそれに見入ってしまい、目頭が熱くなってしまいました。
今もご苦労はあれど、お二人の幸せな笑顔はそれでも変わりがないのです。
こんなにも長くそして同じ気持ちで人を愛すること、それが僕にできるだろうかと。
仕事について訊かれた時、当時の僕が病院の看護補助をしていると知ってコオ老人は驚いたような反応をしました。なので、仕事内容が特殊な技能職ではない事を話したんですね。
すると彼は少し黙って、そして少し言いにくそうに「オムツの当て方を教えてもらませんでしょうか」と言ったんです。
奥さんが寝たきりなので世話をしているそうなのですが、いつも紙オムツが上手くいかずに布団を汚して困っているというんですね。
自宅介護のご苦労に加えて、排尿のたびに布団交換して洗うとなると大変な労力でしょう。
でもそれより奥さんに申し訳ないのだと許老人は言って、だから思い切って僕に相談したようでした。
バスの中で説明したところで要領がつかめるものでもなく、結局「どうか実際にやってみてくれませんか」と頼まれて断りきれなくなってしまいました。
僕はヒマだし構わないけども、当の奥さんにしてみれば
(急に見知らぬ外国人にパンツ脱がされる)
なんてのは好ましいとは思えませんし。
それに「日本を代表するオムツ交換か」なんて考えちゃうと、責任重大で。
とはいえコオ老人の熱意も無下にはできず、まぁ軽くレクチャーする感じでバスを降りました。
コオ老人の家は客運の裏通りのビルで、1階は店舗貸しだったのか全面ガラス張りです。
そこで車椅子の奥さんが日向ぼっこしていて、耳が遠いのですがコオ老人の説明にニッコリ微笑みました。日本語で何か言ってくれたけど、もう忘れかけているようで言葉が不明瞭です。
そしてコオ老人は、車椅子を入り口に置かれたベッドまで動かしました。
まさかと思ったら案の定・・・。
「ここでオムツ交換を」って、手打ち蕎麦じゃあるまいし面食らってしまいました。
人通りがないとはいえ、これでは表に見せびらかすようなものじゃないですか?
しかしコオ老人も、息子さんらしき中年男性も意に介さぬ様子です。自宅の4階まで行くのも大変ですよ、1階にはここしかベッドないですよ、という雰囲気。
まぁご本人も同意してるというので、仕方なくそこに奥さんを移乗して実演に入りました。
手を動かしながら説明する背後で、コオ老人が息子さんに通訳しながら感嘆し頷きあっています。
僕自身、仕事に就いたばかりの頃はオムツ交換が下手だったので、尿漏れを防ぐポイントを強調して知る限り詳しく教えました。オムツの縁の当て方、尿量が多い場合のパッドの工夫についてなど。
感謝感激されて、これで成果が上がらなかったらと却って不安になってしまいました。
そういえば自宅介護入門の本を後輩に貸しているので、あれを後日郵送すると約束しました。日文が読めなくても、挿絵が大きいから役に立つはずです。
「クッキーをご馳走しますから」と言われて、4階の自宅にお邪魔しました。
コオ老人との茶飲み話で、先週末に結婚65周年のお祝いをしたばかりだと聞きました。
お二人とも90歳で、奥さんは「昭和12年に、台湾大学で産婆さんの資格を取った」のだそうです。
壁の大きな額縁に世界中の写真が飾られていて、パリ、グランドキャニオン、アラスカ、ナイアガラ・・・どれもコオ老人と奥さんの2人が寄り添って写っていたんです。
なぜかしら僕はそれに見入ってしまい、目頭が熱くなってしまいました。
今もご苦労はあれど、お二人の幸せな笑顔はそれでも変わりがないのです。
こんなにも長くそして同じ気持ちで人を愛すること、それが僕にできるだろうかと。