人の心の怠惰さを戒め、楽な方へと逃げたがる姿勢を揶揄して使われるのだろう。
でも僕は、むしろ進んでそうありたいと心がけている節がなくもないのね。
何かに迷った時、まず思い浮かぶのがこの言葉なのだ。逃げられる時は逃げたって構わない、自分から砂や苦虫を噛む事もないではないか?・・・って。
できるだけ面白く楽しく過ごせるように、と思う。
ましてや、水は流れて海になります。清濁併せ呑む、大海へと下ってゆく。
もちろん、そこから熱帯性低気圧なんかから雨になって野山へ降り注ぐのかもしれない。でもまぁ、それはそれとしてまずは海を目指そう。
海に出たなら、より深い愛へと針路を取って。僕は「自分に甘く、他人にも甘い」という人になりたい。
しかし、それは欺瞞だという人もいます。
自分に厳しくできない事を、もっともらしく正当化しているだけだとか。そういう考え方は、自己管理能力の劣った下流の思想だとか。
でもね、そういうゲームは退屈になっちゃったのですよ。
競争社会は意味なく疲れるし、これ以上「人類の発展」が重要だとも思えないし。勤勉さと向上心は、資源を消費する文明から方向転換できるまで抑えた方がいいとさえ思うんですね。
・・・と、これでは話の順序が逆なので言い訳っぽいかな?
でも実際、世界がよくなるためには「できるだけ何もしない事」が僕にとっての答えなのです。
いろいろ僕なりに考えて、突き詰めていったらね。何かをすべきで、損得抜きでは他者を受け容れないような世の中には貢献しないようにと。
他人の世界は変えられなてくても、自分の世界は変えられるから。
美の領域を拡げることは、どれだけ赦していけるかという事に通じているのかもしれない。
キライだった物事、醜いと感じてた事から自由になるほど自分が許されていくような。
いろんな不快さを遠ざけて、日本は潔癖症な社会を目指してるのだろうか? ガンジス川の水だって飲めれば、どこでだって暮らせるだろうにね。・・・って、これは飽くまで比喩表現だけど。
そりゃあ澄んだ水が好きだし、そう心がける努力は素晴らしい。
だからって澄んでない水を隠蔽したり排除したり、それって結果は一緒に見えてもコンセプトから全然ちがう。
とはいえ、どこまで行っても苦手な事はなくならないだろうなぁ。
たとえば酒は好きでも、迷惑な酔っ払いは好きになれないし。
もっといえば、酔いを口実に甘ったれる人間は虫唾が走るんですよ。
そういうのは常に「自分に甘く、他人にも甘い」人間ではないんじゃないかな、どちらかといえば普段は厳しい系の人間が自分勝手なオンオフで羽目を外してるように見えるんですね。
まぁ仕方ない、許してやるけどさ・・・!
「酒の席では無礼講」とは、飽くまで年長者が目下の者にかける言葉です。
本来は主催者からの、粗相を気にして宴席が白けることのないようにという、粋な計らいなんですよね。それを格が低い人間から言ってしまっては、ますます格を下げるのに分かっていないから哀れになっちゃう。
そもそも、武士の心得を説くという「葉隠」に無礼講はないそうです。むしろ酒の席こそ無礼のないように、と書かれてあったかは定かでないけど。
(酔って性格が変わる)と言う時、善い方に変わる人はいない。
僕の場合、酔っ払うと寝るか理屈っぽくなるか。なので、あんまり普段と変わらない。
そうそう、ついでにね。
「学歴なんて関係ないよ」と言えるのは、関係ない筈の学歴が高い人だけ。
「お金なんて問題じゃない」と言えるのも、本当は金持ちの人だけ。
それは家柄であれ国籍であれ、何かを「関係ない」と言える人には限りがあるんです。つまり「関係ない」筈のステータス(あるいは豊かさと言い換えてもいいか)それ自体を獲得した人間によってのみ、否定できるのね。
持たざるものが言うと、それは逆説的に己を陳腐に貶めるだけで。まぁ一過性のお笑いにもなるみたいだけど?
「関係ない」と言えるのは、余裕ですなぁ。
たとえ発する側には悪気などなくても、発せられる側にとっては、その台詞が出た瞬間に返しようのない格差となるもんでもあります。
自分の豊かさを無意味だと評する時、その価値に対するジャッジメントは相手を沈黙させるかもしれない。何故かといえば、それは同格の間では生じない言葉だから。

平成19年10月2日