ついに百話目ですが、まぁ総集編的に振り返ったりもせず近ごろ思っていることを。
それは、この社会の幼児化について。
今回も相変わらず担保めいた文は削いで、思いのままに飛躍していきますのでご了承の程を。
ふと、最近のエレベーターの押しボタンが幼稚園みたいだと思ったのね。
やたら大きくなって、色遣いもポップな感じ。
数字や文字がエンボス状に浮き出ていて、ひらがな表記の開閉ボタン。
ユニバーサル・デザイン、だっけ? お年寄りや視覚障害の方々にも高視認性の、ユーザビリティって訳だ。
だからって、それだけじゃない気がしたのね。小さい子が独りで乗り降りする、って事も前提なんだと思ったのよ。
幼児化こそが成熟だ、というようなネオテニー的発想もあるのかな。
どんぐらい昔の話だか分からないけど、少なくとも自分が子どもだった頃までは世界が大人向けに作られていた印象がある。
子どもだけで、大人の付き添いなしで出来る事なんて高が知れたもんだったような。
もっともっと時代を遡れば、子どもには多くの事が限定されていたんじゃないか? 言い方を換えるなら、大人と子どもの社会領域が明確に分けられていたと。
児童の社会進出、かもしれない。
子供向けテレビ番組の多さ(今や主要な購買層だ)、夜中まで電車に乗っていたり町中で見かけるようになったし、ネットでは大人と対等に意見を交わせる。
子どもはガキ扱いされないし、自分たちが浸かっているのはガキ向けの流行文化。
最近読んだ現代日本アートの本で、いわゆる「ジャパニーズ・ポップ」という潮流と同化した作品性を持つ作家が非常に目立っていた。
それらは海外からの、アキバ系などへの(幼児性を維持したクールさ)といった評価で成立した観がある。
大人と子どもの、いや未熟化する大人と早熟な子どもの混在する社会が誕生したのかもしれない。
絶対的な強者として、大人が社会の中で子どもを躾けたりする事もなくなってるし。
今時の若者よりも年配の方々が、些細な我慢ができずに感情を爆発させる光景にも慣れてきつつある昨今ですし。
ここでまた、先のエレベーターに話を戻しますが。
たとえば開閉の表示が、かな表記になっている事の違和感ね。
そんなふうにして何でも簡便にしてったら、実体験で身に付ける機会が減っちゃうじゃん?
まぁ自分がそうやって覚えたからって訳じゃなく、なんか表面的な親切設計みたいでさ。
先回りするだけじゃ仇になるっていう匙加減も、子どもじゃ思い至れない気働きだよなぁ。
ストレス・パージな風潮が、逆にストレスの二極化に拍車を掛けてはいないかって。
一種の悪玉論みたいにストレスを排除するのとね、たとえばバリア・フリーを一緒くたにしたくない。
思い起こすのは、抗菌グッズが流行り出した時期の不安。
潔癖さへの強迫観念に縛られてると、ガンジス川の水を飲める人の人生と比べれば不自由極まりない・・・ってのは極論だけど。
ボトルの水しか飲めなくなり、殺菌や抗菌に敏感になり、限られたもの以外は汚く見える視界の狭さ。
明治以降の西欧化、戦後アメリカナイズの洗礼を超えてしまった今、清潔で安全な場所なんてこの狭い社会だけじゃない?
目指す理想や憧れを達成し、なんでもいいから目標を探して競い合ってるようでもあり。
僅かな手間が耐え難いストレスに感じるほど、思いやりの自家中毒を起こしてないかなって。
そんな優しさを消費する受け手としての依存や他者への要求は、一歩も動けなくなるような心理的障害と表裏一体にも思える。
階段を上り下りするのも、券売機で切符を買うのも、もし自分が本当に困ったら声を上げて助けを求めるけどな。
命や健康といった大事に関わるトラブルでもない限り、海外で感じる不便さの新鮮さよ。
元々は、自分の生まれ育った社会だってそうだったのにね。
作劇論というものには、物語の結末にカタルシスとホメオパシスがあるそうだ。
浄化と異化、大団円とアンハッピー・エンディング。
場合によっては「めでたしめでたし」で終わるよりも、不安定な幕切れのほうが印象的ではある。
それから彼らはどうなったろうか、どうしてゆくのだろうかと心の中で考え続けてしまう。
「ハイ、では次の話〜」と流してしまわずに、自分の物語として決着を模索することの豊かさ。
平成20年4月4日