2009年09月30日

思い尽きたが好日・笑いの鮮度

少々ご無沙汰しておりました。

別にネタ切れといった訳ではなく、構成するのが億劫になっておりまして・・・。
何か思ったりして、それをまとめようとしていると(そういえば前にメモしたネタが使えるよな)って気が付いて、ネタ帳フォルダをチェックして関連ありそうなテキストを開いたりするんですよ。
でもなんか文章が締まらない感じで、そのままフォルダに保存して・・・っていうパターン。

他さんの個人ブログで、時々「この記事に1時間かかった」とかいった記述を見かけるんですけど、自分の場合は4〜5時間もかかってしまうのです。
文章の筋力が萎えているのかもしれません。

で今回は、思い付いたまま上げてしまう事にしました。
とりあえず構成とか校正とか考えず。
(今のお笑いは面白くない)っていう感覚について、ちょっと思った事を書いてみます。

これって、年を取ってみて分かった事だなって思います。
若者に人気のある若手芸人を見ても、僕には(あー、これが昭和って感覚かぁ)と感じたのですよ。
ほら、昭和を知らない世代が使うじゃないですか、たとえば「3丁目の夕日」とか観てね。
しかし若手芸人を観ていても、欽ちゃんとか林家三平といった「昭和の喜劇王」の持ちネタに大爆笑する客席・・・といった映像を観ている気分になったんですよ僕は。

平成世代にとって面白い事は、僕らにしてみれば(もはや今更)っていう感じがするのだなぁ。
箸が転がっても云々、なんて言い方があるのも、それだけ世の中が未体験の新しさに満ちているって事で、自分だって子どもの頃は(なんで大人はドリフとかツービートが可笑しくないんだろう?)と思ったけど。
結局は世代間で同じことが繰り返され続けているのか、と言えば案外そうでもない気はする。
でも何となく、60年代あたりからインプットが減り始めてたような・・・ってコレはまたの機会に掘り下げるとして。

つまり(今のお笑いが詰まらない)のではなく、年を食った分だけ自分の経験値からは鮮度が下がってるだけなのね。
お笑いのDVDを買っても、そんなに繰り返し観て笑えないのは慣れてしまうからなんだ。
ドラマとか音楽も、お笑いほどではないけれど昔ほど新鮮味を感じないのだけど。
ひょっとして、消費のための量産体制が鮮度を下げてしまっているのかもね。
ハングリー・マーケットって用語があるけど、そうやって飢餓感を煽らないと消費さえも娯楽ではなくなってしまっているんだろうな。

でも、現象としては(ネタ被り)な筈なのに、身近なアクシデント的な事だと何故か経験値が無視されるのね。
たとえば「視聴者からの仰天映像」みたいのとか、もう結果が読めてるありきたりな出来事でも可笑しいんだから不思議。
逆にいえば、意図的に人を笑わせるのって本当に大変なんだなって気はするなぁ。
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2009年09月15日

思い尽きたが好日・自分の正義を実現する場としてのインターネット

あらかじめ申し上げますが、記事中で断言している文章は(〜と思う)を省略しています。
すべて個人的な感覚によるものですので、もし気に障ったらごめんなさいね。

英語では“Beats me”という言い回しがあるそうだ
正確には忘れたが、意味としては(困らせられる)というようなものらしい

正論というのは「そうですね」としか答えようがなく、会話の中では厄介なものだ
もし言われたら鼻白むんじゃないかな、漫才ではないからボケもツッコミも要らないにせよ
大抵、正論に目新しい意見はないものだし

たとえば政治家の失言でも、職務と縁遠い間違いを問題視するのって
個人の資質と職能は別次元だし、政党間の駆け引きとしても見苦しい
漢字の読み違いから引っ張れる主張もあるだろう、まぁ小気味よく茶化されてると感心するけど

ネット環境に触れるようになって、正論というのを身近に感じるようになった
批判を避けるために理論武装したような、そういう発言が日常では身近でなかったもので
せいぜい学生気分が抜けてない人に、そういう手合いがたまにいる程度

まぁ論争となれば正論同士のぶつかり合いなんだとは思う
不特定多数が閲覧する場だから、あまり主観的に過ぎる主張は慎重にならざるを得ないのもあるだろう
だからって新聞の投書欄みたいな発言ばかりでは、なんだか息苦しいというか

以前ふと気付いた事:何か面倒を抱えている時、そこから気をそらすために自分以外の中に問題を見つけてしまう
つまり一種の代償行為として、不必要なほど口出しをしてしまう

我が子が危なっかしい手つきで刃物を使っているようなら、正論より的確なアドバイスなのに
・・・というのは自戒を込めて、自分でも猛省を心がけたいところ

ネットは、こういう誰に話すでもない些細な息抜きにも便利ではある
自分の正義を実現するための道具にしてしまうのも、まぁ使いようではあるのだが
刃物と違って自分の使い方で成り立っていない、それを意識していないと
銃規制や自動車免許のように、許認可を権力に管理される道具になってしまうんだろうな
この文章は、去年の11月に書いたもので、元のメモを書いたのはもっと前だ。

「活字中毒R.。」さんの村上春樹「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」という記事を読んでいて、自分のネタ帳から引っ張り出してみたのだ。

もう村上氏の名前を出してる段階で、いかにも自分の意見に箔をつけようとしている感ミエミエですが・・・。笑
しかも今まで大っぴらにしなかったのを、急にアップしてみたりね。
氏の発言で、学生運動について触れた部分は感慨深いものでしたが、それは話がそれるので割愛。

で、氏の引用文はリンク先で読んでいただくとして(携帯からご覧いただいている方、もし閲覧できなかったらごめんなさいね)。
こちらのサイトマスターが引用文の後に書いた部分を全文引用してみます。
自分では考察の及ばなかった部分、そして村上氏の発言内容から感じたものと重なる部分もあったので・・・。
べ、別に虎の威を借るつもりじゃないんだからねッ!?
 この『文藝春秋』に掲載された村上春樹さんのインタビュー、前日にasahi.comの記事として、村上さんの【「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」とも語っている 】という言葉が採り上げられていて、僕は「ネット空間における正論原理主義」ってどういうものなんだ?とすごく疑問に感じていたのです。
 「正論」がどうして怖いのだろう?
 発売された、この『文藝春秋』でのインタビュー全文を読んで、ようやく村上さんが言っていることの意味が少しわかったような気がします。

 ここで村上さんが語られている「正論原理主義」というのは、【純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす】ことのようです。
 そして、その「正論原理主義者」たちは、「反対派」だけではなく、言葉を慎重に選んだり、いろんな立場の人々のことを慮ったりしてなかなか口を開けない人たちを「日和見主義者」だと強く批判して押しつぶしたり、追い出してしまう。
 そして、「正しさ」はどんどん先鋭化して、「異端を排除する」ことにばかり向かっていくのです。
 結果的には、社会を変革することよりも、内部での「正しさ比べ」になってしまい、それについていけない人たちは脱落していくばかり。
 それでは、どんなに「正論」を主張していたとしても、世界を変えるにはあまりに少ない人々の力しか集められません。

 ネット上というのは、「言葉だけの世界」だけに、なおさら、そういう「言葉の正しさ比べ」になりやすいんですよね。
 本当に「大事なこと」は、「そう簡単に言葉にはできないこと」にあるのかもしれないのに。
 僕は学生運動をリアルタイムで体験した世代ではありませんが、こうして毎日ネットにかかわっていると、「ネット空間にはびこる正論原理主義」そして、「その『正論』の尻馬に乗ることで、自分の優越感を満たしたい人」の多さに辟易しますし、僕自身もそういう人間のひとりであることを感じます。
 
 あの時代、体を張って「正義」を訴えたはずの人の多くが、その後あっさり「転向」してしまったことは、ある意味ものすごく象徴的なことなんですよね。
 「正論」って、ある種の人々にとっては、流行の服みたいなものなんだよ、たぶん。
 でも、それは他者にとって、「玩具のピストル」じゃない。


ちなみに同じく、村上氏つながりでリンクをもうひとつ。
村上春樹さんに「そんな残酷なシーンを書くべきじゃない」という抗議のメールがたくさん来た小説
こちらは翻訳家でもある柴田元幸さんとの対談から、村上氏の『海辺のカフカ」で描いたある場面に抗議のメールが殺到した・・・という話。
で、サイトマスターの感想から一部を引用。
 この村上春樹さんの話を読んでいると、「現実」だけではなく、フィクションの世界に対しても、「人間はどんなに悲惨な殺され方をしても許すけれど、かわいい動物たちを虐待するような描写は受け入れられない、という人がけっこういるのだということがわかります。
 実際に起こった事件や事故(あるいは、明らかにそれをモデルにしている作品)に対して「抗議」するのはわかるけれども、フィクションに抗議するというのは、僕にはちょっと理解不能なのですが……
僕も、作品を読んでいて楽しくはなかったですが。
でもそれは不快さを印象づけるエピソードですからね、つまり無抵抗であり利害関係が成立しない事がポイントな訳で。
しかしカラスではなく猫を選んだ点が絶妙だったのでしょうね。

*リンク先は「直リンクは、そのほうが読む人が便利だと判断された場合には、とくに制限はありません。」という方針のようなので、以前の分も直接リンクにしてみました。
posted by tomsec at 02:41 | TrackBack(0) | 思い尽きたが好日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月05日

トラバ雑想記21 大地と海と空の美味い話

まずは、毎度おなじみ「らばQ」さんより。
『熱帯雨林は破壊してしまったらもう戻せないのか、驚くべき実験結果』という記事から。

ニューヨークはコーネル大学のボイス・トンプソン・インスティチュートが試みた実験の成果だそうです。
90年代の初め、半世紀で伐採された中米コスタリカに土着の多様な種子などを植えていきました。
10年後の調査で100以上の種類が育っている他、色々なことが分かったそうです。
植林による多雨林の再生が、近隣の住民の生活レベルも向上させるとか。
ま、学者とかデータを鵜呑みにはしませんが、それでも明るい話題には違いありません。

日本の襟裳岬(えりもみさき)でも、江戸〜明治時代には森林伐採によって広葉樹の原生林が砂地と化して、町には砂が吹き荒れ漁獲量も減少していたのだとか。
1953年に始まった緑化・植林計画によって、砂漠化が止まり海の幸も戻ってきたそうです。
「魚つき林」の効果ですかね、ただし植えたのは針葉樹ですから植生は無視ですが。

とりあえずアマゾンの熱帯雨林や北アフリカの疎林などは表土が薄いそうなので、コスタリカと同列に考えるのは早計かとは思います。
でも、いい話です。


ちなみに「ナショナルジオグラフィック ニュース」には『海中のプラスチック、予想より早く分解』という記事がありました。
これを知ったのは「特設ニュースちゃんねる」さんの『海中のプラスチック、予想より早く分解されることが判明…ただし、これは悪い知らせですでして、つまり朗報ではないんですね。

今までの説=「海中のプラスチックが分解するのは水温が高くても数百年はかかる」

新たな発見=「想定よりも低い温度(摂氏30度とか)で、しかも海中に入ってから1年以内に分解する」

これの何が悪い知らせかといいますと。

「ビスフェノールAは動物の生殖器系の働きを阻害することが判明しており、スチレントリマーの誘導体であるスチレンモノマーは発がん性物質として知られている。このような汚染物質は、海流がぶつかる渦潮など、大量のプラスチックゴミが散乱する海域で濃縮していく傾向が強い」
「例えば、発泡スチロールが分解すると微細なポリスチレン成分が海の底に沈んでいく。水より重いからだ。したがって、こういった汚染物質は海面付近だけでなく、海中全体に広がっていると考えられる」
「今回研究室で得られた結果は、海洋全体に一様に当てはまるものとは考えられない。ほとんどの海域において、海水温は研究で示された摂氏30度よりもはるかに低い。したがって、今回の研究成果が意味を持つのは熱帯や亜熱帯の海岸地域に限定されるだろう」
しかもプラスチックは、分解するときに毒性化学物質を解放するだけでなく、海中に漂うほかの化学物質を蓄積する作用を持っている・・・だそうで。

要は分解→毒性化合物が海水に→魚・・・と。
まぁ最後は魚→人間で責任取ってくのでしょうけど?


続いて「ナショナルジオグラフィック ニュース」『“太平洋ゴミベルト”の実態調査』という記事です。

カリフォルニア州とハワイの間に位置する「太平洋ゴミベルト」には、世界中で捨てられた何百万トンものプラスチックゴミが海流の影響で密集している。毎年生産される2億6千万トンのプラスチックのうち約10%は海に捨てられるが、その大部分が太平洋ゴミベルトのような海流が渦巻く場所で停滞してしまう」
「この場所に集まるプラスチックのうち70%は海中に沈んでいる」

あらら、よりによって分解しやすい海域に集積されちゃってるみたいで・・・地球ってスゴイや!

そして
「世界中の多くの地域、特に開発途上国では、日常生活にすっかり溶け込んでいるプラスチックのボトルや容器を処理する手段がない」
けれども、
「プラスチックゴミを燃料や衣料品に、言い換えればより利益率の高い形態に転換する技術があれば、人々は収入を得るために喜んでプラスチックを拾い集めてくれるかもしれない」
・・・なるほど、まぁ太平洋の真ん中までは行かなくても発生源は封じ込めるかも。
スモーキー・マウンテンの住民に期待してるんですね分かりますありがとうございました。


同じく「ナショナルジオグラフィック ニュース」には、こんな記事もあります。
『海と共存する方法を見つけよう』
ブルー・フロンティア・キャンペーンの代表であるデイヴィッド・ヘルバーグさんが提案する、海に行かなくても実行できるいくつかの方法です。

「化石燃料をエネルギー源や輸送に使用すれば、温室効果ガスである二酸化炭素(CO2)が排出される。
また石炭を燃料とする発電所は、神経毒性の水銀、スモッグや酸性雨の成分となる一酸化硫黄(SO)、スモッグや酸性雨に含まれる二酸化窒素(NO2)を排出する。
このような有毒成分は、雨によって湾や海に運ばれる。

二酸化炭素だけでなく、スモッグに含まれる二酸化窒素も、自動車の排気ガスから発生する。
海のデッドゾーン(酸欠海域)ができる原因となる窒素の増加について、その25%以上が二酸化窒素の排出による可能性がある」

要するに高速1000円乗り放題なんて言ってないで、ハイブリッド・カーも控えめにね♪って事ですかね。

「熱帯雨林は地球の肺に例えられるが、実際には、世界の海で小さなプランクトンが大気中の二酸化炭素の大半を吸収し、私たちの生存に必要な酸素の70%を生産している」・・・だそうですよ。

で、最後も「ナショナルジオグラフィック ニュース」で見つけた記事です。
『オゾン層破壊の新たな脅威、亜酸化窒素』
「1987年、世界中の国々が集まり、クロロフルオロカーボン(CFC)をはじめとしたフロン類を全廃することを決めた。
オゾン層は最もひどいときには世界全体で約5%も薄くなっていた」

「全廃決定以降はフロン類の排出は劇的に減少し、世界気象機関(WMO)によると、オゾン層は今世紀半ばまでにおおむね回復する見込み」

そもそもオゾン・ホールと呼ばれ公表された画像は、毎年10月ごろに極地のオゾン層の幅が狭まる現象を撮影したものだとも聞きます。
その現象自体はフロンによる影響なのか明らかではないようですし、この劇的な回復劇はハリウッド好みだなーなんて気持ちになったりも。

しかし第2、第3の刺客が・・・って!?

「新たなオゾン層の破壊要因として浮上してきたのが、年間約1000万トンも排出される亜酸化窒素(N2O、一酸化二窒素)である。
亜酸化窒素の主要な排出源は硝酸などの化学肥料や家畜の排泄物なので、世界的な農業の拡大や家畜保有数の急増により排出量は今後増加する可能性がある」
「主要な排出源は農業だが、下水や自動車の排ガスなど運輸部門も無視する訳にはいかない」

亜酸化窒素の豆知識
規制対象の多くのフロン類と同程度の強大な破壊効果がある
熱を蓄積して地球温暖化を促進する、温室効果ガスでもある


21世紀の間は、オゾン層の減少が原因の紫外線暴露によって、皮膚ガンの患者が相当数に上ると推定されている。

「人口の増加は、農耕地と収穫量に対する大きな拡大圧力にもなる。食生活を変えることで、農業に大きく変化させることもできるだろう。肉の消費量を減らせば家畜も増やさずに済むし、飼料生産に必要な化学肥料も減る」

肉食志向が変われば、耕地や牧草地のために伐採する流れも変わるでしょう。


しかし、こういう出来すぎた科学データというのはなぁ・・・あんまり素直になれないのですが何故だろう? 笑

なんだか、バイオスフィア計画を思い出したりもしますが(日本でも、あの六ケ所村で閉鎖空間の長期間滞在実験を試みているそうで)。
まぁ、あれと同じではなくても地球環境に何かするのは回りまわって返ってくるものなんでしょうなぁ。

で? っていう話ですけど。
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