花束をプレゼントするのを「切り花をあげる」って言うと、なんだか想像させられる状況がまるで違っちゃわない? 花束をやる、切り花を贈る…にしたら?
では[鮮やかなキャミソールで街へとお散歩]と[派手なシュミーズで町をウロウロ]だと、後者の表現は非難めいた感じになるよね。
それだけの事なんだけど、更に(言葉を使って「真実を正確に」なんて伝えられるのか?)って思った。有り得ないよね。たとえコンピューターが喋っても、言葉選びの基準には、それを仕込んだ人の物の見方が反映されてしまうんだから。
新聞記事は割と、没個性的な表現に感じられる。だけど主語を決めると、目線が特定の立ち位置に片寄ってしまうのは避けられないからなぁ。客観的な記事も、言い回し次第で伝わり方だって違ってきちゃう。偏りのない紙面なんて、せいぜいそれは(政治的に)っていう範囲でフラットなだけじゃないかな。
控えめな論調の割にバイアス掛かってる新聞記事、これには乗せられそうになる時がある。ニュース番組だと、近頃じゃコメンテーターなんて出してるから、色付けも分かりやすいけど。どんな報道機関だって傾きはあるでしょ、なんてったって「企業は利潤を追求する集団」なんだから。
ま、そんなこた横道なんだわさ。言い回しってセンスだよなぁ〜! ってのが今回のポイント。って、毎回ポイントなんざ不明瞭なのに、断り入れるのは却って野暮か。
本を読むのが好きな人なら、お気に入りの作家の一人ぐらいはいると思う。じゃあ、詩人は? 僕は、一人いる。時々、図書館でその詩人の本を借りて読むんだ。女性誌の巻末にコラムニストが紹介してて、その詩に心を打たれたのよ。
こないだ、彼の自選詩集が文庫で発売されて即買い。残念ながら最初にであった詩は収録されていなかったけど、文庫って詩にはちょうど良いんだな。出先での空き時間にパッと開いて読める、その軽さが。
小学生の時、誕生日のプレゼントにリクエストして「世界の詩集」という本を買ってもらった事があった。何度も読んだけど、やっぱ背伸びしてたかな。訳された詩の時代背景や文化の違い、あとは格調高すぎたと思うよ。詩は、もっと即効性があるものが良いんだ。視界が、一気に明るくなるような。
たまたま目にした、詩の論評記事で「言葉の関節を外す」という上手い表現があったんだ。そう、まさに(感じる詩)ってのは、言葉の意味を一段抜かしにして響かせるのよ。だからこそ、かしこまって眺めるより日々のあくせくする時間の合間に、目薬を差すように使ったほうが沁みる。
もちろん、日常として使う言葉は、大勢の人と通じ合わせる道具でしかないわな。いちいち関節を外されていては、訳分からない事になるだけだし。とはいえど初対面の人とは、どうしても会話が弾まないんだよね。お互いの言葉の使い回し方が、微妙に一致しない…多分そういう事なんだと思うんだけど。
僕は特に頭の中だけで考えをまとめられないから、相手と共通の言葉(の基準)が作れないうちは自分の話を理解するのも一苦労だったりするんだ。逆にお互いの言う事が通じ合っちゃうと、考えるより速く言葉が口からあふれ出てくるの。それで自分の言葉を聞きながら、逆に考えがまとまったり閃いたりして。
他の人は、どうなんだろう? たま〜に、なんべん話しても相手の言い回しがつかめなくって苛々する時がある。そんな時は、きっと相手も僕が何を言ってるのか、本当のところは分かってもらえなかったりするんだろう。その辺のギャップって、同性同士よりも男女間のほうが大きい気がするな。
女性って辞書に載ってる意味では使わないんだよね、言葉を。もっとも、これって男の言い草だけどさ。でも少し前、とあるホテルの中庭で客室からの痴話喧嘩が聞こえてきたんだよね。どうやら急に別れ話を切り出されてるらしいんだけど、逆上した女性が「嫌いよキライ…」って連呼してるだけなんだわ。そんなに嫌いなら話は早いのに。
…って、額面どおりに受け取ってたら、命がいくつあっても足りませんよね?
僕も少しは賢くなりましたな。
平成15年7月19日

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