2003年08月01日
13*型くずれ
いつのまにか、気が付けば夏休みの季節だなぁ。
夜、川向こうの団地から盆踊りの音曲が流れてきて、意表をつかれたような気がしたのよね。なんせまだ梅雨明け宣言も聞いてない…。と書いた翌日に明けるとは! 時事ネタってムズカシイねぇ〜、アップ直前で原稿書き直しかよ。とほほ。
しかし今年の梅雨明けは遅かった、気象庁も「梅雨明けしてるよ」って言っちまいたくてウズウズしてたろう。きっと、なかなか夏らしい気圧配置にならなくて決め手に欠けてたんじゃないかな。
異常気象ってのも、もうすっかり会話の枕詞みたいになっちゃってるよね。先日の新聞記事じゃあ、世界中の数年来の観測データを統計して(どうやら雷神と風神の気まぐれじゃあなさそうだ)って事がはっきりしてきたみたいだ。感覚的なもんだけじゃなく、数字の上にも出てきたって話ね。で、オチはこんなふうだった。
これが温暖化の問題と関連性があるとして、それが科学的に立証されたなら、我々は産業の発展や利便性を犠牲にしてでも地球を守らねばならない…云々。
う〜ん、まどろっこしい! まぁ民主主義だから総意に基づかないとなぁ、それに明確な根拠がないと企業にキレイ事を言わせるだけってのも解る。それに自然災害の復興や抑止に貢献してない訳じゃなし、それもマッチポンプな気もするが大ナタふるって万事解決とはいかないか。
どこかに悪者がいた(と納得してられた)時代が懐かしいよな、まったく。完全な悪者がいないってコトは、つまり全員が少しずつ間違ってるのか?…なんだか重たい展開になっちゃったなぁ。何が言いたかったんだっけ?
そうそう、(夏らしい気圧配置って何だろう?)って思ったんだわ。多分、長年の観測結果から四季折々の気象状態に法則性みたいなのがあるんだろうな。その中の典型的な夏パターンが、異常気象か何かで崩れちゃって型どおりじゃなくなってる…のかな? と。
ここまで考えてて思い出したのは、日本の古典芸能についての話。若手の歌舞伎役者さんだかが雑誌で言ってた受け売りだけど、古典的な芸事は独創性よりも(いかに「型」に忠実か)が重要なんだって。型を極めることが、芸事の「道」って訳だ。ま、作法って保守的な世界には共通してるよね。ある意味、日本語ラップにも感じる時があるけど。
ずっと、そういう決め事みたいなのって堅苦しいだけだと感じてた。もう若さの勢いなんてない割には、型は破るものだと思い続けてた部分があったのね。でも(案外そうでもないのかも)と考えるようになってきた気がする今日この頃、だからって「こんな時代だから雷オヤジ復権を!」なぁ〜んて思ったりは、まさかしないがね。
さっき、細い夜道を50〜60代男性の集団とすれ違ったのよ。で、その時に初めて(歩き煙草が怖い)と感じたんだヮ。仲間同士で並んで話しながら、避ける意志も見せずにこっちに火の先ブラブラさせて。向こうさんは分かってるつもりだろうが、通じるように意思表示しなけりゃ向かっ腹も立つってモンよ。
似たような事で、チャリの夜間無灯にも無神経さを感じたりしない? 街の明るさで自分が見えているからって、ライトを点けないんだろ。自分が暗がりを通過していても、対向車から見えるとでも思ってんのかね。あと四つ角に飛び出しといて非難がましい顔するオバサン、往来を平然とチャリでふさいでたりとか。文句というよりさ、勘弁してよって思うんだけど。そういうの。
車の運転にも感じる事ってない? 速い側と遅い側って感覚の鋭敏が全然違っちゃうのに、距離間隔や速度で威圧感を与えてくる輩ね。せめて相手に「自分は貴方を認識してるよ」ぐらいの態度を示しているだけで、お互いに日常のイライラが減る気がしたんだな。だからって、単なる世間話としてね。教条的なメッセージじゃなくてさ。
「身勝手な大人」という型が、身勝手な子供を育てる…なぁ〜んてオチは新聞の読者投稿欄だけで充分だわ。たださ、江戸しぐさとか呼ばれてた(見知らぬ人同士のエチケットみたいなの)も一種の「型」だったのかなぁって。そして、そういうのは断魂の世代より以前に崩されちゃったのかなぁって。
なんか嘆き節って感じになっちまったかな、不快になったらゴメンよ。
平成15年8月1日
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