新しいパソコンが完成する前の話ですが、久しぶりに真夜中のドライブをしたんだ。
パソコン作りが深夜に及び、帰れなくなったP氏(このサイトを作ってくれた人)を送ったのよ。ほぼ東京横断、でも夜中は道が空いてるから片道1時間半程度だったけど。
その途中、半分くらいまで来た所で懐かしい場所を通過したのね。そこは10年前に、2年間だけ親元を離れて住んでいた町でした。別に当時のつながりは全然ないのに、なぜか時々よく来るんだよなあ。ここを通る用事があったりしてね、ちょうどその夜みたいにさ。
僕は都内各地で色々なバイトをしてきたし、住んでたからって特別なつもりはないんだけど、この町は通過するだけでもスウィートメモリーズ状態になっちゃうんだな。人気のない真夜中の沿道をトボトボ歩いてた、その頃の気持ちに戻ってしまい刹那くなるのよ不思議と。
どこかの作家が書いていたけどさ、匂いって生々しく記憶を蘇らせるね。夕飯時の商店街の揚げ物の匂いだったり、夏の夜の草いきれだったり。そして僕の過ぎ去った時代は、この町の空気に残っているんだ。
今の自分なら、もっと違う選択ができるのに…。そんなふうに心がタイムスリップして、胸が苦しくなっちゃう。でも通り過ぎてゆくしかないし、過ぎてしまえば魔法は解けてしまう。そうやって何かの折に通るたび、古びた記憶が更新され昨日の事みたく上書きされてゆく。なぜかそれは、救いのようにも思えたりするんだけど。
あの町は僕にとって、今も不思議な磁場を持ち続けているのかな? と思って気が付いたんだけど、10年前と何も変わってないんだよね、景色が。考えてみれば、都内でそれって希有な事だと思うんだ。スクラップ&ビルドの御時世にしては。
思い出深い場所といえば、竹芝埠頭もそうだったなあ。けれどかつての、うらぶれた倉庫ばかりの風景は消滅してしまった。20代前半の僕の記憶は、変わり果てた竹芝埠頭では証明できないんだ。あれがすべて僕の思い違いや妄想の産物だったとしても、生々しい匂いが失われた以上は、僕にとっても現実味を欠く思い出になりつつある。
変な話かもしれないけどさ、住み慣れた地元ですら最近は(知らない町)になってきた気がするのよ。行き交う人も町並みも変わってきたし、匂いだって当然のように違ってしまっているもんね。きっと僕が小学生まで暮らしてた団地も、僕の記憶を打ち消す位に変わってしまっているんだろうな。
2003年というのは、ビル問題の年なんだって。そういう話がTVのニュースであったんだけど、詳しく聞いてなかったから説明できるほど分かってる訳じゃないのね。なので誤解があるかもしれないけど。
ちょっと前に丸の内辺りで建て替えたオフィスビル、借り手がなくて往生してるんだそうだ。不景気云々て言ってるのに賃料上がれば当然だと思うよね? でもビルの寿命は30年くらいで老朽化してくるので、メンテナンスに追われるより新しくしちゃったほうが安上がりだったりするみたい。だから近頃バカスカ建ってるのか。
それにしても、たった30年とは驚いた。以前は確か、耐用年数100年とか大風呂敷拡げてなかったっけ? 僕の思い違いとかじゃない筈だけど、やっぱ酸性雨とか紫外線のダメージが加速してるのかねぇ。スクラップ&ビルドの発想って、清貧が流行った時期なんて「環境に優しくない」だか「消費礼賛主義の時代は終わった」って叩かれてたと思ったのに、いつのまにか当たり前になってる気もする。マスコミの言う事って、場当たり的というか、筋が通ってないねホントに。
解体を前提とした造り方、という点ではパソコンも同じだよなぁ。ウチの場合も、現行品と互換性がないモニターやキーボードまで買い替える羽目になった訳だし。ま、PCは進化が早いから、コンクリの箱と同列で語るのは無理がある気もするけど。
それに家電製品と比べたら、PCのほうがまだ応用が効くほうかもね。僕のCDコンポ、買って3年で「修理するより買ったほうが」って言われてしまった。まだカセットは聴けるし、CDは壊れてても差し支えなかったので無視したけど。
あと、つくづく思うのは携帯電話ね。なんでサービスを提供する側のケータイ会社が、製品を仕切ってるんだろう。僕は折り畳み型が嫌なんだけど、今じゃもうそれしか選べないもんなぁ。これ以上の付加機能なんて要らないから、基盤などパーツ交換で長く使えるようにしてほしいよ。
パソコンでも、旧型マックにこだわる人がいたりするらしいよね。ケータイ端末だってさ、そういうハードへの愛着は湧いてくると思うんだけど? たとえば本体ケースの色を変えられたり、素材を牛骨とかブロンズにできたりしたら良いのに。
そりゃさぁー、ゆく川の流れを止めようなんてつもりはないよ。時間の中で留まる物はないもの。
だけど企業の都合で選択の余地がない変化ってのも、何だか不当な扱いを受けてるような気分になったりするんだよなぁ。
平成15年9月6日