2003年09月07日

18*言葉と文化と路の上 Pt.II

 何かの本で「構造体とは不安定なものである」というような事を読んだ。
 違っちゃうかもしれないけど、僕の解釈で要約するとこういう話。「どんな物も、完全となった時に崩壊する。人も社会(国)も安定した状態に向かおうとするが、それ故に完成すると同時に滅び始める」んだって。
 うまく伝わんないかもなぁ、でも僕にはリアルな話に思えるんだ。不安定な要素を排除し尽くすと、後はもう発展の余地がなくなっちゃう。それは回路を閉じてしまうんじゃなくて、常に風通しを良く開かれた状態にしておくって事に通じる気がするのよ。

 人間関係でいえば、恋人や夫婦間で完結してしまうような間柄が、僕にはそのように見えるのよ。それは人それぞれだし構わないけど、僕は別れる理由の一つがそれだと思ってるんだ。もう一つは、お互いの精神的な成長の方向や速度の差によるものもあると思うけど。「他に好きな人ができた」とかいう事情の背景は、どちらかに当てはまるような気がするんだ。まだ他にもあるのかも知れないけど。
 集団としての閉じた状態ってのは、鎖国みたいなものかな。どうしても集団内で安定してくると閉鎖的になるみたいね、外部から混乱する要素が入り込むのを煩わしく思うようになる。というか、内と外を分けて考える時点で既に閉じてるのか。でも身近な人との関係で、相手を自分と同化しちゃうと喧嘩の素になるよね。

 どこかの国で、外国人労働者の増加による社会不安が云々…というニュースがあったなぁ。日本でもイラン人が増えた時期に、そういう危険な風潮が感じられたけど。もっとも今は外国人よりも「凶悪犯罪の若年化」が取り沙汰されてるよね、実は戦後間もない頃のほうが多かったらしいのにさ。
 若者はいつの時代も大人から疎まれる、新しい事を起こしたがる存在なんだよね。もっとも(大人)という定義を年齢を基準に考えちゃうけどさ、それもどうかと僕は思うんだわ。人として大きな物の見方を指針に持つには、20歳という年齢基準はそぐわない気がするよ。江戸時代ならともかく。
 ここで一気に話は飛躍します、ゴメンナサイね。

 とあるサイバーパンク小説に、こんな名言があった(あとがきかもしれない)。「ストリートにはストリートなりの使い方がある」って。
 たとえば安価なポータブルレコードプレーヤーは、路上でスクラッチする目的で作られた訳ではないよね。パソコンだって、技術者でもない人間が個人的な娯楽として使うために生まれた訳ではない。だけど、誰かが掟破りの使い方で(壊しちゃったりもするんだろうけど)既成概念を突破した、新しい流れをメインストリームに押し上げてゆく訳さ。
 ある集団の猿が、急に芋を洗って食べ始めたんだって。それを真似するものが増え始めた頃、まったく交流のない遠隔地の集団でも、同じように猿が芋を洗い始めたんだって。僕なんかは人の尻馬に乗るタイプで、せいぜい101匹目の猿なんだけど、一番最初に始める存在ってパワー&フールじゃないと後が続かないだろうなって思う。

 いまだに「美しい日本語を守ろう」という主張を耳にする事がある。だけど言葉は生き物じゃん、文化の変遷と相互に影響を与え合っているのに。それに美しい日本語って言ったって、決して大正言葉や平安時代の言葉まで守る気はないんだと思うのね。単に、自分たちの慣れ親しんだ文化に固執している感じがして困った気分になってしまう。
 若者言葉が美しくない日本語だろうと、彼らのような使い方から流行し定着してゆく言葉が、新しい時代に沿った形へと更新してゆくのだし、現在の「守ろう」派だって同じ事をしてきたに違いないのになぁ。

平成15年9月7日
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posted by tomsec at 22:23 | TrackBack(0) |  空想百景<11〜20> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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