2003年09月30日

20*グリーン・アラベスク

 秋になり、僕はまるで初めて出会ったかのように秋を見てしまう。季節の気配が変わるたびに毎回、僕は同じ手に引っ掛かっているようだ。
 空に射す透明な光に拡がり過ぎて戸惑ってしまう心の中、幾つかの淡い感情が混じり合いながら漂い始める。それらの気持ちが、微風のように吹き過ぎてゆく。離れて眺める東京の空は、深い灰色のあぶくに包まれているのにもかかわらず。
 学生の頃にはまだ見えていた星座が、霞んで見えなくなってきた夜空。昼の青さも常に白っぽく埃がかって、外国で撮った写真に映る濃厚な空と同じには思えないくらい。それなのに、この秋空は美しい色をしていると思う。
 木立に立って、空を見上げる。
 折り重なる葉が木漏れ陽に透けて、僕はそれを(グリーン・アラベスクだ)と思う。隣りあう木々それぞれ、種類によって葉の付き方が違っている事に気付く。枝に対して左右対称なもの、互い違いなもの、節目毎に集中してるもの…。更に枝の付き方も、また違っている。その微妙に異なる、緑の万華鏡が僕の目を奪う。

「人が花を見る時、花もまた人を見ている」…これは、デニスさんというインディアンの言葉だ。
 あえてインディアンと書いたのは、自分にとって自然な言葉だから。一時はネイティブ云々と呼んでみたりしたものの、彼らは自分達を部族ごとに固有の名前で呼んでいるのだし、重要なのは(どんな気持ちで呼ぶか)だと思い至ったので。
 余談だがエスキモーという呼称は、イヌイットの言葉で「生肉食らい」という意味だと聞いた。そうなってくると事情は別で、やはり「人(イヌイット)」と呼びたいと思う。
 話を戻して「花も見ている」という言葉、僕が花や草木を見ていると思い出してしまう。特に、生い茂る葉の中に咲く小さな花を見ていると、それぞれの花が織り成す幾何学的な模様が、何かを語っているように感じられてくる。それは一種の催眠状態のような、うまく言い表せない感覚だ。

 僕は一度だけ、本当に樹木の声を聞いたと信じている。そこは原生林でも何でもない木立の中で、ふと顔を上げた瞬間に、感じるより速く理解するには圧倒的な情報が思考に流れ込んできたのだ。目の前にいるのは(エルダーブラザー)で、大勢の存在感は(ここにいない木々も、常に意識として繋がりあっている)のだと分かった。それは本当に「分かった」としか表現出来ない感覚で、それが何だったではなく僕自身には事実でしかない。
 ま、そんな事もあるさ。

 草木を見ていて、W.モリスの図柄を思い出す事もある。あの人の作品は模様に重点を置くというより、配色とのバランスが絶妙なのだが。自然の色彩を知っていて、わずかに人工的なズレを加えているような。僕が樹々とか花々を見て強く感じるのは、どちらかというと模様のほうに比重がかかっている。
 古代では、文様に力があると考えられていたらしい。波、植物、稲光、巻き貝、蝶々、雨、などなど。世界の様々な民族が考案した文様を眺めていると、そこにある純粋な願いのような感じが伝わってくる。それはひょっとしたら、自分が漢字文化の中で生まれ育ってきたせいだろうか。森羅万象を表した、象形文字の原型を残しているとはいえないにしても。

 同じインディアンの、チェロキーの族長が遺したという「言葉は、比較・分類のメカニズムだ」という言葉がある。その仕組みの中では捉える事の出来ない何かを、族長の言葉は示唆していた。実際、言葉が請け負える仕事は「双方が了解している物体についての伝達だけ」なのかもしれない。
 特に形のない事象にいえると思うのだけど、比較・分類なしに説明するのは困難な上に正確さを著しく欠いてしまう。それは、本来の言葉の領域を越えてしまっているんじゃないかという気もする。しかし今、僕らが何かを話す時は、むしろそんな領域外の事柄ばかりだと思わないでもない。
 話さずにいられない気持ちを伝えるのに、言葉より適切な手段がありそうな気もする。だとしたら、たとえば草花と対話するように、僕は秋空の色彩について語りたい。

平成15年9月30日
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posted by tomsec at 22:32 | TrackBack(0) |  空想百景<11〜20> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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