芸術の秋…という言い回しも使い古された感のある昨今ですが、久しぶりに展覧会というものを見てきました。といっても、展示されてるのは「アート」なんてベタベタしたもんじゃなくて「物体としての人間」なの。生前に了承を得ている遺体を特殊加工で固めて、それを様々な切り口で見せる趣向だったんですね。何だか、すご〜く楽しそうでしょ?
って、そんなキワモノ見たがる人が多すぎて驚いちゃったよ。うっかりすると格調高い油絵なんかのよりも混んでた、でも大方を占める若者は医療系の学生さんだったみたい。医学的な専門用語で鑑賞してたし。つまり僕みたいな興味半分というノリに合わせたエンタテイメントではなかったのね。それでも毛細血管だけの肺を見て(サンゴみたい)とか思ったり、生後3カ月と4カ月の胎児では大違いって事に感嘆したり。
受精した卵子が、人間になるために細胞分裂してくのは2→4→8→16→32…って、まるで音楽のビートなのね。更に64→128→256…って増え方、コンピューターのメモリ容量? みたい。面白い符号だよね、なぜ倍々なのかなぁ。そんなの別に面白くもないって? 実は僕もなんだけさぁ、しかし誰もそれを不思議に思わないくらい当たり前って、どういう事なんだろう。一見して当然なのは、それが人間にとって(あるいは生物にとって)普遍的な要素だからかもね。
ところでジョージ・シーガルというアーティストがいて、彼の作品が僕とアートの最初の出会いだったの。まぁ80年代初めの話だから、今ではもう現代美術の中でも古典に属するのかもしれない。人を石膏で型取りして提示する、近頃は「フィギュア・アート」なんて呼ばれ方をされたりしてるタイプの原型といってもいいんじゃないかな。立像のサラリーマンとか、額に飾られた妊婦の腹部とか、レリーフ状の性器とか…。僕はそれを思い出したりもしてたな。
たとえ学術的な目的だろうが死体だろうが、飾ってしまえばショウ(見世物)なんだなぁって思った。神経組織の人体、骨格の人体、血管の人体、筋肉の人体…。表皮と皮下組織で縞になって、皮膚の各部がハッチ状に跳ね上がって、片側の付け根を切り離された筋肉を放射状に拡げて…。あまりに芸術的な職人技なもんで、ここまでくると人体を鑑賞するかテクニックを鑑賞するか迷っちゃう。フグの刺し身なんかでさ、見事な包丁さばきで盛り付けられてたりするじゃない?
そんな不埒な僕の傍らで、眉をひそめながら「モデルになった人がいるんでしょうに…」と言った御婦人がいたの。確かに、その人が御存命なら侮辱に値するわな。でもこれが本人だし、こうやって見やすく加工するのに何体もの試作品があったんだよね。失敗作として、日の目を見なかった人体の山が。
免罪符の如き「学術的な展示だから」という名目を取っ払ってしまえば、そこにあるのはグロテスクな好奇心なんだな。場内の、医学的関心を意識した真剣な視線。その中に、きっと皆(死者への冒涜)という罪悪感から逃れる言い訳を抱えていたんじゃないかと思う。でもさ、免罪符なしに楽しめない事のほうがグロテスクな気もするよね。何かの理由で人は死ぬんだし、死体は死体なんだしさ。
この文化では「食人族」ってグロテスクの権化のように言われたりするけども、もしも彼らがこの状況を見たら(何!?)って思うだろうね。彼らが食べるのは人の肉ではなくて、特定の誰かである事が重要なのだそうだから。この会場に飾られているのは死体と呼ぶ以外に名前を持たない物で、そこに群がる人々は異様に映るに違いない。死体なんて滅多に見られないような世の中も含めて。この過密社会で生きてるのは決して不死の人間じゃないのに、死体は町のどこにもない。今じゃあ、西洋医学に看取ってもらわなきゃ往生もできない社会…。
でも一番面白かったのは、会場の外かも。
どうやらビジュアル系のライブがあって開場待ちしてたらしいんだけど、周囲がコスプレ少女で埋め尽くされていたのね。なんとも皮肉めいた偶然! 片や「素の状態」というか究極のミニマムな人体で、それと比すれば装飾過多な「自分ではない自分へと肥大しようとする指向」が外を取り巻いている訳さ。出来過ぎてる。
物としての人体に、これほど執着する奇妙な心理よ。皮を剥がれた人体に群がるのも、何の格好だか着ぐるみを被ったようなのも、何かが共通してるような。
平成15年10月6日
2003年10月06日
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