2003年10月12日
22*唄と天気雨
久しぶりに、気持ちの良い雨上がりに出会えたな。
仄かに温かく、しっとりとして澄んだ空気。なんと言いますかね、空も鳥も木々も耳をすましているような感じがする雰囲気。おまけに、ドラマチックな夕空。呼吸が新鮮。
改めて思ったのは、やっぱり僕は天気雨と雨上がりと虹が好きだって事。正確には(それが好き!)っていうより、その状況の一瞬にシアワセな気持ちがあるんだと思う。僕の幸福って、遠くを捜さなくても間に合ってしまうのね。永続性はないけれど。
逆に考えてみると、これから先の人生に何が起ころうと(そういう些細な日常の中に潜むシアワセは、不幸に感じる時も救ってくれるんだなぁ)という気がする。僕の選ぶ頼りない行き方の中で、それは心強い支えにも思えたりして。
僕は時々、自分の唄を作るのね。で、最近の詞のモチーフが割と(その辺)にある気がするんだ。以前の詞が押し付けがましく聞こえるようになってきて、僕は(自分の外側に向かって何を言ってるのか?)って思ったんだ。言うべき事など、何もなかったんだわ。
誰でも、大切な事を知らない訳じゃないんだよね。何かを訴えたり、説明したりするコトバでは伝わらない要素を。そういう何かを思い出す一瞬って、たとえば僕にとっての雨上がりみたいな空気があるんだろう。すべての輪郭が白く輝いている事、自然の物も人工的な物も等しく光を放っている事に改めて感じ入るような。
ところで、自分で作詞作曲した唄だけで250近くあった。他の人に詞を提供して編曲した物と、唄のない曲は除外した数でね。ノートやテープに残ってないのも、もう唄えなかったりするのも含めて。ハタチから作曲を始めて、単純計算で1年に約15曲かぁ。一番古い唄の歌詞は20年前の物だから、13歳の時に書いた詞だわ。
こんだけやっててプロを目指さなかったのは、自分でも不思議。好きな事して飯を食うのは、もちろん望むところよ。だけど自己満足というか、自分の中で完結してるから好きなんじゃないかなぁ。別にプロじゃなくても、僕は唄うたいな訳だし。
たとえば絵を描くのがそうだった、と思うのね。課題のために描いているうち、あざとさが目について楽しめなくなっちゃった。描く事そのものは嫌いじゃないんだけど、何かが違ってしまったから。僕は自分のビートで踊らなきゃなぁ、と。
小さい頃に学校で「将来の夢」というのがあって、僕は「作家」と答えたのね。何かを創る、という意味で。その点に関してなら、もう夢は叶い続けているんだなあ。誰かに認められなくても、自分自身が太鼓判を押してんだから間違いじゃないでしょ。
あとは声の出し方なのよ。自分の作りたい唄が、自分の唄い方と合わなくなっちゃったんで。今までは(上手くなろう)とか全然なかったのね、ギターの弾き方にしてもそうだけど…。という事は、以前よりも僕の自己完結の範囲が拡がったって事かな? 相変わらず自分のためではあるけども、自分の唄をイメージどおりに表現したくなってきたとか。
っていう理由もあって、ちょこちょこと近所の空き地なんかで練習してたの。仕事の後、日が落ちるまでの何十分でもね。ここしばらくは日が短くなってきたしサボリ気味、秋が深まるにつれ指がかじかんだりして余計に腰が重くなるんだろうな〜。南国指向の僕としては、寒い季節は今一つ精彩を欠くというかインドア志向に拍車がかかるので。
それでも冬の匂いだって嫌いじゃない。おいしい水のような風、内側が凛としてくる感じは寒さの中でしか味わえないね。運よく雪の朝に出歩いたりすると、尚更に。寒い国に憧れる人の気持ちも分かるな、僕は行かないにしても…。ま、旅というのは色々な人との出会いに尽きるけど。
こないだ大阪に行った時、梅田のタリーズコーヒーで異国の空気を感じたのよ。雨雲が去った薄日、穏やかな風と空気感が時間の流れ方を変えたみたいだったな。僕の好きな、ゆったりとした南国の時間。それは案外と近場にもゴロゴロしてるのかもしれなかったんだ、南国じゃなきゃダメだと思い込んでいただけで。
まさにトラベリング・ウィズアウト・ムービング!…って、そういえばジャミ○クアイどうしてるんだろ?
平成15年10月12日
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