なんかね、世間ってのは実際そんな感じがするの。まぁ現実って理想どおりいかないけどさ、それにしてもパズルのピースが全部ガタガタなのってのもねえ。
たとえば社員食堂なんかでTVでも付いてて、あちこちのテーブルで食事しながら話をしているとするでしょ。選挙とか中東和平プロセスとか、身近な犯罪とか事件の裁判とかのニュースをやってたりして。まぁ軽い話題というノリで、割と普通に「クビにしろ」とか「死刑だ」とかいう物騒な言葉が飛び交ったりする。
だけど、ふと考えてしまうのは(今ここで話されている、無責任なジャッジは何か?)って事。色々な場所で同じように、色々な人達がTVに向かって投げかける言葉。そんな軽々しい言葉でも、総量としては相当なものだろう。町中の空気が、それらの言葉で一杯だとしたら。その中で起こっている、そうした出来事って何なのかな? って。
というのも「物質の最小単位はエネルギーであり、観察者の期待が物体の動きに反映される」という話を思い出すからなんだ。それが真実かは別問題で、ただ自分の言葉にある力が目に見える事象にリンクしてないとは思わないのね。
常に暴力的な発言を繰り返す人と、そうでない人は同じ場所にいても別の世界を生きている。初対面で「キライ」と思ったら、相手も同じ印象を持っているらしい。わざと人を不愉快にさせるより、逆のほうが自分自身の居心地も良くなる…。より具体的に言うなら、こんな感じで個人の内と外はリンクしてると思うの。
抵抗だけなら動物でも出来る、非難だけなら幼児でも言える。…そんなフレーズが頭に浮かぶんだわ、競争原理に染まった姿勢では「勝ち負けのないゲーム」なんて楽しめそうにないもん。だけど僕も、勢いで口走ってから思わず口をつぐんだりしてるんで、偉そうに言える義理じゃないんだな。で、YFS&NQという訳。
だって僕には平和とか平等って漠然とし過ぎてリアルじゃないし、暴力を否定する気もないのね。薬も過ぎれば毒になるって段じゃないけどさ、何かと比較して強すぎたエネルギーでしょ? その余計な分の力を打ち消して無力化すれば無駄じゃないだけで。もし仮に暴力を地上から撲滅したとして、それで得られる平和とかが幸福とは思えないんだな。
暴力に直面するのは苦しいに違いない。でもその状況を強制排除できるチカラは、苦しみ以上に強力な何か…いわゆるパワーかフォースのどちらか。即効性があって目に見えるパワーのほうばかりで、別な要素について語れる人がメディアから消えてしまう現実って残念に思うよ。
ではYFS&NQを、フィクションとノンフィクションの世界で考えてみましょう。というのは、どこかで読んだ「通貨や時間などは虚構の制度」という文章が引っ掛かっているからなんだけど。
お金なんかは単なる決まり事で、所詮は社会集団の幻想なんだって。本当は存在しないけど、必要を感じてYESのスイッチを入れているに過ぎないと。それで一本の木よりも、ゼロ(無存在)に価値が生まれてる。なるほど、そう考えて見渡すと日々の暮らしはフィクションの中だ。海に浮かべたボトルシップみたいだ。
では何がリアルなのか? そこで思い出すのは、ある作家が使っていた「体の言葉」という言い回し。話す人自身が自分の体で身につけた、体験から生まれた言葉。他人の引用や意味ありげな常套句より、理屈じゃなく気持ちに収まるような。言葉が生きている人になんて、滅多に出会えるもんじゃないかもしれないが。
我想う、故に我有り。始めに音ありき。…そして世界は満ちたり。
平成15年11月11日