急須でいれた茶の味には、広々とした風景があると思う。今までで一番美味かったのは、薩摩琵琶の師匠に出された緑茶。折り込まれた風景の豊かさ、とでも言いましょうか。
「一杯の茶を味わうには、心が今ここに留まっている事だ」…折に触れ思い出す、ベトナムの詩人の言葉。心が遠くにある事に気付かなくたって、いつも感じていると錯覚したまま過ごしていられる。しかしながら本当に(うまい)と思える、そんなコーヒーやタバコが一日にどれくらいあるだろう?
引きこもり、に関するトークセッションのような番組を観たのね。
そこにいた多くの人は自身の状態を自覚して、その状態を変えたいと思っている人だった。そんな彼らの一日の過ごし方は、超インドア派の僕と大差ないの。ただ僕がそうする時は好きで選択している訳で、彼らは自身の選択としては選んでないんだな。他の選択肢が分かっていても選べない、と。好きじゃない事をしてると、自分の心を傷つけるよね。
誰の心にも、不確実な自分自身を定義しようとする意志があるとする。それは外界と自分とを測る、自分自身が便宜的に創造した座標プログラムなの。なのに自分以上の価値を与えてしまい、すべての権限を譲り渡してしまう。方位磁針で包囲自身(…冷)。
ところで、町なかの傍若無人な人が目立つようになったと思わない? どっちも根っこは同じだったりして。何でも真正面でキャッチして応えようとすれば、誰でもキャパオーバーになってしまうと思う。としたらさ、手前勝手な振る舞いってのは案外「自分のキャパ内で何とかしよう」っていう必死さの一種だったりしないかな?
ある意味「普通の生活」というのは、心を閉じてないと保てないのかもね。自分にとって関係ない(と思っている)事柄には感覚をマヒさせる、その能力を「健全」と定義してるのかも。だけど何かの弾みで重要性の遠近感が一緒くたになったり、そりゃあ目詰まりを起こしたりもするだろう。
もしかしたら、現代人(なんか古いね)の心境に「現実に閉ざされるより、心を開け放っておきたーい!」という欲求があるんじゃないかな。つまり社会の窒息状態に対する意思表示・・・というより人の心ってデフォルト設定はフルオープンで、閉じている事の負荷が重いのかも。もしも本当にそうなら、引きこもる感覚が社会に還元されれば相互にとって良いのに。だって部屋の外に出られる人も出られない人も、どちらも広い世界で息をしているとは思えないんだわ。
もっとも、社会のほうが隔離しようとしているという考え方も出来るかな。この世界の仕組みにとって、機能しない要素は排除しようとする意識。ポジティブである事、結果を出す事を求められる。向上を善とする、その他に選択肢のない空気…。と、突然アテネオリンピックの話に。
巷の噂では、現地が呑気に準備してて開催が危ぶまれているって? なんか良いなぁ〜、そういう俗に言うローカル・タイムって奴。効率なんかと無縁でさ、GMT(標準時)でキッチリやってる世界とは対極な感じ。必ずしも(楽しく働いてまぁす)って訳じゃないにしろ、使役されてる感てのは少なさそう。もちろんGMTの良さも恩恵も分かってる、だから共存してゆける余地があればと思うんだ。
最近、面白い話を読んだ。働きアリの中には、まったく仕事をしないアリというのが一定の割合で存在しているらしいのよ。それで思ったのは、老子の「有るというのは、無いがあるから役に立つ」というような言葉。
もしも健全な人達が変化を恐れないのなら、排除されていた人の彩りを加えてゆけるのなら、この視界は更に豊かになりそうな気がする。そういう余裕が心にあれば。
一杯の茶を味わう、という困難さ。
平成15年11月17日