僕は寒いところより暑い所が好きなので、冬になると南国指向は一層高まる。
しかし子供の頃は毎年のように雪だるまを作ったり、他人の作ったカマクラに入ったりしていたものだ。つまりそんだけ雪がよく降ったって事で、近年よりもっと寒かったに違いない。集団登校のアスファルトが結露して滑りやすくなり、 土を見つけると霜柱を踏み荒らし、バケツや水たまりに張った氷を威勢よく割ってたもんね。半ズボンで。
メキシコから帰ってくる飛行機の窓から、富士山の先に黒いドームが見えたんだ。そこが自分の住み暮らしてきた土地で、あの凄い大気の底で空を見上げてきたのかと思うとゾッとしたよ。成田に着いて、物哀しい気持ちになったもんな。雪は降らなくなり、星も見えなくなる訳さ。
それでも冬は、相変わらず寒い! そして空気は澄んでくるんだなぁ。春から秋の空気が埃っぽいって事を思い出させてくれる、その程度には空気が旨くなる気がするな。南米チリのブエノスアイレスは、語源が「良い空気」なのだそうだ。という割に大気汚染が激しくて、名前負けして久しいらしいけど。あの街も東京のように、すっぽりと闇のような半円に覆われて見えるのだろうか。
僕は未だに、北海道には行った事がない。仕事絡みで秋田には行ったけれど、それ以外で東北には足を踏み入れた事がない。外国も、真冬のソウルは修学旅行と仕事だし、初冬のシアトルはメキシコ帰りのストップオーバーだった。南国指向の自分が、進んで寒い場所に行く筈がないわな。温泉は伊豆でも満喫出来るんだし。
だけど、星野さんという写真家の本には心を動かされてしまうんだ。彼の写真もそうだが文章も不思議と、雪の朝に目が冴えて外に出てしまう時の静かな温度が感じられるの。彼はアラスカで活動してたからか、雪や氷河やオーロラがなくっても、陽光あふれる海や森なんかを撮っても冬の良い匂いがあるんだ。
いわゆるプロの写真家が撮ると、大抵あざとさが鼻につくっていうか万人向けな分だけ無味無臭になっちゃう気がするのね、そこに何が写っててもさ。かなり前だけど、知り合いが「イルカの写真展」てのを開催したのね。ただイルカが好きで、基本的には写真の素人が集まって。でもドキドキさせられたの、ブレてたり被写体が端っこだったりするのに。中には本職の写真家も出展していたんだけど、その構図なり露出なりが完璧であるほど(リアルじゃない)って感じたんだわ。視線がエモーショナルじゃないの。
それからしばらくして、コマーシャル・ベースじゃない写真家が出てきて、マニュアル操作でバルブ撮影(要するにシャッターを開けっ放しにする事)できるカメラが売れたり手振れやピンボケが味として評価されるようになってきた。そういうのって、表現としてリアルだと思う。
表現って、稚拙から洗練されて進化してゆくじゃない? 古典的な技巧とか芸能には、洗練の極みとして型が生まれるけど、その停滞を打ち破る新たな稚拙さってのはエモーショナルな何かなんだろうなあ。その革新性を語る理論は後から付いてくるものだから、それらしく解説されてしまうようになったらヒップホップ・ムーブメントだって既にリアルさは失われてしまったって事かも。ま、全盛期からは20年も経っちゃってるからねぇ。
そう考えると、あの空白と揶揄された80年代にもストリート・カルチャーが生まれたり、テクノ〜ニューウェーブが後世に残ったりしてた訳だ。とすれば、90年代以降って何かあったかなぁ? 下手すると80年代後期のネオ・サイケとかネオGSから延々とリバイバルしっ放しだったりして。
未だ世紀末から覚めやらず、ってか。
平成15年1月20日
【関連する記事】