この空想百景ってのは「自分が見聞きしたりした経験をベースにして妄想を膨らます」という姿勢で書き連ねてゆく事にしてるのよ、コンセプトと呼ぶほどじゃあないにしても。なのに仕事場から自転車で往復10分、外界との接触が少ないから必然的に新聞とかTVとかで世間の風を見聞きした気になっちまうんだわな。だから、言葉に心がない感じ。
実は今までも何回か、そういう展開になっちまっては方向修正してるのね。うかうかしてると、すぐ個人的な価値観を押し付けるような話を仕立てちゃうんだ。で、アップしてから読み直してみて気が付くんだよなー。画面に向かって(だーかーらー、こうじゃないんだよなぁ)とダメ出ししながら、次にアップ予定の原稿を即座にチェックしたりして。
昨日もらった本(よしもと氏の新刊)に、僕が前回の「パイプ」で言葉にしたかった事が単純明快に描かれててショックだった。すでに前回の件では自己嫌悪気味だったから、余計に効いたな。もちろん力量の差は当然としても、同じ事柄について書き比べた時の違いが明確すぎてさ。あんなにも平易な表現で、さらりと勿体つけずに言えちゃうのかー! って。僕の場合、前振りに余計な情報を詰め過ぎて肝になる文章が埋もれてる…。
結構あの作家の小説って好きで殆ど読んでるんだけど、どちらかというと(小ネタの積み重ね方が巧いなぁ)という感じに思ってたのよ。日常の中で小さくキラッと光った想い、それを上手につなげてくような。でもそんな程度じゃなかったんだな。(どんな立ち位置の人でもサラッと流して読めるように書けるのって、こんなに凄い事だったんだぁ!)って思い知らされたわ。
なんでまた、こうタイミング良く同じ事を…ってガックリきたけどね。だからって挫折、とかじゃないんだな。ま、僕は物語を描いてる訳ではないし。って、言い訳か。
だけど、物語を描くのって(フィクションを作り出す)という以上の何かがないとダメなんだろう。単に筆力や状況設定だけじゃない、神話のような力が架空の話を物語に変えるんだと思う。それから物語を記述するのに適した文体というのがあって、少なくとも自分の書き方とは違う気がしてるのね。だから自分には出来ない、って意味じゃないんだけど、たとえば「〜を記述するのに適した…」なんて言い回しなんか他人事じゃんね。
ところで「チベットを馬で行く」という本を図書館で借りて読んでるのね、自分でも(なぜチベット?)そして(なぜ馬?)なんだけど妙に魅かれてさ。しかし文庫にしては厚いし記録文調なので、なかなか先に進まないの。やっとラサを出発するところで、まだ馬に乗ってもいない。あと2日で返却日なのに。
僕自身がメキシコ(とキューバ)に行ってから、やけに旅の本が目に付くようになったのよ。それは自分も書き始めてたから無意識にフォーカスしてるんだろうけど、それ故に却って読まないようにしてたの。それで、とりあえず書き終えて旅行記というジャンルの本を色々と読むようになったんだ。
自分が書いたのは(時系列に沿った事細かな記録文)だったんだけど、案外と他の人って違う書き方だったのね。土産話みたいに、関連するエピソード毎に話をみとめてく訳よ。でもこの「チベットを〜」は資料的側面もあるせいかもしれないけど、本当に旅のレポートなの。僕は(こういう書き方って、読み物としては入り込みにくいんだなー)と、しみじみ思ったのでした。
なので別枠「メキシコ旅情」も、原文から読み易く手直ししながら掲載していく事に。このままじゃトムセク自体、文章の成長記録サイトになりかねませんなー。
平成15年2月15日

(写真は本文と殆ど関係ありません)
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