まぁ、そういう日ってのは取り立てて珍しくもないやな。そんでもって苛々オーラを出していると、楽しい事より不愉快な出来事が集まってくるもんだ。こっちの不機嫌なエネルギーが周囲に波及してるのかもしれないし、あるいは荒んだ何かの出す空気に同調しちゃって楽しい事が目に入らなくなるのかもしれない。
そんな日の数日後、新聞の小さな記事で「地球に大きな流れ星が最大接近していた」というのを目にしたのだ。内容は若干違ったような気もするけれど、まぁそういうのの影響が出たんだと思うと面白かったな。今更だけど、あの日は周りの人がことごとくカリカリしてて振り回される事に苛立ってたんだ、と言えなくもない。
動物は月の満ち欠けと調和したリズムで生きてるとか言うけど、人間だって月と犯罪の増加率には関連があるっていう話を聞いた覚えがある。だったら(大きな隕石が地球とニアミスしたせいで、人の精神状態が世界的レベルで不安定になった)って言われたって妙に腑に落ちる感じがするな。むしろ生き物らしい感受性に愛着が湧いてくる位。
そんな予報番組があったら、ちょっと楽しいかもね。たとえば朝の占いコーナーみたく「今夜は満月なので頭に血が上り易そうです」とか「今日から流星雨になりますので、モヤモヤ気分の人が増えそう」とか。「アフリカの皆既日蝕の影響により、一時的な胸騒ぎがありそうです」なんてね、そんで駅で腹立つ人に遇っても(あ、サバンナは今ダイヤモンドリングなのかぁ)なんて牧歌的な気持ちになれたら良いんだけど。
ところで全然関係ないんだけど、子供の頃UFOを呼ぼうとした事があったなぁ。あれは小学校の1、2年か? クラスの誰かが、どっかで覚えてきたんだな。何人かで輪になって「ベントラー、ベントラー」って唱えながらぐるぐる回ってるとUFOが寄って来るって言われてさ、空き地に行って本当にやったんだよね。子供心でも(そんな訳無いよな)って分かっていながら、でも薄ら怖かった。用もないのに呼び出して怒られたら…って。
ずーっと回ってるうちに「ベントラ」が「トラベン」になって、しまいに気分が悪くなってきたし飽きちゃって終わり。たった一度の下らない遊びだったのに、大槻〇ンヂのエッセイで同様の話を読んで一気に思い出した。当時は空き地がまだあって、空も今よりは広かったって事も。それにしても、世の中には他にも「ベントラごっこ」経験者がいたんだ。時代だよなぁー。
UFO、ユリゲラー、ノストラダムス、謎の4次元、心霊写真、ネッシー…。そういう現象が許されていた、というか大手を振ってまかり通ってたんだよね。世紀末を過ぎ21世紀から冷めた目で振り返るのとは違う感覚なのよ、その空気の渦中を生きていた目線ってのは。
30年後の自分の身長で見渡せば、あの広大だった筈の空き地も実際それほどではなかったりするのだろう。その時の低い視線には荒れ野に映った(誰のものでもない場所)が幻想だったように、今の自分には見えない現実を生きてたんだなって思う。その半分は、時代の見せてくれた幻影だったとしてもね。その事が、なんだか生々しく感じられる。
情報の質とか量と関係なく、人はそれぞれ世界を定義してるんだ。
それぞれの人が生きる世界は、そういった事とは無縁の神話のようなものなんだ。
たとえ子供であっても、子供なりの規範を持って幻想を生きてるし、そして既知の世界は狭く異文化は広い。だからすぐに「冒険だ」とか言って無茶するのかもな、細い塀の隙間を伝ったりとかして。
すっかり忘れているけど、同じニュースを共有してる人同士の中で生きていると異質さが遠くに感じられてしまうんだよね。あの荒野の向こうまで冒険しに行く勢いで、今は外国だって行けない事もないのに。まだ僕にもその余地はあるのだろう、知らない何かへの好奇心があれば。
今行ってみたいのは…ベルギー? うーん、熱が及ばないかな。
平成15年3月27日
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