実は携帯ゲーム機で遊んでいたのだ。しかも一人一台ずつ持ってて、別に通信対戦とかしてる訳でもないの。(家で一緒に遊べば?)って思うじゃん、わざわざ公園で顔を寄せ合ってゲームしなくても…。そう考えると尚更、僕には理解不能な光景で。でも理屈じゃない部分で、なんだか安心したりもして。
サイバーパンク小説の解説か何かで「ストリートはストリートなりの使い方で云々」という文章があってね、たとえばヒップホップカルチャーの缶スプレーやポータブルプレーヤーは、作り手が思いもしなかった新しい可能性だったんだよ。それと同じような意味合いで、もう大人になってしまった僕の発想で子供達の心配をしなくても大丈夫なんだろうって気がしたの。
子供らは彼らなりのやり方で、新しい物も古い物も同じ地平で取り込んでゆく。ゲームが屋内の遊びと決めているのは僕のほうでさ、ひょっとしたら目の前の不可解さがストリート・カルチャーの革新の始まりなのかもしれないし(大袈裟かな?)。
かと思えば、泥棒が冷蔵庫を盗もうとして腰痛になってメーカーを訴えたりもするらしいね。いくら予期せぬ使用法ったって「注意書きに『持ち上げないで下さい』と書かなかったメーカーの責任」という判決が出る事までは、革新と呼びたくないわな。だから乾電池に「食べないで」とか書いてあるんだ、もはや常識なんていう曖昧なルールは通用しない時代とはいえ…。
誰かが言っていた「アメリカの真似をしてると、日本がバカになる」というのも、妙に説得力を感じるなぁ、しかし単一民族という事になっている日本人同士だってさ、もはや頭の中は全員エイリアンだからねぇ。優先順位が共同体から個人に移った今、利害が一致しない限り(同じ想い)なんざ幸福とか平和より遠い幻想だし。
本って、他者の視点だと思う。それが映画でもRPGでも構わない、要はストーリーがあるものだね。他人の目に何がどのように見えてるかを知るなんて、日常ではまずあり得ないでしょ。深く突っ込んだ話をする関係を持てたとしても、相手の言葉を自分の経験で読み替えてる程度かもしれないしさ。
ストーリーという疑似的な経験によって物事の理解を別の角度から捕らえ直す、そんな他者の視点は自分を客観的にさせると思うんだ。自分という主観が、絶対ではなく相対的なものだって教えてくれる。物語は、視点を変えて世界を再体験する事なんだと。
虹の色が2つに見えるような人の視点を知る事と、自分で2色の虹を体験する事は知る以上の違いがある。つまり「自分の受け入れている現実は、象徴と神話で色づけされている」って事。それを思い込みとか色メガネって呼んでもいいけど、良い悪いじゃなく単なる基準という話。僕らそれぞれが生きてる今は、ゴーグルで確保された視界の中だけにあるって意味で。
裁判所ってのは、弁護士同士が(いかに裁判長のゴーグルを有利な色に塗り替えるか)を争うゲームセンターなんだよね。正義や真実が、じゃなくて勝訴が1つなだけで。
陪審員制度になると、きっと弁護士は(いかに泣ける筋運びで、多くのゴーグルを引き付けるか)という手段に出るだろうな。最近ニュースの扇情性が高い気がして、そういうの僕はアンフェアだと思うんだけど。
平成16年5月21日
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