2004年07月15日

49*明るい町に降り注ぐ雨

 高架下で丸石のようになってる猫。
 夕立が降ってきた。まるで電気を帯びたような、大粒の雨が肌を叩く。
 この懐かしさに似た感覚、ボビー・ブラ〇ンの曲でも耳にしたみたいに(この辺は人によってクワイ〇ット・ライオットだったり、まぁ色々だろう)。だからって、まんま昔に返るとか匂いが甦るとかでもなくて。今にいながら、今の色が抜けてゆく…そんな感じ?
 雨に打たれてると、濡れる程に目の前の雑事の縛りが緩くなってゆく気がする。浄化ってコトバだと少し違う、ただ自分がシンプルになってく。

 僕は川の近くに住んでいる。
 何度か引っ越しをしたけれど、結局は下流へ移動しただけで、ひょっとしたら離れられない関係なのかも? って思ったりして。生まれて物心付くまでは、アパートの窓から見える集積場から落とされるゴミを満載して「夢の島」へと向かうダルマ船が頻繁に行き交っていたものだ。
 堤防を乗り越えると、打ち寄せるゴミから野球のボールが手に入った(どんなに洗っても臭いが消えなかったが)。そういう遊びで溺死する子供もいたし、腐敗した豚一頭が浮いてたりしたなぁ。大昔は荒ぶる川と呼ばれもしたし、父親の世代は泳いで遊んだらしい。でも、僕が知ってるのはコンクリに押し込まれて虚勢された水面だけ。

 当時の悪臭を知っているせいか、今は潮の匂いしか感じられないし、得体の知れない浮遊物も消えた。それを思うと僕は(時間はかかるけど好転してるんだ)って感じるし、何よりも川が立ち直ってゆく経過を実感できる事が嬉しかったりする。
 だからかなぁ、僕的に「千と千〇の神隠し」って大した映画じゃないと思うんだけど、ハクが名前を思い出す場面で必ず涙腺が緩くなる。今こうしてワープロに向かってても、ずいぶん観てないのに胸が苦しくなってくる位。

 ここでの僕は、tomだ。そういったアダ名なんて、引っ越しの回数分かそれ以上は持っている。そしてそれらは、信徒が教父から与えられるように他人が名付けた僕の名前だ。更にいえば、そこに込められた意味どころか理由はすごーく適当なんだよなー。
 もっとも、僕は与えられた名前を受け入れているし、受け入れる事でコミュニティ内に存在してるというアダ名の側面も理解してるから全然OKなんだけどね。
 それに僕は、自分で自分に与えた「ひみつの名前」も持っている。

 どこか遠い国の部族は、本名を隠して明かさないんだそうだ。それを知られるとチカラを奪われてしまう、そんなような理由だったと思うけど。確か原キリスト教(つまりユダヤ教か?)でも、全能の神ヤハウェーの名を口にする事は許されなかったという。そして現在では、本当の発音を誰も知らない…。何だか、近頃いわれる「プライバシー(個人情報)の秘匿」に似てるね。
 逆に(名前を奪われる)って考えると、イージーな地名改編が頭に浮かんできたんだ。名前に宿る「土地の記憶」を消す事で、ある種のチカラを支配する…。それって昔は神事に則って行われていたんだよね、場合によっては文字通り命懸けの一大事。現代じゃ一介の不動産業者や、あるいは村おこしを口実に書類の上で片が付くけど。

 この川も、古い名前と一緒にチカラを奪われたのかもしれない。それを取り戻す日が来たら、再び町を呑み込むのだろう。だとしても、立ち直ってゆく感じが好きだな。
 …あ、空が明るくなってきた。
 長田 弘の「驟雨」という詩を思い出して、あの一節の一言でこの空気すべてが語られている事に改めて感動する。

平成16年7月15日
ku49.jpg

posted by tomsec at 19:34 | TrackBack(0) |  空想百景<41〜50> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック