ところで「地獄の黙示録」って映画、あるでしょ? あれは自分にとって思春期から今に至るまで、最も脳裏をよぎる映画なの。近年公開された「完全版」と、どっちもビデオで一度ずつ程度しか観てないのに…。
そんで「地獄の黙示録」の解説本を読んでみたんだ、単なる戦争娯楽大作じゃないって事は解ってたんだけど。計算された哲学的要素とベトナム戦争の実話に基づいた、戦争という行為そのものの本質を描く作品だったんだよねー。深い、というか情報量が濃い!
戦いとは勝つために行使される手段であり、そのセオリーを追求してゆくとカーツ大佐という人物像に辿り着く。それは全世界的テロの首謀者とも重なるし、現在のアメリカもまた、未だに四半世紀前の映画を超えていない…。
話は昨夜の事に戻るけど、実は「もののけ姫」のビデオを観た後で眠れなくて本を読んだのよ。ラフカディオ・ハーン著「怪談・奇談」。別にホラー好きとかじゃなく、南〇坊の「李白の月」と「仙人の壷」で神仙譚や怪異譚に興味を持ってね。
でも随筆にハッとさせられたの、特に「焼津にて」を締めくくる文章。この新学社の昭和52年版は引用を禁じていないので、その辺の件を転載しちゃおう。
[人生は神々の音楽だという言葉を何処かで聞いたことがある。その説によれば、この世の啜り泣きも笑いも、その歌も叫びも祈りも、歓喜と絶望の生の声も、それらが立ち昇って神々の耳にとどく時分には必ず完全な調和のとれたものになっている。それゆえ神は苦痛の音色を押し消そうとはなさらない。そんなことをすれば天上の音楽は台無しになってしまうから。苦悶の音調を欠いた音の組み合わせは神々の耳には堪えがたい不協和音に聞こえることであろう。
或る意味では私たち自身が神々のようなものである。なぜならば、生まれる前から続いている記憶を通して音楽の恍惚境を私たちにもたらすのは、数限り無い過去の生者たちの痛みと喜びの総和そのものに他ならないから。死んだ代々の人たちのすべての嬉しい感情と悲しみの感情と同じように私たちが日の光が目に映らなくなるだろう時から百万年経ってから、私たち自身の生涯の喜びと悲しみはもっと豊かな音楽となって他の人々の心に入ってゆくだろう。(森 亮・訳)]
ソローが「森の生活」で記した言葉と似た眼差しを持ってたんだなぁーって思ったね、この小泉八雲として知られる人。9世代先の子供達を見てるような視点、というか。
神々の音楽の中では、いわゆる(つい願ったり叶ったりしてるようなハッピーエンド)なんて、壮大な交響曲の小さな節目みたいなもんだ。そんな予定調和で段落を着けてくのも好きなんだけど、全体の眺めは見失わなわずにいたいと思う。
アシタカは「曇りなき眼で見定め、決める」と言うんだ。森の民と里の民、その二つの力の共存を探るという困難な場所に留まり続けようとするの。それでも争いは避けられず、神は人に殺されてしまったけど、それでも。
密林の民に神と崇められた男を殺すウィラード大尉は、軍命に従わずに自分の意志で物語を終わらせたのよ。そして新たな神を得た民は、彼に倣って武器を捨てる。でも彼は、コッポラ監督が示そうとした「未来へのヴィジョン」へと闇に消える…。
たとえば(水の流れが二つに別れる場所)を意味する「分水嶺」という言葉は、決断の時を指したりする。しかし僕はね、この分水嶺からの眺めを見届けたいって思うんだわ。決して優柔不断でなく、流れ落ちるどちらにも身を委ねないような姿勢で。
最近、仕事で使う薬品のせいで右手が荒れるようになってきたんだわ。よく知らないけどアトピーみたいで、その湿疹が出来るたび「もののけ姫」を思い出したの。でもそれって何の関係もないんだよね、タタリ神の呪いとは。
それとこれとは話が別、って所に関連性を見いだしたりするのが「個人の神話」なんだな、善くも悪くも。でもそれはひょっとして、ジョーゼ〇・キャンベルの「生きるよすがとしての神話」にも繋がってるような…。
だからどうだ、という話でもないけどさ。
平成16年9月11日
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