2004年09月29日

54*快感の背骨

「男の料理」というと、何か野趣あふれる豪快なイメージがあるね。ジェンダーフリーといわれる昨今ではあれど、男性ならムチャクチャな調理をしたって大目に見てもらえるのは有り難い。
 僕の父親は料理上手だ。単身赴任の自炊に始まり、既に20年近く経った今も派手さはないが旨いものを出す。NOレシピが信条の母親が作る波瀾万丈な献立より手堅いのは、やはり気質というやつか? 僕も料理は作らなくはないが、己の腹を満たすレベルを越えて上達する見込みは薄いな。

(いつまで経っても親父には敵わないな)と思う。散髪なら僕も自分の頭ぐらい(バリカン刈りではあるが)出来るようになった、けど魚を下ろしたり捌いたりする自分なんて想像も及ばない。
 ところで、父がホットプレートで作った広島風お好み焼きを食べながら思ったんだ。(男性の集中力というか凝り性なところは、表れ方として洗練と発展の2方向があるのではないか?)ってね。
 洗練型・指向性は完成と収束。型を極めてゆくタイプ。料理では美味しくなってゆく。
 発展型・指向性は開拓か拡散。型を崩してゆくタイプ。料理では奇抜になってゆく。

 僕が寝不足に陥るのは、夜は集中力が高まるからなのだ。といって、その高い集中力でゲームしたり唄を作ったりしてるので、家族の不眠に貢献する事もしばしば。ゲームに関しては、食事抜きで三日三晩ぶっ通して気を失った事もあったなぁ。
 作曲も同様で、降って湧くイメージを何とか定着させるまで中断できないんだよねー。忘れてしまう前に形に留めなきゃ二度と思い出せなくなるからさ、僕は絶対音感もないし音符も書けないから仮録りしておくんだわ。まずギターでイメージ通りの音を捜して、仮録りできる程度まで練習して録音するうち夜が明ける…。

 唄ってさ、でも実は誰でも作ってるんだよね。知らず知らずに口づさんだり鼻歌にしてる、あのヒラメキを覚えておくのが大変なだけでさ。それを「ドジョウすくい」に例えるなら、五線譜はドジョウを手渡しする手段な訳だ。ドジョウをすくうだけなら、別に安木節スタイルじゃなくても構わない訳で。
 僕の場合は詞が先にある事が多くてさ、昔のヤンソン(歌本)形式で歌詞の上にコード(和音の記号)を書いておくだけなの。伴奏となる和音の展開が決まっていれば、とにかく主旋律は付いてくるからね。ってコトは、僕の唄ってコード進行が背骨なんだなぁ。
 メロディとかビートの善し悪しより、コードの気持ち良さ。たまに歌詞抜きで曲のイメージが出てきたりする時もあるけど、コードさえ覚えていればメロディも思い出せるし。

「E.V.C〇fe」という本で、〇本龍一が「コード感は、100年周期で変わっているのでは」というような事を言っていた。クラシックで(ある年代まではコード進行の中にある快感が分かるんだけど、ある時期よりも古い音楽になるとその感覚が断絶してて、気持ち良さが分からなくなる)って。
 人が音楽から受ける快感というのは、大きな意味での時代の変化に影響されている…。うーん、理屈は判らんけど妙に腑に落ちる感じ。そして時代によってコードに感じたり、リズムに感じたり、メロディに感じたりするというニュアンスも。

 聴覚と味覚の快感には同じような仕組みがある…、そんな気がしない? 味にも時代性があって、料理にも快感の背骨があるんじゃなかろうか。
 食材と調味料と、調理方法…? そんな区分けでもないんだろうけど。

平成16年9月29日ku54.jpg

posted by tomsec at 22:57 | TrackBack(0) |  空想百景<51〜60> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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