僕の父親は料理上手だ。単身赴任の自炊に始まり、既に20年近く経った今も派手さはないが旨いものを出す。NOレシピが信条の母親が作る波瀾万丈な献立より手堅いのは、やはり気質というやつか? 僕も料理は作らなくはないが、己の腹を満たすレベルを越えて上達する見込みは薄いな。
(いつまで経っても親父には敵わないな)と思う。散髪なら僕も自分の頭ぐらい(バリカン刈りではあるが)出来るようになった、けど魚を下ろしたり捌いたりする自分なんて想像も及ばない。
ところで、父がホットプレートで作った広島風お好み焼きを食べながら思ったんだ。(男性の集中力というか凝り性なところは、表れ方として洗練と発展の2方向があるのではないか?)ってね。
洗練型・指向性は完成と収束。型を極めてゆくタイプ。料理では美味しくなってゆく。
発展型・指向性は開拓か拡散。型を崩してゆくタイプ。料理では奇抜になってゆく。
僕が寝不足に陥るのは、夜は集中力が高まるからなのだ。といって、その高い集中力でゲームしたり唄を作ったりしてるので、家族の不眠に貢献する事もしばしば。ゲームに関しては、食事抜きで三日三晩ぶっ通して気を失った事もあったなぁ。
作曲も同様で、降って湧くイメージを何とか定着させるまで中断できないんだよねー。忘れてしまう前に形に留めなきゃ二度と思い出せなくなるからさ、僕は絶対音感もないし音符も書けないから仮録りしておくんだわ。まずギターでイメージ通りの音を捜して、仮録りできる程度まで練習して録音するうち夜が明ける…。
唄ってさ、でも実は誰でも作ってるんだよね。知らず知らずに口づさんだり鼻歌にしてる、あのヒラメキを覚えておくのが大変なだけでさ。それを「ドジョウすくい」に例えるなら、五線譜はドジョウを手渡しする手段な訳だ。ドジョウをすくうだけなら、別に安木節スタイルじゃなくても構わない訳で。
僕の場合は詞が先にある事が多くてさ、昔のヤンソン(歌本)形式で歌詞の上にコード(和音の記号)を書いておくだけなの。伴奏となる和音の展開が決まっていれば、とにかく主旋律は付いてくるからね。ってコトは、僕の唄ってコード進行が背骨なんだなぁ。
メロディとかビートの善し悪しより、コードの気持ち良さ。たまに歌詞抜きで曲のイメージが出てきたりする時もあるけど、コードさえ覚えていればメロディも思い出せるし。
「E.V.C〇fe」という本で、〇本龍一が「コード感は、100年周期で変わっているのでは」というような事を言っていた。クラシックで(ある年代まではコード進行の中にある快感が分かるんだけど、ある時期よりも古い音楽になるとその感覚が断絶してて、気持ち良さが分からなくなる)って。
人が音楽から受ける快感というのは、大きな意味での時代の変化に影響されている…。うーん、理屈は判らんけど妙に腑に落ちる感じ。そして時代によってコードに感じたり、リズムに感じたり、メロディに感じたりするというニュアンスも。
聴覚と味覚の快感には同じような仕組みがある…、そんな気がしない? 味にも時代性があって、料理にも快感の背骨があるんじゃなかろうか。
食材と調味料と、調理方法…? そんな区分けでもないんだろうけど。
平成16年9月29日
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