あれは10年以上も昔なんだなー、人生で最初で最後の原書体験。原書で読むってのに憧れてね、買った唯一のペーパーバックがこの本だったのよ。タイトルからして堅そうじゃないし、同じ棚には英訳「窓際のトッ〇ちゃん」なんてのがあったから。
しかし知らない熟語とか言い回しが多すぎたんだ、何とか最初のコラムを訳してお蔵入り。だって一行目から辞書と首っぴきだもの、そりゃもう読書になってないって! だから今回、日本語版を借りて初めて内容が分かったのよ。
かつて訳した分のコラムは、読んでいて当時を思い出したね。それは「パーティ・ライン」という題名で、日本語版では「電話でパーティ」とされてたの。もうここから間違ってた! 僕は、これを(気軽な集まりでの気の利いた台詞)などと勝手に解釈しちゃってたのだ。タイトルで誤訳してたら、中身が辻褄あわないのも当然だわ。
この本には作者が36歳の時に書かれたコラムが収められていて、日本語訳の初版は1986年。約20年前に書かれたコラムなのに古臭くないし、同じ36歳になった僕の文章とは比べ物にならない…。嗚呼!
ま、それはもう仕方ないとして。
コラムといっても内容は、ちょっとした短編映画を観ているようなの。一昔前のハリウッドにも、こういった淡々とした映画があったんじゃないかな。そうだな、思いつくところじゃ「カントリー」なんかもそうだ。邦題は「アイオワの大地に」だったかな? ウィ〇ダムヒルが音楽を担当してて、確か'86年頃に観た覚えがある。
ジャンル的には社会派かな、クライマックスで農家が一致団結してたもんなぁ。高校生の僕には、まだ遠い世界すぎて印象が薄かったけど。そういえば日本では散々なブ〇シュさんを支持してるのも、こういう温厚実直に暮らしてる人々なんだよねー。
思うのだけど、世界中の9割方は温厚実直といえる人々なのではないかな? そして残り1割の中の、更に9割は(良くない事をしているなー)って思って暮らしてる…。つまり本当にどうしようもない悪党がいるとしても、全体の1%未満じゃないかって気がするの。根拠はないけど。
これは一つの考えで、一般的には(比率が逆だろ?)と思うのかもね。実際「悪貨は良貨を駆逐する」とも言うし、悪い影響ほど早く深く広がるものだ。そういう大人が1人いれば、それ見た子供はみんな真似するからね。信号無視する人がいると十中八九、そこにいる子供は目で追うんだよ。
先日、却って新鮮に感じるくらい久々に「近頃の若い人は…」っていう決まり文句を耳にしたのね。それが狭い歩道を塞ぐように立ち話してる、老齢のご婦人方で。こういう光景って当たり前に見るんだけどさぁ、なーんか善悪の縮図? そんな感じがしたな。泥仕合、というか立ち位置の違い。
温厚実直な9割がたの人々が気付かないでやってる良くない事、そんなの言うだけ詮無いとはいえ「1発の右ストレートよりも、10発のボディーブローのほうが致命的」だったりしないかなぁって。
ボクシングで伝説となったアリという男性、彼の講演旅行に同行したエピソードは興味深かった(…あ、また先程のコラム本ね)。
物静かで、神について話し、祈る王者。どこに行っても人々は彼を見逃さないの、もうサインとか握手とか色々と求めてくる訳。その描写で段々と飲み込めてくるのよ、なぜ彼は周囲に人が多ければ多いほど無感覚状態に入っていったのか。
浴びたパンチの数よりも(絶え間無い注目と一方的な接触)が彼を変えたのだと、コラムニストは書いてるのね。アリの目線で眺める世界って、僕には地獄だわ。彼の日々は己を捧げ出す苦行のようで、チャンプってだけで務まるもんじゃないよ。人々が抱え込んだ憧れや妬みを一方的に投影され、拒まないのは。
やっぱり自分は(何かの象徴)にだけはなりたくないね。そして誰の事も、そんなふうに扱わないようにしないと。…とか言いつつ、前述の(道を塞いで愚痴る老婦人)に「善悪の縮図」を見たりしてますが。
先日、こんな投書が新聞に載っていたんだ。地震の被災地を天皇が訪問し、ひざをついて被災者に話しかけるその様子を携帯で写真に撮っている人達がいたとか。そりゃあ天皇陛下が至近距離に存在するんだもん、撮りたい動機も分かる気がする。だけど舞台で浴びる注目とは違う、それはアリが耐えたのと同質の暴力だ。
そんな光景、今や珍しくないよね? いつの間にか当たり前になりかけているけど、自分が同じ目に遭わないと分からないんだろうな。いや案外、やられたって平気なのかもね。あの注目というか凝視、僕は気持ち悪いんだけど。そりゃあ別に痛くも痒くもないさ、でも…堪えるね。あの、携帯のレンズを向ける人の表情。
つまり良くない事、10発のボディブローってのはこういうコトなのさ。
でもきっと9割がた(はぁ?)って思われるんだろうね、それこそが僕の言いたかった事なんだけど。
平成16年11月19日
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