2004年12月08日
61*アート、人の作りし物
いわゆる「ネットコラム」ってあるでしょ?…って、これもそうか。
いわゆるプロの文筆家は、今まで出版業とは切っても切れない間柄だったじゃない(多分これからも)。作品の出版を担当する編集者がいて、半ば共同作業で仕上げていた訳だよね。そんな名編集者との蜜月から生み出された作品を数え上げればきりがないけど、逆に言えば作品に干渉されまくってたんだよなぁ。
以前、僕の知り合いが大手出版社にアポなしで原稿を持ち込んで本を出したのね。アポなしも持ち込みも普通あり得ないけど、彼女のバイタリティは常識の限界点を超越するから。んで買って読んでみたら妙な違和感があってさ、別人かよ?! って位。
彼女は昔からニュースレターを発行してたから、独特の文章は良く知っているのよ。なのに読み易く整えられちゃって、本人から聞いたりした感じと一致しないんだよね。内容も(らしくない)感じで、どうも編集者のピントがズレてた気がして仕方ない。
それはまぁ出版社の都合で、不特定多数に受けそうな体裁にしたかったって事だよな。題名も本人の告知と違ってたし、担当者は相当頑張って手を入れちゃったんだろうね。見栄えのする文じゃなかったかもしんないが、オリジナル原稿のほうが絶対に面白かったに違いないのにねぇ。勿体ない。
売れそうな素材としての彼女の体験を、分かりやすく編集しなくちゃいられなかったんだろうね。そういうのって、音楽で言えばモータウンのような作り方だよな。それに限った話じゃないし、制作者の意図に合わせて作詞家や作曲家や演奏者や歌手をコントロールする手法は今でも珍しくないが。
売れたミュージシャンがプロデューサー業に手を出す時も、そういうのって常套手段で使うよね。セルフ・プロデュースなんていっても、常に腕利きのエンジニアと組んでいるし(僕の敬愛するプリンスは例外だけど)。本でも音楽でも、ビジネスとなると作品をコントロールするのは本人よりも売り手の方針だ。
で、ネットコラムの話。何をやっても売れるような大物文筆家でなくたって、今はインターネット上でなら編集者という他人に邪魔されず作品をコントロール出来るようになってきた、と。
でもね、何にせよ「全部一人で」ってのは結構しんどいと思うのよ。悩み出すと出口のない八方塞がりになるから、結局は他人からの客観的な意見があったほうが楽だったりもするんだよね。そこら辺の案配が、ビジネスとしての難しさだったりして。
ところで、アートの世界で「ファイン」と言えば商業主義に染まってない物を指すのね。量産の利く版画を中心とした絵画ビジネスが流行る昨今、ファインの潮流はあんまり元気がない感じ。ま、不景気だし。
そういう商業経済を逆手に取ったのがポップアートで、いわば絵画におけるパンク・ムーブメントだったのかもしれないね。とすれば、村上某のアニメ・フィギュアをデフォルメしたような作品群とは? と考えると、そりゃ一言で片が付く話でもないわな。もっとも、そうだったら美術が抽象化する意味がない。
僕は常々(抽象芸術には作者の社会に対する思想がある)と思ってきたのね、だけどコマーシャリズムと入れ子になってるような村上某の作品は理解出来ないままでいる訳。その構造がファインとしての革新なのか、単なるビジネスだからなのか? 実物を観れば、また何か感じられるのかもしれないんだが…。
美術作品は、じかに見るに限るからな。フランシス・ベーコンなんて、本で観ただけじゃ衝撃は伝わってこなかった好例だもん。映画とビデオの関係と、ファインアートにおけるオリジナルと絵画本を同列に考えたら大間違いなのよ。実物は鑑賞者と直接の関係を持つし、その場には独特のコミュニケーションが生まれているから。
今や具象画の範疇に入ってしまいそうだけど、モネって作家がいたでしょ? あの人の、印象派の語源となった「印象・日の出」を実際に観た時は凄かったよ。それまで美術関連の本で見てた時は意味不明だったのに、まさか絵を見て泣くなんて思わなかったもん。
あの茫漠とした淡い色彩に畳み込まれているのは、ある朝モネ自身が体験した意識の覚醒だったの。たとえばニューエイジ本で書かれていそうな(言葉にできない一種の悟り)に近い感覚か…。それを彼は絵画という媒体に変換し、人間に「視界と思考が相関関係にある」という認識をもたらしたんだ。
もし(それがどうした?)と思うんだったら、それは既にモネによって意識の枠組みが拡がった世界に生きてるからなんだよ。…って事が、言葉なしで僕自身の体験として分かった訳。って言われても全然ピンと来ないかもね。この感覚を伝える言葉自体、まだ存在してないのかもしれない。
それに実際、言葉は常に発言者を裏切るものだから。
平成16年11月3日
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