2004年12月22日

63*年末のシンボル

 年末の風には、月日に疎い僕にも感じられる独特の慌ただしさがある。
 なんだかバタバタした空気に巻き込まれてると、ふと(誰かが言った大事な言葉を聞き逃してしまったんじゃないか?)というような寂寥感に捕らわれたりして。よく思い出せないんだけど、どさくさの中で有耶無耶にしちゃいけなかった何かがあった気がしてくるの。SI〇Nの「12月」という歌みたく、爽やかな後悔をする。
 ところで、職場の忘年会は「できればスーツで」という話だ。ホテルの宴会場だからか? しかし無い袖は触れぬ訳で、どう頑張ってもボタンダウンとチノパンにサイドゴアのブーツが関の山。僕はスニーカーとTシャツとトレーナーで事足りる、そういう世界なのだ。
 僕は常々、スーツという服装は日本の気候や風土にそぐわないと思っている。しかもスーツには革靴だ、これがまた非常にそぐわない。西欧ならいざ知らず、こんな湿気の多い土地だもの。いくら手入れを怠らなくても、梅雨時なんて靴底の革が悲惨な事になる。大枚はたいて2足も駄目にして、未だに捨てられずタンスの肥やしだ(泣)。

 そして年末と言えば大掃除。誰が言ったか「部屋の状態は、住む人の心の中を反映している」のだそうだ。部屋じゅうに物が溢れ散らかっているのは、その人が集中力を欠いていたり気が散っているからだと。
 逆に言えば、部屋が片付いてれば心も風通しが良い状態になるって事だ。そう考えると「シンプルライフ」という言葉も奥が深いね、シンプルな空間に健全な精神は宿る?
 そこから拡げて考えれば、パソコンというのも所有者の心の中を表しているように思えたりして。ソフトを無闇にインストールし過ぎたり、何がどこのフォルダにあるのか分からない状態になってくると動きが鈍るもんね。そこを解決せず無闇にキャパ拡張してしまえる、ってのも現実のメタファーっぽい。
 己の心を知る方法としての、部屋とパソコン。部屋の譬えでいうと中に自分が含まれている感じだけど、パソコンの譬えだと自分は俯瞰で箱庭を外側から覗き込んでるみたいだ。…なんて、どこかで聞いた「外側に見えるものは、すべて内側の反映である」というような言葉を思い出した。
 そうなると、自分の見てる全方位が己の暗喩って事になる。同じ景色を見ていても、僕と貴方じゃ違って見えてる、と。自分自身にしか見つけられない替わりに、答えは目の前に見出せるって訳だ。
 古代ハワイイのシャーマンは「額縁を後ろ向きに放り投げ、その落ちた場所や様子から未来を占った」だかいう話を、何かの本で読んだっけ。つまり肝心なのは、額縁でも後ろ向きに投げる事でもなく「読み取る力」にあるんだね。
 森羅万象すべては一つのものから生じたとするなら、自分の深層にある無意識から原初の記憶に到達できれば可能なのかもしれない。西の空に鳥が飛ぶ、雨上がりの虹が二つ重なる、知らない他人と何度も目があう…。意味などない、だけど何もかも自分に降り注ぐメッセージには違いないわな。
 主観や願望、あるいは憶測や策略でもない「起こりかけている流れ」を感じ取れるかどうか。結局は水晶玉や紋章やタロットなんかも説得力アップの小道具で、本当は下駄の表裏でだって分かっちゃうんだけど、おごそかでもっともらしいほうが有り難みが増すっていう人情? 要は他者からは理解不能の過程で得た答えの、見せ方でしかないような。
 実際、自分にとって生涯の一大事を、もしも鼻毛を抜いて簡単に言われてしまっちゃあ面白くないに決まってる。

 今年もまた「〇時だよ!全員集合」のコントみたく、どんでんが回るように終わってゆくのだろうな…。願わくば同様に、拍手と笑顔とフルオーケストラで…。

平成16年12月4日ku63.jpg

posted by tomsec at 19:19 | TrackBack(0) |  空想百景<61〜70> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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