岩盤に薄く積もったような地層だから、残された原生林を伐ってしまったら貴重な固有種も野生動物の生態系も二度と戻らない土地な訳よ。だからこそ国民の共有財産にしてゆこうとするんだけども、それには実際に暮らしている人達に必要性を分かってもらう事から始めなければならなかったそうだ。
善良で心の暖かな人達ではあるが、貧しさから目先の利益しか見えなかったりする。あるいは「これが先祖代々から我々のやり方なのだ」と、現状を悪化させる事に無頓着なの。もちろん全員じゃないけど、多くの人達がね。
それから37年が経った今、その計画がどうなったのかは脇に置こう。人の愚かさは、離れて見るほどよく分かる…っていう教訓だよなぁ。そして、ふと(もし同じような事が中国であったとしたら?)と思ったんだ。
あるいは、すでにそれは現実化しつつあるのかもね。干上がった大河、進行する砂漠化など…一人々々の、善良な人の心ない振る舞いが数億人の規模で何を生むのか? あるいは、何を損なわせるのか。
僕にとっての中国は、アメリカと大差ないのよ。どっちも自分の目で見てもいないで、イメージだけで言うんだけれど。大国主義って感じ? 文化として好きなところは多い、だけど政治的にはねェ。象の視点で蟻を踏み潰すようで。
いわば「健康である事の傲慢さ」に似ている…そう思ったりして。
痛みというのは、喉元過ぎれば忘れちゃうもんだよね。そして他者への共感というか想像力(同情とは違う)もリアルじゃなくなる。何もかも順調で上手くいっている時、それは往々にして陥りがちな傾向じゃないかな。
いつか自分が挫折して絶望の淵に立ち、その感覚を分かち合えない人から平然と傷に触れられて。じゃなけりゃ眼中にないってな態度を取られた感じがしたりして、そんな時にかつての己の傲慢さを省みるんだよね。
もちろん、ただ不満を訴え社会を非難するだけの人もいるだろうけどさ。
どちらにせよ、そこにあるのは「失われた事で気付く何か」なような気がする。
エチオピアの国立公園は、あと一歩のところで革命に消えたんだ。戦乱の後には一層の貧しさが拡がり、やがては復興の支えとなり資源ともなったろう(そこにしかないもの)は残らなかった訳だ。国立公園に反対していた、貧弱な大地から麦の最後の一粒まで絞り取ろうとする人間は結局、何かを得たのかな?
それでも歴史は繰り返され、今も似たような(というか同根の)状況が進行してるんだよなぁ。それは文明の発達するパターンが、基本的には自然環境と共生できない流れだからなのかも。
そういうパターンじゃなくても進展してゆく道はあって、そんな非西洋型に向かった文明は今もある筈。僕らとは異質すぎて見えないだけで…。
養い切れないほどの国民を抱え、多少の無茶をしてでも経済大国を標榜する。国家の威信を賭けて、破綻する訳にはいかない…。先進国を目指す国なら、いつかは通る道なのかなって気がする。それはそれで、分かる気がするんだわ。
ただ「健康である」というのは、その(無茶が利く)という思い込みにかかってるんじゃないかな。それはつまり(自分の体だけの問題だ)という考えで、だから周囲を意に介さない。
でも無茶をする時の心境って、焦りとか意固地に突き動かされてるもんでね。そういった強引な執着心が、すでに「失われた後で気付く何か」を見失わせているっていう。
もし仮に誰かが己の見失っている加減を教えてくれたとしても、そこで馬耳東風を決め込んじゃうのが「健康である事の傲慢さ」たる所以でもあるのだけど…。
だからって弱者への大義名分なんぞ担ぎ出したら、それもまた筋が違うじゃん。
平成17年1月27日
【関連する記事】