2005年03月12日

72*L.A.からN.Y.へ

 僕の初ライブは,原宿のL.A.という店だった。高校卒業ライブという事で、中学の同級生から誘われたのが2月。僕はベースで、当時の人気バンドの曲をコピーした。よく覚えてないけど、20曲以上だったと思う。1カ月しかなかったのに。
 ベースを買ったのは中学時代で、コピーバンドを始めたのは高校生になってから。でも、いわゆるフュージョン系しか演らなかったのでピックで弾く事から覚えるようなものだった。ノルマのチケットを友人に買ってもらって、彼らの冷やかしとヤジに緊張しまくりで黙々と弾いたっけ。
 ステージでアガッちゃったのは、それが最後かもしれない。初舞台は中学のブラスバンドで経験済みだったけど、客席から名指しで呼ばれて嘲笑されるのは…最初で最後だと思いたいね。
 ま、それはともかく。そのL.A.という店は、地下でプールバーも経営していた。そう、プールバーとかショットバーなんてのが流行り出した頃だったのだ。
 来てくれた友人達は小粋なステージでも想像してたのか、演奏後の言われようは「金返せ」とか散々だった。実際に下手だった上に、店の音響スタッフがドラムにディレイ掛けてドドンパみたいだったしなぁ。
 相手が友人でも、ライブは無理に頼み込んで観てもらうもんじゃあないよなぁ。

 その頃、僕の住む町にもショットバーがあった。街道筋の、旧宿場町の商店街から外れた辺りに木の看板に手書きのメニューが出ていたのね。そんなの今じゃ珍しくもないが、当時は斬新に思えたのだ。
 で、狭い路地を入ると地味な店構えでねー、それがまた気に入ってさ。地元らしいっていうか、流行の先端とは無縁の外し加減が。テーブル1つに小さなカウンター、なぜかBGMはロシア民謡みたいなので、マスターの後ろ髪は常に寝癖ではねていた。
 それまでウィスキーが飲めなかった僕に、バーボンの味を教えてくれた。ウォッカにジン、ラムにテキーラ…。有名ホテルでバーテンダーをしてた割に、ちょっと気が小さそうなマスターの敷居が低いキャラも好きだった。
 高校を出て広告写真のスタジオで働き始めた僕は、手取りは少なくても学生バイトより自由に使える金が増えて、仕事帰りに足げく通うようになった。そしてある晩、親しくなったマスターが「店を畳む」と打ち明けてきた。確かに経営は厳しかったろう、僕が行くと先客がいた試しがなかったもんなぁ。
 ここを閉めてどうするのか訊くと「六本木でホットドック・スタンドを始めるつもりだ」と言う。これも今では普通に見かけるが、早くもミニバンでの移動式屋台を考えていたのだ。見かけによらず行動力があるというか、そういう発想の拡げ方に社会に出たばかりの僕は驚かされた。
 そして数カ月後、今度は僕が「仕事を辞める」と話した。
 先の当てなんてなかったけれど、結構な退職金が出るので思い切って海外に出ようかとも思ったりしていた。たかが1年ちょっとの青二才に50万だ。当然それには会社側の事情があるのだけど、ハタチなりたての僕が未来を夢見るのに充分すぎる金額だった。
 同僚と2人で「N.Y.に知り合いがいるから、屋台でアートっぽい土産物とか売ろうぜ」…そんな本気とも冗談ともつかない話をして、最後の1カ月は過ぎ去った。もちろん現実には、退職金を無為に食い潰すだけに終わってしまった訳だが。
 それから数年が経ち、僕は西麻布で働いていた。
 そして六本木で飲んだりする度、無意識にホットドック・スタンドを捜してはマスターを思い出していた。
 彼は夢を叶えただろうか?

平成17年1月27日
ku72.jpg


posted by tomsec at 22:18 | TrackBack(0) | 空想百景(ALL) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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