僕は、広義での江戸っ子だ…というのは、江戸っ子の定義って色々あるからね。
狭義では、たとえば「3代前から神田明神の氏子」とか。江戸時代の御城下って、そんなレベルだからね。そうなると浅草も柴又も深川も両国も除外だな、月島方面なんて人足寄場(?)だし。
戸籍上では日本橋小伝馬町の生まれ、でも実際に育ったのは都電荒川線の沿線ですから。親父も疎開先で生まれ育って、戸籍上の住まいに戻る事はなかった。それなのに一端の江戸っ子気取りで、作務衣なんか着そうな勢いで参っちゃうよ。あれだけは着ないでって頼んでるもん、だってアレ系の年寄りにゃあ気負ってて面倒臭いのが多いからさー。
まぁ、それは置いといて。「べらんめぇ」って啖呵言葉は、定説じゃあ「べらぼうめ」が訛った(というかスピーキングリダクション?)らしい。しかし我が親父の口癖「馬鹿野郎め」は「べぇろぅめぃ」に聞こえてさ、そのほうが限りなく「べらんめい」に近い気がするし辻褄あってると思うんだけどね。
ところで、ずいぶん前に読んだ新聞の日本語を考察する記事の話。
半濁音を使う人は、関東に多いんだそうで。第二音節に使う「ガ行」が、鼻にかかった鼻濁音になるとか。でも最近では人の移動や学校教育などのせいか、減ってきているらしい。で、その話を関西の友人にしてたら、僕も「鼻濁音になってる」と言われてね。ひょっとしたら、最後の鼻濁音世代なのかもなぁ…。
それと、これも新聞で知ったんだけど「江戸しぐさ」っていうの。
たとえば狭い道ですれ違う時に目礼したり、避けあって通るとかね。雨の日なら、お互いの傘が当たらないよう外側に傾けるとか。往来も激しく、せせこましい下町で無用の小競り合いを避ける知恵でもあったらしい。西洋でいえば敬礼や握手のように、互いに敵意がない証しを示す暗黙の了解だったのだろうね。
それって一種の一般常識なのかと思ってた、でも教わったというより生活の中で身についた所作だったんだなぁ。今は目上の人でも滅多に出会わなくなったもんね、そういった大人の仕草には。不遜な態度の相手にも自然に体が動いちゃって、なんだか後から屈辱的な気分になったりしてさ。
それでも時折、同じようにして誰かと行き交うと嬉しくなる。相手のスマートさを害さなかった、そう出来る自分で良かったと思うよ。別に江戸っ子を気取るつもりはないがね、そんな瞬間に僕は自分の生まれを誇らしく感じるんだ。
やがて廃れる所作だとしてもね。
僕は古いものを無条件に有り難がりはしないのね、懐古主義って楽だけど発展性がないというか。そりゃあ温故知新は結構、でも新旧の折衷品は手法として古いじゃん? どこかで聴いたような音楽、たとえばそういった雰囲気の小物とか安心感があるけど心は躍らないっていう感じの…。
だからって、今更「アメリカで大流行!」でもないよなー。昔は売りやすい宣伝文句だったろうが、やっぱ「他所は他所、ウチはウチ」なんだよね。PL法が施行された辺りから日本も訴訟社会になってきた気がして、なんか一段と不毛になってきたと思う。
そもそも、コミュニケーションの不在が当たり前になってるからねぇ。お店でも電車でも、みんな知り合い以外には能面みたいで。車内で「ちょっと通してもらえます?」とか、レジで「これ、お願いします」なんて言うと逆に目立っちゃうし。でも海外に行くと違ったりするんだよな…。
大抵の事柄は、互いを思いやって話し合えば済む筈なのにね。それで解決できない事でもないのに、どこかで掛け違えていく。まぁ日本国内だけの話じゃないか、グローバリズムや個性尊重が取り払った垣根の跡に溝が残ってるのに、気づきもしないでギャップに捕らわれるような。
いや、批判じゃないつもりよ? 誰かが変わるべきだなんざ、おこがましいって。変わるのは僕自身、ただ情報不足というか。まさか現状に迎合してく気はしないしねぇ…。
平成17年5月1日
2005年05月03日
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