2005年05月27日

メキシコ旅情【純情編・6 ジェスチャーの嵐】

 空腹は堪え難く、もはやトニーが起きるのなんて待ってられない。意を決して階下へ。
 昨夜に続いて今朝まで食事を? まったく、我ながら図々しい! だけど「社交辞令じゃない」と、トニーは言っていた。僕が食べたいと言えばママは喜ぶ、彼が食べないせいで文句を言われてる位だ、と。

 1階の木の扉は今日も開け放たれていて、僕はおずおずと声をかけた。
「ブエノス・ディアス、ママ…?」
 奥から怪訝そうに顔を出したママが、僕を見て弾けたような笑顔で叫んだ。
「○×△◎☆◇!」
…案の定、何を言っているのか全然わからん。しかし、その仕草で「中に入れ」と言っているのは分かった。でも僕は何て言ったら良いんだろう、そこまで考えてなかったよー! 焦って引き返そうかと思ったけれど、メキシコの肝っ玉母さんの迫力に釣られて機を逸する。頼みの綱のエドベンは、すでに仕事に行ってしまったようだ。妹のロレーナも英語が話せるので通訳してもらう事は出来るだろうけど、この場には寡黙な姉のパティとママしかいなかった。
 ともかく身振り手振りで乗り切るしかないよな、とはいえ唐突に「食べ物、頂戴」なんてジェスチャーをするのも不躾すぎるし。うー、弱った。何かを察したママが矢継ぎ早に質問を浴びせてくるし、ますます僕はたじろぐ一方。部屋から「スペイン語会話集」を持ってきたものの、旅行者向け実用会話の例文を応用できる訳もない。食堂の店員を相手にするのとは違うのだ。
 2人は僕の用件当てクイズを面白がって、あれだこれだと言い合ってるうちにママが「コメール?」と言って食べる真似をした。おおビンゴ! 思わず小躍りしちまった。単なる食い意地野郎かよ、ともかく通じたからOKで。ママは得意そうに何か言うと、嬉しそうな顔でキッチンに消えた。それは意思伝達の成功を意味してるのか、自分の料理がリクエストされた自慢なのか…? まぁ何であれ、友好的に朝食の合意に達した訳で。めでたし、めでたし。

 パティが冷蔵庫から1リットルのコーラを出して、コップに注いでくれる。「ムーチャス・グラシアス!」と礼を言って、僕はテーブルの席に着いた。業務用の冷蔵庫か、仰向けになった片開きの冷凍庫みたいなタイプだ。
 カウンターの奥で、深胴のナベが温め直されている。出てきた料理は、レストランでは食べた事のないメキシコの家庭料理だった。大納言みたいな赤い豆と豚肉を煮込んだスープと、一緒に出された小瓶には細かく刻んだ野菜が入っている。これはサラダじゃなくてサルサ[ソース]だそうだ。ママが身振りで(スープの味が薄かったら、足しなさい)と教えてくれる。確かに薄味だったのでスプーン一杯加えようとすると、二人は慌てて「ピカンテ[辛い]!」と叫んだ。その時の、ママの(ヒーヒーするわよ)というジェスチャーがおかしくて三人で笑った。
 テーブル上には、わらを編んだような丸い入れ物が乗っている。リボンの付いたフタを開けると、トルティーヤが入っていた。具のないワンタンの兄貴みたいな、柔らかいタコスの皮だ。ママたちは、それを「トルティージャ」と発音した。これが主食に相当する。そのまま食べてみると、油っ気はなくトウモロコシの甘みがあっておいしい。焼きたてだったら、もっと香ばしいだろう。
 食後に出てきたコーヒー、これは感激だった。ここまで美味しいコーヒーなんて、そうそう出合えるもんじゃない。ぬるかったのは舌をやけどしないようにと、ママが気遣ってくれたからだった。絶句したままの僕に、2人は「サブロー?」と言った。三郎ではなく、口に合うのか訊いているのだ。
「シー、サブロー!」おうむ返しの僕。
「ノ。サブローサ、サブローソ」ママは自分達を指さして訂正し、それから僕を指した。スペイン語の動詞は男女で違うのだ、そして更に「サブロー、サブローソ」と最初に小さい丸を作って、次にその手を拡げてみせる。[美味しい]の比較級がサブローソだと言ってるのだろう。
 これからも、言葉の壁を乗り越えてママのコミーダ[食事]を食べに来よう。ママは陽気で、実によく笑う。あと声も大きい。
「ママ、パティ、コメール、ムーチャス・グラシアス、サブローソ!」
 僕は片言のスペイン語で感謝の気持ちを伝えて、二階の部屋に帰った。
posted by tomsec at 16:56 | TrackBack(0) | メキシコ旅情3【純情編】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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