2005年05月27日

メキシコ旅情【純情編・3 初夜】

 目が覚めると部屋は薄暗く、アマカから転がるようにして外に出ると夕方になっていた。
 やがてトニーが姿を見せ、僕らは階下に行って家族のみんなに自己紹介をした。たくさんの人がいて(やっぱりメキシコ人は大家族なのねー)みんな口々にスペイン語で話しかけてくるんだけど、こちとら一つ覚えの「こんにちは、はじめまして、名前はtom、日本人です」ワンフレーズ一点張り。あいだに立って通訳してくれていたトニーも、いい加減うんざりだったみたいだ。彼はスペイン語を話せるとはいえ、僕の英語とどっこいどっこい程度の様子だった。
 エドベンのママと、姉二人に妹二人。それに旦那さんと子供たち。まったく、誰がどれやら。部屋に戻ってからトニーと答えあわせしたのだけど、まだしばらくは名前を間違えそうだ。
「さて、夕飯はどうする?」
 トニーは僕に尋ねた。いつもどうしているのか、そう問い返すと彼は「いつも適当に済ませている」との事だった。日本にいる時と同じように、ここでもジャンクフードの世話になっているのだな。彼らしい、と思う。
 しまった、うっかりしていたなと思った。気が付いてみれば、この部屋にはキッチンがないのだ。彼は料理をしないけれど、部屋にキッチンがないとは予想外だった。これでは僕も毎日、外食三昧を覚悟しなければなるまい。出費を節約するためには、いくら料理が出来なくたって何とか自炊するつもりでいたのだが……。
「君さえ良かったら、ママの作る御飯を食べたっていいと思うよ。ママはいつも『アントーニオ、どうして私の料理を食べないの!』と言ってるからね」
 トニー(アンソニー)をスペイン語読みしてアントーニオ、という訳だ。でも彼だって御馳走になれば良いのに、何でそうしないのかな? そう訊ねると、ちょっと言いにくそうに「自分の口には合わないんだ」と答えた。またそんな事言って、家族に気を遣って遠慮してるんじゃない?
「ママだって、そのほうが嬉しいだろうよ。ウソじゃなくて」
 彼は僕の考えを見透かしたように付け加えて言った。ママは、トニーがジャンクフード漬けの食生活をしているのを心配して「そんな体に悪い物を食べて、どうして私の料理を食べないのか」と怒っているのだそうだ。
 どうして彼は、ママの料理を食べないのだろう? そのほうが安上がりだし、しかもメキシコの家庭料理を食べる機会なんて滅多にあるもんじゃない。それに「胃が悪くて手術したばかりだ」と言っていたのに。
 半年前に日本を離れたトニーは、先ずは同僚だったオーストラリア人とハワイに行き、それから兄弟の住むLAに立ち寄り、そこで入院したと言っていた。そういえば以前から胃の調子が良くないと言っていたが、道理で一向に返事が来ない筈だ。それならベジタリアンにでも転向すれば良いのに、と言うとトニーは冗談めかして「夜、夢の中でチーズバーガー達の歌が聞こえてさ、知らないうちにハンバーガー・ショップに来ちゃうんだよ!」と、こう言うのだ。
 僕がタバコを吸う事よりも、よっぽど体に悪いと思うけどね。って、こういうのを(目くそ鼻くそを笑う)というのか。
 ママの家庭料理に招かれるなんて、僕にしてみりゃ願ってもない話だ。いわゆるタコス系とは違うったって、いくらなんでも「いかりや長介アフリカをゆく」みたいな食べ物は出ないだろう。その土地、風土に交わってこそ(旅の醍醐味)でしょうに。
 ともかく、今夜は止めておく事にした。トニーが「夜中、近所の屋台でタコスを食べよう」という魅力的な提案をしたからだ。まだ時間が早いので、ひとまず隣の女のコの部屋に遊びに行こうということになる。
「きっと彼女達と一緒なら、スペイン語も早く覚えられるさ」
 意味深な彼の言葉に、つい良からぬ期待をふくらませる僕であった。

posted by tomsec at 16:56 | TrackBack(0) | メキシコ旅情3【純情編】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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