とっぷりと日が暮れる。30分位だったろうけど、ずっと滑っていたように体が重かった。長い一日の疲れが出てきた。
子供たちと一緒にトニーの部屋に戻ると、早速ディエゴは散乱したテーブル上のキャンディを見つけて、トニーに甘え声を出した。
「食べてもいいよ」
トニーはそう言ってTVをつけると、三人を部屋に残したまま僕を外へと連れ出した。何がなんだか分からない僕に、トニーは少し早口の英語で一方的に段取りを説明し始める。
「いいかい、これから僕らはタクシーでベイビー・ベイブの家まで…」
「待って、彼女だけタクシーに乗って帰ればいいんじゃないか。昨日と同じように…」
「違う、彼女の兄弟が会って礼を言いたいそうだ。断れるか? それに、彼女は君を気に入ってるから来て欲しいんだ」
トニーは、彼女の帰宅が遅れた事に責任を感じているのだろう。それにしても珍しく有無を言わせない口調で、まるで僕の顔に「NO」と書いてあったのが不満だったみたいだ。だってこちとら疲れて今すぐ寝たいってのに、どうしてそこまで彼女の面倒をみる必要がある?
ベイビー・ベイブというのは、エドベンが(トニーの好きなコだから)という意味で付けた内輪的な呼び名だった。親切にして仲良くなるのは結構だけど、そいつは彼自身の問題じゃないか。それに何となく、僕は彼女に係わりあいたくなかった。
トニーは続けて言った。これから部屋には近所の子供がみんな来て「トイ・ストーリー」のビデオを観るんだ、寝てられないよ。僕らはその間に彼女を送って、帰って来る頃には子ども達も観終わっている。そしたら静かにのんびり出来るさ、何も問題ないだろう? と。
OKと言うしかなかったが、その単純な一言を口にするのは大変な勇気が要った。ここではいつも彼に頼ってばかりだし、今こそ役に立つ良い機会なのだった。タクシーに乗ってあいさつして帰る…それだけだね? 僕は彼に念を押した。
「大丈夫だよ。すぐ帰って来るんだから」トニーは答えた。
夏空は、薄暮に包まれてゆこうとしている。
昨夜と何も変わらないはずだ、僕はそう考える事にした。
その筈だったのだが。
タクシーの中で、トニーは彼女の話を僕にも訳してくれていた。珍しく前の助手席に座っている僕は、後部座席で明るく言葉を交わす二人の調子に投げやりな相槌を打っていた。心ここにあらずで、どうでもいいのだ。
「君がギター弾くって言ったら、彼女が『じゃあ持って来れば良かったのに』ってさ!」
「はっはっは。へー、そぉ」
「家に行ったらマカレナ・ダンスを見せて欲しいって!」
「はっはっは。あっ、そぉ」
タクシーは中型の日本車で、左ハンドルだった。信号が少ないからか、減速せずに勢いよく走る。自分達がどっちの方角に進んでいるのか覚えておきたかったが、さっぱり判らなくなった。
「彼女が『君の髪を切りたい』って!」
「…えっ? 何でまた」
「彼女はヘア・カットの学校に通っていて、練習したいんだって!」
「カッコ良く切ってくれるならね。カンクンで一番イカした髪型にしてくれ、って彼女に言って」
「大丈夫だってさ!『今よりは良くなる』って!」
悪かったなー。実は自分でも、髪を切るつもりだったんだけど。昼間、メルカドをウロウロしていて床屋さんを見つけたので(明日にでも散髪に)と思っていたところだったのだ。不精ヒゲにぼさぼさ髪でメキシカン気取りでも、いざカンクンに着いてみたら逆に不審人物だった。
この町の人は、清潔さを身上とするのだ。男性は大抵、短めの黒髪をぴったりとなでつけていた。少なくとも長髪はいなかったし、ヒゲを生やしている人もお目にかからない。そもそも無精ヒゲは、メキシコ人じゃなくて西部劇のならず者だ。
カンクンの人達はみんな穏やかで押し付けがましくなく、ちょっと照れ屋だったりする。セントロの土産物売りさえも紳士的で、しつこく売りつけたりはしない。最初に声をかけられた時に無視したら、トニーにたしなめられてしまった。
「彼らは悪い奴じゃないんだからさー。ただ笑って『ノ・グラシァス[結構です]』って言えば、もうそれ以上は何も言ってこないヨ」
トニーは、外国人が日本で味わう屈辱について、こんなふうに言っていた。
「通りかかった人に話しかけようとするでしょ、みんな逃げるヨ。道を尋ねるだけなのに、すごい無視するヨ。日本人どこでもそう。さっき、君は日本人だから普通に無視してたでしょ? でも土産物売る人は、ちょっとショックだったヨ、たぶん」
2005年05月27日
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