2005年05月27日

メキシコ旅情【分水嶺・9 心の敵】

 メルカドに、新しいビーサンを買いに行く。
 刺すような陽差しも、空気の中に雨の名残が感じられて心地良い。泣いたと思ったらもう笑う、子供のような太陽だ。
 土産物屋は、相変わらずレイドバックしていた。絵ハガキを見つつ物色するも、どうも良いのが見当たらない。サイズが合わなかったり、派手というかシンプルさに欠ける柄だったり。もうビーサンじゃなくて健康サンダルにでもするか?
 最近ちょっと見かけない珍奇さとハズし加減、メキシコに健康サンダルという組み合わせに我ながら笑う。その場で意気揚々と履き替え、変な顔で見る店のおばさんに(まぁ分かるまい、このセンス)なーんて一人ごちて帰って来た。
 その数日後、トニーが言いにくそうに教えてくれた。
「ここでは、それはトイレで使うだけだから…」
 あらら〜?! でも僕は〈変なガイジン〉だからいいの。

 エドベン家のガレージに頭を突っこみ、奥の部屋にいるジョアンナに潜り戸を開けてもらう。僕は、みんなのように合鍵を持ってない。
 黒く頑丈な鉄格子の隅に仕切られた、小さな潜り戸だ。背中を丸めて出入りする度に、僕は動物園の猛獣を想像する。なんでこの家だけ、こんなに仰々しいんだ? まぁ余所は余所、この家はこの家だ。
 トニーの部屋に行くと、まだ家庭教師はいなかった。
「もうすぐエレーナが来る、というか時間はとっくに過ぎてるけど」
 彼女は車だから、排気音で分かるという。この近所は、昼間は滅多に通らない。
「メキシコ人もブラジル人も、時間の感覚が無いんだよな」
 ずいぶんと前にも、彼の口から聞いた覚えがある台詞だ。そうそう、ブラジル人のスケート仲間には振り回されたものだ。
 彼のノートをのぞき込むと、そこには勉強の成果が詰まっていた。熱心だな、良い教師は良い生徒でもある。気を散らせたくないので、僕は手帳を持って屋上に行った。

 いつもは空を見上げたりして一服しているけど、今はそんな心境になれなかった。こんなモヤモヤ感を放っておいたら、何をしてても気が削がれる。今は書くことで、考えを外に出して整理する以外なかった。
 その前に、まずは精神統一。半年ほど通っていたところで習った、太極拳みたいな事を思い出してやってみる。創作氣功、…って言ってたかな。体をゆっくりと動かす、一種の呼吸法だ。体内を流れる氣をイメージしながら、うろ覚えの動作を繰り返す。
[氣を練る]という動作を続けると、両手のひらの中に引き合うか反発しあうエネルギーを(人によって違うんだけど)感じるようになる。僕は磁石が反発する感じが…あれ? 何度も試して微かに感じ取れたのは、今までと逆の引き合う感触だった。
 こんな事は一度も無かった、僕の氣が弱まって逆転してるのは何故だ? ここに来てから何度も試している、地理的な問題じゃないとしたら何だろう。自分の氣に干渉するような要素、磁石の力が反転するような…電磁場的な変化?
 一昨日の月蝕!?
 根拠のない思い込みは危険だが、あの奇妙な夜の気配を思い出すと説得力があった。仮にそれが原因で氣のエネルギーが逆転したとして、それが何を意味するのか、何に関連してくるのか? ますますこんがらがってきた…。
「これから僕はどうなるのだ」
 思わず言葉に出してみて、自分でばかばかしくなった。これからも何もない、せいぜい覚悟しとくだけだ。何かが起こるとしたって、種はすでに蒔かれたって事だろう。実際まだ何も起きちゃいない、ヤバそうなムードだった気がしてただけで。
 僕は手帳を開いて、月蝕の夜からの出来事を並べてみる。

 この話を僕が知ったのは、さっきの水かけ遊びの後だった。ロレーナの異様な怒りようについて疑念を抱いた僕に、気まずそうにトニーが打ち明けたのだ。
 あの夜、一向に戻らない僕らを待ちくたびれた家族は冷めた料理を食べる羽目になった。ママが腕によりをかけて作ったコミーダも、楽しくなる筈の夜も台なしになってしまった。そして、すっかり気分を害したママとロレーナに居留守を頼んだ。
 いつの話だか知らないが、こんな騒ぎもあったらしい。近所の子供に悪気はなかったのだとは思うけど、事の発端は度が過ぎた作り話だった。僕がインライン・スケートで出てくるのを、物影で待ち伏せて銃で脅そうとしている人間がいる…質の悪い冗談だ。
 その噂に仰天したママは、姿が見えない僕を助けようと近辺を捜し回って警察を呼ぶ寸前だったそうだ。誰かが屋上で、何も知らない僕を見つけるまで…。そんな事があったとは、初耳だった。
 そんなこんなで悪い状況が重なり合い、結果として僕らのせいでママ達が過敏になっている。僕らは、ロレーナの皮肉どおり「二人ともイノセントで、何も分かっていない」のだろう。

 暮れ始めた空に、小さな鳥が無数に舞っている。
「エレーナは帰ったよ」
 階下から、トニーが言った。屋上に来た彼は、僕の話に静かな相槌を返した。こうして彼が聞いていてくれる事が、僕にはある種の救いのようだった。

posted by tomsec at 17:14 | TrackBack(0) | メキシコ旅情5【分水嶺】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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