2005年05月27日

メキシコ旅情【分水嶺・7 試練】

 スペール・メルカドで、僕は靴下とバスタオルを買った。まさか靴下が必要とは思わなかったが、トニーがクーラーの温度を下げたがるのだ。居候の身、あまり文句ばかりも言えない。
 笑ったのは、大きなワゴンに便座が山積みされていたことだ。そんな光景も珍しいけど、裏を返せば需要があるって事になる。どの家庭でも便座は消耗品なのか、それとも別売りが当たり前?
「ほら見て、便座売ってるよ。買わないの?」
 せっかく教えてあげても、トニーは全然興味を示さなかった。そりゃ毎日の事だ、慣れれば不便もくそもないか。放っといたって出てきちゃうしなー、便座の一つがなくたって。

 あの部屋のトイレとシャワー室は、日本の常識では試練だ。
 まずドアがない。カーテン代わりに吊ってあるラグの向こうに便座がない便器、右のシャワーは仕切りもバスタブもない。それ以上に、お湯がない。トイレにはペーパー・ホルダーもないので、床に置いてあるトイレット・ペーパーがシャワーの水を吸って大変な目に遭ったりする。
「座れない洋式トイレ」というパラドックスに、とりあえず僕は腰を浮かして対処している。いわゆる「空気椅子のポーズ」だ、ヨガだな(本当かよ)。トニーも最初は面食らったのだと言うが、一体どうしてるの?
「便器の縁に足を乗せてジャパニーズ・スタイル、これは滑り易いから止めたほうがいい。無難なのは、縁に紙を置いて腰掛ける方法だろうね」
 そのアドバイスに、試したばかりの「空気椅子のポーズ」を提案すると彼は大爆笑して「まるでカンフーの修行だな」と言ってまた笑い転げた。
 しかし、一番の問題は…やたら水が止まる! これはキビシイ。断水の理由は明快、二階全体の水を賄っている給水タンクが小さすぎるのだ。階下のママに言って専用蛇口を開いてもらわないと、ただ待ってるだけじゃあ復旧しない。
 つまり、トニーがいない時は自分で階下まで言いに行かねばならないのだ。泡だらけでタオル巻いた格好で階段往復するのは序の口、うっかり大きいの出ちゃったら…流せる水が溜まるまで、部屋じゅう臭い充満の刑だ。て言うか、外を通る人にもバレバレだし! 何故こんな目に?! なんか悲しくなる。
 でもここは川のない熱い国だ、水の事情は大いに違うのも想像に難くない。いや、むしろ日本が例外なんだろうなぁ。現実に「食糧危機の前に水の奪い合いが起きる」っていうし。

 買い物から帰るとビアネイの部屋に直行、僕らのコーラとハーシーズ・ミントチョコを冷蔵庫に居候させてもらう。どうせ僕らの胃袋に引っ越すまでの、ほんの短い仮住まいだ。
 トニーがティミー達を誘ってインライン・スケートでホッケーをしている間、僕は再びポストカードを書いた。昼前に、近所の子供達とビデオを観ながら書いた分を足すと11枚もあった。頭がぼぉっとなってきたし、昼寝でもしようかという所にトニーが帰ってきた。もう夕方かぁ。
 屋上で洗濯物を取り込みながら、陽が傾いた空を眺める。ふと、ある疑念が脳裏をよぎった。
(ベイビー・ベイブは今夜、僕達を誘いに来るんじゃ…?)
 暗い沼底から、音もなく湧きあがってくる泡。僕は重苦しい足取りで部屋に入り、トニーに不安を打ち明けた。
「大丈夫だよ、居留守を使うようママに頼んであるから…心配するな」
 この件に関して、これ以上話すことは無かった。トニーも、済んだ事と思いたいのだ。僕はモヤモヤとした気分を払いのけようと、MTVの新曲映像に集中した。
 意外なことに、この町にもCATVがある。それは多分、ゾナ・オテレラでの需要があるからなのだろう(これまたトニーは自腹で契約)。余計な金を…とかいう僕も、一人で部屋にいる時はMTVばかり観ていた。まさか、民放の「トイジョ〜♪」じゃ観る気はしない。

 僕は階下で夕食を取った。空腹というより、部屋で時間をやり過ごす息苦しさに耐え兼ねたのだ。朝食を食べ過ぎたし、量は少なめにしておいた。
 こうしてママ達の声に囲まれているだけで、正直ホッとする。それでも開け放したドアの外に、絶えず気を配らずにいられない僕。
 ともかく、もう八時を回っている。ベイビー・ベイブが言ったか覚えていないが、パーティは七時から始まる筈だ。誘いは無かったのだ、あるいは電話を掛けてきてママに断られたか…。
 僕は、大きく伸びをしながら2階ヘ戻った。

posted by tomsec at 17:14 | TrackBack(0) | メキシコ旅情5【分水嶺】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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