やっと戻ってきた。
なんだか長くここを離れていた気分だ、まるで自宅のような懐かしさを感じる。そんな居心地良さを満喫する間もなく、トニーは僕を屋上へと誘った。
危なっかしい階段を上ると、エドベン一家が「お月見」をしていた。といっても日本式の喧しい宴会じゃなくて、静かに語り合ったりして月蝕を眺めているだけだ。ディエゴが大声で「ギターロ」と言いながら、階下からガット・ギターを持ってきた。僕は、なんとなく月を見上げながらギターを適当に爪弾いてみる。
そよそよと漂う風、夏の夜の匂い。
ママの笑い声、落ち着きのないディエゴの影。パティが月を指差して、僕に話しかける。スペイン語だから分からないけど、月蝕に関してなのだろうと思って(僕は、初めて見るんだよ?)そう仕草で応えた。
こうしていると、さっきまでの恐怖も空虚さも悪い夢だったように思えてくる。そっと頭に手をやると、やっぱり坊主頭に2ミリ厚の鉢をかぶせたような髪の感触があった。あれが夢であってくれたらなぁー、でも済んだ事だ。とにかく僕は、こちら側に戻って来れたのだからな。
それにしても、月はいつまであの姿なのだろう。
どうして、誰ひとり驚かないのだろう?
エドベンの運転でセントロに繰り出すと、静まり返った真夜中の一角に明るい賑わいを見つけた。さすが地元だ、表通りを捜したって分からないな。今度は白いフォルクスワーゲンじゃなく、青いゴルフに乗っている。助手席にロレーナが座り、後ろはトニーとビアネイと僕でぎゅうぎゅうだ。そしてパパの愛車と同様、この車もまた結構なパーツが足りてない。
やっと一軒のレストランの前に駐車スペースを見つけた時、すごい勢いで雨が落ちてきた。
「ジュビア[雨]!」と誰かが言った。水滴の機銃掃射をかいくぐり、みんなでレストランの玄関へと走り込む。
店内には大きな音で70年代ソウル・ミュージックが流れていたが、外の轟音に客達は振り返っていた。この奇抜な頭髪に注目してる訳じゃない、そう判っていても衆目にさらされているような気分になる。
多くは観光客なのだろう。ほぼ満席だったが、なんとかボックス・シートに陣取って各自ビールを注文した。「サルベッサ」というのは有名なビールの銘柄なんだろうと思っていたけれど、実際にはビール自体を指す言葉だった。好みはあれど、人気銘柄は「スペリオール」らしい。
「サルー[乾杯]!」
エドベンがドミノを持ってきたので、遊び方を教えてもらう。この店には幾つかのテーブル・ゲームが置いてあって、カウンター席の白人カップルはモノポリーを楽しんでいた。大抵の日本人は(倒すもの)としか思ってないよな、本式のドミノは僕も初めてだ。
この夜、エドベン達から教わったドミノの遊び方は、こういうものだった。
ドミノは長方形で、ちょうどサイコロを二つ並べた状態で片面のみ1〜6個の点が二ヶ一組に打ってある。それを裏返してかき混ぜ、プレーヤーに均等に配分する。それぞれ手持ちの中から一つを表にして、その数の合計が最も大きいプレーヤーから時計回りで並べていく。
最初のプレーヤーは何を置いても良いが、次からは両端どちらかにつながる数を置かなければならない。両端が仮に3と5で、自分の手にしているドミノが1と6なら、5の縦か横に6を付けて並べるしかない。つなげられなければパスして、とにかく自分のドミノを早く並べ切ったプレーヤーの勝ちだ。
手ほどきを受けたばかりの僕は勝てなかったが、グラス片手にゲームに興じるのは楽しい。ビアネイは目を輝かせ、エドベンは余裕しゃくしゃくで、ロレーナはポーカー・フェイスを気取っている。テーブルに縦横に並んだドミノは、黒い斑点をまとった蛇に見える。
二杯目のサルベッサを空けて、僕はトイレに立った。
エドベンに教えられたとおり、U字形のカウンターを回り込む。店内から奥まった通路は、内装が途切れてコンクリートがむきだしになっていた。不気味だ、すぐにでも後ろに飛びずさる覚悟で角を曲がる。
音楽がかき消される程の雨音がした。びっくりして天井を見上げると、どうしてなのか謎だけど、約2m先で廊下が寸断され、雨がぼしゃぼしゃ垂れて音が反響していたのだ。タイル張りの明るいトイレは、離れのように奥まった場所にあった。何なのだ、この造りは?
うるさく響く雨の音を聞きながら(そういえばメキシコに来て初めての雨だ)と思った。
何回目かのドミノ・ゲームの後で、エドベン達は、ニヤニヤしながらイカサマを白状した。
僕はそういったテクニック以前にルールさえしっかり理解出来ていなかったので、言われたところで気にも留めずに一緒になって笑っていたのだった。だけど「お金を賭けて巻き上げるつもりだった」とまで言われた時にゃあ、いささかムッとした。
それからもう一杯サルベッサを飲んで、店を出る頃には雨は上がっていた。
月は、もう見えなかった。
2005年05月27日
この記事へのトラックバック