再び姉が興奮気味に何か訴え始めたが、今度はちょっと楽しそうだ。僕は警戒する。
「明日パーティしないかと言ってるヨ。」
「うーん、任せるよ。トニーはどうしたいのさ。」
やっとリラックスした雰囲気になってきたな、どうやら彼はOKしたんだろう。そりゃあ何か考えがあっての事とは思うが、余計にマズイ事になるんじゃないのか…? まぁいっか、次こそ僕には関係ない話だ。
やがてベイビー・ベイブはハサミを置き、僕の首から下を覆っていたケープを外した。シャワールームを指さしてバスタオルを寄越す。どうやら終わったらしいが、当初の「10分で」という話が2時間以上もオーバーしていた。
ドアを閉め、そっとタオルの匂いを嗅いでみた。よかった、洗いたてだ。やっぱりこの家も水シャワーだったが、冷や汗も脂汗も洗い流して一息ついた。リビングに戻ると、ベイビー・ベイブが手鏡で出来上がりを見せてくれたが…僕は絶叫したくなった。
「こらーっ! コレのどこが〈カンクンで一番クールな髪形〉なんだよっ!!」
みんな、上出来だと言いたげな顔をしていやがる。ふざけるな、だ。他人の頭だと思ってさー。これならまだボサボサなほうが全然ましだった。古代マヤ人はともかく、現代世界でこんな頭は僕ひとりに決まってる。
「やり直しー!!」
…って言ってやりたかったけど、これ以上ここにいる気は毛頭ないのだ。
この際もう髪形なんて後回し、僕は帰るもんねー。そうだ帰るのだ。そんで二度と来ないもんね。玄関で見送るベイビー・ベイブを尻目に、僕らは早々と立ち去った。
夜中の、車通りの少ない幹線道路を横切りながら僕は尋ねた。
「トニーは本気で明日のパーティに来るつもりなの?」
「冗談じゃないョ。行くもんか」
トニーは、微笑の下に抑え込んでいた感情をぶちまけ始めた。
「知らなかったョ。お姉さん、すごーいアブナイ! 明日もし行ったら、お兄さんも、近所の連中も待ち構えてる。『ディネロ[お金]、ディネロ』って、まるでゾンビみたいに!」
「おーコワ! それにしても、あのアブナイ姉さん、まだ21だって?」
「そう、信じられなーい! モンスターみたいだった」
「トニーの(可愛いベイビー)も、あと4年でモンスター…」
「うわぁおぉ! そうだ、四年後には♀×○△□♂?!」
「あっはっはっはっはっははは!」
恐怖とか緊張が無事に通り過ぎて行くと、中和作用なのだろうか、その後に訳もなく笑えたりするらしい。へべれけに酔っ払ったように大声で無茶苦茶な事を言って、僕達二人は腹が苦しくなるまで延々と笑い続けたのだった。
ふと気付くと夜空には、不気味な球体が浮かんでいた。
「トニー、見てよ。ありゃ一体なんだろうね」
「おぉ、そうだった。今夜はエクリプスだ」
エクリプス? 何だっけ、月蝕か…これが?…。
あまりにも奇妙な光景だった。それは月なのだろうけど、にしちゃあ異様に大きかった。輝きのない、のっぺりと灰色味がかった巨大な球体が宙に浮かんでいる。マグリットの描いたシュールな絵の世界そのままだ。
僕は生まれて初めて、月蝕を観た。
しかし、TVや写真で見たのとは大違いだ。大体、こんなの月じゃない。握りこぶしよりも大きくて、ウソみたいに表面の地形まではっきり見えている。これが偽物じゃないとすれば、ひょっとして…月の軌道が狂ったんじゃないのか?!
どうしてトニーは驚きもせず、平然とそれを無視していられるのだろう…? これは幻覚なのか、僕は自分が狂ってしまったんじゃないかと不安になる。それくらい圧倒的に生々しくも静かに提示された、現実を超越した神秘の象徴。
車通りの少ない夜のセントロ郊外にしては運良く、僕らはタクシーを拾うことが出来た。
乗り込んだ途端、思わず無口になってしまう。今起こった事、これから起こるかもしれない事…。頭の中が収集つかなくて、何も考えたくないのに。
エドベンの家に近くなってきて、トニーが道筋を運転手に指図している。ところが、肝心な所をなぜか日本語で言ってるのだ。彼も相当、参ってしまったのだろう。けど笑える。
「トニー! 今、スペイン語と日本語を使って話していたよ」
「そうか? どっちも似てるから、とっさに使い分けられないんだよ」
「似てないよー! スペイン語の中に、日本語で『左に曲がって』とか言うからさぁ、運転手が変な顔してたぜ?」
余計に可笑しかったのは、運転手が訝しげに首をひねりながらも道を間違えなかった事だ。明らかに通じてなかったのに、不思議だ。
僕らはメルカドを越えたあたりでタクシーを降り、10時を過ぎて眠りについた住宅街を歩いた。誰もいないし、何の音もしない。僕らの虚ろな声だけが響いている。
そして月はやっぱり奇妙に、ペッタリと町を照らしているのだった。
2005年05月27日
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