僕の不可解な胸騒ぎは、一向に収まらない。
その女性はベイビー・ベイブの呼びかけを無視するように、渋い表情のままトニーの隣に腰を降ろした。そうしてしばらく僕らの様子を観察していると、顔色を変えずにトニーと話をし始めた。
僕はその女性を見つめ、いつでもすぐに応じた動きが取れるようにそっと身構えていた。
ベイビー・ベイブは僕の髪を切りながらトニーに話しかけて、彼は僕に「この女性はお姉さんで、21才なんだって」と説明してくれた。21だって!?…とても信じられなかった。〈魂の抜けがら〉という言葉があるけれど、まさにそうなのだ。得体の知れない悪寒が、背筋を駆けのぼってきた。
この姉は奇妙な動作を繰り返していて、それが余計に薄気味悪かった。手に持ったプラスチック容器のふたを開けては鼻に近づけ、うっとりと匂いを嗅いでいるのだ。その容器は白い、薬品のビンの形をしている。僕は、姉の目線が何も見ていない事に気付いていた。アルコールか?
(トルエンか…)そう思い至って、僕はぞっとした。あの表情の無い、うっとりとした目付きに激しい恐怖を覚えた。ひざが震えてきて、ベイビーベイブに気づかれないよう必死に抑え込む。
この人は、廃人だ。
有機化合物の中毒者ならば歯を見れば分かるはずだけど、その時の僕はそんな冷静さよりも、どうやって冷静でいるかで頭が一杯だった。一刻も早く、そして無事に帰りたかった。
トニーと姉の会話が続いていたが、彼の様子はどこかぎこちなさそうだ。スペイン語が解らない僕からも、たたみかける姉に苦戦している彼の表情は読める。僕の不安げな視線や顔色に気付いたのか、彼は弁解でもするように言った。
「あのね、『君は日本人か』って訊いてくるんだよ」
そんなこと、わざわざ僕に尋ねるまでもなく教えてやればいいのに。僕が「ハポネス」と返事すると、姉は異様に興奮してトニーに向かって何やらまくし立て始めた。ベイビー・ベイブまで手がおろそかになってきて、よく判らないけど決して良くはないムードが盛り上がっているのが分かった。トニーの微笑は、もはや顔に張り付いた仮面のようだ。
彼に通訳してもらって、僕はベイビー・ベイブに「きちんと切ってくれ」と頼んだ。すると彼女は僕を一瞥し、無造作に白布を手渡してきた。顔や首筋に付いた細かい毛を、自分で払い落とせって事かよ。…って、何かと思えば丸めた肌着じゃあねぇのかコレ?! 彼女は洗濯カゴから、そいつを拾い出したのだ。おいおい、そりゃないだろお嬢ちゃんよー。
手動バリカンで切り落とした髪が、首から上に張り付いている。こすり取るようにして毛を払っていると、肌着の汗臭さにげんなりしてきた。毛穴から雑菌が入らないように祈ろう。しかしまぁいいさ、今回だけは勘弁してやるとも。今はそれどころじゃなかった。
テーブルに身を乗り出した彼女の、カラフルなストライプのスカートが右手の前で揺れている。僕は、すっかり会話に加わっているベイビー・ベイブの尻を撫で上げた。
「ハリー・アップ、ベイビー!?」
そう言って軽く睨むと、彼女は顔色ひとつ変えずに無言で僕を見下ろした。(結構したたかな女だ)と舌を巻きつつ、口実を見つけてから尻に触る自分にも嫌気が差してきた。
藪から棒に、トニーが日本語で話しかけてきた。
「ちょっと困ったヨ、お姉さん『お金欲しい』て言ってる。日本人、お金持ってるから、と思ってるから…。彼女、ちょっとおかしいみたい…。」
トニーと僕は、周囲に知られたくない話をする時には日本語を使うのだった。彼女達が英語を知らなくても、単語によっては伝わる恐れがある。声色や顔色を読まれないように、僕は作り笑いで応じた。
「うん、そうだねぇ。どうしたらいいかなぁ、わはは。」
「よくないネ。断ったけど、お姉さんしつこいヨ。ちょっと、怖い。」
「じゃあさ、少しあげるー? 髪切ったお礼に。」
「それすると、もっと大変。僕達ガイジンだから、問題、良くない。それにお金ないでしょ、あんまり。」
笑いながら深刻な話をするのは、なかなか難しいもんだ。それでも陽気な声を出していると、なぜか自分の置かれている立場がさほど厳しくもないと思えてきた。僕らは日本語で秘密の会話が出来るし、協力して解決の糸口を見つけられるのだ。このことが、僕のこわばった体をほぐしていってくれる気がした。
とにかく実際に持ち合わせが無いのだから正直に言うしかない。トニーは、なんとか笑顔を装って姉を説得している。彼のジェスチャーが普段よりも大振りなので、それを見ているだけで話の持っていき方がよく分かった。何の役にも立てない自分を不甲斐なく感じながらも、僕は無性に腹立たしくなってきた。
だって考えてみれば、彼に頼まれたから付いて来てあげたのだ。しかもマカレナ踊って髪切りの練習台になり、その挙句にこの騒ぎときた。とはいえ、彼の孤軍奮闘を黙って見てるだけというのはもどかしかった。
2005年05月27日
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