2005年05月27日

メキシコ旅情【分水嶺・1 始まり】

 ベイビー・ベイブの家は近くないので、トニーが電話でタクシーを呼んだ。で結局、僕も同乗する羽目になってしまった
 距離もそうだけど、16歳の彼女が歩くには街灯が少な過ぎる。トニーは「危険区域だから」と言ってたが、確かにエドベンの家の辺りからちょっと走っただけで通りの雰囲気が変わった。
 タクシーを降りるとカンクンの町外れで、陽が落ちただけで真夜中のように深閑としている。郊外の幹線道路沿いだから、昼間ならもっと開放的な家並みだと感じたかもしれない。
 何か引っ掛かる…。タクシーから降りて、僕は訳もなく緊張していた。実は車中でも道順を覚えておこうとしていたのだが、もう大雑把な見当も付かなかった。
 門も柵もない白壁の平屋建て、アメリカの片田舎にでもありそうな家だ。ベイビー・ベイブは扉を開けて、僕たちを中へと促した。この家の中に足を踏み入れるのには、なんというか、勇気とか覚悟が必要だった。何に腰が引けてるのか自分でも不思議だけど、今すぐ逃げ出したい気持ちは一向に収まらなかった。

 リノリウム張りの床の一角に毛布が敷かれ、その上にアマカが吊ってある。危険を示す兆候は、どこにもない。毛布の上で四つん這いになっている赤ちゃんを抱き上げ、ベイビー・ベイブは奥の部屋に声を掛けた。顔を見せたマッチョな兄に僕らを紹介してくれる。筋肉質で焼けた肌の、リーゼントの似合うお兄さん。
 その背後から次々と荒くれ者が、ぞろぞろ出て来て僕らを取り囲み…というのは考えすぎというものだ。僕は、どうやら取り越し苦労が好きなのだろう。こっちは今すぐサヨナラしたいのに、トニーはマッチョ兄と世間話を始めて、しかも家の前で待たせていたタクシーを帰してしまいやがったのだ。ナニ考えてるんだ?! もはや逃げようもなかった。
 ここでも僕は、例のマカレナを踊る羽目になった。これも浮世のしがらみよ、旅の恩人トニーへの義理を果たすためならば。でも、マッチョ兄はこれから仕事に出掛けなければならないのだという。もうすぐ帰れるぞ! 顔では残念そうにしておく。トニーと僕は、マッチョ兄と握手をした。
「ゆっくりしていってくれよ、アミーゴ」
 多分、彼はそんなことを言ったのだと思う。白のランニング・シャツにジーンズ、リーゼント・ヘアの兄は、その格好で出勤だ。どんな種類の仕事なんだい?…なんて訊ねる気はない。
「アディオス」とトニーが言って、僕が「アスタ・ラ・ヴィスタ[またね]」と言った途端、兄は急に振り返って僕を指差し不敵な笑みを浮かべた。
 何かまずかったか? 死ぬかな…。
「ベイビー?」
 兄は、そう言った。語尾が上がったのは、疑問形だからではなく「ターミネーター2」ラスト・シーンの名台詞だったのだ。トニーと彼女に言われるまで、そうと気づかなかったが。
 日本語字幕では「地獄であおうぜ」と訳されていた。アスタ・ラ・ヴィスタ・ベイビー!
 兄は力強く親指を立ててみせ、満足げにドアを閉めたのだった。
 冷や汗をかいた。悪い冗談だぜ、誰が地獄で逢うもんかい。

 さて、人心地ついたところで帰りますか! と切り出そうとしたら、ベイビー・ベイブが「僕の髪を切る」などと言い出しやがった。まぁまぁ今夜は何だから、と一笑に付してしまおうとすると間髪入れずにトニーも同意した。もぉー、みんなバカバカッ!
 タクシーの中では「すぐに終わるから」と言われてOKしちまったが、やっぱ気が変わったので帰ります…と言う前に彼女は素早く支度に掛かり、半ば押さえ付けられるようにして僕を椅子に座らせた。準備、なんてものじゃあなかった。僕の首に白布を結んで、食卓の前にハサミを並べただけの事だ。
 トニーが、テーブルの向かい側に座って楽しそうにこちらを眺めていた。すぐに終わる、と言う。どうにでもなれ、だ。これじゃあまったく体のいいオモチャだ、っていうか当て馬か。どこまで彼に義理立てすりゃあいいんですかね?
 時々、トニーはスペイン語を通訳しながら彼女と僕との間に会話を作る。気を使ってくれているのかも知れないし、彼自身が退屈なのかもしれない。他人の恋路を邪魔してないのに、馬に蹴られてしまった気分だ。
 左側に赤ちゃんとアマカが、右にキッチンがある。トニーの背中越しに玄関、僕の正面は奥の部屋に通じているらしい。あまりほめられた習慣ではないが、僕は頭の中で最悪の筋書きを幾つも思い描いていた。いざとなったら力づくでも逃げる気で、あらゆる方法を考えているのだ。
 やがて左奥の部屋から誰かが出てきた。太った女性で、彼女の母親だろうか。寝起きみたいで、不機嫌そうに見える。ベイビー・ベイブが振り向いて話しかけたが、その声の調子が上ずっているように聞こえた。思い過ごしだろうか。

posted by tomsec at 17:14 | TrackBack(0) | メキシコ旅情5【分水嶺】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック