2005年05月27日

メキシコ旅情【水源編・8 浜キャンプ/月光浴】

 どこまでも続く一本道、エドベンの車はカンクン郊外を抜けた。
 車は、夜の方角へと進んでいる。首を倒してリア・ガラス越しの空を見ると、昼間の青さは地平線に消えかかっていた。
 埃っぽい道の両側に、森が続いている。木の丈は低く、背伸びをすればその奥まで見ることが出来そうな気がする。でも飛行機からの眺めを思い出すと、実際は地の果てまでジャングルだろう。
 僕は後部座席で、二人の女性に挟まれるようにして座っていた。…と、文字通りならば窮屈さも嬉しい悲鳴だろうけど、現実は両側に気を遣って無理な姿勢に耐えていたのだ。くれぐれも彼女達の尻に文句を言う気は毛頭ない、ただ僕の尻もまた決して小さくはなかった。
 ビアネイが色々なお菓子を勧めてくれる。グラシエラはちょっと眠たそうにしている。ふざけて僕の肩を枕替わりにするので、つい(デニムの女のコだったらなぁー)などと不埒な夢をみる。
 座席の後ろに置いたラジカセから耳慣れないロックが流れてきて、ビアネイとグラシエラが元気に歌い始めた。ちょっとU2に似た感じだ、メキシコで人気の高いバンドらしい。
 僕はまた、首を後ろに倒して空を見上げた。一瞬にして夜の闇だ。あまりにも早過ぎる、変だなと思ったら…ジュビアがくる!
 慌てて手動の窓を閉めると、エアコンなしの車内は湿度が急上昇。叩きつける雨の轟音に黙り込んで、肩で息をする。周囲を照らすのは、この車のヘッド・ライトだけだ。反対車線を大型トラックが走り去るたび、視界がゼロになる。ハイビームの眩しさと、跳ね飛ばす水溜まりのせいだ。
 ここで、死んだりして。たとえ死なずに済む事故でも、こんな場所では助からない。
 雨が小降りになってきた頃、エドベンが後ろに向かって何か言った。そしてラジカセの音量が下がって、急に静かになる。…何事だ?
「大丈夫。警察のチェックだから」
 グラシエラが教えてくれて、トニーの補足説明で検問所の事だと分かった。ちょっと「未知との遭遇」っぽい、湿った空気ににじむような光が見えてきた。よく見ると道路脇には土のうが積まれて、軍用トラックが待機している。路上に散開する人影は、全員がライフルを抱えた兵士だった。
 車を停めて窓を開けると、車内をのぞき込む兵士にエドベンは気安く話しかける。事件かと思ったら、単に州境の警備だったのだ。二、三のやり取りで通行を許される。派手な検問の裏を返せば、まだ政治不安の要因が根深い、ということだろう。
 スペインの植民地時代から、現地の住民は小作農として搾取され続けてきた。独立後も彼等の地位は大差なく、近隣のチアパス州やオアハカ州では反乱と鎮圧の小競り合いが絶えないらしい。実際、僕が日本を発つ直前にも新聞に載っていた。すごく小さな扱いだったが。
 そういった暴動の中心地から離れているものの、カンクンは国際リゾート地だ。海外資本の企業も多いだけに、反乱軍には絶好の的だし、国も軍を動員する道理だな。
 遠ざかる投光機のオレンジ色の照明に、僕はメキシコの厳しい一面を見た気がする。
「グラシアース!」みんなで愛想良く、警備兵に手を振った。そして気を取り直すかのように音楽のボリュームが上げられて、車の中はまた元気な歌声に包まれた。
 背後の夕闇に、大きな虹が架かっていた。

 道路には標識ひとつないのに、よくこんな目立たない横道を覚えているものだ。生い茂る木々に挟まれて、緩やかなカーブをゆっくりと進む。道路はますます暗くなってゆく。高いゲートの向こうに駐車場が見えると、エドベンはゲートのロープを外して車を中に入れてしまった。
「夜は、駐車料金の徴収係がいないからね」
 ははぁ、なるほどね…。延々と荷物のように丸め込まれていた僕らは、車から降りると大きく伸びをした。背骨が鳴る鳴る!
 小さな車から、次々と荷物が出てくる。テント、寝袋、クーラーボックス、その他諸々…。よくもこれだけ積み込んだなー、僕の荷物は小さな肩掛けひとつだってのに。出発は本当に突然だったから、海パンとTシャツ一枚ぐらいしか持って来る暇がなかったのだ。
 周囲は南国ムードの砂地で、少し歩くと海辺に出た。ソテツとヤシの木が植えられた美しい入り江のビーチ、僕達以外は誰もいない。荷物を下ろしてテントを組むと、プラスチックのコップにラムとコーラが注がれた。クーラーボックスの中身を開けて、それを酒肴に乾杯だ。
「ハッピー・バースデイ、エドベン!」
「サルー(乾杯)!」
 ステンレスのボウルに入った、チーズとソーセージの細切れが肴だった。シンプルで美味しいが、それでも腹を満たすには程遠い量だ。まさか、これが夕食とはねぇ。酔いが回ってくる程に、なおさら腹が減ってくる。酒で火照った体温で、テントの中は蒸し暑い。
 大きめのテントだったけど、五人で眠るには小さすぎた。それに女性陣の、さりげなく談笑しながら寝る態勢を整えていた事に気付くのも遅すぎた。あきらめて外に出ると、夜の微風が心地良い。日暮れ時の雨で砂は湿っていたけれど、外で寝るのも悪くなさそうだった。

 メキシコの月は何故こんな大きいのだろう? 改めて思う。そして今夜は、さっきの雨に洗われたみたいに清冽で一層輝いていた。月を見ていて目がチカチカするなんて初めてだ、星が見えないのも月が眩しいせいだったりして。
「ロマンチックな夜だね」
 背後からトニーの声がした。彼も寝場所を追い出されたクチらしい。
「こんなにキレイなビーチ、最高の夜空に男二人なんてね!」
 僕が言うと、笑って同意する。
 遠くの入り江まで、微光が照らし出していた。打ち寄せる波は穏やかで、波の砕ける音も彼方から聞こえてくる。引き波で砂がこすれる音が、海が寝息を立てているようだ。
 トニーが空を見上げるように、両腕をまっすぐ肩の高さに上げた。その姿はどこか、敬虔な信者の祈りをおもわせる。
「ムーン・タンニングだよ」
 なるほど、月光浴か。僕も同様にして、目を閉じた。本当に月の光が染み込んでくるような、不思議な感触がする。肌に光が降り注ぐ…。ロマンチストだなぁ、トニー。
 誰もいない、小さなビーチ。大きな月が煌々と照らし、ヤシの葉陰が揺れている静寂の世界。こんな場所が、現実に存在するなんて。まさに、夢のようだ。

 僕は思い出す。ちょうど一年前の今日、僕は会社勤めを辞めたのだ。それは僕にとって〈サラリーマンという生き方をあきらめた〉という意味で、まさか一年後の自分がこんな場所でこうしているなんて想像すらできなかった…!
 あの頃の日々も遠い過去のようだ。僕はかつての自分に呼びかける。
(大丈夫、君の選択は間違ってなかった…)
 僕は、ここまで辿り着いたんだ。
 ありがとう。
posted by tomsec at 17:24 | TrackBack(0) | メキシコ旅情6【水源編】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック